六章 追うも追われるも靴底すり減らさず

「どういうことなんだよ、これは!」

 江口家のリビングに梓の怒号が響き渡った。日曜日の昼前とは思えない殺伐とした空気が流れる。梓の怒りの矛先は真っ直ぐに明日香に向けられていた。梓がテーブルの上に投げ出したスマホには、すでに七万を超えてリツイートされた〝告発者〟のツイートが表示されていた。

「なにこれ?」

「とぼけんなよ! お前がやったんだろ!」

 明日香は瞬間的に髪を逆立てた。

「なんで私のせいにしてんだよ!」

「おいおいおい!」向こうから洋介が駆け寄ってくる。「落ち着け。何があったんだ?」

 梓がどこかの検事みたいに明日香を指さした。

「こいつが俺の個人情報をばら撒いたんです!」

「ちょっと待ってよ」蓮は懐疑的だ。「これを明日香がやったっていう証拠はあるの?」

 梓は感情に駆られるままにテーブルを叩いた。他人の家のテーブルに拳を叩きつけるなんて、人生の中でもそうそうあることではない。

「昨日のこいつを見てたら分かるだろ! こいつは俺を陥れようとして、こんなことしたんだ!」

 明日香は梓を睨みつけた。

「それは証拠って言わないんだよ」

 簡単にあしらわれた梓は犬のように鼻の頭に皺を寄せた。鼻息荒く、そばにあったバッグを手に取って、荷物をまとめ始める。

「ちょっと、どうしたの?」

 千夏が慌てて梓を止めようとする。

「すいませんが、もうこんな場所にいられないです。こんなクソヤローと同じ空間にいるだけでヘドが出る」

「証拠が出せなくて悔しいから逃げるだけでしょ。どうせ帰っても引きこもるだけ」

 おそらく人を煽ることに関してはピカイチの才能を持つ明日香が半笑いでそう言うと、梓はついにバッグを床に叩きつけた。繰り返すが、他人の家である。梓は明日香に詰め寄った。

「てめえ、調子乗ってんじゃねえぞ」

 明日香も立ち上がって両手を後ろに組んで胸を張る。相手のラフプレーに抗議する選手みたいだ。

「は? 調子乗ってんのはあんたでしょ」

「お前がやったんだろ!」

 なぜか梓も両手を後ろに組んで明日香に胸をぶつけた。

「決めつけるな!」

 明日香も負けじと胸で相手を押し返すと、思いのほか力が強かったのか、梓はバランスを崩してテーブルの上に手を突いた。ちょうどそこにテレビのリモコンが置かれていて、リビングのテレビからニュースの映像が流れ出した。

『──……には、大勢の人だかりが……』

 スマホの映像が流れるが、その中では熱狂した数十人がある家に向けて怒声を発しながらゴミを投げ入れていた。家の塀には黒いスプレーで罵詈雑言が書きつけられていた。磯貝家だった。

『現在、周囲は警察によって封鎖され、厳戒態勢が敷かれているものの、周辺地域では抗議活動が活発化している。被害に遭った家族は被害届を提出した』

 梓は言葉も出ないまま膝を折って、テレビに釘付けになってしまった。

「今は家に近づかない方がいい」

 洋介が優しく梓の背中をさする。梓は明日香を睨み続けた。

「お前のせいだからな」

「だから、私じゃないって……。昨日はあんたに言いすぎたと思って謝ろうと思ってたんだよ」

「じゃあ、誰がこんなことしたんだよ!」

「知らないよ……」

 困り果てる明日香の横で、蓮は現実を味わわせるかのように口を開いた。

「申し訳ないけど、君は色んな人の恨みを買いすぎた。だから、君を陥れる動機を持っている人はいくらでもいることになる」

 点いたままのテレビから声がする。

『琴平フィルさんをね、自殺に追い込んでるんですよ。そういう面で、社会的制裁をね』

『いやだから、それは司法がすべきであって、それを個人がやるのは私刑ってやつなんですよ』

『違う違う、今の論点はそこじゃないから! 勝手に論点ずらさないで下さい!』

 論客同士が醜い鍔迫り合いを繰り広げている。洋介は落ちたリモコンを拾ってテレビを消した。リビングがしんと静まり返る。

「ご両親に連絡しておこう。しばらくは自宅の近くは危険だからな」

 洋介が連絡先を要求したが、梓は暗い表情で首を振った。

「両親の連絡先も自宅の電話番号も知らないんです」

「そうか……。まあ、ほとぼりが冷めるまではご両親もここにいることを理解はしてくれるだろう」

「なんで親の連絡先も知らないのよ」

 咎めるように明日香が言う。梓は答えることができずに俯いた。千夏は場を取りなすように優しい笑みを浮かべた。

「いつも一緒にいれば連絡する必要ないんだから、仕方ないわよ。そういう人も少なくはないでしょう」

 梓は自身を追い込むように皮肉っぽく口元を歪める。

「別に、俺が邪魔ならいつでも出て行きますんで……」

 洋介が手を叩く。

「今はそんなこと考えるな。とりあえず、ここに居さえすればいい」

 梓はじっと洋介を見つめて、小さい声で「すみません」と言った。さきほどからずっとスマホの画面とにらめっこしていた蓮は気が進まないようだったが、テレビの電源を入れて、その画面に自身のスマホの画面を表示させた。大画面の中にツイッターのタイムラインが現れる。同じ顔写真があちこちで拡散されている。

「今、外を出歩くのはマズい。君の顔写真が急速に拡散されてる。マスクをしていたとしても、バレる危険性がある」

 梓は力が抜けたように椅子に腰を落とした。頭をグシャグシャとやって抱えた。

「どうすりゃいいんだよ……」

 ツイッターでは、他にも、琴平フィルを自殺に追いやった加害者として梓を糾弾する声や複数の捏造情報などによって個人に社会的損害を与えるような行動を起こした梓は名誉棄損で逮捕されるべきだといったような主張が飛び交っていた。ネットは一丸となって梓をぶっ潰そうとしている。

 さらに事態を混沌の渦に叩き落としているのは、警察が磯貝家の警護に当たったという事実だった。

『無能の霜田区警察のくせに加害者はしっかり守るんだな』

『ゴミを擁護するために税金使うなよ』

『剥がし屋もクソだが、警察もクソ』

 無数の攻撃的な意見が爆発的に広がっていく。今や日本中の眼が霜田区に向けられているといっても過言ではなかった。ちなみに、「東京に霜田区なんてあったんだ」という声もチラホラ見える。

