第16話 「赤の女王の仮説は当たる」

 校門に見慣れたショートボブを見たのは、二日後のことだった。

 後頭部をこんなに愛おしいと思った瞬間は初めてだった。一刻も早く声を聞きたくて、先輩に駆け寄る。


「すみません、待たせちゃって」

「ううん……大丈夫」


 深瀬先輩は露骨に目を合わせようとしない。代わりに、無防備なつむじが僕の方を向いていた。


「言いたいことがあって」

「何?」


 暗い声で返事をされる。

 いつもの元気いっぱいも可愛いけれど、こういうダウナー系もあり……じゃなくて。

 ランさんから説明を聞いて、先輩の正体を知って、僕のやるべきことが決まった。

 だから、それをひっくるめて伝えたいことがある。


「先輩、水族館行きませんか?」

「す、水族館?」


 僕の提案に、深瀬先輩は困惑したような表情を浮かべる。いきなりどうしたの? と言いたげな目をしている。

 けれども僕は気にすることなく、次の言葉を口にする。


「シャチ見に行きましょうよ」

「え、シャチ?」

「ダメですか?」

「いいけど、その……」


 歯切れの悪い言葉を無視して、


「土曜日、空いてます?」


 と、尋ねた。

「え、う、うん」


 先輩は条件反射のように頷いた。


「じゃあ、十一時に安房鴨川駅で」


 そこまで言って、僕は踵を返す。


「じゃ、僕は部活あるんで」

「ちょっと待って」


 と、呼び止める声が聞こえる。

 でも、僕は足を止めなかった。

 こうすれば、嫌でも先輩は来てくれると思ったから。


「透くん」


 校門と昇降口のちょうど間ら辺にポニーテールが象徴的な女の子が立っていた。カバンも持たず、身一つで飛び出してきたような恰好だった。


「舞ちゃん、一人でどうしたの?」

「お兄ちゃんといるときしか一緒にいないと言われたので、会いに来たのです」

「部活で会えるのに?」

「部活があるのに校門に向かう姿が見えたからなのです」

「これから行くよ」

「それなら一緒に行きましょう」


 舞ちゃんは踵を返して、てとてと昇降口に向かって歩き出した。

 下駄箱で上履きに履き替えて、階段を上る。


「さっき話していた女の人は誰なのですか?」


 隣を歩く舞ちゃんは、そう口を開いた。


「え?」


 僕の間抜けな声が廊下に響く。


「校門にいた黒髪ボブの女の人です」

「先輩だよ」


 まさかあの場面を見られていたとは思わなかった。別にやましい現場ではないのだけれど、他に何と紹介すればいいのか分からない。

 実は夢なんだって~、とか正直に言ったところで頭の病気を疑われるだけだろう。


「前に話題に出していた深瀬さんですか?」

「そうだけど、覚えてたんだ」

「透くんの口から女の人の名前が出たことは珍しいので」


 いくら珍しいっていっても、あの断片的な情報だけで深瀬先輩だって分かるのは随分と勘が良い。これが女の勘っていうやつなのだろうか。

 そういうしてると、あっという間に写真部の部室の前まで来ていた。

 多分、時間的に湊はもう部室の中にいるだろう。


「ていうか舞ちゃん、僕ら一緒に来て大丈夫なの?」

「なんでダメなのですか?」

「二人だと湊が何か言うかなって」


 この前は肩を引きちぎられかけたし……


「黙らせるので問題ないのです」


 弱気な僕とは反対に、舞ちゃんは強気な態度でドアノブを捻った。

 部室に入ると予想通り湊が中にいた。

 一緒に来た僕らを珍しそうに眺めている。


「おお、なんだ? 同伴出勤か?」

「普通の反応だったね」


 てっきり手や足や口が出ると思っていた。

 僕の言葉を聞いて、


「普通じゃねえだろ」


 と、湊自身がツッコミを入れた。


「慣れちゃいけないのです、透くん」


 舞ちゃんも同意していた。

 最近は普通じゃないことの連続だったから、ちょっとした茶化しは何とも思わない。悪ノリだってランさんに比べたら可愛いものだ。


「僕はレベルアップしたんだよ」

「へえ、何かあったん?」

「教えない」

「なんだよ、それ」

「湊こそ何かあったのか? シスコンレベルが下がってるぞ」


 少し前なら舞ちゃんと一緒に部室に来ていたし、僕と遅れてこようものなら何言われるか分からないようなものだったのに。

 まさか、もっと優先すべき相手が出来たとか?


「わたしがお願いしたのです」


 口を開いたのは舞ちゃんだった。


「去年までは学校自体別々だったんだから、そんなに心配するなって言われちまってな」

「お兄ちゃんに追っ払ってもらわなくても告白を拒否することくらい出来るのです」

「そういうことで、妹離れ中。本当は全身で舞奈を感じたいんだけどなあ」

「キモいのです」


 久しぶりに耳にした舞ちゃんの氷のような鋭い言葉、シンプルがゆえに鋭く突き刺さる……はずなのに。


「舞奈の罵倒が五臓六腑に染み渡る! も、もっとくれ!」


 湊は自分で自分を抱きしめるように腕を曲げ、ハアハアと息を荒げている。

 うわ、ヤバ。

 同性の僕が見ても引くレベル。湊持ち前の顔の良さでも到底カバー出来ない。


「なんか別の扉開いてない?」

「キモさが濃縮されて困ってるのです」

「何かあったら証人になるからね」

「ぜひお願いするのです」


 湊のことは友達だと思っている。だからこそ道を間違えた時には反省し、心を改めてほしい。

 本当は良い奴だって知っている。これも行き過ぎた妹愛であり、線引きが出来ると信じている。

 でも、もし仮に警察のお世話になるようなことがあったら僕はこう言う。

 いつかやると思ってました。


「おうおう、透よ。お前そんなにスカした野郎だったか?」

「スカしてないし、前と同じでしょ」

「いいや、そんなことないね。俺らの知らないところで、あんなことやこんなことしてきたんだろ!」

「お兄ちゃん、変なこと言うのやめてください」

「舞奈は気にならないのか⁉ 一緒に来てたし、何か変わったこととかあったか?」


 あ、まずいかも。

 舞ちゃんには深瀬先輩と話していたところを見られている。本当に全くと言っていいほど不純なことはないのだが、湊からしたら関係ない。

 まぁ、ランさんと知り合いなことをバレるよりは、よっぽどいい。大人のお姉さんと二人で会ったと知られては、もう何を言われるか想像に難くない。

 何を言われても受け流せるぞ、僕は。


「……何もないのですよ」


 舞ちゃんは、そう答えた。


「そうか。つまらんなあ」

「本当にないのだから仕方ないのです」


 理由は分からないけど、舞ちゃんは嘘を付いた。もしかしたら、前の状況を見て気を利かせてくれたのかもしれない。今度、お礼を言わなければ。


「なんだ、大人の階段上ったのかと期待してたのにな。何にもないって、そりゃないぜ」


 湊はアメリカンホームドラマみたいに大袈裟に肩をすくめる。

 そんな彼をなだめるように、舞ちゃんが口を開く。


「大人の階段なんて皆気付かず上ってるのです。ずっとこのままなんて、いられないのですよ」


 舞ちゃんからしたら、何気ない言葉。聞いていた僕も湊も、特に気に留めていなかった内容。

 これは未来の僕からしたら、とても大事なことで。

 でも、今の僕は、そんなこと知る由もなくて。

 舞ちゃんの、この言葉を一時も忘れなければ何かが変わっていたのかもしれない。

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