七章 掴んだ藁

 崖の頂上に真実が待っているのならば、若者たちが手をかけた出っ張りは新たな登攀ルートの発見だった。しかし、当の本人たちは、あまり手応えを感じていなかったらしい。

「告発者は善印賞の内情を知っている人物」という仮説に心をときめかせたのは、彼らの話をずっと聞いていた座椅子和夫こと正気だった。

「でも、どうやってそれを確かめるのよ」

 パソコンに向かって尻込みする明日香の背中を正気はニヤリと見つめた。週刊誌なんかにあるような潜入ルポをよく読んでいた正気の脳内に、心躍るような青写真が展開されていった。

 善印賞の主催者は、株式会社太鼓判だ。実のところ、この会社はほとんどが善養寺真のものと言っていい。一九九八年に、ノストラダムスの予言に端を発する世界終末論に便乗した『未来からの方舟』で一発当てていた善養寺は、それを元手にコンテンツのプラットフォームを確立するとかいうもっともらしい理由で株式会社太鼓判を設立した。善養寺は後に文芸誌のインタビューに「小説書くのはしんどいわりに儲からない。これからは書きたい奴に書かせる場を用意してやればいいんだ」と、死ぬほど赤裸々に語った。要は、自分は楽をして金を稼ぎたいということらしい。

 善印賞は、そういうやや邪な考えのもとに創立されたわけだ。つまり、株式会社太鼓判は善印賞を運営するために作られた。今や、株式会社太鼓判はメディア全般におけるコンテンツを手掛けるようになった。善印賞はその中でも、歴史と権威を有するようになった。

 株式会社太鼓判は、なんとお誂え向きに霜田区に本社ビルを構えている。その理由は簡単で、霜田区は地価が安いのだ。十年前に完成したこのビルは、霜田区の中で最も高い建物なのではないかと言われているが、誰も興味を示さないことについては太鼓判が押せる。善印賞の事務局も、この本社の中にある。すなわち、想定している告発者を探すのであれば、株式会社太鼓判に潜入する必要が出てくるというわけなのだ。

「そんなのできっこないじゃん……」

 明日香が諦めモードでそう返したのが、逆に正気のハートに火をつけた。


 十一月十日の木曜日、午後一時五十分。正気の姿が太鼓判本社ビルの麓に現れた。シャツにジャケット、そして革のブリーフケースを携えるという、正気にしてはあり得ない出で立ちだ。おまけに、いつもは短いはずの髪が今はウェーブがかったロマンスグレーになっている。鼻の下には胡散臭すぎるチョビ髭……正気なりの変装というやつだった。もともとネットに顔を晒していた正気だったが、今ではマイナスのイメージを与えるかもしれない。そこから生じるリスクを軽減しようという考えに正気が至るとは……。彼の成長に心打たれる読者諸君の涙の滴り落ちる音が聞こえるようだ。病院に行った方がいい。

彼は堂々と正面入り口からエントランスホールに入って行く。

「今日の二時に面接予定の和谷です」

 正気は受付でそう告げると、ゲストの入館証を受け取って、八階へ向かった。そう、この男、求職中であることを利用して株式会社太鼓判の出したバイト募集に名乗りを上げたのだ。

 エレベーターで八階に到着し、案内板に記された編集部への矢印を辿って行く。しばらく廊下を進むと、編集部の入口が見えてくる。ラックに並んだ雑誌、来期のドラマのポスター、どこかから贈られてきた胡蝶蘭の群れ……このスペースの隅に置かれた背の低い冷蔵ショーケースには、オシャレだと言われるのを待たんばかりのボトルが所狭しとぶち込まれている。賑やかなスペースの奥に頑丈そうなドアがある。その脇にはカードリーダーがある。正気は何も考えずに、借りた入館証をそのカードリーダーにかざした。エラー音が鳴る。正気は意外そうな顔をするが、当たり前のことである。

 周囲を見回した正気は、内線電話の乗った小さなテーブルを見つけた。そばにはアルコール消毒液の入ったボトルがノズルの頭を下げている。正気は手を消毒して受話器を取った。目の前の内線リストから面接予定の編集部第一グループを呼び出す。

冷蔵ショーケースの中をまじまじと見つめていた正気の前に編集部の女が突然現れた。

「うわぁっ!」

 正気は驚いて声を上げたが、オシャレなボトルに目を奪われていた正気は何度も声を掛けられていたことに気づかなかったらしい。この時点で不採用の烙印を押されても文句は言えまい。

「沢木と申します」

「和谷と申します」

 沢木は慇懃に頭を下げて、正気を先導するように頑丈なドアを胸元に提げている社員証で解錠した。ドアの向こうにはパーテーションがあって、そこにでかでかと善養寺真のポスターが掲げられている。「次のベストセラー作家は君だ!」というデカ文字とシルクハットにタキシード姿の善養寺真がこちらを指さしている。ジェームズ・モンゴメリー・フラッグの米軍募集ポスターとそっくりだ。この会社にとっても、新人作家は戦う駒のひとつなのかもしれない。

 沢木はフロアを右手に進んで、曇りガラス張りの小部屋が並ぶエリアまでやって来た。そのうちの一室のドアを開けて、中に正気を招き入れた。

「書類をお預かりします」

 沢木に促されて、正気はバッグの中から履歴書と職務経歴書を取り出して手渡す。沢木は「少々お待ち下さい」と言って、部屋を出て行った。

 正気の最初の作戦は単純明快で、株式会社太鼓判にバイトでもなんでもいいから採用されて、内部の人間になってしまおうというものだった。

 五分後、男が沢木と共にやってきた。

「編集長の蕪崎です」

「ギャンブラーですか?」

 正気が真面目に聞くので、蕪崎は笑ってしまった。

「いや、蕪崎です。そんな自己紹介ないでしょ」

 蕪崎は座るなり、履歴書に目を通すと、

「つい最近、建設会社の方を退職されたんですね。どうしてまた? 二十年以上勤められてますよね」

 と至極当然な疑問を投げかける。どうやら蕪崎も沢木も、目の前にいるのがネットを騒がせた男であるとは分かっていないようだ。

「まあ……なんといいますか、自分探しをしようかなと思いましてね」

「大学生みたいなこと言いますね」

「そうです。私の心は大学生のように若いのです」

 本気で採用されたくて緊張しているのか、正気の喋り方はぎこちない。

「自分探しでウチに辿り着いた?」

「そうです。おめでとうございます」

 急に賞賛を受けて、蕪崎は思わず沢木と顔を見合わせた。

「編集のお仕事はされたことはあるんですか?」

 正気は明後日の方向を見つめて、じっと考えた。

「まあ……、人生っていうもの自体が編集じゃないですかね」

 雑に編み出した正気の哲学に蕪崎は目を光らせた。

「ほう、その心は?」

「どちらも面白いでしょう」

 野生動物の眠りより浅いことを自信満々で突きつける正気に、狭い部屋の空気はじんわりと死んでいった。

「ウチの雑誌だったり、本だったりを読まれたことは?」

「あります。『週刊キャッチ』のルポ記事は私のバイブルです」

「……それはウチじゃなくて英談社さんですね。あと、週刊誌はバイブルにしない方がいいですよ」

 その後、四十分にわたって、毒にも薬にもならない時間が費やされていった。こうして割愛されていることでお分かりだろうが、正気はきっと不採用だ。家で待っていた明日香も同じ意見だった。

「それで受かるわけないでしょ」

「奴ら、俺の話を興味深く聞いてたぞ」

「逆の意味で興味があったんだと思うよ。なんだこいつ、みたいな」

「まあ、見ていなさい。それで、学校の方はどうだ?」

 七海が首を振る。

「やっぱり今の時期だと、転入は受け付けてないところしかないわね」

 明日香が暗い表情を見せるのを、正気はそっと盗み見る。

「そうか……」すぐに正気は何かを思いついたようだった。「明日香、気晴らしに俺を手伝ってみないか?」

「……なに?」

 嫌な予感が明日香の背筋を鯉の川上り並みの勢いで駆け上がっていく。明日香の嫌な予感を裏付けるかのように、正気が不敵に笑みを浮かべる。

「二の矢だ」


 翌日のポッキー&プリッツの日、株式会社太鼓判の本社ビルの前には、みすぼらしい親子の姿があった。

 一人は、ツギハギだらけでところどころ破れている上下のデニム、炭鉱なんてないのに頬は煤で汚れている。壊れた靴をパカパカさせながら、娘であろうか、一人の少女を連れている。少女の方は、髪はボサボサで、どこかから拾ってきたせいなのかサイズの合わない薄いコートを羽織っていて、ゴミと見紛うようなボロボロのテディベアと手を繋いで引きずっている。