 トレンドワードに「告発者」のワードが上がっている。告発者が別のツイートを投稿したようだった。


告発者 @hkY6ue39bwsty4i

【拡散希望】

剥がし屋 @dismask_____ は現在、東京都霜田区南臼田町三‐二‐三の自宅に籠城している。家族は告発者を匿っており、共犯関係にある。

奴らは安全な家の中から我々を嘲笑っている。

11:19‐2022/10/30‐Twitter for iPhone


「なんじゃこりゃあ……」

 まるで腹から血を流しているかのように洋介が呟く。

「終わりだ」

 梓は諦めたように鼻で笑った。立ったまま腕組みをして画面を見つめていた明日香は、梓に目をやった。

「このまま黙って熱が冷めるのを待つか、告発者を見つけ出すか……あんたはどうしたいの?」

 意外な提案に梓は目を丸くした。

「なに言ってんだ? 告発者なんか見つけられるわけないだろ。だいいち、そんなことしたって何の意味もない」

 明日香は腰に手を当てて仁王立ちした。梓の考えを阻むかのようだ。

「あんた、よく考えなよ。告発者はこれからもあんたに都合の悪いことをツイートする。それがウソでもホントでも、あんたや親に大きい影響を与えることになる。今度こそ本当に追い詰められることになるよ」

「だからって、そんなことできるわけ……」

「このツイート」明日香は画面に映っている告発者の発言を指さした。「ひとつ分かることがある。それは、告発者はあんたの居場所を知らないってこと。つまり、告発者はこの中にはいない」

「そりゃ、そうだ」

 洋介がうなずく。明日香にとっては、自分の無実を証明する絶好の機会だったことになる。梓は明日香に鋭い目を向けながらじっと考え込んだ。

「これで私があんたを陥れたって考えは改めてもらえるよね?」

 今度ばかりは、梓も食い下がるわけにはいかなかった。

「もうそれは分かったよ。じゃあ、実際問題、どうやって告発者を特定するんだよ。そんなことできっこない」

「いや、考えてもみてくれよ」蓮が身を乗り出していた。「俺たちは現に君を見つけ出した。だから、告発者を特定できる可能性は少なからずあるってことだ」

 明日香は大きくうなずいた。

「そういうこと。初めから諦めるなよ」

 梓は明日香たちに半ば言いくるめられるようにして、ゆるゆると告発者特定に同意することになった。

 話がまとまったところで、洋介は言った。

「そろそろ、昼飯にしよう」

 この男、飯の話だけは誰よりも早い。


 磯貝家の置かれた状況は、蓮たちが想像していたよりはだいぶ悪そうだった。霜田警察は午後に会見を開き、磯貝家へ殺害予告が届けられていたことを公表。警察の警護はそれが理由だと説明した。ネット上の熱狂はねっとりとこびりついたままで、「どういう言い訳であろうと犯罪者を匿っていることは事実」という言葉が飛び交って、事態はさらに混迷を極めた。

 梓は剥がし屋のアカウントに無数の攻撃的なコメントが来ていることを知っていた。そこにも、梓自身や家族への殺害予告が届いていた。ネットでの磯貝家に対する剥がしは苛烈だ。午後には、両親の勤務先も顔写真もネットの海に放出された。それらを咎める声はどれも埋もれて、もはや三六〇度楚歌といっていいほどだった。おまけに、注目を浴びた影響なのか、剥がし屋のフォロワーが二万人ほど急増していた。

 梓が剥がし屋のアカウントを削除しない理由は二つあった。ひとつは、攻撃的なコメントの証拠を残しておくため、もうひとつはアカウントは絶対に消すなと明日香が迫ったからだ。

「なんでだよ」

「今はそのアカウントがお荷物に感じてるかもしれないけど、いずれ役に立つ時が来る」

「そんな時が来るとは思えない」

 そう言い返して、梓は千夏が作ってくれたナポリタンを頬張った。

「オセロだって、一個だけ残ってたやつのおかげで逆転することあるでしょ」

 明日香はナポリタンに胡椒をかけて味変した。蓮はノーマルなナポリタンをフォークに巻きつけながら言う。

「とにかく、今アカウントを消したら攻撃の矛先が君の両親に行く可能性もある。かなり危険だと思うよ」

 梓は口をモグモグさせながら、視線を虚空に彷徨わせた。実家の自分の部屋から出て、何か思うところがあるのかもしれなかったが、何も言うことはなかった。

 昼食を終えて、テレビで警察の会見を観る頃には、リビングにいる全員が、現状が笑えるほど不利だということを客観的に認識していた。

「梓くんは絶対に外出ちゃダメよ」

 千夏が心配そうに言う。明日香は鼻で笑う。

「もともと引きこもってたんだから余裕でしょ」

「お前は一言余計なんだよ」

 梓が舌打ちを飛ばす。蓮は呆れて笑ってしまった。

「なんで君たちはいつも喧嘩腰なんだよ」

「こいつが喧嘩売ってきてるんだよ!」

 二人の声がハモる。敵対的意気投合というやつだ。千夏がニヤニヤしている。

「こういう二人が案外くっついたりするのよ。蓮も頑張りなさい」

「なんで母さんはそういう方向でしか考えられないんだよ……女子大生かよ」

「あら若く見られて嬉しい」

 蓮は肩を落とした。この母親には勝てないと分かっていたはずなのに突っかかっていったことを後悔した。

「この調子で告発者なんか特定できるのかよ」

「分かってることはあるよ」明日香が真剣な顔で応える。「告発者は、梓が中学時代にいじめっ子だったことを知っていて、今は家に引きこもってるということを知っている人物」

「かなり限られた範囲だな」

「そういうこと。だから、告発者は梓と同じ中学か高校、あるいはどちらも同じ学校に通っていた人物ということになる」

「少なく見積もれば、告発者は一クラス分にあたる四十人くらいの中にいるということになるのか」

 簡単にまとめてみたものの、蓮はそううまくいくはずがないと考えていた。明日香は薄い期待を込めて訊く。

「中学も高校も同じだった人っていないの?」

「さあ、同じ学年にいるかもしれないけど知らないな」

「駒田くんは?」

 梓の眼がギラリと光る。

「あいつのことが気になるのかよ」

「あのねえ……」

「二年前、お前はあいつと付き合ってた……」

「だから、そんな事実ないんだってば。どっかの誰かが勝手に言い触らしてただけ」

 すでに晴れた容疑を掘り返そうとする梓だが、やがて無駄なことだと諦めたようだった。

「というか、あいつは俺と同じ中学じゃない」

 明日香は思わず考え込んだ。

「でも、あんたをいじめた人たちは、あんたが中学の時にいじめをしていたってことは知ってるわけよね」

「そうだろうな。俺をいじめた理由だからな」

「そもそも、誰をどうしていじめたのよ、あんたは?」

 銃の瞳に見つめられて、梓は口を開いた。そして、中学時代のことを時間をかけて話した。その内容は、読者諸君もすでにご存じの通りだ。

「あんた彩音ちゃんのこと好きだったの?」

 話を聞き終えるなり、明日香はそう言い放った。梓は目を白黒させて、もんどりうつように言葉を返す。

「い、いいい、今はそんなこと関係ないだろ」

「でも、あんたがやったことは最低だよね」

「葵が悪いんだ。彩音に酷いことをしたから……」

 明日香は溜息をついた。

「なんか……あんたって昔も今も悪い意味で変わってないよね。裏でグチグチやるのやめた方がいいよ」

「だからそれは──」

「で、二人とはもう会ってないの?」

 戦いの火蓋が切られるのを察知して、蓮はトークの水をぶっかけた。迸った火花を見失って、梓は何事もなかったかのように答えた。

「会ってないし、何やってるかなんて知らないよ。彩音は引っ越したっていうウワサを聞いたくらい。連絡先に残っていた奴らは全員削除したし、誰とも連絡はとってこなかった」

