{CURSE‐狭間編 暫時と漸次~木葉刑事の捜査日記 1 春夏

蒼雲綺龍

第一部:より分けられた運命と、新たなる始動の時。 第一章:覚醒

【prologue  黒滅の世界】



その黒滅たる不思議な世界は、この世の何処に存在するのだろうか。 夜空を見上げた時に見る宇宙よりも真っ暗で。 空気の流れや乾湿と云う質感。 感温と呼べる温度の動き。 生きとし生けるもの、それが何らかでも在らば感じられる音、また静寂。 そんな普段の世界と呼べる現実で何かしら感じられる神羅万象のそれが、何も、微塵も感じない場所。


そんな世界にて、


“俺は、死んだのかな。 結局、望ましい解決も出来ず。 広縞の魂が、悪霊と入れ替わった”


無なる夢の中で、男性の声が湧いた。


〝声〟


これを声と云えるのか。 いや、思いがただ単に響いているだけかもしれない。 然し、その意識に湧いた想いの声に、周りは一切の反応を示さない。 空気の動きも、何かの騒めきもない。 そんな無に包まれた黒の世界で、男性は・・いや、木葉刑事は確信を得た。


“俺は、やはり死んだんだな。 嗚呼、佐貫さんと叔父さんに会えるだろうか。 それと、彼女や………。”


いま、自分の居る世界がもう生死や意識がなんの意味をも為さない場所と理解し。 無駄でも望めるならばこれしかないと、湧き上がった素朴な想いの声。


だが、何も見えない。 何も無い。 何か、色や形、認識の出来そうなモノすら無い‘無の世界’。 この辺りに広がる暗い空間は、本当に真っ黒いのか、それすら解らない真っ暗闇の世界だ。 自分がどんな風に成って居るのか、それすら彼には解らない。 落ちているのか、浮いているのか、立っているのか、寝ているのかすら解らない。 そして、これで何度目に成るのか解らないが。 怨霊と成った女性の事件からまた、これまでの経緯を回想し始めたのだった。


が、それから間もなくの頃。 この黒滅された静寂の無が支配する世界に。


“・・・て”


何かが、とても幽かな音の様なモノが湧き上がった。 あらゆる動きの無い、不変の場所の様に思われたこの無の世界だったが。 一瞬、本当に‘ほんの’・・より短い一瞬、歪みと云うか、立体的に屈折した波紋の様なモノが起こる。


然し、木葉刑事の意識はそれに気付かないのか。 怨霊と化した女性が起こした事件を眈々と想い返して居た。


処が、また。


“・・きて”


今度はグニャリと、この黒滅の世界に強く歪んだ音が広がる。 それは、少し前に響いた音よりも幾らか強く、僅かに女性と思しき響きであった。


「ん?」


其処で、木葉刑事の回想は中断した。 声を聴いた訳ではない。 何か、感覚的な違和感を覚えたに過ぎないのだが…。


少し澄ましたが、何も変化は感じられない。 仕方なく、あの女性が怨霊から悪霊へと変化した経緯を想う前に。


“起きて・・御願いだから…”


遂に、何処か聞き覚えの有る声が、木葉刑事の意識へと響く。


「ん、あ。 だれ・だ?」


か細い声で、想うように応えた木葉刑事だが。


“目を覚まして・・・。 もう・・もう後が無いの。 このままじゃ、終わりなの…”


もう死んだ自分と理解する木葉刑事。 今更、“終わり”と言われても、


「おわ・・り?」


と、朦朧とさえするような意識で、その意味を理解する事が出来ない。


処が、その次に。


“貴方は、まだ死んでない。 起きて、あの悪意はまだ生きているの”


‘悪意’と聞いた瞬間に、木葉刑事の意識の中で広縞の悪意に満ちたあの顔が蘇る。


「ひ・広縞・・か」


どうでも良いと云う、もう全て終わったと云う醒めた心のようで居ながら。 あの男の悪意が残っていた事を思い出したと同時に、まだ何かをしなければ・・と云う本能じみた感覚と意志が沸き上がる。


「どうゆう事なんだ?」


この黒滅の世界に於いて、木葉刑事が完全に意志を持って聞き返した時、彼は新たな感覚に囚われた。


(あ・・、何だ? この感覚・・、浮いてる様な・・いや、溶けてる…)


自分が、意識が、液体の様に溶けて広がって行く………。 こう云えば良いか、そんな感覚に支配されて行く。


(くっ。 ‘終わり’って、こうゆう事か?)