 この見慣れぬ父娘は一体どこの誰なのだろうか、読者諸君にも見当はつかないだろう。ビルの前をせわしなく行き交う人々を二人はじっと見つめている。物乞いをするでもなく、何かを窺っている様子だ。

「パパ」少女の方が小声で問い掛ける。「ホントにこれで大丈夫なの?」

「安心しろ。誰も怪しんじゃいない」

「いや、怪しすぎて誰もこっち見てないだけでしょ……」

 このみすぼらしい男とは別人だが、昨日、正気は言っていた。

「こうなったら、どんな卑怯な手を使ってでも、あの会社に潜り込んでやろう」

 明日香は不安げだった。もちろん、ここにいるテディベアを引きずった少女とは別人だ。

「どうするつもりなの?」

 明日香の部屋が作戦会議室だった。明日香の転入先を探す七海に余計な心配をかけたくないという正気の配慮だった。

「善養寺真の心のスキマを埋めるんだよ」

「不気味なセールスマンみたいなこと言ってる」

「善養寺真に取り入って、会社に自由に出入りできるようになれば、告発者を探すのも簡単だろう」

「そうかもしれないけど、そんなことできないでしょ」

「いや、できる。善養寺真の情に訴えかけるんだよ」

 その結果がみずぼらしい父娘というわけだ。もちろん、この父娘は正気たちとは別人なのだが。こういった偶然というものが起こるから、世の中は分からないものである。

「来た……!」

 道の向こうから善養寺真がやってくる。ガタイが良く、精力的な黒い髪をオールバックにしている。堅物みたいな表情には時代が刻まれている。それが、ややスポーティーな格好で速足気味に本社ビルの方へやってくる。

「最近は健康に気を遣ってウォーキングしてるらしい」

「座椅子和夫とは大違い」

「よし、あいつのことはウォーケンと名付けよう」

「青竹叩いてそう」

 二人はヨタヨタと善養寺真の進路の前に歩み出る。

「ねえ、お父ちゃん……」娘の方がしわがれた声を出す。「今日のご飯は?」

「娘や」この男、時代劇か何かと勘違いしていそうな口振りだ。「俺たちには飯を食うための金なんかないんだよ」

 善養寺真は突然現れた謎の父娘にギョッとして立ち止まった。父親の方が、しめしめという表情をした瞬間、善養寺真の声が飛んだ。

「なんだ貴様らは! 週刊誌の記者か?!」

 いきなり言いがかりをつけられて、娘が慌てて父親の方を見る。

「お父ちゃん……〝しゅうかんし〟ってなぁに?」

「分からないな……。おいしい食べ物なのかもしれないな」

 しらじらしいとぼけ方に善養寺真の眼が光る。

「貴様らに話すようなことなんかないぞ! ハイエナみたいにつきまといやがって!」

 老年の男性特有の情緒不安定なのか、善養寺真はぷんすかと肩を怒らせて本社の方へ足早に行ってしまった。取り残されたみすぼらしい父娘は周囲の冷たい視線を浴びながら、その場に立ち尽くした。

「全然ダメじゃん」

「おかしいな。おしん的な世界観は奴に通用しないのか」

「娘にこんな三文芝居させて申し訳ないと思わないの?」

「ノリノリでやってたじゃないか」

「ノリノリじゃないわよ! イヤイヤっていうの、アレは!」

「週刊誌くらい、このナリでも知ってるだろ」

「おしんが週刊誌読んでたら興醒めだわ!」

 言い争う二人の前に、株式会社太鼓判の社員らしき女性が近寄ってきて、商品の入ったコンビニの袋を手渡してきた。

「あの……、よかったら、これ……」

 二人は神でも仰ぐように何度も頭を下げて袋を受け取った。去って行く女性の後姿を見送る父親の隣で、娘が袋の中を覗き込んだ。

「〝カロリーオフのこんにゃく麺サラダ〟……、この状態の人間がカロリー気にしてると思ってんのかな」


 学校から帰って来た蓮が目の当たりにしたのは、リビングで疲労困憊している明日香と正気の姿だった。

「もう普通にウチにいるんだ……」

 蓮が声を掛けると、明日香は泣きそうな顔で振り返った。

「あんな惨めな思いして四六〇円のサラダ一個しか成果が得られないなんて……」

 蓮は黙って二人の話を聞き終えると、苦笑した。

「サラダ貰えただけすごいと思うけど」

「こっちの狙いはあの会社に潜入することなんだよ」

 正気が頭を抱える。明日香は善養寺真の態度を思い出して、新鮮にイライラを募らせた。

「なんなのよ、あのジジイ。いきなり初対面の人にあんなこと言う?」

 蓮はキッチンの方から水の入ったコップを持ってきて、テーブルのそばに腰を下ろした。

「善印賞の影響で週刊誌に引っ掻き回されてるから、そういう反応になるのも無理はないだろう」

「あのジジイはどうやっても陥落しなさそう」

「そっちの状況はどうなんだ?」

 まだ頬に黒い汚れが残ったままの正気が尋ねると、蓮は溜息交じりに答えた。

「まあ……、ちょっと滞ってますね。ツイッターのアカウントのリストを潰していっていますけど、特に進展はない感じで……」

「手詰まりか……」

 静まり返るリビングに蓮のスマホの着信音が鳴り響く。梓からの電話だった。

「どうした? また何かあった?」

 梓は家族と共に自宅へ戻っている。周辺の混乱はすでに去っていたようだったが、それでも、蓮は彼らの安全を心から信じているわけではなかった。

『母親の職場に誹謗中傷のメッセージが届いてるらしい』

「職場に戻れたばかりなのに?」

『また休みをもらうことになったと言ってた』

 少しずつ磯貝家に親子の会話が戻りつつあることは喜ばしいことではあったが、家族の団欒には相応しくないトピックだ。

「もうしばらくは耐えないといけないかもな」

『思っていた以上に告発者の余波がデカい。やっぱり、早く奴を見つけ出さないと……』

「こっちも色々やってるが、今のままじゃ時間がかかりすぎるかもな」

 電話の向こうで梓が舌打ちをする。

『明日香の父親が何かやるとか言ってたけど、アレは……?』

 蓮は口にするのも恥ずかしくなるような、正気の一の矢・二の矢のことを話した。

『なんだ、そりゃ……。あの人もクレイジーなこと考えるよな』

「でも、そういうことじゃないと告発者には近づけないのかも」

『……確かに、それは一理あるな』梓はしばらく考えて言った。『こうなったら、太鼓判の社員証を手に入れるっていう手もある』

「太鼓判の社員証?!」

 蓮が鸚鵡返しすると、向こうの方で正気がスピーカーフォンにするようにジェスチャーした。

「ちょっとスピーカーにする」

 向こうの方から正気の声が飛んでくる。

「太鼓判の社員証ってどういうことなんだ?」

『え? そこにいたんですか?』

「どうなんだ? 何か策があるのか?」

 正気が語気を強めると、梓は「策というわけじゃ……」と断りを入れつつも、話を始めた。

『太鼓判の善印賞の事務局に入るには、ビルの入館証じゃなくて社員証が必要なんですよね。だったら、それを手に入れれば中に入ることはできる。問題はそれをどうやって手に入れるかってことなんですけど……』