「梓の周辺から告発者を探っていくのは無理があるな」

 蓮が結論づける。一言で表せば、お先真っ暗といったところだ。重い空気の中、梓はぼつりとこぼした。

「俺が琴平フィルを殺したのかな」

 感情の起伏がジェットコースターよりも急で、はたから見ていても情緒が不安定なのが分かる。それだけに、今度はさすがの明日香も押し黙るしかなかった。

「自分を責めない方がいいぞ」洋介は優しく言う。「大勢の人間が発した小さい声が重なって、誰も無視できないほど増幅されてしまっただけだ」

「でも、俺がタレコミを鵜呑みにして剥がさなければ……」

 千夏の眼はまるで息子を見るかのような温かさがあった。

「心が痛むっていうことは、あなたの中にもちゃんと善い心があるっていうことよ。それを大切にしていかなきゃダメよ」

「でも、死んでしまったんですよ……彼女は」

 あまりにも重すぎる一言だった。そして、その目が明日香に注がれていることに、この場にいる誰もが気づいていた。洋介は梓の肩に手を置いた。

「じゃあ、自分にしかできないことを探すしかない。時間はどう足掻いても戻らないんだからな」

 梓は深くうなずいた。

「告発者を特定する方法だけど」蓮は空気を換えるように声を発した。「ウチの学校の先生に話を聞くのはどうかな? いじめがあったなら、調査をしたはずだから、何か知ってる人がいるかもしれない」

 ところが、明日香と洋介が首を横に振った。

「二年前のことなら、学校はいじめと認定していたかどうかも怪しいぞ」

 洋介の声に呼応して、梓も口を開く。

「美濃校長も小野寺教育長も、俺のいじめの件で責任を取った奴はいないんだ。PTAの会合も、SNSの使い方についての意見交換会というお題目だったらしい」

「私もパパとママと一緒に学校と話し合いしてるけど、いじめはないっていう前提で話をされてる。それでパパはキレてたし。はっきり言って、ウチの学校には何かを期待するだけ無駄なのかもって思ってる。だから、正直な話、本当は梓の復讐したいって気持ちは分からないわけじゃない。私が梓だったら、同じようなことをしていたかもしれない」

 明日香の横顔をじっと見つめていた梓は覚悟を決めたようだった。

「俺も自分が調べられることを洗い出してみるよ」

 蓮は強くうなずいた。

「頼む。でも、当分はここで情報をまとめてもらってた方がいいな。俺と明日香が実動部隊みたいな感じで動いていこう」

 洋介は千夏と顔を見合わせた。

「俺たちは?」

「父さんたちには助けを借りたい時に声を掛けるよ。でも、なんとなくだけど、これは俺たちが解決しなきゃいけない問題なんだと思ってるんだ」

 洋介と千夏は寂しそうではあったが、どこか誇らしげに息子を見つめた。

「ねえ!」突然、明日香が声を上げた。「良い考えがある」


 翌日の月曜日、蓮は学校へ登校し、明日香は街へ繰り出していった。残された梓は洋介の手伝いで整体院の備品やカルテの整理、掃除などをひと通りこなしてリビングに戻ってきた。

「おつかれさま」

 千夏がホットのコーヒーとお菓子を持ってやってきた。

「すみません、ありがとうございます」

「こちらこそ、手伝ってもらっちゃって」

「いえ、いいんです。ここに置いてもらってるので……」

 千夏は窓の外に目をやった。曇りがちな空が白く濁っている。

「お父さんとお母さん、心配ね」

 警察は用心のため周辺に警察官を配置。磯貝家への警戒を続けていた。同時に、磯貝家へ殺害予告を出した人物の特定に乗り出していた。朝の情報番組もずいぶんと尺を使って剥がし屋関連のニュースを伝えていた。これまで抑制力として働いていた剥がし屋が剥がされたことで、ネット上は発言や行動の攻撃性を増していたようだった。今朝も、剥がし屋を擁護するアカウントが炎上し、そのアカウントがこれまでツイートした内容が掘り起こされて、勤務先が拡散されていた。世は誰もが剥がし屋となって群雄割拠する暗黒の時代──大剥がし屋時代へと突入したのであった。

「両親とどう顔を合わせればいいか分からないです」

「たぶん、向こうも分からないと思うわよ」

「じゃあ、会った時にどうすれば……」

「それはもうその時のフィーリングに任せるしかないわよ。考えてても分からないだろうしね」

 求めていた答えとは違うものだったようだが、梓は千夏の言葉を噛みしめて、コーヒーを啜った。ほろ苦さが梓の心に染み渡る。

「そういえば、朝、何かパソコンでやってたけど、なにしてたの?」

「ああ、アレですか」梓はそばに置いていたノートパソコンを引き寄せて開いた。「僕の方でも告発者を探そうと思って、色々考えていたんです」

 梓はテキストファイルを開いた。中にはコマンドが書き込まれていた。

「これは?」

「告発者は、僕が中学の時にいじめをしていたと知っていた人物です。なので、まずSNSで、僕の名前といじめに関係する言葉を投稿しているアカウントを絞り出そうと思ったんです。このバッチファイルは、ツイッター上でその条件に合うアカウントを拾ってきてリスト化したファイルを吐き出すようにできてます」

「なるほど。何も分からないわね」

「簡単にいえば、告発者の可能性のあるアカウントのリストを作るんです」

「こういうのが得意なのね」

「いえ、ネット上にこういうコマンドを公開している人がたくさんいるので、それを持ってきて中身を少しカスタマイズしてるだけですよ」

「ミルクを豆乳に変えて、エスプレッソショット追加みたいなことね」

 謎のスタバたとえに梓は苦笑いした。

「まあ、そんなようなことです。それとは別に、プロフィールに桜が丘高校や臼田早須中学の名前とか略称が書かれているアカウントの情報も持ってきます。二つのアカウントのリストをまとめて、このリストを参照してそれぞれのアカウントの全ツイートを取得します。あとは、それぞれのツイートから個人を特定できるかどうか精査するんです。その方法はまだ考え中ですけど、特定できた人物は詳しく調べれば何か分かると思います。特定できなかったアカウントと、蓮と明日香が集めてくる告発者の可能性がある人物の情報はそれぞれ精査していけば、ある程度は告発者に近づけるんじゃないかなと」

