09 フィン村のお宿


『踊る仔ヤギ亭』でソーセージとキノコと野菜の入ったシチューとジャガイモのパンケーキを食べて、やっと落ち着いた。

 人間お腹が空くと怒りっぽくなるのだと、誰かが言っていた。気を付けよう。

「ヨエル様は食べないのですか?」

 妖精王はのんびりとお茶を飲んでいる。考えれば、この方が一番運動をしているのだけれど。

「余はこの山々の霊気を取り入れて生きている。そなたらを乗せて走ると、なかなか良い運動になった。見よこの溢れる精気、力が漲るのじゃ」

 なるほど最初に会った時より艶々で光輝いていらっしゃる。神々しいお姿なのにそのセリフは悪人っぽいから止めて欲しいのだけど。


 どうやら今日はこのお宿で一泊するようだ。久しぶりにベッドで眠れる。しかし、この宿の料金はどのくらいだろう。手持ちのお金で足りるのかしら。

「エラルドさん。ここのお宿代って幾らですか? 私お小遣い程度しか持っていないんですけど」

「心配するな。お前は一人前になるまで俺が養う」

「え、いいんですか?」

 エラルドは頷く。

 向こうではまだすねかじりだったし、いいのかな。王子様だし。


「お嬢さん、クリームケーキはどうだい」

「あ」

 チラリとエラルドを見ると頷いたのでお願いする。

 しばらくすると、お茶と一緒に素朴な白い四角いケーキが出て来た。かなりボリュームがある。外側はパイ生地で下にカスタードクリーム、上に生クリームがたっぷり入っている。そんなに甘くなくて美味しい。

 こっちに来て甘味って初めてじゃないかしら。


「美味しい。むふふ……」

「女は甘いものが好きなんだな」

「だって美味しいんですもの」

「幸せそうな顔をして食べるんだな」

 エラルドは頬杖をついて猫のように目を細めて菜々美を見ている。

 国境を越えて一息ついた午後であった。



  * * *


 菜々美は久しぶりにお風呂に入ってベッドでゆったりと眠った。

 こんな高原の村の宿でも設備が整っているのは、夏にお貴族様や金持ち商人が避暑に来るからだそうだ。ちゃんとお湯もシャワーも出て、洗面所もトイレも付いている。

 これなら健康で文化的な最低限度の生活は出来そう。



 朝、寝ぼけ眼で歯磨きをしながら窓の外をぼんやりと眺める。クリーム色の家の向こうに草原と疎らに生えた木々が見える。綺麗な所だ。

 果物の木じゃないのかな。リンゴとか食べたいなとか思いながら眺めていると、何か茶色いモノが横切って行くのが目に入った。何だろう。うがいをして、また外を見たが何もいない。

 気を取り直して、大学入学時に買った化粧品を取り出して化粧水だけ付けた。高校デビューした子もいるけど菜々美はまだだった。


 そういえば妖精王ヤギはこの宿に泊っている。贅沢なヤギだ。茶色い動物は彼の仲間かもしれない。草食動物は群れることが多いらしいし、彼の仲間はこの辺りにいるそうだ。



「エラルドさん。釣りに行ってきます。この村の下の方に川がありましたよね」

 朝食はシリアルにヨーグルトと牛乳を添え、バターつきパンそしてクリームを落としたウィンナコーヒー。

 菜々美は食事の後さっそく出かけようとする。海とか湖とか川があったら、ちょっと釣り竿を投げてみる人だった。


「ナナミ、俺も行く。一人でうろうろするな」

「釣り竿はひとつしかないですが」

「ここのオヤジが貸してくれるそうだ」

「まあ」

「余も付き合ってやろう」

 エラルドと妖精王と3人で一緒に行く事になった。何かと付き合いのいい男達である。これは巻き込み効果なのだろうか。



 宿を出てフィン村を横切る。村は小高い丘にあって、もう少し高い所で牛やら羊やらを放牧しているようだ。近くで採れるキノコや乳製品や羊毛などを町のギルドに売って生計を立てているという。割と裕福な村で人々はのんびりしている。


 村を出て緩やかな斜面を下る。木は疎らに生えていて遠くに雪をかぶった高い山々が見える。辺りに白い花の群生地がある綺麗な所だ。

「お宿に釣り竿があるという事は魚がいるのね」

「ナナミ、魚がいると思って来たんじゃないのか」

「魚なんかいてもなかなか釣れないのよ。こうして釣り糸を垂れるだけでいいの」

「分からん」


 首を捻っていたエラルドは菜々美を振り返って言う。

「この村から馬で半日程走った所に町がある。明日にでも行かないか」

「町ですか」

「ああ、村より大きいぞ。人もたくさんいる」

 わーい、いよいよ異世界デビューだわ。フィン村は静かで眠ったような村だ。村人は『踊る仔ヤギ亭』のお客を遠回りにして決して近付かない。


 当りもないし、のんびり景色を見ていると向こうから茶色の動物が来るのが見えた。エラルドが釣り竿を仕舞って立ち上がる。

「熊だ」

「え」

 熊はどんどんこちらに近付いて来る。あの時の熊だろうか。立ち上がったら3メートルはありそうな、とても大きな熊だった。菜々美も釣り竿を仕舞った。

「逃げるか」

「魚は無いわよ」

 あの時の熊は魚が目当てだった。魚が無かったらどうなるんだ。

「熊だのう」

 ヤギだけがのんびりしている。


「ちょっとヨエル様。熊に知り合いは居ないの?」

 この辺りが縄張りの妖精王だろう?

「そなたは可愛くない。もっと頼みようがあるであろう」

「どうせ。エラルドだって美女じゃないけど我慢するって言ったし」

「何と、色気も素っ気もない男よ」

「ナナミ、俺の所為にするな」

 三人が言い争っている内に熊がすぐそばまで来た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る