第5話

冷たい地面。痛む節々。キーンと耳鳴りがする。身体が重い。

僕「痛って…」

顔を上げると、女が被さっていた。

女「痛ー」

お互いに身体を起こす。女の足は擦りむいて血が出ていた。


僕「え…何で?」

女「…うるさい」

僕「…」

女「…」


少し、混乱していた。自身まで傷つくような事をしなくても良いのでは?と。

でも、思えば、女は最初から訳の分からない行動しか取っていない。

まるで、現実から目を背けているような…。


女「……ぐすん」

僕「!」


突然、女が泣き出した。

声をあげず、ただ静かに泣いていた。

涙が頬を滴り、鼻水を啜る。


どうしたら、良いのだろう。

女に泣かれた事なんてないから、慰め方なんて知らない。

だいたい泣きたいのはこっちだよ。全身激痛だよ。

僕「…立てる? あ、手当しないと…」

女「…」

泣いている女を前に、ただオロオロするだけだった。



今日1日考えた僕への仕返しがこれって事?

タックルして、痛めつけて、泣いて困らせる作戦?

いや、そんな遠回りな嫌がらせしないだろう。

自転車タックルまでが仕返しで、自分が怪我したんで、泣いているだけ?

いやいや、怪我するでしょ。タックルする前に分かるでしょ。

行動意図が読めない。

思えば、変な女だった。僕の髪を切ってくるし、服を買いに行かせるし、まるで警戒心がない。男と2人でホテルに行く事への抵抗自体がなかった。

駅のホームでの出来事がショックすぎて、思考停止してたとしても、シャワー浴びた後のあの暴力。散々殴る蹴るして来たけど、あんな女、見た事ないよ。

そりゃ、男には殴られたり、蹴られたりされた事はあるけど。

抵抗しない相手だから良かったけど、もし、僕が武道の経験者とかで、打ち負かしてたらとか、考えないのかな?

全ての行動が、短絡的で、安易すぎる。

何か裏があっての事か?

いや…違う。

…そうか!

…考えてない、考えてないんだ!

ただ感情をぶつけているだけなんだ。

そうか、そうか…? 何故僕に?

僕は周りの人が近寄りたくないような存在で、出来れば、関わりたいと思わないはずだ。

何故、僕に?



女は相変わらず泣いていて、

膝小僧からは、血が流れていた。


僕「…」

女「……ぐすん」


空を見上げると、陽気な日差しが、降り注ぐ。

浅葱色の空。

川の鴨たちは、水浴びをしている。

あの日とは真逆だ。


そう、あの日は雨の日だった。


中学生の僕は受験する高校に向かうため、

電車に乗っていた。

車内は混んでいて、満員電車だった。

斜め向かいに女子中学生がいて、僕に背を向けていた。その子は、たまに身体の向きを変えたりしていたので、変だなとは思っていた。

ちょうど駅に電車が付いて、人が乗り降りして入れ替わっていた時だった。

僕は女子中学生に手を掴まれ、駅のホームに引っ張り出された。

女子中学生「この人、痴漢です! 誰か! 駅員さん!」

僕「えっ! 僕!? 何言ってるんですか! やってません! やってませんよ!」

必死の弁明も叶わず、僕は駅員に連れられ、事情聴取を受ける事になった。

証拠が出ず、その日は解放されたが、第一希望の高校の受験に行けなかった。

結局受かったのは、吹き溜まりが集まるとされる高校で、僕は地獄の入学式を迎える事になった。

その時の女子中学生も同じ高校のクラスメイトだったのだ。

たちまち痴漢野郎と噂され、僕は学校で虐められるようになった。

彼女は僕を痴漢の犯人と思い込んでいた。

高校1年生の夏休みが始まる前には、僕は学校に行かなくなり、引きこもるようになって、今に至る。


今日は、全てから解放される日だったのに…。

こうやって、悩んだり、嫌な顔をされたり、苦しんだり、痛い目にあったり、恥をかいたり、初めての直面に動揺して情けなくなったり、こんな臆病な自分から解放される日だったのに…。


こんな時でも、そんな事を考えてしまう自分が、あぁ…恐ろしく嫌いだ。

僕は女の血を眺めていた。


僕「…」

女「…ぐすん」


泣いている女を前にして、呆然と何も出来ない自分。


僕「…」

女「…ぐすん」


怪我をしている女を前にして、ただ傍観している自分。

このままじゃ嫌だ! こんな自分は、もう、うんざりなんだよ!


