第21話 紆余曲折

 しばらくは沈黙が支配した。柾木さんは、頬杖を突いて何かを考えていたようだが、やがて決心したように言った。

「あかりさんはいつもこんな事をしているんですか」

 私は柾木さんの顔を見た。

「……こんな事ってなんですか」

「よく知らない男とホテルに行ったり、すぐに会った男と携帯の番号交換したり」

 ひやっと冷たい感覚が頭頂から広がる。それが手にまで広がって指先が震えた。目の前の景色から色が遠のいていく。側にいるのが柾木さんではなく、突然誰か知らない人になったようだった。あまりにショックで言葉が出て来なかった。

(私、そんな女に見えるんだ……)

 柾木さんにそんな風に思われたのがとても悲しかった。確かに私の行動をそこだけ切り取って見ればそんな風に見えるかも知れない。でも何から説明したらいいのかわからない。頭の中がいっぱいになって、泣かないようにするのだけで精一杯だった。涙目になりそうなのを見られたくなくてうつむいた。

 長い時間、私が答えないので、柾木さんはそれを肯定だと受け取ったらしい。

「……お金のこととか……慣れてるみたいだし」

 はっとして柾木さんを見た。そこに、あの晩笑顔だった柾木さんはいない。いつも以上に冷たい目をした柾木さんだった。弁明だけはしなくては。なんとか声を出す。

「……先に」

 目が熱くなる。嗚咽がれそうになるのを必死にこらえた。

「『すみません』って言ったのは柾木さんじゃないですか……」

 自分でも声が震えているのがわかる。

「柾木さんが、土曜日のことは無かったことにしたいんだったら……私は我慢しようって……」

 今度は柾木さんがはっとする番だった。もう涙を止められなかった。目からあふれた雫が頬を伝った。

「……でも、月曜日、ガン無視で……」

 柾木さんが、自己弁護するように言葉を続ける。

「あれは……顔見たら思い出しちゃうから……」

 あれで誤解されるくらいだったら、にっこり笑っておけばよかった。でも、もう遅い。私はコーヒーに付いてきた紙ナフキンを手に取った。

「社長とか会社の人がたくさんいる中でどんな顔したら良かったんですか……」

 涙と鼻水が一緒に出てきて止まらない。ぐしゃぐしゃになった顔をナフキンで拭いた。全然足りない。柾木さんが自分のコーヒーに付いてきたナフキンを渡してくれた。それで鼻をかむ。

 柾木さんが席を立った。ぐすんぐすん言いながら振り向くと、ナフキンを取りにサービス カウンターに行ってくれたようだった。

(私ってばこんなときでさえバカっぽい……)

 そう思ったら余計に泣けてきた。足りないナフキンで一生懸命鼻を拭っていたら、横から十枚くらい束になったナフキンを突き出された。頭を下げてありがたく受け取る。私が顔を拭いている間、柾木さんは横に立ったままだった。片手をカウンターに、もう一方の手を私の椅子の背に乗せて黙って立っていた。

 ようやっと涙が収まって、少し気持ちが落ち着いた頃、柾木さんが私の顔を覗き込んだ。

「……大丈夫?」

 あんまり大丈夫じゃなかったけど、心配かけるのも悪いのでうなずいた。柾木さんは目を逸らして、しばらく窓の外を見ていた。

「すみません。……ごめんなさい。ひどいことを言いました」

 その言葉を聞いたら、また涙が溢れてきた。ナフキンに顔を埋める。子供が泣くような声が出てしまう。

 柾木さんが腕を回すようにして私の肩を抱いてさすった。私の肩に顔を埋めて、耳元で子供をあやすように「しー……」と囁いた。それでも私は説明したくて、ひっくひっく言いながら訴えた。

「自分から奢るとか言っておいて、あんまり楽しかったから、お金のこととか全然忘れてて、後から考えたら、とんでもないヤツだなって思って」

「大丈夫。大丈夫だから」

「ちゃんとお金だけは返しておかなきゃって」

「うん、分かった」

 嗚咽で喉が詰まって息が苦しい。切れ切れに息を吸い込むとまた涙が溢れてきてしまう。でも最後にどうしても言いたい一言を、溜息と一緒に吐き出す。

「……慣れてとか……ない……」

「ごめん。悪かった」

 柾木さんは両腕を私の肩に回して優しく揺すった。

 私の息がまた落ち着いてきた頃、柾木さんが言った。

「月曜日に全然目を合わせてもらえなかったから、怒ってるんだと思って。やべぇ、俺、調子に乗り過ぎたと思って。その……なんつうか、一応、同意は取ったつもりだったんだけど。『大丈夫?』って」