 正気の眼が光る。こういう話は彼の大好物だ。

「スパイが情報交換する時に、よく同じブリーフケースをサッと入れ替えてるだろ」

「よくあることじゃないでしょ」

 明日香が横槍を入れるが、正気は意に介さない。

「ああいう感じでどこかのタイミングで社員証を入れ替えるとか、持ち去ってしまうとか、夢は広がるな」

 とんでもない夢を頭の中に描いて、正気はニヤニヤと妄想を繰り広げる。しばらく満足そうにニヤついていた正気が突然、蓮に真っ直ぐな目を向けた。

「ちょっと君にも手伝ってもらおうか」

「え……?」

 嫌な予感がハエトリグサのように蓮をゆっくりと包み込んでいく。もう逃げることはできない。


 不甲斐ない作家を持つ編集者にとっては、土曜も日曜も単なるカレンダーの情報でしかない。株式会社太鼓判と不甲斐ない作家が契約を交わしているかはともかく、土曜日にも太鼓判本社ビルには多くの社員が出入りしているようだった。そろそろ正午が近い。

「ふーむ、あのカフェなんか良い感じじゃないか」

 ずっと双眼鏡を顔に押しつけていたせいで、正気の目元が病的なパンダみたいになっている。彼が指さしたのは、太鼓判本社ビルに隣接する低い建物だった。そこには、いくつかの飲食店が軒を連ねており、カフェの前のちょっとした広場にはテーブルが並べられていて、今も何人かがそこでカップを片手にくつろいでいる、そろそろ寒さが本格化する時期だが、今日は暖かさが戻ってきたことで、広場でも過ごしやすいのだろう、

「本当にうまく行くんですかね……」

 蓮は半信半疑──いや、二信八疑といったところだ。一信九疑かもしれない。

「うまくいくさ」

「どこからその自信が溢れ出てくるのか不思議です」

「パパ、もう準備してた方がいいよね」

 少し離れたところで、ジャージ姿の明日香が脚の屈伸運動をしている。正気が考案した三の矢は、海外のスリ集団のようなやり口だった。

 まず、カフェの広場席に一人でいる社員を見つける。その社員は社員証をテーブルの上に置くタイプの人間である必要がある。すると、バッグを持った明日香がそのすぐそばを駆け抜ける。すぐに正気がヨタヨタとその後を追いかける。ターゲットの社員のすぐそばで、これ見よがしに膝に手をついて咳き込んでみせると、きっと社員は尋ねるだろう。

「どうされたんですか?」

 迫真の演技で正気は言うのである。

「ひったくりです……!」

 決して叫んではいけない。叫ぶとまわりの人間を巻き込んで、あろうことか正義感に溢れた邪魔者が明日香を追いかける可能性がある。この時、明日香はわざと余力を残して走っている。ちょうど蓮が近くにいて、

「僕が荷物見てますよ」

 と言う。お前が追いかけないのかい、と指摘されないことを祈りながら。社員が後を追いかけたところで、蓮が社員証を持ち去ってしまうという寸法だ。なにを隠そう、明日香は高校では俊足で名が通っている。社員を振り切るには申し分ないだろう。

「あいつ、狙い目だな」

 正気が双眼鏡を覗く。一人の中年くらいの男性社員がカフェから出て来て広場席に着いた。片手にはベーグル、もう片方にはカフェのカップを持っている。カップを持つ手には社員証も握られていた。正気が合図を送ると、バッグを持った明日香が走っていく。正気と蓮も急いで後を追う。

 作戦決行である。

 明日香がバッグを抱えて男性社員のそばを走り抜ける。正気が息切れした振りをしながら後を追って、ターゲットのそばで膝に手を突く。

「大丈夫ですか?」

 中年社員にそう声を掛けられて、正気は思わずニヤリとしてしまったが、背中を丸めていたので幸いにも見られることはなかった。遠ざかっていく明日香の背中を指さす。

「ひったくりです。捕まえて下さい」

「えっ?」

 タイミングよく蓮がやって来る。

「僕が荷物見てますよ」

 成功の条件は揃った。社員は言う。

「すみません、私、膝に爆弾抱えてるもんで、走れないんです」

 膝をさする社員を前に、正気は頭が真っ白になってしまった。蓮は諦めて、正気の背中を叩いた。

「一緒に追いかけましょう」

 二人は明日香を追ってそそくさとその場を立ち去った。

「ちょっと、どういうこと?」

 二〇〇メートルほど離れた公園で明日香は不満げな声を上げた。正気が息を荒くする。

「爆弾に……膝を抱えてやがった」

「逆です。膝に爆弾」

 蓮が訂正すると、明日香は溜息をついた。

「まあ、いいわ。もう一回チャレンジしよう」

「いや、やめた方がいい」

 現場に向かおうとする二人を蓮が呼び止める。

「なんでよ?」

「さっき気づいたけど、あのカフェにあった防犯カメラがガッツリ広場を捉えてた。社員証を取ってたら証拠が残って、とんでもないことになってたよ」

 明日香と正気は愕然とした表情で立ち尽くしてしまった。正気が無念そうに額の汗を拭う。運動不足のせいで顔から血の気が失せている。

「三本の矢は折れなかったんじゃないのか……」

「今回に関しては、一本ずつ折れてましたけどね」

「おのれ、毛利元就めぇ……」

「毛利元就は少しも悪くないでしょ。もうこの作戦は中止だよ、パパ」

 太鼓判本社ビルの牙城を崩せないまま、三人は負け帰ることになった。正気は諦めきれないらしく、一旦、ここから近い和谷家に戻って、作戦会議を練り直そうと考えたようだった。

 和谷家に戻ると、七海が明るい表情で出迎えてくれた。

「あすちゃん、希望が見えてきた!」

「どうしたの、ママ?」

 七海は興奮気味に三人をリビングに招き入れると、一冊のパンフレットを掲げた。表紙には「光星学園」とある。

「通信制の高校で、来週いっぱいまで転入できるって」

 明日香は目を丸くした。

「卒業資格取れるのかな?」

「あすちゃんの状況なら大丈夫そうだって」

「ママ、最高!」

 明日香は七海の胸に飛び込んだ。

「ママ、でかしたぞ!」

 抱き合う二人の背中を正気がバシバシと叩く。

「パパ……思いのほか痛いんだけど」

 喜び合う三人を眺めて、蓮は笑みをこぼした。明日香の心配事がひとつ減っただけでも、それは大きなことだ。正気は作戦の続行のことなど忘れて、お祝いのために出前を取ろうとした。蓮は恭しく同席を辞退して、帰路についた。


 十一月十六日、光星学園への転入手続きを終えた明日香の姿が江口家のリビングにあった。今回は梓の姿もある。テーブルを囲んで、蓮と明日香と正気が梓の言葉に耳を傾ける。

「こうなれば、最後の手段です」梓が持ち出してきた作戦は単純明快だった。「琴平フィルの友人と言って、善印賞の事務局に話を聞きましょう」

「そんな作戦うまくいかないでしょ」

 口を尖らせる明日香を梓が指さす。

「まず、明日香が太鼓判に電話を掛ける」

「私が?」

「琴平フィルの友人だということと、一連の騒動の説明をしてほしいと伝えるんだ。先方はそう簡単に無碍に扱うことはしないだろう」

「私、琴平フィルのこと何も知らないんだけど」

「安心しろ。こっちは説明を受ける側で、説明をする側じゃない。強気にいけ」

 梓が明日香に電話を掛けるように促す。

「あんたは口だけだから簡単だろうけどさ……。絶対うまくいかないよ。アイス賭けてもいい」

 明日香は三人に見守られながら……というより、監視されながら、太鼓判へ電話をかけた。明日香はすぐにスマホをスピーカー設定に変える。

『株式会社太鼓判です。どん、どん』

 初めてこの会社に電話をかけた明日香たちは突然のことにびっくりしてしまったが、この電話応対は一部で話題になっているのだ。なんでも、善養寺真が考案したらしい。

「あの、お聞きしたいことがあって電話したんですけど……。どん、どん」

「なんで明日香がどんどん言うんだよ」

 明日香の隣で蓮が顔をしかめる。

『どのようなご用件でしょうか?』

「私、琴平フィルの友人なんですが、彼女がどうしてああいうことになってしまったのか、説明をしてほしくて」

『少々お待ち下さい』

 少し慌てたような様子で電話が保留にされる。梓が小さくうなずく。

「予想通り、向こうは門前払いをするわけにはいかないみたいだな」

 自信を滲ませる梓とは対照的に、明日香は眉尻を下げて不安いっぱいだ。

「どうしよう……うまくやれる自信がない」

「パパが見守ってるから大丈夫だぞ」

「パパがついてると余計不安」

「どういうことだ、明日香?」

『どん、どん。お電話変わりました、編集部第一グループの沢木と申します』

 正気が大袈裟に驚いてみせる。

「俺を落とした奴だ」

 蓮と梓が口元に人差し指を押しつけて正気を黙らせる。

「私、琴平フィルの友人なんですが、今回の件のことで何が起こったのか説明してもらいたくて電話しました」

『ええと、琴平さんのご友人……お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか』

 明日香は三人に目で助けを求めた。正気がフロアディレクターのように手元のノートに走り書きをして、明日香に見せた。

〝ここでボケて!〟

 蓮が躊躇いなく正気の頭を引っ叩いてノートを弾き飛ばした。蓮は焦って、リビングの隅にある本棚を指さした。そこにある著者の名前を拾って考えろというわけだ。明日香は本棚に並んだ著者名から咄嗟に、