 早口で説明する梓に千夏は温かい目を向けた。

「わ~すご~い」

「それ、分かってない人のリアクションですよね」

「でも、それで告発者が分かるんでしょ?」

 梓は表情を曇らせる。

「いえ、例えば探している人物がもうアカウントを削除していたり、アカウントが非公開になっていたりすると、このコマンドでは探せないんです。そいつらはひとまず考慮しないで、あとはツイートからどうやって要素を抜き出すかなんですが、NLP(自然言語処理)とかもやりたいんですが、僕にはまだそのスキルがないので、簡単な形態素解析にかけて、要素を単純化して比較できればいいかなと思います。そもそも完璧にやるというよりも可能性を潰すくらいの感じでやろうかなと」

 千夏は虚ろな目で手を叩いた。

「わ~すご~い」

「あー……、壊れてしまった」


 霜田区民は、どちらかと言えば、下町気質のお祭り好きだ。だから、十月三十一日は平日にもかかわらず朝からあちこちでハロウィンのコスプレをした姿が見られた。桜が丘高校にも、ハロウィン感のある連中が歩き回っていた。蓮はその浮かれた雰囲気の中で、以前のように聞き込みをして回っていた。

「磯貝梓が中学でいじめをしていたことは知ってる?」

 昨日、明日香は言っていた。「良い考えがある」と。それは蓮たちにとって、諸刃の剣のようなものだった。

「この前、蓮は高校で聞き込みをしていて、奥村に目をつけられたんだよね」

「ドブ川に落とされた」

 ドブ川仲間の蓮が苦い思い出を振り返る。

「それは、蓮が奥村のことを嗅ぎ回っていたからで、自分を探ろうとしている人間がいたら私たちは気持ち悪いと思うのよ。告発者は私たちの身近にいる。だったら、私たちが告発者を探そうとしてることを見せつけてやれば、向こうからボロを出すかもしれない」

「発想が親子だな……」

 蓮が呟くと、明日香は顔をしかめた。

「どういうこと?」

「明日香のお父さんが車に横断幕を貼りつけて走り回っただろ。アレは剥がし屋を見つけ出そうとしてやったことなんだ」

 普通はこういう場合、登場人物は親子の絆を感じたりして勝手に良い雰囲気になるものだが、明日香はそうではなかった。バリウムでも飲んだ直後みたいな顔をして、蓮を見つめた。

「なんちゅう顔してんの?」

「パパと同じ発想っていうのが……」

「それはしょうがないだろ。諦めろ」

 諦めろというのもひどい話だが、蓮の言葉に明日香は渋々うなずくのだった。

 蓮は休み時間のたびに校内を飛び回った。案の定、蓮は何の情報も得られない、成果を必要としない聞き込みは、終わりの見えないマラソンのようなもので、自分の動きが告発者を炙り出すと信じて続けるしかなかった。

 同じ頃、明日香はナンパ師のように、駅前の通りで手当たり次第に行き交う人に声を掛けていた。彼女はより効率と拡散力を高めるため、簡単なチラシを作成して、それを配り歩いていた。


 剥がし屋・磯貝梓の関係者を探しています。


 という一文で始まるチラシには、告発者としての条件が書き連ねられていた。思い当たる節がある人には、新しく作成したツイッターアカウントにDMを送るように要請している。受け取る人は少なく、二〇〇枚のチラシは一向に減る様子がない。マスクを着けて行き交う人々が感情のないロボットのように見えて、明日香の中に言いようのない疎外感が生まれたが、それでも場所を移動しながら、懸命に声を発し続けた。

 夕方が近くなる頃、通りの向こうからペストマスクを着けた小柄な人影が近づいてきた。明日香は怪訝な視線を向けながらも、ペストマスクにチラシを差し出した。相手はペストマスクのゴーグルを通してチラシの内容を読もうとしてジタバタともがいた。

「いや、マスク外した方がいいんじゃないですか」

 ペストマスクは人差し指を立てて、そうだそうだ、というようにジェスチャーした。マスクを外すと、中から現れたのは奥村だった。予期しない遭遇に、明日香は思わず後ずさりした。あのドブ川のにおいが鼻の奥に蘇る。

「てめえ、何やってんだ?」

 ちなみに、桜が丘高校はまだ授業中である。何やってんだ、は彼のためにあるような言葉だ。

「いや……」

 奥村はチラシに目を落とした。

「何を企んでいやがるんだ?」

 明日香は、頭の中で目の前の小さい男が告発者である可能性を検討していた。しかし、人を自らの手──もとい、足でドブ川に叩き落とすような人間が、言葉による暴力を信奉するようなことなどするだろうかという疑問は拭いきれなかった。身体的な暴力によって他人を蹂躙しようとする人間のやることではない……明日香はそう結論づけた。

「なんとか言えよ、クソブスがよ!」

 明日香は声を震わせながら、燃える目を奥村に向けた。

「あんたみたいな雑魚に構ってる暇ないんで」

 そう言って立ち去ろうとする明日香を、奥村はニヤニヤしながら見つめた。

「どうせ、学校に嫌がらせしようとか考えてるんだろ。いじめなんかないって犬養に言われて悔しかったのか?」

 その言葉に明日香は頭に血が上った。ギッと睨みつけたが、通行人の目があったおかげで、なんとかその感情を爆発させずに済んだ。明日香は泣きそうになりながら、足早にその場を去ることにした。


「和谷さ~ん?」

 正気の病室に看護師の声が響いた。狼狽えた七海が病室の入口に立っている。売店で自分用の軽食を買って戻って来た時には、ベッドは蛻の殻だった。そのベッドには、メモ帳の一ページが破り取られて置かれていた。

『探さないで下さい』

 メモにはそう書かれていたが、そう言われて本当に探されない人間は、きっと嫌われているに違いない。

「どこ行っちゃったのかしらねえ……」

 看護師はそう言いながら首から提げたスマホでどこかに電話をかけた。電話を終えると、看護師は七海に落ち着くように言って、ベッド脇の椅子に座るように促した。

「院内にはいないみたいなんですよ。どこかお心当たりある場所なんかありますか?」

「心当たりと言われましても……」

「正気さんが行きたいな~とか言ってた場所でもなんでも」

「古畑任三郎の世界に行きたいって言ってました」

「……そういうことじゃないんですけどね」

 看護師は諦めたように立ち上がった。

「とりあえず、病院の警備員さんにも聞いてみますから、もう一度落ち着いて考えてみて下さい」

 昨日、テレビで磯貝家が襲撃されている映像を観ていた正気の眼が爛々と輝いていたことを七海は思い出していた。

 結論から言うと、正気は病院を抜け出して、一旦自宅に戻っていた。着替えるのも億劫なようで、自室の連絡帳を手繰り寄せると、一階のリビングにある固定電話のもとに急いだ。スマホは七海に預けたままで、持ち出すことができなかったのだ。やがて、どこかへ電話をかけた。