 私は柾木さんの腕の中でうなずいた。

「だから、まず謝っとかないとな、って。だから、『すみません』」

 私はもう一度うなずいた。

「あと、ちょっと。……イラッとして」

 思わず見上げる。柾木さんも身体を引いて私を見た。

「イラッて?」

 柾木さんは上唇を噛んで、しばらく横を向いていた。

「『そんなこと』って言われたのもあるし……」

 私が反応する間もなく、柾木さんは手のひらで顔を覆った。

「なんでオルティスと電話番号なんか交換してんのって。……俺だってまだなのに」

 私は涙目で柾木さんを見上げたまま、さっき柾木さんに見せた自分の携帯を、手だけでカウンターの上に探した。

「する。交換する。今すぐする」

 鼻をすんすんしながら、私は携帯の画面を開いた。

 柾木さんはようやっと安心したように、隣の椅子に腰掛けた。それから私の顔を覗き込んで、しばらく私のことを眺めていたが、やがて右手を伸ばして私の顔にかかった髪を耳に掛けた。

「……この間も思ったんだけどさ」

 その指先が私の頬を撫でる。

「あんまり変わんないね、化粧しなくても」

(なっ……!)

「ええぇ、今それ?」

 私は首を傾げて拗ねた。

「お化粧下手だから、難しいことできないの! もう」

「違うよ、化粧なんかしなくても可愛いなって」

 急に言葉が出ない。嬉しいからだ。半べそのヘンな顔の口元が緩む。

「今ちょっとタヌキっぽいけど」

 柾木さんがおかしそうに笑う。

「ひどいっ。誰のせいですか!」

 私は赤くなり、かばんを掴んで立ち上がる。

「ちょっとお化粧直してきます!」

 その腕を柾木さんが引っ張る。

「ダメ。行っちゃダメ」

「なんでですか!」

 柾木さんは椅子に座ったまま、私を見上げて私の両手を取る。その表情に私は立ち止まり、再びゆっくりと椅子に腰掛ける。

「俺が泣かせた顔だからもうちょっと見てたい」

 私はむず痒いような、恥ずかしいような気持ちになる。

「……ヘンな人ですよ、それ」

「よく言われる」

 柾木さんは私の手を握ったままだった。

「……ごめんね」

 私は首を振った。

「もういいです。大丈夫」

 柾木さんはしばらくうつむいていたが、やがて頭を上げた。

「日曜からさ、俺もうずっと頭いっぱいで。もっと一緒にいたかったなって……」

 胸がじんとする。

「明日からどうするの? 正月休み」

(ああ、そうか。お休みなんだよね。でも)

「う、残念ながら、実家に帰ります。四日に戻る予定です」

「そっか……。じゃ、年末は会えないね」

(会おうって思ってくれるんだ……)

「……じゃあさ、俺、六日にギター弾くんだけど、それ見に来てよ」

 柾木さんは照れくさそうに言う。

「知ってます! 行きます! 晴れて!」

 私は行けることが嬉しくて、元気良く答えた。柾木さんが不思議そうな顔をする。

「この間、店長さんと良太くんが教えてくれたんです」

 私はかばんに入れっぱなしになっていた柾木さんのコンサートのチラシを引っ張り出して見せた。私は柾木さんの弾いた「セビーリャ」を思い出す。

「私、柾木さんのギター、とても好きです。……なんだか、色んな景色が見える気がするので」

 柾木さんの顔が、居心地悪そうに赤くなる。そんな表情が愛おしい。素直にそう思えるのも嬉しい。

(そうだ、その日柾木さんの誕生日なんだっけ。何か自分でもプレゼントを用意しよう。あ、それに)

「この日って、スペインのクリスマスなんですよね?」

「そうだね」

「そしたら、お祝いにこの間開けなかったヘテのワインも試せるかもしれませんね!」

 柾木さんは私が渡したチラシを手に、呆けた顔で私を見ていたが、やがて笑い出した。くすくす笑いがやがて面白いコントでも見たかのような笑いに変わっていくのを、今度は私が呆けて見る番だった。

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