僕「うおー!」

僕は、立ち上がった。


女「きゃっ! な、な、な、何するの?」

僕は、女を抱えた。

女「やめろって! 離してよ!」

女に叩かれたり、蹴られたりしながらも、離さなかった。

ベンチに置いてあった鞄をひったくり、そのまま川沿いの道を走った。


犬の散歩をしているおじいさん、自転車に乗ってスーパーからの買い物帰りのおばさん、下校している女学生達。

すれ違う人々が僕と女を見て振り返った。


僕「ヒッヒッヒー」

運動不足で息がもう続かない。流れて来る汗が時々、視界を遮る。

女は抵抗を諦めたのか、じっと僕に抱えられている。

僕「ヒッヒッ・・・」

薬屋が見えて来た。もう少しだ。


僕「ヒッヒッ・・・ヒッ!」

限界を迎えた僕の足がもつれて、前から倒れた。

女「あっ!」

堤防の原っぱの坂道に女は投げ出され、ゆっくりと転がっていった。

僕「うぅ…」

女が転がった方へとほふく前進する。

思いの外急な坂だった。

結局、僕も緑の坂道を転がっていって、女とぶつかった。


女は膝からの血、服に付いた泥と草で彩られ、クリスマスツリーのようになっていた。

僕は汗だくでビチャビチャの服に泥が滲んで泥団子のようだった。


むくりと立ち上がる女。

拳を握り、振りかざす。

僕はもうガードする気力もなかった。

僕「ごめんなさい…」

女「…」

女は、拳をだらんと落とし、僕の隣に座った。

女「あっはっはっはっは!」

突然、女が笑い出した。

僕「…」

女「あっはっはっはっは!」

僕「…あは、あはは、あははは!」


つられて、お腹がくすぐったくなった。

何がおかしいのやら、全くわからない。

でも、何か楽しい。


女「ありがとう」

僕「えっ!?」

女「なんか、色々もやもやしてたんだけど、あんな見てたらどーでも良くなった」

僕「あ、うん」

女の側には、女の鞄の中身が散乱していた。

中身を拾い始める女。

僕「てっ、手伝うよ」

鞄の中身は、筆記用具やノートや単語帳など、意外なものだった。そして、落ちている写真付きのカードのような物を拾った。

僕「えっ!?」

それは僕にはとても懐かしい物だった。

女「何!? あっ! 勝手に見ちゃダメ!」

女はカードを、いや、学生証を僕から取り上げた。

僕「…学生!?」

女「そうだよ。悪い!?」

ホテルでの豊満な身体付きから全く想像していなかった。


僕「中学生!?」

女「そう! 悪い!? ちなみに、今日高校の入試だったんだけど、あんたに邪魔されて行けなくて、そりゃもう落ち込んだんだから!」

僕「あ…ごめんなさい」

女「でも、色んなモヤモヤ抱えたまま受験するより、良かったかな! あんたのおかげ!」

僕「???」

女「あたし、中学で結構浮いてたんだ。だから、友達とかいなくて…すごいコンプレックスあって…人とどう接していいかとかわからなくなってたんだけど、あんたのおかげで勇気もらった」

僕「そう…なの?」

女「高校行きたいって、やっと思えたよ。ありがとう」

僕「自分なんかで、良かったの?」

女は僕の頭を小突いた。

女「あんたで良かったよ」

僕「・・・」




その後、僕らは泥だらけのまま、それぞれの帰路についた。

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