「もしもし。またちょっと頼みがあるんだが」

 三十分もしないうちに、インターホンが鳴る。正気が玄関に飛んで行ってドアを開けると、一人の男が待っていた。

「笹塚ぁ、久しぶりだな」

「ついこの前会ったばかりだろ」

 笹塚と呼ばれた男は、出迎えた正気の出で立ちを怪訝そうな目で見つめた。

「なんで病院の服着てんだ?」

「まあ、気にするなよ」

「いや、気にするだろ。そんな普段着ないだろ」

 正気は家の奥に引っ込んで、まだ開けていないミネラルウォーターの入った箱を運んできた。

「それが荷物? お前は業者か何かかよ。この前はオムツだっただろ、確か」

 何を隠そう、この笹塚、正気とは唯一の宇賀島建設の同期で、先日の大量のオムツを後輩の伊勢のもとに運ぶのを手伝ってくれた男だった。

 ミネラルウォーターを小型のトラックに積み込んで、正気は入院着のまま助手席に収まった。

「着替えないのかよ」

「これ意外と過ごしやすいんだ」

「着替え損ねてるわけじゃねえんだな。で、どこに行く?」

 正気は何度も目にして覚えてしまったその住所を口にした。

「カーナビに入れてくれ。霜田区南臼田町三‐二‐三」

 読み返すのが面倒な読者諸君のために補足しておくと、これは磯貝家の場所だ。笹塚が住所を入力し終えると、カーナビが言う。

『ルート案内を開始します』

「お願いしまーす」

「和谷、毎回毎回カーナビと喋ろうとするな」

 二人の乗ったトラックは十分もしないうちに磯貝家のそばまでやって来た。

「笹塚、家の門の目の前に停めてくれ」

 笹塚は訝しみながらも和谷の言う通りにする。少し離れたところに警察車両が見える。

「なんか、物々しいな」

 トラックが停まると、正気はトラックの荷台、磯貝家の門の方のサイドドアを開けて、ミネラルウォーターの箱を持ち出した。

 運転席の笹塚の元に警官が真っ直ぐ近寄ってくる。

「こちらに何がご用ですか?」

 笹塚はギョッとしながらも、

「荷物を届けに来ただけですよ」

 と返した。警官は「ちょっと失礼」と言いながら、正気が立つ方に顔を覗かせた。無論、そこには入院着を着た正気が立っているわけで、警官は自分の目を疑った。念のために、腕時計で時間を確認する。十七時十二分。そして、声を掛ける。

「ええと、あなたは一体何者です?」

「配達人です」

 正気はしれっと答える。まっとうな猜疑心の持ち主なら「お前のような配達人はいない」と切り捨てるところだが、そこは霜田区の警察の人間である。

「なんで患者さんみたいな格好してるんですか、あなた」

「ハロウィンなので」

 どう考えても苦しい言い訳に、警官は目を丸くした。

「ああ~、なるほど。ご苦労様です」

 そんなわけないだろうに、警官は納得をしたようで、帽子を軽く挙げながら向こうの方へ去って行った。

「おい、何が起こってるんだ?」

 運転席から降りた笹塚が正気に駆け寄る。

「ここは今話題の剥がし屋の家なんだ」

 正気はそのままインターホンを押した。しばらくして、応答がある。

『はい』

 警戒心を滲ませたような声だった。

「お届け物で~す」

『少々お待ち下さい』

 玄関のドアが開いて、花音が現れる。正気が手招きをする。門の前で初対面のおっさんが入院着で手招きをしている光景は、それだけで通報案件だが、花音は恐る恐る近づいてきた。

「どちら様ですか?」

「細かいことは後で説明するから、荷台に乗って下さい。旦那さんは?」

「家にいますけど……」

 外に出るのも危険を伴う中で、磯貝夫妻は二人とも仕事を休んで家に籠っているようだった。

「じゃあ、旦那さんを呼んできて下さい」

「あの、あなたは一体誰なんですか?」

「和谷明日香の父親です」

 その一言で、花音は息を飲んだ。すぐに家の中に走って戻る。すぐに、恒明と一緒にやってきた。正気は素早く二人を荷台の中に引き入れて、取り出していたミネラルウォーターの箱も積み込んだ。笹塚と共に乗り込むと、トラックはすぐに走り出した。警察からは全てトラックの死角で行われた早業だった。

「ちゃんと説明しろよ」

 笹塚がモヤモヤを助手席にぶつけた。

「娘が言ってたらしいんだ」

 明日香は七海には自分が置かれている状況について報告していたのだが、その内容はそのまま七海から正気に横流しされていた。

「……で、なんでお前が後ろの二人を連れ出してんだ?」

「助けようと思って」

「ええっ?」笹塚は素っ頓狂な声を上げる。「お前と娘を槍玉に挙げた奴の親を?」

「親は親だ。関係ないだろ」

「まあ、そうだけどよ……」

 トラックはしばらくして江口家に到着した。笹塚は三人を降ろすと、運転席の窓を開けて、正気に声を掛けた。

「とにかく無理するなよ」

「助かったよ」

 笹塚は歯を見せると、アクセルを踏んで走り去った。

「梓はここにいるんですか?」

 正気はうなずいて、江口家のインターホンを押した。千夏が出迎えると、磯貝夫妻は急いでリビングに向かう。

 梓が神妙な面持ちで立っていた。花音が駆け出して、梓を抱きしめる。

「よかった……無事で……」

 恒明が安堵で歪んだ表情のままゆっくりと二人のそばに歩み寄って、二人ごと抱き締めた。梓は感情の置き所が分からないまま、なすがままにされていた。

 花音が千夏に頭を下げる。

「お騒がせしまして申し訳ありませんでした」

「それは全然いいんですけど、きっとまだご自宅の方には帰れないと思うので、狭いですが、ゆっくりしていって下さい」

 狭いどころではなく、普段三人で生活している家には、三家族がひしめくことになる。ひとつ屋根の下どころの騒ぎではない。

 正気が梓の前に歩んで行った。目の前に仁王立ちになって、その顔をまじまじと見つめる。

「許したわけじゃないからな」

 それだけを言って、正気はリビングを出て行った。

 夕方頃に明日香と蓮が帰ってきた。二人とも磯貝家の面々が揃っていることよりも、正気が入院着のままくつろいでいることの方に驚いていた。

「パパ……なんでそんな格好してんの?」

「ああ、これか。病院から抜け出してきたんだよ」そのまま正気の顔が硬直する。そして、大切な何かに気づいたように大音声を上げた。「ああああ!! ママのこと放置したままだ!」

 ママだけに、というわけである。

 かくして、明日香から連絡が行き、江口家に三つの家族が集結することとなった。正気は、病院側がリスクを鑑みて退院措置を行った。テイの良い追放である。だが、磯貝夫妻の救出劇を演じた正気はもはや元気そうだ。


 ホームパーティーのような夕食が終わり、食後の穏やかな時間が流れる。リビングでは、二つのグループに分かれていた。正気と蓮、明日香、梓はテレビの前の低いテーブルを囲んで、今日の成果について話を始めていた。

