四章

4-1

 うっすらと聞こえていた運動部の青春甚だしい掛け声も無くなって、空も夕暮れから夜へと変わっている。

 点々と並ぶ蛍光灯は教室と廊下を突き刺すように照らし、心細くなるような、昼とはがらりと変わった雰囲気が部室棟を包んでいた。

 まだここにきて日が浅いせいだろうか、春なのに空気に冷たさを感じてしまう。

『じゃあパレちゃんたちは帰るね』

『私も上守さんを送り届けなければならないので、帰らせて頂きます』

『戸締りとかしときなさいよ馬鹿』

『ま、またね衿谷ちゃん』

 一度手を付けてしまった宿題に苦戦している間に、他の部員たちはそれぞれねぎらいの言葉を吐いて帰ってしまった。

 わざわざ帰るときにひとこと言ってくれるだなんて彼らはなんて良い先輩同級生たちなんだろうか、どうせならこの宿題を手伝ってくれてもいいのに。

 口に出すのも憚れる皮肉を自分の中で消費して、部室の鍵を閉める。

 廊下の蛍光灯は消すんだったか、付けたままでいいんだったか……第二美術部以外の部活が活動していない最上階ではこういうところも気にかけなければいけない。

 薄暗いリノリウムの廊下、少し開いた教室の扉やトイレの前は小走りになりながら、切れかかった蛍光灯の点滅の音に息を震わせながら、遮二無二に廊下を歩く。

 理由なく背筋は伸びていた。

 もう階段は目前、安堵の溜息を吐いて、自然と歩幅は狭く、足のストロークは早くなる。

 次からは意地張って一番最後に帰るなんてことしないようにしよう、もしくは誰かを捕まえて離さないようにしよう。

 

 ――幽霊が前を通った。


 彼女は十数メートル先の渡り廊下から突然出てきて、階段へと消えた。

 よく見えなかったけれど、忘れるはずがない――その濃紺の長髪、忘れ去られたような物憂げな表情。

 間違いなくあのときの幽霊少女。

 俺の想い人。

 恐怖は興奮にに変わり、部室棟を下る階段へと走っていく。

 浅い呼吸は少しずつ深くなっていって、辺りが暗い事なんて眼中にないようにひた走り、階段へと直角に曲がる。

 階段には電気が付いておらず、廊下よりもずっと暗い。

 けれどもう見失うわけにはいかない、早足をいっそう急かして下ってゆく、見えないながら一段飛ばしでとにかく下へ下へと進んだ。

 しかし一向に幽霊に追いつけない。

 身体能力で敵わない程あれはすばしっこいのか……それとも本当に。

 四階、三階――二階に向かう途中の踊り場付近。

 黒い影が頬をかすめるように接近した。

 それは幽霊少女ではなくもっと恐ろしい怪物に見えた。

 背中が凍り、矮小な心は大きく揺さぶられて、大声を上げる。

「うわあああああ!!」

 黒い影はその声に驚いて足をもつれさせ、ドスン!と大きな音を立てながら踊り場まで転げ落ちてしまう。

「あいたたあ……!自分危ないやろがっ!ちゃんと灯り付けるなりライト付けるなりして歩かんかい!」

「灯りもライトも異音同義では!?というか危ないのはお互い様でしょ!!」

 そこまで言って――その影が人であることに気が付く。

 目が慣れて、その関西弁の女性の声が自分の頭をさすり傷が無いか確認している姿が良く見えた。

 糸目で藤納戸のぱっつんショート。

 身長や体つき、薄暗い中の輪郭には見覚えがあった。

 身長は低くもなく高くもなく線が細いけれど、声や迫力のせいだろう――彼女にたおやかだとかおしとやかだとかそういう感想は抱かない。

 中肉中背、女性らしい体つきかと言えばそうでもないし、ボーイッシュというわけでもない、ユニセックスな容姿で初対面のとき女性だと判別できたのが嘘みたいに、暗がりの中にいる彼女は曖昧な存在に見えた。

 混濁していて、混沌としていて、地に引いた境界線を足で消したような少女。

 いつかぶつかったあの人。

 俺が幽霊少女と出会った元凶の人。

「あの!誰かとすれ違いませんでしたか!?濃紺の長髪の女の子、病弱そうで幽霊みたいな」

「ゆ、ユーレイ?いきなりなんやお化け探してて急いでたんかい……いやあ誰もおらんかったけど」

「そうですか……」

 畜生撒かれた、なんて逃げ足が早いんだあの子は。

 けどまた四階で会えたな、部室棟の四階に何か目的があるのだろうか――やっぱり最後の部員だから?

「お、なんやよう見たらいつぞやの迷子新入生やん。どやった?お姉さんの案内上手くいったやろ?」

 俺の思考を妨げるようにカラカラと快活に笑う。

「全然そんなことないですよ!というか先輩のせいでえらい目に遭ったんですから!第二美術部になんて入るつもりは無かったし、ああいう人たちと関わるだなんて思ってなかったし、あんなことになるとは思ってなかったし!!あ、そういえば渡された地図、あれよくよく見てみると滅茶苦茶な道順だったじゃないですか!!」

「お、おうおうグイグイ来るなあ。ごめんごめんて……ん?なんや新入生あっこの部活にようなかったんか?なんやあそらまたごめんなあ」

「本当ですよ!サッカー部辞める羽目になったし散々です!」

 ここぞとばかりに責める俺に少女は眉を困らせて、両手を合わせる。

「百葉には悪い事したって思おてるで。まさか気まぐれのいたずらから第二をここまで復興させるんやから、先輩として立つ瀬がないって、ものすごい思おてる」

「いたずら?わざと別の場所を案内したんですか――というかなぜ俺の名前を、先輩って」

「ちょいちょい!疑問多いて……じゃあ一つ一つ解決させよか、出来る限り順序立ててドラマチックに」

 俺の冷や汗を舐めるような表情で少女は意地悪く告げる。

 彼女は右手の人差し指を立てた。

「まず疑問その一『どうして百葉の名前を知ってるか』、これは簡単やな。君は自分が思おてるより有名人やから。個人として取り立てた活動をしてなくても第二美術部に所属してるだけで否が応でも目立つもんや。まあ君の場合『その他の輝かしい業績』が相乗効果になってそやけど」

 その他の輝かしい業績。

 全く嫌味な言い方をする、サッカーの方か部活の幽霊部員を復帰させたことか――俺にとってはどちらも根本の活動ではあるけれど、他人から見れば”その他”の価値の無いことだと思うのだろう。

「次に疑問その二『どうしていたずらをしたか』、こっちに特に理由はあれへん。っちゅうか今は語るべきやない。やからいったんお預けやな」

「勿体ぶりますね」

「今言うと味気ないからなあ。理論的な説明やないときげきちゃんも思おとるよ」

 まるで現状を劇かドラマのように、観客のように他人事でケラケラと笑う。

 彼女の手にはポップコーンが持たれているかのように錯覚する、そのくらい自分が無い調子だった。

 いや待て、今大事なことを聞き逃したような――少女は俺の考え込む様子に律儀に笑った。

 そうあるべきだと、予想通りの反応だと、ちょっとしたいたずらが思うように引っかかったような表情で彼女は、否――

「最後の疑問その三『たまにこぼすヒントの答えは』、お姉さんはそらこの学校中の一年坊主の先輩やけど、特別に自分の先輩でもある。君以外に一年生の知り合いがいないのが理由の一つ、も一つは同じ部活の先輩後輩やから」

 ――きげきは観劇するように、感激するように言う。

「第二美術部所属二年生、ト書きげき。君が最後に、幽霊部員から脱却させる相手や」

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