「〝江戸川コナン〟です」

 と名乗ってしまった。

『え? 江戸川コナン?』

「あ、違います。淀川コナンです」

『淀川さんですね』

「そうです、よくアニメのキャラに間違えられて困ってるんです」

『失礼しました。それで、淀川さん、琴平さんとは具体的にどのようなご関係ですか? 学校のご友人ですか?』

「まあ、そうです」

『琴平さんのご家族とは今回の件について何かお話はされましたか?』

 梓がうなずく。肯定しろということだ。明日香は了承した。

「はい」

『どのようにお聞きになっていますか?』

「まあ、その……、とても悲しんでいらっしゃいました」

 梓が蓮の耳元で言う。

「向こうはかなり警戒してるな」

「仕方ないよ」

 梓は蓮が弾き飛ばしたノートを拾い上げて文字を書くと、明日香に向けた。

〝電話での会話は早めに切り上げて直接会う約束を取りつけて〟

『琴平さんが亡くなった状況について、お聞きになっていないですか?』

 蓮は眉間に皺を寄せた。隣の梓に言う。

「やけに質問してくるな」

 梓は明日香に向けて首を振った。〝答えずにアポを取れ〟。

「あの、電話で話を進められると、ちょっとアレなんですけど」

 明日香が攻勢をかける。

『失礼しました。対面でのお話をご希望ですか?』

「当たり前です」

『かしこまりました。それでは、ご都合のよろしい日取りを教えていただけますか?』

 明日香は素早く三人を見る。十一月十九日の土曜日……三人は手振りでそう伝えた。

「今週の土曜日で」

『十九日ですね。お時間は?』

 三人は、どうぞどうぞと両手を前に出す。

「じゃあ、十一時で」

『午前十一時ですね。確認してまいりますので、少々お待ち下さい』

 保留音。明日香は盛大に息を吐き出して、ソファにもたれかかった。

「明日香、土曜日は俺も一緒に行くよ」

「マジで? それはスーパー助かる」

「パパも行くぞ」

「ええ……」

 露骨に嫌な顔をする明日香に沢木の声が降りかかる。

『お待たせいたしました。そのお時間で大丈夫ですので、当日お越し下さい。弊社の場所はご存じですか?』

「分かってます」

『当日は、ビルの一階の受付でアポがある旨をお伝え下さい。お迎えに上がりますので』

「他に友人を連れて行ってもいいですか?」

『……何名ですか?』

 明日香がチラリと見ると、正気が猛アピールしていた。繁殖期の鳥よりアグレッシブだ。

「……私の他に二人で」

『かしこまりました。それでは、当日お待ちしておりますので』

「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」

 明日香は淀川の名に恥じぬ往年のあいさつで通話を締めくくった。映画を一本観た後のような達成感に包まれた三人は、誰からともなく暖かな拍手を送った。

「当日は俺も電話を繋いで情報を共有したりできるようにしておくよ」

 梓はそう言って、準備を始めるためか帰り支度を始めた。

「じゃあ、土曜日の朝十時にここで待ち合わせだ」

 蓮がそう言うと、みんなはうなずいた。


 土曜日、江口家に集まった三人に梓から小さな筒状のアイテムが渡された。

「これは?」

「ブルートゥースイヤホン。耳栓よりも小さいから付けていてもバレない。ただし、充電は三時間くらいしか持たないから、本社ビルに入る直前で付けてくれ」

 三人はそれぞれのスマホとイヤホンの接続設定を行った。梓は言う。

「ここ数日で調べてみたけど、琴平フィルの情報は圧倒的に少ない。核心を突かれるような質問をされたら適当にごまかすしかない」

「大丈夫かなぁ……」

 明日香は緊張で胃がキリキリと痛むのを感じていた。

「それにしても」沢木の質問攻めの件が蓮の中にはずっと引っ掛かっていたらしい。「向こうの警戒心の強さはちょっと気をつけておかないといけないな」

「もしバレたらどうするの?」

 明日香の心配げな声。梓は少し考えて、言った。

「バレそうになったら、琴平フィルの友人なのに攻められるようなことを言われたとネットに書くとでも言えば、とりあえずは凌げると思う。怒った振りをして帰れば、何とかなるはず」

 正気が自分の胸をドンと叩く。

「いざという時は俺がいるから大丈夫だ」

 蓮と明日香はたっぷりと時間をかけて、苦々しい顔をしながら、

「はい」

 とだけ答えておいた。

 十一時十分前に三人はビルの前に到着した。揃ってイヤホンを耳につける。梓が作ったラインのグループを使って四人の通話を開始する。

『聞こえる?』

 梓の声に三人はしっかりと応答した。そのままエントランスに入り、受付に淀川コナンの名前を伝えると、そばの待合スペースに通される。

「大企業だな」

 蓮が周囲を見回す。

『十五年前の映画が大ヒットして、そのビルを建てられるくらいの利益を得たらしい』

「なんてタイトル?」

『「オポジット・シティ」……SFらしい』

「名前は聞いたことあるかも」

 高校生にとっては物心つくかつかないかの時期の作品だ。正気は言う。

「当時、大ヒットしたんだぞ。『攻殻機動隊』とか『ブレードランナー』の流れを汲むとか言われて。海外でも上映されたが、そっちはコケたらしい」

 待合室に沢木が現れた。

「どうぞこちらへ」

 沢木の先導でエレベーターに乗り、一同は八階へ。三人のイヤホンに梓の声がする。

『その沢木って人は、作家のツイートを総合すると、善印賞のツイッターアカウントを運用しているらしい』

「広報じゃないのか」

 正気がボソリと口を開くと、明日香がすかさず脛に蹴りを入れる。

「なにか?」

 沢木が振り返るが、明日香たちは取り繕った笑みでごまかした。

『確かに、普通は広報がツイッターを更新すると思うけど、善印賞はその編集さんがやってるらしい』

 エレベーターが八階に到着すると、以前正気がやって来たのと同じルートで編集部の頑丈なドアの向こうに通された。沢木の後について、例のガラス部屋の方へ歩いていると、スーツを着た二人組の男たちが足早にやって来た。

「あ、困ります!」

 沢木が二人を制止しようとしたが、無駄だった。二人組の片方が警察手帳を掲げた。

「霜田警察署刑事課の星上です」

「ホシ挙げる?」

 正気の言葉を無視して、星は隣の男を親指で示す。南米の血が混じったような風貌だ。

「こっちは左衛門三郎ニコラス」

 左衛門三郎は頭を下げた。

「ニコラス刑事です」

「ニコラス・ケイジ……?」

 珍しい苗字そっちのけで、あの俳優のことを思い浮かべてしまう正気だが、あまりにも存在感の強いこの二人はふざけているようには見えない。星は語気強く尋ねる。

「琴平フィルさんのご友人だと聞いてますが」

 明日香が沢木を見る。

「すみません。今日、皆さんが来ることをこちらのお二人には伝えさせていただきました」

「なんで警察がここに……」

 明日香の疑問に答えたのは、刑事ではなく、イヤホンの向こうの梓だった。

『逓信新聞によると、一か月前の太鼓判への不正アクセスの件で警察が捜査を行ってるらしい。まだ会社で何か調べてるんだろう。霜田区の警察は無能だからな』

「ん?」

 星の眼が光る。目を細めて、右手を明日香の左耳に伸ばす。この一瞬でイヤホンをつけていることがバレたのかと三人がひやひやしていると、星が明日香の耳の後ろから一輪の薔薇の造花を出現させた。