「俺は全然情報を引き出せなかったよ」

 初めから成果を重要視していた作戦ではなかったが、蓮は悔しそうに言った。明日香も同情するようにうなずいた。

「私もとりあえずチラシをばら撒くだけばら撒いたって感じ」

 そして、奥村と遭遇して、多少は言い返してやったたことを話すと、他の三人から「よく頑張った」とささやかな拍手が送られた。

「そのチラシのことなんだけど」梓がスマホの画面をテレビに映し出した。「ツイッターでは二件だけツイートがあって、一件は画像付き。でも、リツイートは四しかない」

「うわぁ……バズらねえなあ……」

 明日香はテーブルに突っ伏した。練りに練ったネタというのはバズらず、ポッと出たようなものが跳ねるというのは、この世の常である。

「たぶん、もっとエッジの利いたチラシだと狙えると思うけどね」

 そう言って、梓はいくつかの案を画像にしたものを画面に映し出した。カラフルなもの、強烈な言葉を打ち出したもの、病的なほどびっしりと文字が書かれたもの……それらを目の当たりにして、明日香は参ったようだった。

「今度から、こういうのはあんたに頼むことにするわ。さすが、剥がし屋をやってただけあるわね……」

 反応に困る評価に、梓は正気の顔色も気にしつつ、心がざわめくのを感じた。よくよく考えれば、誰かに褒められたことなど、この四年ほどはなかったかもしれない。

「いや、ちょっと待て」険しい表情で明日香を見つめるのは正気だ。「奥村っていう奴はなんで俺たちが学校と話し合いをしてたのを知ってるんだ?」

 若者たち三人が顔を見合わせる。

「ウワサで聞いたのかも」

「ウワサで聞いたような口振りじゃないだろ。実際に、あの担任がいじめはないって言ってたんだぞ」

「じゃあ、奥村が誰かから話を聞いた?」

 蓮の投げかけた言葉に明日香は溜息をついた。

「話し合いの内容を知ってるのは、あの場にいた人だけだから……どのみち犬養先生とかが奥村に話したんだろうね……」

「奥村は高一の時に俺と同じクラスにいたよ」

 梓がそう告げると、正気は苛立ちを隠せないように頭を掻いた。それを横目に梓がテレビとノートパソコンをケーブルで繋ぎ始めた。モニターにパソコンの画面が映される。あるフォルダの中に、二十余りのテキストファイルが並んでいた。テキストファイルには、アカウントの名前のタイトルが付けられている。

「これは、告発者の要件を満たしそうな、公開されているツイッターアカウントのツイートを保存したものなんだけど、ここから個人が特定できたのは十二人、あとの九人は個人が特定できなかった」

「ええ……すげえじゃん」

 蓮は感嘆の声を漏らして画面に釘付けになった。

「特定できた奴の中に告発者がいれば見つかるかもしれないけど、そもそも俺のことをツイートしていなかったら意味がないんだけどね。とりあえず、残った九人が特定できないか調べてるところ」

「何も情報がないよりは全然いいよ」

 明日香は床に仰向けになった。

「足を使わなかった人が一番仕事してんじゃん……」

 梓は苦笑いした。

「特定できた十二人の内訳は、七人が当時の臼田早須中学に在籍していて、今は桜が丘高校以外の高校の生徒。残りの五人が当時別の中学で、今は桜が丘高校の生徒」

「中高と同じ奴はまだいないのか。でも、とりあえず、この十二人から詳しく話を聞き出せば、何かしらの取っ掛かりにはなるかもしれないな」

 明日香が起き上がってリストに目をやる。

「じゃあ、蓮はウチの高校の生徒、私はそれ以外で」

「オーケー。こっちが終わったら、そっち手伝うよ」

 明日香は黙ったままの正気に顔を向けた。

「パパはどうする?」

「ちょっと考えてることがある」


 我らの正気が何かしらの企みを抱いている時は、たいていトラブルを引き込んでくるものだというのは、もううんざりするくらい読者諸君もご存じだろう。

 カレンダーは十一月になり、蓮と明日香が、特定された人物のリストを半分ほど潰した頃には最初の週末になっていた。告発者は、二回目のツイート以降、音沙汰がない。つまり、事態は何も進展していなかった。

 江口家のリビングでは、例のごとく蓮と明日香と梓が膝を突き合わせていた。和谷家はすでに江口家を離れていたが、磯貝家も、ここ数日で自宅周辺の緊張が緩和し始め、明日には一度家に戻る予定を立てていた。今では、恒明はリモートのみで仕事に復帰、花音は職場に事情を話し、有給休暇を取っていた。次第に平穏な日常が訪れようとしている。

「調査研究広報滞在費ねえ……」

 テレビを観ながら、蓮が不服そうに言った。

「なにそれ?」

 持参した七海からの差し入れのシュークリームを明日香が頬張っている。

「ちょっと前までは文書通信費って言われてた、国会議員に毎月一〇〇万支給されてた自由に使える金のことだよ。名前変わったんだよな」

 情報番組では、つい昨日、ある国会議員が「必要な金は日によって変わる」と、法改正で日割り支給となった調査研究広報滞在費に対しての不満とも取れる発言をしたことが問題となった件を取り上げていた。

「これもう逆にこの金をなくそうとしてる奴の工作だろ」

 梓がノートパソコンを操作しながら鼻で笑った。ネットでは、日々炎上する人間は変わる。昨日からのトレンドは、この〝金喰い虫〟と名付けられた国会議員だ。よりにもよってこの発言をした人物が金泉という苗字だったせいで、「金が泉のように湧いてくると思ってる」などと揶揄されてしまったのは、もはや笑い話である。

「確かに、私が国会議員だったら、大人しくしてるわ」

 三人の若者は意見が合致したように一斉にうなずいた。

「ああっ?」

 パソコンのモニターを見つめていた梓が濡れたビーチサンダルを踏み躙ったみたいな声を上げた。

「なに?」

「これ見てよ」

 梓がノートパソコンを二人の方に向けた。再生されているのは、つい一時間前にツイッターに投稿されたある動画だ。

 どこかの公園、少し離れたところで、二人の大人が揉めているようだ。身振り手振りを見る限り、一方の大柄な方の男がもう一人に男に対して何かをまくし立てている。その声を張り上げている方の姿に三人は見覚えがあった。明日香は天を仰いだ。

「パパぁ……! 何してんのよ!」

「ん?」蓮がモニターに顔を近づける。「これ、もう一人は犬養先生じゃん」

 すでにツイートは一万以上リツイートされている。正気の顔はすでに知れ渡っている。このツイートに反応した人たちの大半は、何度目かの正気の蛮行に徹底批判の姿勢だ。

 この動画に対する質問が寄せられていた。

『これこの後どうなったんですか?』

 ツイートした人間が答えている。

『警察が来て、和谷正気が連れて行かれてました』

 これには「霜田警察仕事したな」と、警察を称賛するコメントがついている。

「もう……! 何やってんのよ!」

 明日香が怒りに任せて叫ぶのと同時に、彼女のスマホが鳴る。明日香はすぐに電話に出た。

「ママ? ねえ、パパどうなってんの? ……うん、……うん。あ、じゃあ、別にそういうわけじゃないんだ。…………ああ、そう。……うん、分かった。……え? いや、私はいいや。正直、ちょっと疲れたわ。……うん、とりあえず、家に帰ってるから。じゃあ」

