ありふれたエレジー

星影雪吹

ありふれたエレジー

 はぁ。

 白いもやがマスクから漏れる。この『はぁ』は息遣いや白い息を見たいという単純な興味から成る『はぁ』ではなく、ため息の『はぁ』である。

 最近、何事も上手くいかない。何事も、は言い過ぎだろうか。でも、それぐらい悪い方向に転がることが多い。今日は寝坊した上に電車も遅れて遅刻する羽目になった。そこまではまだいい。大問題ではない。じゃあ、何がいけなかったのかというと一限目が数学だったことだ。うちの数学教師は何かとつけて口煩くちうるさく、ルールや秩序というものを好む面倒くさい奴だ。もちろん遅刻した俺は許されることなく、宿題を倍にされ、ついさっきまで一時間にも及ぶ説教を聞かされていたのだ。これは、不運が積み重なったとしか言いようがない。昨日は、体育で野球をしていたらヒットがピッチャーの顔面に当たって(しかもそいつは、困ったら暴力で解決するという意味の分からない信念を持つ脳筋野郎だった。)見返りとして身体中ボコボコにされた。一昨日は、隠していたテストの答案が親に見つかりしこたま怒られた。と、まあ一週間ほど不運が崩れそうなほど積もりに積もっている。これは、不幸と呼んでもいいんじゃないのだろうか。俺は不幸なんじゃないだろうか。

 そんなわけあるか、と誰かが言った。

 強い伊吹おろしが頬を掠る。そこからじわじわと口や目、頭皮を凍らせ、冷気は首を通って身体全体の表皮を凍結させた。

 「いいかげんにしろよ、お前。」

 その声とともに浅く吸い込んだ雪の破片が、気管、肺胞、肺、心臓の順に凍てつかせた。次第に臓器も凍り、毛細血管の先端までが氷と化した。

 『お前』というのは、きっと俺の事を指しているのだろう。誰がそんなこと言ってるんだ? 振り向いても誰もいない。あるのは、煤けた家々のみ。

 そうか。これは、もう一人の俺だ。

 「身の程をわきまえろ、被害妄想野郎。」

 どうやら彼は、俺が自分が不幸だと言ったことに怒りを覚えたらしい。何故?

 「これぐらいの不運、誰しもが経験する道だ。お前の悲しみなんざ、自然のサイクルの一端に過ぎない。」

 彼の言葉は気持ち悪い程鋭く、冷えた俺の身体を痛々しくエグる。彼の声は事実を淡々と突きつけているように、感情が感じられなかった。

 彼の言葉が正しいのなら、俺には嘆く権利さえないということになるのか?

 「そうだよ。」

 驚いた。そういうわけじゃないと否定されると思ったのに、ぴしゃりと肯定された。いや、俺は望んでいたんだ。権利はあると信じていたから。それを合っていると言って欲しかった。彼の言う通り、俺はとんだ被害妄想野郎だ。俺よりも不幸な人間なんて、この世界には億単位の人数がいる。そんなことわかってるのに。それでも自分は不幸だと思い込んで、誰かに慰めて貰いたいのか? そこまでして、特別扱いされたいのか? 

 わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。

 だんだん呼吸ができなくなってきた。嗚咽が喉の底にたまっている。出したいのに、出せない。まるで、誰かに止められているみたいだ。

 もうやめよう、自分を責めるのは。自己嫌悪なんてキリがないだけだ。

 俺は、黒く汚れた泥沼を歩くのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ありふれたエレジー 星影雪吹 @ho-shi-yu-ki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