「最近、手品にハマってるんだ」

「え、なんでこのタイミングで?」

「手品の真髄は驚きの裏に隠されているのだ」

 刑事なのかマジシャンなのか分からない口振りに、明日香は「はあ……」としか返せなかった。今度は、星は刑事のような目つきに変わった。忙しい男である。

「琴平フィルさんが亡くなったことはご存じだね?」

「そりゃあ、もちろん」

「ちょっと詳しく聞かせてもらいたいんだが、亡くなったのを知ったのはいつ?」

 明日香は答えに窮した。蓮がすかさず割って入る。

「亡くなってすぐです。なんせ、友人ですから」

「なるほど。じゃあ──」

 沢木が申し訳なさそうに口を挟む。

「申し訳ありませんが、こちらもスケジュールがありますので」

「そうですか……」

 一同が歩き始めると、すぐに星が手を挙げた。

「あ、ちょっと、もうひとつだけ……」

 明日香が恐る恐る振り返ると、星はニコリと笑った。

「こうやって一回引き留めるやつやってみたかったんだよ」

 そう言って二人は去って行った。相手を油断させておいて核心に迫ると思いきや、油断させたままという、おそらくは霜田警察式の捜査手法なのだろう。どういう意味があるのかは不明だ。

 一同はようやく曇りガラスの小部屋に通された。沢木はドアを閉めて、頭を下げた。

「さきほどはすみませんでした。十分ほど前に警察の方がお見えになったので……」

『早速、善印賞の選考状況を知っていた人間を聞き出そう』

 イヤホンから梓の声がして、明日香は意を決して口を開こうとしたが、沢木は蓮と正気に目を向けた。

「こちらは?」

「ええと」明日香は出鼻を挫かれた形となった。「友人です。電話で言いましたよね」

 沢木は自己紹介をして、二人へ目を向けた。蓮は慌てて頭を下げた。

「僕は……、最上川……早です」

「もがみがわはやしさん? 風流なお名前ですね」

 沢木の目が正気に向けられる。見るからに目を泳がせた正気が緊張の面持ちで応える。

「私の名前は……、ええと……、古畑……、古畑……正和です」

 もはや一人の俳優の顔しか思い浮かばない名前だが、沢木は気づかないようだ。

「古畑さんも琴平さんのご友人なんですよね? 具体的にどういった……?」

『適当にごまかして下さい。余計なことは言わないで下さいよ』

 梓が釘を刺す。

「琴平さんとは……、ええと、飲み仲間です」

「飲み仲間? 琴平さんは高校生ですよね?」

「ええと……、ラムネ飲み仲間です」

「またニッチなお仲間なんですね……」

「そうなんです。ラムネを開けるあの瞬間が二人とも好きでしてね」

 なぜか興が乗り始めた正気の耳に梓の声が届く。

『余計なこと言わなくていいって言ってるでしょ』

 しかし、正気は止まらない。霜田の暴走機関車といえば、和谷正気である。

「琴平さんとは、どっちが早くラムネを飲み切れるのかという競争をよくやっていました」

『そんな渡辺正行みたいなエピソード要らないんですよ』

 沢木は引きつった笑顔で会話を切り上げた。こればかりは蓮も明日香も、心の中で沢木への感謝を唱え続けた。

「それで、琴平さんのことなんですが……」

 話し始めた沢木だったが、すぐに表情を曇らせた。彼女は居住まいを正して声を低めた。

「亡くなられる前までは、弊社に数度いらっしゃって、受賞作の出版までのスケジュールなど、諸々を説明させていただいていたんです。あのことが起こるまで、そういうことが起こるとは夢にも思わず、どうしていいか分からなくなってしまったのを覚えています」

 要領を得ない話に、明日香はメスを入れていく。

「彼女が亡くなったのは、ネット上での誹謗中傷が原因なんでしょうか?」

 しかし、今度は沢木が首を傾げる番だった。

「ご家族からお話をお聞きになったんですよね。ご家族もそのように認識されていたと思いますが……」

『善印賞の選考員からのパワハラがあったんじゃないかと言え』

 梓のサポートで蓮が口を開く。

「善印賞の選考は毎回かなり辛辣ですよね。あの選考員の人たちがパワハラをしていたっていう可能性はないですか?」

「そんなまさか!」沢木は手を大きく振って否定した。「そんなことはありません」

「でも、おかしくないですか? 善印賞の発表は十月一日。剥がし屋が琴平さんの剥がしツイートをしたのも同じ日……。剥がし屋はまだ十八歳。とてもじゃないですけど、善印賞の選考状況を知れる立場にはいないように思うんですけど」

 明日香がまくし立てると、沢木は頭の中を整理するように手振りを加えながら言葉を途切れ途切れに発していく。

「ええと……、つまり、おっしゃりたいのは……、弊社の情報が流れているかもしれないということですか?」

「そう考えないと辻褄が合わないですよね」

 沢木は透視するように壁の向こうに視線を向けた。

「弊社に不正アクセスがあった件は、さっき刑事さんからお聞きになったと思いますが、社外の人間が……ということかもしれません」

『外部犯だと主張したいわけか』

 蓮は告発者への道をこじ開けるかのように身を乗り出した。

「外部の人間が善印賞の情報を事前に手に入れたとして、どうしてその情報は剥がし屋に渡して、琴平さんが亡くなったことは善印賞のウェブサイトに載せたんでしょうか。行動がチグハグじゃないですか?」

イヤホンの中で梓が言う。

『その論理だと、俺が琴平フィルのことを剥がしたんだから、その自殺をツイートするのはおかしいだろ。告発者は……』

 梓はそこまで喋って、告発者の意図を改めて確認したようだった。

『告発者は最初から俺を陥れようとしていたのか』

 蓮は言葉を続ける。

「剥がし屋であれば、琴平さんの死はあなた方が原因だと主張することもできた。外部の不正アクセス犯が剥がし屋とウェブサイトに情報を分散させるのは単純にリスクを伴うことですよね。外部犯であれば、そういうリスクは避けるはずです」

「剥がし屋の正体が明かされてしまったからでは? 本来は剥がし屋に渡すはずだった情報を、仕方なく弊社のサイトに載せたということも考えられます」

「それはおかしい。琴平さんが亡くなったという情報がウェブサイトに載ったのは十月十八日。告発者が剥がし屋の正体を暴いたのは、十月二十九日。時系列が合わない」

 沢木は二の句が継げなくなってしまった。明日香が畳みかける。

「沢木さんが外部犯のせいにしようとしていることは理解できます。この会社に関わっている人を守らないといけないと思っているからでしょう。でも、内部に良くない考えを持っている人がいないとは限らないですよね」

 今まで黙っていた正気がここぞとばかりにしゃしゃり出てくる。

「いい加減、善印賞の選考状況を知っていた人間について教えてもらおうか」

 沢木はじっと考え込んだ。しばらくして、彼女は言った。

「選考状況を知っていた人は限られています。編集部第一グループと善養寺さんを含む選考委員の先生方です」

 梓の声が補足する。

『逓信新聞の記事によれば、選考員は弓削篤、ぶーどぅー・ぱぷわ、是高伊乃世、来栖ねおの四人だ』

 沢木は困惑の表情を浮かべる。

「正直、私たちもどうすべきか分からず……、警察から琴平さんが亡くなったという説明を受けて、ご遺族とご挨拶をさせていただいてから、今日まで本当に何も分からないままで……」