 明日香は電話を切って、深く息を吐いた。

「なんだったの?」

 蓮が恐る恐る尋ねる。明日香は怒りを滲ませたままだ。

「一応、パパは警察に保護されただけで、逮捕されたんじゃないんだって」

「ああ、なんだ、よかった……」

「よくないよ! 全然よくない!」

 そう言って、明日香は荷物をひったくるようにして回収する。

「帰るの?」

「うん。あとは二人でやってて」

 明日香は勢いよく飛び出して行く。

 二時間ほどして、七海が正気を伴って和谷家に帰宅してきた。リビングで出迎えた明日香は、正気を親の仇のように睨みつけた。親が親の仇というのも不思議な話だが、そう形容するしかないほどの怒りがそこには込められていた。

「保護してくれた警察の人が良い人でね」七海が言う。「パパがお酒に酔ってたっていうことにしてくれて、警察で保護してくれてたのよ」

「俺は酒なんか飲んでないぞ」

 悪びれもせず言い返す正気に、明日香は床を踏みつけた。

「いい加減にしてよ! わざわざバカみたいに変なことしなきゃ気が済まないわけ?! またネットが荒れてるんだよ! ちょっとは反省しなさいよ!」

 明日香は走って二階の部屋に上がっていった。ドアを思いきり閉める音。いつもなら七海も注意するところだが、今は何も言うことができなかった。七海は正気の背中をさすって、何も言わずに二階へ向かった。

「あすちゃん、ちょっといい?」

 七海は明日香の部屋のドアを開けた。部屋の奥のベッドの上で、明日香はうつ伏せのまま枕に顔を押しつけて泣いていた。七海はそっとベッドの縁に腰かけて、明日香の背中に掌を置いた。身体が震えていた。

「バカみたいじゃん、私……」

 明日香は枕に顔を押しつけたまま、感情を枕に染み込ませた。

「そんなことないよ」

「だって、私たちがいくら頑張っても、パパが台無しにするんだもん」

「パパもパパで考えてるのよ。先生にあんなこと言われて、ずっと怒ってた。あの話し合いのことが外部に漏れたのを知って、『このままじゃ、明日香の居場所がなくなる』って言ってたのよ」

「逆効果じゃん」

 顔を上げた明日香の眼は真っ赤になっていた。

「パパ、昔からあすちゃんのことになると、まわりが見えなくなっちゃうから……」

「私ももう成人なんだよ。子どもじゃない」

「パパにとっては、ずっと子どもなのよ」

 ベッドの上で胡坐をかいて、その上に載せた枕に拳を叩き落とす。

「どうやったら、あんなバカを擁護する気になれるのよ」

「だって、パパだから」

 優しく微笑む七海の顔に、明日香は問いかけた。

「っていうか、なんでママはあんな人と一緒になったの? ママだったら、もっと良い人いたはずじゃん」

「あすちゃんは昔の私を想像できないと思うよ。すごく暗くて、どうにもならないことをいつまでもグジグジ考えるような激重女だったの」

「ママが陰キャ? ウソでしょ?」

 七海が笑った。

「パパはほら……何も考えない人じゃん、良い意味で」

「悪い意味でもね」

「私にとって、何も考えないって衝撃的で、すごくびっくりしたのよ。仕事でミスしても、私なら一週間はしっかり落ち込むのに、パパは五分後にはケロッとして『正気にガスだね』とか言って笑ってるの」

「もはや田村正和のファンじゃん」

「どうしてそんなにすぐに笑えるのって聞いたら、『世の中には、腐るほど何かがあるのに、その中からつまらないものを必死こいて搔き集めるより、面白いものを持って来た方がいいだろ』って言うのよ。パパは私の人生を変えてくれたの」

 明日香は反応に困るように口元を歪めた。何かを言おうとした瞬間、ドアの向こうで物音がした。明日香の鋭い眼光がドアの向こうに突き刺さる。

「パパ、そこにいるんでしょ!」

 ゆっくりとドアが開く。膝立ちの正気が現れた。

「ちょっと床掃除をだな……」

「女の会話を盗み聞きするなんて最低」

「そう言うなよ」正気はそばまでやって来て床に座った。「で、俺のどんなところが好きなんだ?」

「もういい、もういい。ママとの話はもう終わったから!」

「犬養は奥村の言いなりになってた」

 話題の急ハンドルで、明日香はつんのめりそうになった。

「……言いなり?」

「暴力を振るわれるのが嫌で、俺たちと学校の話し合いのことも漏らしてしまったらしい。今までもずっとそういうような力関係だったらしいんだ」

 口をギュッと結んで、明日香は虚空を見つめた。信頼していたはずの教師に裏切られたショックは大きい。

「あの学校に戻れるか?」

 正気にそう尋ねられて、明日香の頭の中には「中退」の二文字がよぎった。三年の秋までやって来て、その選択をするのは厳しいものがある。かといって、今の学校に居続けるのも、他の学校に転入するのも難しいだろう。

「でも、大学には行きたい……」

 明日香には雑誌編集者になりたいという夢があった。そのことは、正気たちも事あるごとに聞いていた。正気と七海は視線を交わす。

「何か選択肢がないか、探してみるか」

 同じ頃、江口家のリビングでは、重い空気を引きずった蓮と梓が自分たちのパソコンと向き合っていた。梓が作ったツイッターアカウントの個人未特定者リストをもとに、個人を特定しようとネットを駆使していたのだ。

「ダメだ……」蓮は溜息をついた。「これ、リプ欄にいる奴らのアカウントも精査しないと無理だな」

 パソコンの画面に目を向けながら、梓も同意する。

「俺も今それを考えてた。ちょっとリプライ元のアカウントリスト作るわ」

「頼む」

 蓮は疲れ果てたように床に仰向けになる。もう何時間も床に座りっぱなしでパソコンとにらめっこしていた。明日香が家を飛び出して行ってから、集中力も散漫気味だった。

「お前はさ、これが終わったらどうすんの?」

 梓は作業の手を止めた。

「考えてない」

「でも、ずっと今のままじゃマズいだろ」

「……分かってるよ、そんなこと」

 梓は一瞬だけ眉間に皺を寄せて、作業に戻った。蓮は横になったままスマホを引き寄せてツイッターを眺めた。なにやら、おかしなワードがトレンドに上っている。「剥がされたおっさん」「ポジティブおじさん」というワードのタイムラインに、まとめサイトの記事を紹介したツイートがある。今まさに拡散中といった勢いがある。蓮はその記事のリンク先へ飛んだ。


剥がされたおっさん、ピュアな笑顔でアンチを黙らせてしまう


1:名無し:22/11/04(金)17:48:31 ID:V9iL

屈託のない笑顔で草


 誰かがまとめた正気の動画が貼られている。梓に剥がされた後、イタズラで送られてきた荷物を正気が開封するシーンを切り抜いて繋げたものだった。


2:名無し:22/11/04(金)17:48:48 ID:M4LU

ガイジやん


4:名無し:22/11/04(金)17:49:03 ID:AFZF

これ毎回女のツッコミでわろてまう


6:名無し:22/11/04(金)17:49:07 ID:j9fB

Win‐Winやね


46:名無し:22/11/04(金)17:54:11 ID:UTJV

ガチ陽キャやん

俺らと対極の存在やね


52:名無し:22/11/04(金)17:54:16 ID:4pnx

こういうの送りつけるのって犯罪にならないの?


