昼中に墜つ白烏-6-

 ――僕の一通りの釈明の中、彼は頻りに右手で顎を撫でつつ「ふむ」「なるほど」などと呟き、うんうんと頷いていた。

 こんな突拍子もない話に「疑わしい」「有り得ない」という横槍一つ入れぬまま、真摯に向き合ってくれたことには偏に感謝している。通常ならば茶々が入っても可笑しくない状況の中、直向きに接してくれる彼の配慮に触れた時、どうせ信じてもらえないだろうと安く踏んで刺々しく荒れていた心持ちが、徐ろに安堵していくのが自分でも分かった。多少なりとも己の話を信じてもらえた、小さな恩顧を感じたからだ。


 だが、同時に彼に心を開いてはいけないと心のどこかで警鐘が鳴り響く。飽くまでこれは腹の探り合い。決して彼は僕の味方にある訳でなく、ただ僕に事情を聴取しているだけ。真に信頼関係を築いたとは言えない、尋問者と答弁者の関係。


 距離を詰めるのが上手い彼のことだ。複数人格が潜む異質性の存在などではなく、親近感を覚える面と恐怖感を嗾ける面がたちまち入れ替わる、極端な二面性が彼の中には共存する。知己の友人のように親しく近付き、冷徹な拷問吏のように正確な情報だけを引き摺り出す。あたかもそんなことを仕出かすような、そんな人間に見えたのである。だからこそ、安易に心を開いてはいけない。


「じゃ、己の身に起きた未知の事象にさぞかし驚いているところ申し訳ないけどよ、今の話を時系列の順序を逆さにもう一度説明して欲しい」


 目覚めた時、記憶のないまま面識のない場所に迷い込んでしまっていたこと。そこから脱出しようにも開錠不可能な鍵で幽閉されてしまっていたこと。大きな書架から小説家にのまえ和命かずのりの作品を見付け、元いた世界軸と合致する証明とこの世界の言語が僕の第一言語と共通する事実を見出したこと。そして今正にその文庫に仕組まれた用紙の謎を解き明かす真っ最中であったこと。それらを立て続けに話した僕に、彼はそう要求した。


 それは、最初はなから僕の話を信用してないという証跡に過ぎない台詞で。信頼なんて微塵もなかったという事実が、細やかな希望をも打ち砕く。途中で喚起した警告が役立ち、計り知れない失望は免れたものの、胸に蟠る虚しさは、何にも代えられやしなかった。


 思わず垂れ流した「何だ、最初から信じるつもりないじゃないか」という悲憤は、誰に宛てたものでもなく。とはいえ、それを一言たりとて余さず聞き漏らさなかった男が、「話を聞くとは言ったが、手放しに信じるとは誰も言ってないだろうよ?」と嘯くのは、自明のことだった。

 大人しく聞いてくれる姿勢を保っていた背後には、こちらの発言の真偽を見定めるための常套手段があった。ただそれだけのこと。


 多少の気落ちはしたものの、さりとて僕なら彼の要望に容易く応えられる――その自信があった。何故ならば僕は、彼が疑う嘘なんてものを何一つとして吐いていないからだ。

 確かにその場任せの急拵えな内容であったなら、「時系列を真逆に話せ」なんて突飛な注文に順序が狂う、乃至ないしは粗筋の中身が一部抜け落ちるかの襤褸ぼろが出るはず。

 だが、目覚めた時やカーテンを開けた時を含め何度か混乱に陥ったとはいうもの、こちとら状況把握のため散々ぱら思考を張り巡らしてきているんだ。順序逆転させた説明をご要望だなんて、お安い御用だった。


「綺麗に真逆に話せるってこたぁ詰まらん三文芝居じゃねえ真実まことか、或いは用意周到な準備があった虚偽いつわりか、か。会話の途中妙な表情筋の動き、不可解な視線の挙動、声の上ずり、そのどれもがなかった。心拍も安定していたことから察するに嘘の公算は小さいと踏める、かね」


 本棚にあった臨床心理学の書物をきちんと履修しているのか、彼は綿密にこちらの一挙一動を分析していた。安定感ある言動がこの場において身を救ったのだと理解はした。が、心拍確認まではどうやって行ったのか、という疑問が残る。脈を取られた覚えもない。まさかそうしなくとも脈拍を聞き取るだけの超聴覚があったのか? と考えたところで、いやそれはないな、と一刀両断に切り捨てる。


「個人的に嘘じゃないと声を大にして言いたいですけど、残念ながら貴方にとって僕は不審者そのものなんで。そう簡単に信じてもらえるとは思ってません」


 期せずしてこの信憑性のない世田話を信じてもらえるかもしれない。なんてそんな甘っちょろい考えは捨てて。諦めに似た口調でそう言い捨てる。すると男はにまりと北叟笑み、こちらの態度に如何にも納得したような口振りで話し出した。


「ほう。この短時間で狼狽えずきちんと状況理解できるとは優秀優秀。いいだろう、この場ではお前の供述が真と仮定して話を進めようか」


 一体何が彼の信用に値する要素となり得たのか十分な理解はできなかったものの、しかしまあ何とかこの場は収めてもらえたようだ。少なくとも彼の顔色から攻撃性が消え失せたことに、内心ほっとする。何せ男の瞳の奥には、僕の弁解が終わるまでの間、敵を仕留めんと息を潜める獣のような害意が根付いていたのだから。


「ま、どちらにせよ大体の主旨は理解した。端的に言えば、お前――」


 ところが容易に課題を完遂した矢先、男の口からとんでもない単語が飛び出す事態は、流石に予想だにしていない出来事だった。


「――記憶喪失――」

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