『琴平フィルの遺族は太鼓判を訴訟するつもりらしい』

 梓の情報を耳に入れて、正気が探りを入れた。

「琴平さんのご家族から訴訟されるとお聞きしましたが」

「すみません、その件についてはお話することができないので……」

 善印賞の選考状況を知る人物の範囲を絞ることはできたものの、停滞感が漂い始めた。明日香はこの空気を払拭するように、沢木に言った。

「善印賞の事務局を見学させていただきたいんですが」

 沢木は戸惑いながらも了承した。

「今日は土曜なので、社員もあまりいませんし、どうぞ」

 一同は部屋を出てフロアの方へ向かっていった。天井から「第一グループ」というプレートがぶら下がったあたりまでやって来る。

「しかし、広いフロアですね」

 正気が言いながら辺りを見渡す。人が少ないせいで、より広さが際立っている。

「ここ二年はリモートワークも増えていて、ただパソコンが並んでいるだけの島もあります。社員は自宅からここにあるパソコンにリモート接続するんです」

『つまり、接続するパソコンの情報が分かっていれば、外部からパソコンを動かすことができる。善印賞のウェブサイトを更新しているパソコンを見れないか?』

 明日香は沢木に、件のパソコンの場所を訪ねた。沢木が指さす方に、あの二人組の刑事がいた。

「また会いましたな」星が手を挙げる。「このパソコンに何か用でも?」

 パソコンの前にニコラス刑事が座っている。画面を見ると、なんとソリティアをやっているではないか。

「このパソコンはもう警察で調べたんですか?」

 明日香が尋ねると、星は訝しげに目を細めた。

「パソコンのデータはすべて我々の方でコピーを取らせてもらいましたよ」

 ニコラス刑事がニコリとした。ゲームをクリアしたらしい。明日香は疑い深い目を向けた。

「……いまさらここで何を調べてるんですか?」

 星はムッとした様子だ。

「失敬な。君は最近ではソーシャル・ハッキングという手法が用いられていることを知らないのか?」

 明日香は記憶の糸を手繰り寄せる。

「ニュースで言ってるのを観ました」

「俺たちもアレで勉強したんですよ。ねえ、星さん?」

 ニコラス刑事が少年のような眼差しを向ける。

「バカ野郎。俺は初めから知ってたっつーの。ニュースを観て、そういえばそういう考えもあるなと思っただけだ。初めから知ってたっつーの!」

 物は言いようである。明日香の冷たい声がする。

「で、それでなんでここにいるんですか?」

「ソーシャル・ハッキングでは、物理的なアプローチでハッキングに必要な情報を集める。ここにもそういうアクセスに必要な情報がなかったか確認しているだけだ」

「見つかったんですか?」

「なんで君に教えなきゃならんのだ」

 明日香は鼻で笑った。

「ああ、見つけられなかったんですね。霜田警察ですもんね」

 ニコラス刑事が小鼻を膨らませる。

「見つけられなかったんじゃなくて、ないことが分かったんです! アクセスに必要な情報はパソコンの中にしかなかったんです」

 イヤホンの中で梓が笑う。

『明日香、君、頭良いな』

 蓮もこの流れに乗る。

「でも、IPアドレスを辿れば、どこからアクセスされたかなんて簡単に分かりますよね。僕でも誰が犯人か突き止められますよ」

 ニコラス刑事が不服そうに立ち上がった。背がデカい。

「あのですね……!」

「やめろ」

 星がニコラス刑事を制止する。イヤホンから梓の残念そうな声がする。

『さすがに情報をポロポロ言うわけないか──』

「俺たち警察を舐めちゃいけないぜ、君。IPアドレスによれば、セーシェル諸島からのアクセスだということが分かっている。犯人は海外のハッカーグループに違いない」

『こいつら何でも話しそうだな。とりあえず、IPアドレスはスプーフィングといって偽装することができる。その情報はあまり参考にはならないだろうな』

 正気がニヤニヤしながら星の前に歩み出る。

「でも、容疑者は絞れていないんでしょうね」

 星はじっと正気を見つめる。

「なんであんたに容疑者のことまで教えなきゃいけないんだ」

 沈黙が訪れる。

「あ、すみませんでした」

 波に乗り損ねた正気は惨めに頭を下げるのだった。蓮は沢木に尋ねる。

「このパソコンを使えるのは誰ですか?」

「第一グループの者なら誰でも」

「選考員の人は?」

 沢木は顔をしかめたが、首を振った。

「選考員の先生方はここで作業することはありません」

 星が文句を言いたげに口を開こうとすると、遠くの方から大きな声が聞こえた。

「この賞はお前のものじゃないんだ! 勝手なことをするな!」

 見ると、和装の善養寺真が一人の女性を怒鳴りつけている。

「あ、来栖ねお」

 明日香が呟く。蓮が問いかけた。

「知ってるの?」

「最近よくテレビに出てるよ」

『善印賞の選考員だけど、さっきのパソコンの件からすると、彼女は容疑者から外れる。でも、話を聞きたいところだな』

 向こうの方では、来栖が食い下がっていた。

「ですが、正直、善印賞のイメージは良いとは言えません。私はそういうイメージを払拭できるんじゃないかという思いで──」

「お前の思いなんかどうでもいいんだ! お前ごときが生意気な口を利くんじゃない! 俺に口出しをする権利なんてお前にはないんだよ! お前が勝手に舵を取るな!」

 長渕剛と正反対のことを言い放つと、来栖をその場に置いて、善養寺真がこちらの方へやって来た。

「沢木、あいつはダメだ! 俺の賞を汚そうとしてる!」

「はい」

 沢木は従順にうなずいた。

「次からあいつは外せよ」

 沢木は何かを言いたそうにしたが、深くうなずいた。

「……検討させていただきます」

「なんなんだ、貴様らは」

 善養寺真の血走った目が蓮たちを撫で斬りにする。沢木が弁解めいた口調で説明をする。

「この方々は、琴平フィルさんの件で──」

「そんなつまらんことで外部の人間を中に入れるな。今がどういう状況か分かってないのか?」

「失礼しました……」

 沢木が頭を下げると、明日香は苛立ちを隠すことなく善養寺真に食らいついた。

「つまんないことって、どういうことですか」

「あれからウチの評判はガタ落ちだ。バカどもが騒ぎ散らしたせいでな」

「人が亡くなってるんですよ」

「なんなんだ、貴様は? こっちは社員一二〇〇人の生活を支えてんだ。貴様のような小娘に何が分かる」

「だからってねえ……!」

 蓮の制止も振りほどいて詰め寄る明日香に、善養寺真は目を凝らした。

「ん? お前、どこかで見たことあるな」

 明日香は慌てて後ずさった。

「いや、気のせいだと思いますよぉ~」

 善養寺真は鼻で笑った。

「まあ、いい。沢木、早めに帰ってもらえ。それから、二時間は俺の部屋に電話を回すなよ」

「かしこまりました」

 善養寺真は満足そうにうなずいてフロアを出て行った。

「あの爺さん、いつ見ても元気だな」

 星が皮肉った笑いを漏らす。沢木はお詫びを口にしたが、やんわりと明日香たちを送り出そうとし始めた。

『これ以上、何かを聞き出そうとするとマズいな。ひとまず従うしかない』

 一同は棒立ちになったままの来栖のそばを申し訳なさそうに通り抜けて、エレベータホールまでやって来た。

「本日はご足労いただきましてありがとうございました」

 頭を下げる沢木の姿がエレベーターの扉で見えなくなると、三人は緊張を解き放つかのように溜息をついた。

『結局、告発者を特定できる情報は得られなかったな』

「そもそも、本当に告発者が不正アクセスをしたのかっていう疑問は残ったままだけどね」

 明日香が元も子もないことを言う。

『疑うなら、対案を出せよ』

「はあ? いちいち突っかかって来ないでよ!」

「二人とも、喧嘩はやめろ」

 正気がオシャレなボトルのキャップを捻った。

「パパ、いつの間にそれ持って来たの?」

「隙を見て盗んできた」

 サラッと犯罪を告白した。正気はゴクリと喉を鳴らして、悲しそうな顔をした。

「においのついただけの水じゃねえか」

 ビルのエントランスから外に出た三人に追いすがる声があった。振り向くと、来栖が駆け寄ってきた。

「すみません、引き留めちゃって……。さっき上でちょっと話が聞こえてしまったもので」

「どうかしたんですか?」

 来栖が真剣な眼差しで言う。

「琴平さんのことでお聞きしたいことが」


『来栖ねおは三年前から善印賞の選考員を務めている。〝今最も勢いのある女性作家〟のランキングで一位に選出され、出した本は軒並みベストセラーだ。メディアへの出演も多い。七年前に善印賞の三次選考まで進んだ実績もあるらしい』