56:名無し:22/11/04(金)17:54:23 ID:yjkP

思いのほかかわいくて草なんだ


64:名無し:22/11/04(金)17:55:09 ID:5H5y

許した


71:名無し:22/11/04(金)17:58:23 ID:Zbdb

クソポジティブおじさん


 ツイッターに戻る。この記事を紹介していたアカウントは「全然効いてなくて草」と付け加えている。このツイートへのリプライは大半が正気を笑い者にするようなコメントばかりで、それまでの攻撃的な雰囲気とは一線を画していた。蓮はその中にひとつ、「この人、本当に悪い奴なのかな」という言葉を見つけた。なぜか蓮にはそこに希望があるように感じられた。

「なにニヤニヤしてんだ?」

 梓が白い目で見ていた。蓮はゆっくりと身体を起こす。

「ちょっと考えてたんだ」

「なにを?」

「告発者を見つけるためには、視点を変えてみないといけないんじゃないかって」


 夜になって、江口家のリビングでは、蓮と梓がそれぞれ自分のパソコンの前に陣取っていた。画面内には、明日香の姿もある。蓮の呼びかけで和谷家とリモートで繋いで作戦会議を行うことにしたのだ。

『で、何なの、話って?』

「その前に……明日香の後ろ、何やってるんだ?」

 かつては情報番組のお天気中継でよく観た、気象予報士の後ろではしゃぐギャラリーのような正気が見える。

『パパ……、邪魔しないでよ!』

『分かった、分かった。ここで座って見てるよ』

『いや、見てなくていいんだよ』

 正気が青い座椅子にどっしりと腰を据えた。

『これがホントの座椅子和夫』

『うるさいな! サボテンぶつけるよ!』

 蓮と梓は顔を見合わせて苦笑した。

「あの……もういいかな」

『ごめん、始めていいよ』

 咳払いをして、蓮は自らの考えを口にし始めた。

「今まで梓が考えてくれた案でやってきて、これからもその調査は続けるべきだと思うけど、違う観点からも考えていった方がいいと思ったんだ」

『違う観点?』

「ちょっと画面共有したいんだけど……これ見えるかな?」

 蓮が画面に表示したのは、告発者の最初のツイートだ。

「『捏造した情報によって多くの人を炎上させた。琴平フィルを死に追いやったのもこいつだ』……告発者は梓が情報を捏造してたって断言してる」

『何人かは捏造だって説明してた人もいるからね。蓮パパもツイートしてたよね。ああ、あれはえぐっちゃんか』

「なんでえぐっちゃんの世界観には忠実なんだよ。でも、それに続けて告発者は琴平フィルのことを持ち出してる。これも捏造だったと告発者は言いたいんじゃないかと、俺には思えてならないんだ」

 梓の顔色が変わる。画面の中で明日香が難色を示す。

『でもさ、そう言っておけば、ネットの意見を誘導できると思っただけなのかもしれないよ。人は本当に正しいから動くとは限らないじゃん。現に、デマでみんな踊らされてるし』

「考えすぎかもしれないけど、俺の仮説を聞いてほしいんだ」蓮はパソコン越しに梓を見た。「梓はどうして情報を捏造したんだ?」

「また俺のことを責めるのかよ」

「そうじゃない。梓はこれだけ情報収集能力があるのに、なぜ炎上案件を捏造しようとしたんだ?」

『炎上させられないと思ったから作ったんじゃないの?』

「でも、タレコミがあったって言ってたよな。梓は捏造したんじゃなくて、タレコミをそのまま使ってしまったんじゃないか?」

 梓の目が見開かれる。

『そうなの?』

 二人に見つめられて、梓は白状した。

「早く結果を出さなくちゃと思って焦ってたんだ」

『タレコミの割合はどれくらい?』

「全体の三割くらい」

『ってことは、十件くらいか。タレコミをした人って、どういうつもりで情報提供してるんだろ?』

「基本的には、そいつのことが嫌いで、懲らしめて下さいみたいな感じで送ってくる」

『それをよく確かめもせずに垂れ流したの?』

 梓は首を振る。

「最初はちゃんとファクトチェックしてたよ。でも、タレコミの数が増えてきてチェックが甘くなったし、俺のターゲットの情報が送られてきた時には、感情を抑えられなかったんだ……」

 恥ずべきことをしでかした過去を顧みて、梓は目を伏せた。蓮は思わず梓本人ではなく、パソコンの画面上の梓に視線の先を求めた。

「そのターゲットって、俺の父さんも含まれてるよな?」

「うん」

「他にもいるの?」

「美濃校長も」

 明日香は画面の向こうで頭を回転させていた。比喩ではなく、回転椅子に座っているらしく、クルクルと回っていた。

『ねえ、たまたま梓のターゲットのうち二人の情報がタレコミされるってあり得るのかな』

「うん、何か臭うんだよな。梓のターゲット七人のうち二人がタレコミで剥がされた。告発者が梓にタレコミを送ったんじゃないのか? 梓、そのタレコミを送ってきたアカウントを調べれば──」

「どっちのアカウントももう削除されてるよ」

 絶望に浸した溜息を吐き出して、梓は顔を逸らした。それでも、蓮は希望を見出そうとしている。

「でも、もしこの仮説が正しいのだとしたら、告発者は梓が恨みを抱いている人を熟知していたということになる。しかも、この結論は、告発者の条件も同時に満たすことができる」

『梓が中学時代にいじめっ子だったことを知っていて、今は家に引きこもってるということを知っている人物』

 明日香が告発者の条件を諳んじる。まるで読者諸君に復習の機会を与えるかのようではないか。梓はずっと表情を強張らせていた。

「告発者は俺に偽の情報を渡して、それを指摘して俺を潰そうとしたのかもしれない」

『なんでそんな回りくどいことを……』

「注目を浴びた人間をどん底に叩き落とすのは、昔からみんなやって来たことだろ。俺はまんまとその手に引っかかったんだ。もしかしたら、琴平フィルのことも偽の情報だったのかもしれない……。だとしたら、告発者がそのことに触れたのも自然なことだ」

『ちょっと待って。ってことは、琴平フィルの件もタレコミだったの?』

 梓はうなずいたが、すぐに重大な事実に行き当たって、驚愕の表情を浮かべた。

「タレコミを送ってきた奴は、善印賞が発表されるより前に琴平フィルが受賞者だと知っていた……」

 蓮が興奮気味に声を漏らす。

「告発者は善印賞の内情を知っている人物……?」

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