2-3
「ふはははは!もう逃げられないぞ!!」
もう走る体力が無くなったのか、肩で息をする筆木は廊下の袋小路の中でへたり込んでいる。
頬や耳は赤く、額には汗がにじんでいるが、まだ心は折れていないようで俺を睨んでは目を離そうとしない。
薄暗いそこはひんやりと冷たく、埃が浮いているのが視認できた。
バケツやモップ等の掃除道具、その横にはべっこり凹んで鍵がかからなくなった縦長のロッカーと、様々な事情で使われなくなった机椅子が積み上げられている。
「壮絶な戦いだった……まさか一階から三階の壁を登るとは」
「あなたこそ、屋上から屋上を飛び移るとは思いませんでした」
「校長教頭包囲網が完成したときにはどうしたらいいものか考えたものだけど、お互い抜けられて良かったよ」
「その通りですね。千五百字くらいの短編を書いたような気持ちになりました」
「それ短いの?長いの?」
ほとんど昼休み全ての時間を使った鬼ごっこの果てに俺は筆木を追い詰めることに成功した。
逃げ場は無い、小説家だと聞いていたのに予想だにしない体力に驚き、油断したが、もうその油断も消えている。
むしろ軽く運動をしたおかげで頭が冴えている――これ以上の失態は犯さない。
筆木はむくりと立ち上がり、プリーツスカートについた埃を払う。
何をするつもりなのだろうか、警戒は解かず、動向を窺った。
彼女はポケットの中からペンとメモ帳を取り出すと、なにかメモ書きを始めた。
ペンは百円程度で買える、この学校の購買でも売っているようなボールペンで、メモ帳は特筆するポイントがない、白い無地のそれ。値段のことを言えば、こちらも高くないだろう。
日用品にこだわりが無いタイプなのだろうか、それともこだわりが無いことがこだわり――芸術家なのだからそんなレトリックな考えを持っていてもおかしくない。
「はい、どうぞ。色紙は持ち歩いていないから後日きちんとしたものに書きますね」
筆木はメモを一枚千切り、その切れ端を差し出した。
メモを恐る恐る受け取ると、彼女の動きには注意しつつ、その内容を読む。
そのメモ用紙には『変僅』と崩した文字で書かれていた。
一瞬読むのに苦労したけれど、こんなバラバラに分解した、格好をつけた名前だけの紙を見れば、これが何を意味するか推測をつく。
「俺サイン欲しくて追いかけたんじゃないです」
「そうなんですか。なんだ勘違い」
筆木は一度渡したメモ用紙をひょいと奪ってしまうと、真ん中に裂け目を入れて、びりと真っ二つに破ってしまう。
両手に持たれた紙切れの、さらに小さくした紙切れを埃塗れの床に落とすと、にこりと笑う。
彼女は俺がサイン欲しさに追いかけてきた一年生だと思ったのだろう、観念して書いたものの全て自分の勘違い……俺なら恥ずかしさでそのまま潰れたロッカーに飛び込む勢いだが、さすがはメジャーデビューした小説家――しゃんとしておられる。
「ともかく。あなたは何の用があって、私を追いかけたのですか?」
あたりに立ち込めた変な雰囲気を振り払うように口をつく。
「質問を質問で返すようですけど、第二美術部が廃部の危機であることをご存じですか?」
「知らない、そうなんだ……もう学校中の噂になってたりするのかしら」
「いえ」
「じゃああなたは第二の新入部員さんなのね。男の子が入るなんて思いもしなかったわ……あ、勘違いしないでね。性の自認云々の話は寛容なつもりだから」
「俺は心身共に男ですよ!?」
くすくすと筆木は小動物のように笑った。
分かってて言ったな?先ほどの意地悪の意趣返し、やってやったという胸のすいたような顔をしている。
「部の成立のためには部員が五名が必要なので、先輩には幽霊部員を辞めてほしいんです」
「あら、部活動継続のために必要な条件は顧問一名と部員五名だったと思うけど?部活に出てなくてもいいんじゃないのかしら」
「第二美術部が普通じゃないので、特例らしいです」
「まあ特例、良い響きね」
自分の部活が廃部になりそうだというのに、どうしてこんな間の抜けたことが言えるのだろう。
あんな厭世的で活力のある文章を書く小説家の中身がこれだとファンは失神するのではなかろうか。
「そろそろ辞めないとなあって思っていたから丁度いいわねえ。私あの部活嫌いだし」
和やかな調子で筆木は微笑みながらそう言った。
まるでお茶請けの菓子はなにがいいか聞くような調子で、感情の激動を一切見せずに、本音を吐いた。
表情からも、声色からも受け取ることのできない残忍な冷酷な台詞。
「私はね、幽霊部員になったのは部活が無くなってほしいからなの」
俺を無視して横切る彼女を止める気にはなれなかった。
「だったら最初から辞めればよかったのに」
絞り出すように捨て台詞を吐く。
「ごめんねえ。力になれなくて」
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