 来栖と腰を据えて話をするために、太鼓判本社ビルに隣接したカフェに向かう一同の耳に梓から情報がもたらされる。

 暖かいカフェの店内に入り、四人はそれぞれ注文を終えると、奥まったボックス席に陣取る。

『来栖は、六年前に別の新人文学賞で大賞を受賞した。それがその年の本屋大賞にノミネートされて一気に知名度が上がっていった。一説によれば、善養寺真が彼女の人気にあやかろうとして、善印賞の選考員に引き抜いたらしい。今じゃ、ぶーどぅー・ぱぷわとクリエイター・サロンという名の創作講座をオンラインでやっているらしい』

少しして、飲み物が運ばれてくると、それが合図になって来栖が口を開いた。

「皆さんは琴平さんのご友人だとか」

「そうです」

「あの子からそういう話を聞いたことがなかったので、ちょっと驚いてしまって……」

『なんか、琴平フィルと親しかったような口振りだな』

 梓が指摘すると、明日香が尋ねる。

「琴平さんと親しかったんですか?」

「親しかったというか、選考員を務めたので、受賞後に会社でお会いしたんです。作品からも優しさが滲み出るような子ですし、目の前のことに真面目に取り組む素直な子なんです。受賞後には色々な仕事があるんですが、彼女はいつも率先して編集部で何か作業していましたしね。そういう子が自分で死を選んでしまったことが残念でなりません」

「そうだったんですか……」

 来栖は琴平フィルの姿を思い出すように遠くを見るような目をした。

「あの子は、みんなの前ではどういう人だったんですか?」

 明日香と蓮は密かに目配せをし合った。蓮は言う。

「やっぱり、来栖さんが言うように、優しい奴でしたよ」見え透いたようなウソである。「いつも自分より誰かのことを先に考えるような……そんなアレでしたよ」

 真っ赤なウソと知らず、来栖はうんうんとうなずいた。

「あの子を見ていると、なんだか妹を思い出してしまって……だから、こんなにずっと気がかりなんだと思います」

 イヤホンの向こうで梓が調べ物をしているようだ。

『来栖ねおには、実家のある山口に妹がいるらしい。たぶん、俺たちと同世代だな。離れて暮らしているから、余計に妹のことを思い出したんだろう』

「へえ、山口出身なんですか」

 正気が口を滑らす。来栖が目を丸くした。

「どうしてそれを? っていうか、その話まったくしてませんでしたよね」

 テーブルの下で正気の脛を蹴り飛ばした明日香は、何気ない顔でカフェオレに口をつけた。正気は悪びれる様子もなく言う。

「ああ、すみません。たまに、天の声が聞こえるんですよ」

「……私の出身地が聞こえたんですか?」

「そうです」

 正気の真っ直ぐな瞳は、見方によれば狂気的でもある。

「そんなピンポイントな……」

「何を隠そう、私も山口出身でしてね。きっと玄界灘の潮風がインスピレーションをもたらしたんでしょうな」

『そんなわけないだろ』

 梓の辛辣なツッコミ。来栖は笑った。

「私は下松市なので、どちらかといえば瀬戸内ですね」

「下松市ですか。下松には、父の従兄弟が通っていた空手教室の先生の友達がやってる食堂がありましてね、そこに庵野秀明がよく来てたらしいですよ」

 本当なのかウソなのか分からない話だったが、来栖は目を輝かせた。

「そうなんですね! 庵野監督は山口のスターですもんね。彼の映画は全部観てますよ」

 唐突に正気が明日香を指さす。

「こいつの名前もね、明日香っていう名前は、宇部市にあるあすとぴあっていう街があるでしょ。アレが珍しくて覚えていて、名前にしようと思ってたんですよ」

「え、そういう由来?」

 訳の分からないタイミングでの暴露に、明日香は困惑するしかなかった。

「お前があすとぴあの支配者になれるようにと願って付けたんだぞ」

「なに勝手にあすとぴあの未来委ねてんのよ。というか、どういう願いなのよ、それ」

 蓮が口を挟んで無理矢理軌道修正する。

「とにかく、僕たちもあまりにも突然のことで、未だに何が起こったのか分からない状態で……。彼女が亡くなった理由に善印賞が絡んでいるんじゃないかと思って、今日はここまでやって来たんです」

「そうだったんですね。あの子のご友人だから、何かお話が聞けると思っていたんですが、皆さんにも相談していなかったということですね……」

「すみません、お力になれず……」

 明日香が申し訳なさそうに伝えると、来栖は微笑んだ。

「いえ、私の方こそ、急に声を掛けてしまってすみませんでした」

 場はお開きとなったが、来栖は何か相談したいことがあった時にと、三人とラインの交換をした。立ち去る来栖の背中を見つめながら、明日香は呟いた。

「有名人とライン交換しちゃったよ……」


 江口家に戻ってきた一同は、疲労感に見合わない成果にやや意気消沈という感じだ。

「結局これって進展してるの?」

 イヤホンを梓に返しながら、明日香はぶつくさと言っている。蓮は苦笑いした。

「進展したと思おう」

「なんとかなるさ」

 そういう正気を、明日香は睨みつける。

「っていうか、パパさ、何回もバレそうになってたでしょ」

「そうだったか?」

「……もういいよ」

 梓は咳払いする。

「気を取り直して、次の方策を考えないとな」

 とは言うものの、四人が向かうテーブルの上には新しいアイディアが躍り出ることはなかった。蓮は頭の中を整理するように指さし確認していった。

「太鼓判本社には、もう入ることはできないだろうな。あそこじゃ、俺たちは邪魔者扱いだ。来栖さんも何かを知っている風ではなかった。あとは、警察が真相を突き止めてくれるのに期待するくらいしか……」

 諦めの裏返しみたいな蓮の言葉に、一同は空虚な視線を交わした。告発者を突き止めることはできないのかもしれない……そんな失望感が漂い始めた頃、梓のスマホが鳴った。電話を受けた梓が小さい声で短いやり取りをする。すぐに電話を切って、梓は慌てて荷物をまとめた。

「どうしたの?」

「分からない。とりあえず、帰る!」

「ちょっと……!」

 三人の心配を振りほどくようにして梓は出て行った。しばらくして、明日香が口を開いた。

「それじゃあ、この辺で私たちも帰ろうかな」

 夕方が迫っていた。明日香と正気が立ち上がって、玄関に向かう。

「一週間後には推薦入試でしょ?」

 明日香にそう言われて、蓮は一気に現実に引き戻された。

「そうなんだよ。心の準備しとかないと」

「頑張って」

「そっちこそ。新しい学校決まったんだろ」

「まあね。でも、通信制だから、今までよりはちょっと時間に余裕ができるかも」

「少しずつ自分のペースでな」

 蓮は明日香を労わるつもりだったが、彼女は首を横に振った。

「今はとにかく頑張らないといけない時期だから」

「そうか。……それもそうだね」

 別れの挨拶を交わし、明日香と正気は玄関の外に消えた。

 キッチンに向かうと、千夏が夕食の準備に取り掛かっていた。ダイニングテーブルについて、蓮はしみじみと口を開いた。

「この一か月くらいで一年分の出来事が起こったみたいだよ」

「楽しそうにしてたわよ、蓮」

「そうかな?」

「人生を謳歌してるってことよ」

「そういえば、整体院の方はどんな状況?」

 千夏は笑顔になった。

「お客さんもチラホラ戻り始めてね、お父さんが暇がなくなったって嘆いてた」

「道理で庭でゴルフの素振りしなくなったわけだ」

「蓮も勉強しないといけないんじゃない?」

「嫌なこと思い出させるなよ」

「ほら、行った行った。今日は唐揚げにするわよ」

 キッチンを追い出されるようにして、蓮は自室へと戻った。ベッドに横になって天井を見つめる。疲労感の奥底にはまだモヤモヤとした不燃感がある。読者諸君もお気づきだろうが、事件は何も解決していない。人生というのはそういうものなのかもしれないが、物語としては消化不良であることは否めない。

