第20話 柾木さんからの追求

 来る。これは来る。柾木さんの鉄槌が下るのだ。合併したばかりの会社の社長さんと電話番号なんか交換しちゃって、会社の行動規範から外れていることも甚だしいと糾弾されるのだ。始末書か? 始末書で済めばいいけど、クビになったらどうしよう? 会社の同僚とホテルに行って、その翌週に社長と電話番号交換って、もう回復し難いダメージだよね? これが理由で辞めさせられたら、もうどこにも就職できないよね? 田舎に帰ってスーパーで働く? ダメだ、首都圏からの距離と噂が広がる早さは比例するんだから。うちの田舎なんて光速だよ。うわあぁん、どうしよう。

 職場にはホールから三三五五人が戻ってきたが、もう仕事にはならなかった。みんなで机の上を片付けたり、要らない書類を廃棄したりして、大掃除をして過ごした。早々にコートを着込んで、デスクの周りに集まっておしゃべりをしながら、定時のチャイムが鳴るのを待った。

 柾木さんには待っていろと言われたが、最終日なので定時でオフィスには鍵が掛けられる。それを見越して、柾木さんたちは帰り支度をして空港へ向かったはずだ。今から、オフィスで始末書書くとか無理だろう。でも帰るわけにはいかない。

 定時のチャイムが鳴る。皆は一斉にかばんを手に取って、各々「お疲れさまでした」とか、「良いお年を」とか言いながら出て行く。私もしばらく自席の前で佇んでいたが、総務の平橋課長が「鍵を閉めますよ」と声を掛けて来たので、一緒に退社することにした。下のロビーで柾木さんを待とう。

 エレベーターを待っている間、平橋課長は「いやー、オルティス氏の抱擁にはびっくりしましたねー。さすが向こうの人は表現が豊かですね! 日本人同士じゃ考えられませんよね」などと呑気なコメントを述べていた。年末の夕方で、またエレベーターは混んでいるようだ。上から来るエレベーターが止まらなかったので、下から来るエレベーターを待った。チーンと下から来たエレベーターの到着を告げるチャイムが響く。エレベーターの行き先は、そのまま下向きに変わった。平橋課長は「おっ、ラッキーですね」と私に微笑んだ。私もうなずいて、開くエレベーターのドアを見遣った。

 開いたエレベーターの中には柾木さんが一人で立っていた。

 私と平橋課長が並んで立っているのを見て、柾木さんは不意をつかれた様子だった。

「あれっ、柾木さん、忘れ物ですか?」

 柾木さんはエレベーターの「開」ボタンを押した。

「……いえ、そういう理由ではないのですが、課長が万が一何かやり残したことがあれば、お手伝いできないかと思いまして」

 柾木さんはさらりと言う。が、目がちょっと泳いでいる。

「はっはっは、ご心配ありがとうございます。大丈夫ですよ。これから警備室に鍵を返しに行くところです。柾木さんは真面目ですねえ」

 平橋課長は安穏と笑った。

「それでは下まで一緒に参ります」

 柾木さんは、立つ位置を変えて入り口を開けた。エレベーターに乗り込んだ平橋課長は、「今日は通訳お疲れさまでした。大変でしたね。頭ごちゃごちゃになっちゃったんじゃないですか」と柾木さんに言った。柾木さんが「いえ……」と答えたかどうかのタイミングで、畳み掛けるように「あ、でも柾木さんはあちらの生活が長かったですからね。十年近く居たんでしたよね」と言った。柾木さんが「あ、はい……」と何故か気まずそうに答える。

 へー、十年なんだ。留学してからずっと居たってことかな。あれ、ということはアニタさんとのお付き合いもそれくらいだったかもってことだ。そう思った私と柾木さんの目が合う。柾木さんは、ぷいと横を向いた。

 エレベーターが一階に着くと、平橋課長は「はい、じゃあ今年もお疲れさまでした。良いお年を。私は地下の警備室まで行きますので」と言ってお辞儀をした。私と柾木さんはお辞儀をしてエレベーターを出た。柾木さんがエレベーターの外でお辞儀をして、ドアが閉まるまで平橋課長を見送ったので私も真似をした。

 ドアが閉まりきって、頭を上げた柾木さんは私を見た。

「お待たせしてすみませんでした」

 あ、また恐い顔になっている。やっぱり始末書ものか……。

「はい」

 すると柾木さんは突然私の手を取って、駅とは反対方向のビルの出口に向かって歩き始めた。私は呆然としながら付いて行く。と、二、三歩歩いて柾木さんは振り返った。

「すみません。手を握ってもいいですか」

(……いいです。いいですけど。ってもう握ってませんか)

 私はうなずいた。

「あの、そこの喫茶店までですから」

 柾木さんは私と目を合わせずに歩き始めた。

 ビルの裏手にはチェーンのコーヒー店がある。駅とは逆方向でビルを抜けて来ないと見つからないので、利用者のほとんどはこのビルに勤める人たちだ。今日はもう年末で会社の人がいないので、コーヒー店は空いていた。

 一面がガラス窓になったカウンターの席に私たちは腰掛けた。二人の前ではコーヒーが湯気を立てている。先週の土曜日にはヘレス風のコーヒーを飲んだんだっけ。そうだ、クレマ カタラナを分け合って、楽しかったな……。

 思わず首を振る。

「どうしましたか」

 柾木さんの冷静な声が耳に入る。

「……なんでもありません」

 私はうつむいて答える。

「あかりさん」

「あかりさん」だ。「三枝さん」ではない。思わず目を上げて柾木さんを見てしまう。でも柾木さんの顔はまだ恐かった。また視線を外した。

「まずはオルティス氏とどんな話をしたか伺っていいですか」

 びくりとする。何を言えばいいのだろう。まさかいつの間にか世間話が恋愛相談になっていたと言っても信じてもらえない気がする。私は言い淀んだ。

「言えないようなことですか」

 やましいことではないけれど、説明の仕方がわからない。私は黙って首を振った。

「質問を変えます。なぜあなたは私と飲みに行ったことをオルティス氏に話したのですか?」

「……話したわけではありません。私はただスペイン バルに行った日の料理の写真を見せていただけです」

「その写真を見せてもらっても?」

 私は柾木さんを見たが、「嫌」と言える雰囲気ではなかった。かばんから携帯を取り出して、オルティス氏に見せた写真を柾木さんにも見せた。最後にあった柾木さんのギター演奏のビデオも見せた。

 柾木さんは私がビデオを撮っていたことに気付いていなかったようで驚いていたが、自分たちの演奏に見入り始めた。しかし、ビデオはすぐに終わってしまう。彼はもう一度ビデオを再生しようとしたが、はっと気付いたようにその手を止めた。それからごまかすように「ビデオを撮っていたとは気が付きませんでした」と言った。

「演奏があまりに素敵だったので」と私は答えたかったが、ただ黙ってうなずいた。

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