 スマホが鳴る。梓からラインのメッセージだ。

『ウチに警察が来てる』

『俺が不正アクセスの犯人だと言ってる』

 蓮は起き上がった。反射的に机の上の自転車の鍵を掴んで、部屋を飛び出していた。

 自転車のペダルを漕いで、夕闇が迫る街を疾走する。上着は何も羽織ってこなかった。夜が運んでくる冷気が風となって蓮を苛める。

 十五分ほど全力で自転車を漕いで、蓮は梓の家の前までやって来た。警察の車が数台停まっている。周囲には野次馬の姿もある。蓮は自転車を放り出して、門のそばまでやって来た。

「何かの間違いじゃないでしょうか……!」

 花音の声がして、門が開く。警察官が梓を連れて出てきた。梓の目が蓮に向けられる。

「蓮、信じてくれ! 絶対に俺じゃないんだ!」

 梓はそのまま警察の車両に乗り込む。野次馬の中から写真を撮る音がする。車は蓮と花音を残して走り去っていく。

「何があったんですか?」

 花音は震えていた。

「匿名のタレコミがあったって……、あの子が不正アクセスをしたんだって……。あの子の部屋にあるパソコンを調べてたわ」

 蓮は家の中に向かう彼女についていく。

「梓は逮捕されたんですか?」

「任意同行みたい。あの子、無実だっていうことを説明すると言って、行ってしまった。私も今から警察に向かうわ」

「じゃあ、僕も……」

 花音は振り返った。

「ありがたいけど、私だけで十分よ。夫も警察に向かってくれてるし」

「いや、でも……」

 蓮はそれ以上言うことができなかった。急いで家を飛び出す花音を、蓮は見送ることしかできなかった。さっきまでいた野次馬はどこかへ消えていた。無力感に包まれて自転車を起こす蓮は、スマホに梓からのメッセージがもうひとつ着信していたことに気づいた。一個の音声データが送られてきていた。すぐにそれを再生してみる。

『──……ですよ。君のハードディスクのデータから分かってるんだよ』

 聞いたことのない声。警察のものだろう。

『だから、あのデスクトップは最近は使ってないんだって……!』

『だが、現に、IPアドレスを偽装するVPNサービスに接続した痕跡が残ってる』

『知らないんだって、そんなこと……』

『君はパソコンのスキルを利用して剥がし屋をやっていた。その技術で不正アクセスを行ったんだ』

『違う……! 俺は……──』

 音声はここで終わっていた。

 救いを求める声のように蓮には思えた。一緒に告発者を探し出そうとした仲間として、梓は自分のことを信じてくれたのかもしれない……そう思えるだけに、蓮は自分の無力さが腹立たしかった。

 スマホをポケットの中に突っ込んで、自転車を引きながら蓮はトボトボとあてどなく歩き出した。空はぐんぐんと明度を落としていく。その空を背景に、ひとつのビルがそびえている。スカイガーデンという、霜田区にはオシャレすぎる名前の建物には、低層に商業施設、高層にオフィスが入っていて、最上階には街を見渡す展望室がある。その展望室は無料で開放されているが、そもそも見るものが何もない霜田区だ。いつもガラガラで、蓮はたまに一人で考え事をしたい時によくここに来ていた。

 近くの駐輪場に自転車を置いて、蓮はスカイガーデンの展望室へ向かった。最上階に到着した頃には、空はすっかり暗くなって、展望室からは小さな光を散りばめた街の姿が広がっていた。太鼓判本社ビルができるまでは。このスカイガーデンが霜田区一の高さを誇っていたらしい。南の方にその本社ビルが見える。蓮は展望室をぐるっと回って反対の方にやって来た。望遠鏡が設置されていて、そこから覗き込む街の姿が蓮は好きだった。こちら側からは、江口整体院が見える。視界を遮るような建物はほとんどないのだ。和谷家も磯貝家もここから見ることができる。そう遠くはない。磯貝家はちょうど手前に公園があるおかげで全貌が見える。

 蓮はハッとした。ひらめきが頭の中を駆け巡る。すぐそばのベンチに倒れ込むように腰掛けた。すぐにスマホを取り出して、霜田警察に電話をかけた。対応してくれた窓口係に刑事課の星に繋いでほしいと訴える。しばらくすると、電話口に星の声が現れた。

『星だが』

「聞いてほしいことがあります」

『誰だ、君は?』

「今日、太鼓判の本社にいた者です。少しお話しましたよね」

『ああ、君か。俺のファンになってくれたのか』

「いや、なんでそうなるんですか。さっき、磯貝梓がそっちに行ったと思うんですけど」

『磯貝梓ぁ?』

「太鼓判の不正アクセスの件で」

『ああ、ウチのチームが事情聴取してるよ』

「梓は犯人じゃない」

『いや、でもな……証拠が出てるんだよ』

「梓のパソコンのハードディスクですよね。でも、ハードディスクは入れ替えられるはず」

『あのなあ、君ね、そんなバカなことあるわけないだろ……』

「梓の家を監視していて、留守だと分かっていたなら、家の中に入り込んでハードディスクを入れ替えることはできますよね」

『なに言ってるんだ、君は? そんなことする意味がないだろ』

「意味はありますよ。梓に罪をなすりつけるためです」

『君の妄想を聞かせてくれてありがとう。チラシの裏に書いた方が建設的だぞ』

「待って下さい。ツイッターで告発者っていう奴が梓のことを剥がしたのは知ってますか?」

『俺は刑事だぞ。当たり前だろ』

「梓を陥れようとしたのは、その告発者です」

『はあ……? 何を根拠に?』

「僕は告発者が梓を剥がしたのは社会的制裁を与えるためだと思ってました。でも、それだけじゃなかった。梓の家の住所を晒すことで、あの家が危険な場所になるように仕向けた。現に暴徒が押し寄せてきましたよね。そうなれば、その家の人間は一時的に離れた場所に移動するはず。告発者はそうやって磯貝家を空っぽにしようとしたんですよ」

『いやぁ……、しかしなぁ……』

 初めに比べれば星は蓮の話になびいていたが、重い腰を上げそうにはない。

「梓のパソコンの型番とハードディスクの型番を照らし合わせれば、ハードディスクが入れ替えられたことは分かるはず」

『それは奴が犯人じゃないことを裏付けるわけじゃないだろ』

 蓮は頭をフル回転させた。なにか、このボンクラ刑事を言いくるめるものはないか? 周囲を見回す。天井からぶら下がる防犯カメラが見える。蓮はそれに賭けた。

「梓の家を監視できる場所は限られています。梓の家のそばの公園や近所、そしてスカイガーデンです。梓の家の近くにも、公園にも、スカイガーデンの展望室にも防犯カメラはある。告発者は梓の家が空っぽになるハロウィンの日までは頻繁にそのカメラに捉えられていて、それ以降は一切姿を見せなくなったはず。パソコンを物理的に操作するために家に侵入する機会を窺っていた……ソーシャル・ハッキングですよ」

 電話の向こうで星が唸っている。蓮は冗談交じりに言った。

「星さんがホシを挙げるまたとないチャンスじゃないですか?」

 蓮は知らなかった。星がその名前を署内でいじられまくっていることに。

「星上なのにホシを挙げられないのか?」

 星にとって、その名前は刑事としての呪縛そのものだった。

『言うじゃないの。まあ、こっちも今田の野郎にデカい顔させてばかりじゃ、腹の虫が収まらなかったんだ』

 最後に、蓮は星に自分の電話番号を教えて電話を切った。張り詰めていた緊張感が一気に緩んで、蓮はしばらくの間、ベンチに根が張ったように腰を下ろし続けていた。

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