自分の死なのか、壊されて行くのか、意識が薄れて行くままに。 ‘死期’と同じ様な感情を思った。


(全ては終わった………)


木葉刑事は、自分の全てが溶け切ってしまう様な時に、そう理解した。


だが、


「ん?」


パッと、次の瞬間には意識が戻った。


「生きて…」


自分が生きて居ると解る処で、既に自分が立っていると気付いた。 自分を見る事で黒いシルエットの様な衣服を纏う自分の姿も知る。


「此処は?」


次に湧き上がる疑問の答えを得ようと、反射的に辺りを見回した木葉刑事だが…。


「何処だ?」


思わず辺りを見て口にしたのは、自分の居る場所の辺りがとても変わった場所に見えるからだ。 先ず、見える。 一瞬前のあの黒滅たる世界と違い、今に立つ場所は部屋で。 一方を見れば、丸で奥に行くに従って狭く、全ての空間がマジックハウスの様に細くなり。 白い空間は、下手な絵心の無い人物が描いた線状の絵の世界の様。


「これは…」


何でこんな場所に居るのか。 倒れてから眠ってしまったままだった様な気がしていたのに…。 然も、辺りを何度も見て回して、改めて気が付くのは。 薄っぺらなドアが風に吹かれて訳でもないのに、‘ギィィギィィ’と音を立てている事。


「ドアが、か・・紙・みたいだ」


強風に晒されて剥がれ掛かったポスターの様な、そんな奇妙なドアに向かって一歩を踏み出した時。 その全身に、ゾクゾクとした悪寒が走った。


(何だっ? この感覚は・・悪霊と対峙した時と…)


恐ろしいが、然し。 既に知って居る感覚でも在る。


(何故? 此処で・・あの感覚が蘇る?)


一歩・・一歩と踏み出す度に、ゾクゾクと身体を走る恐怖感と緊張感はボルテージを上げる。


そして…。


(このドアの向こうには、まさか…)


“広縞の悪意が、其処に居る”


そう思った木葉刑事は、静かに深呼吸をする。


(アイツが居るなら、フルさんの仇討ちだ。 砕け散るのも…)


死闘の再戦と覚悟を決めて、剥がれ落ち掛けるドアへ向かって、左側の上の捲れている部分を掴むと。


(こうなれば、砕け散るまでやってやるっ)


と、一気に剥ぎ取った。


その途端だ。 何がどうなったのか、自分の居る部屋が壊れ始めてゆく。 その様子は、まるでちぎり絵に使う紙の様に細かく破れ。 そして、燃える様に赤く細かく解けて消えた。 果物の皮を剥いて果肉を現すかの如く、外界へと剥き出しにされた木葉刑事だが。 然し、その眼に映る光景は…。


「ん? 此処は…」


此処を、現実の‘世界’と呼べるかどうかは全く解らない。 木葉刑事の視界に広がるのは、地面や存在する全てが歪む赤い大地。 焼けて黒くなった様な山の形も、その周りに広がる怪しい黄昏時の中の様な林や平地も。 何処か瘤の様に斜めとなって盛り上がったり、レンズを通して見る様に凹んで歪んでいる。 歪さの異様さは、現実で見る景色とは異なる気味悪さが見える。


其処で、辺りを見回す木葉刑事はフッと天を見上げる。


「え?」


見た瞬間だ。 それを見る事に躊躇いが生まれる程に恐怖を感じる。 それは、不吉と言える凶星か。 黒く煙る様な靄が流れる空には、仄かな赤を縁に持つ黒く煌々と光る日輪が浮かんでいた。 あの熱く眩しい、神々しさすら感じる太陽では無い。 煌々としていながら、不滅の闇を振り撒く怪しき太陽。 こんな太陽は、皆既日食でも見えはしない。


「あ、あぁ…、此処は、い・一体………」


そして、また改めて前を遠くまで見つめ返すと…。 平地で揺れ動くものは樹木の如き歪なシルエットの森らしく、陽炎の様に近い所々へと見えていた。 揺らめく影の様に見えていたが、良く見れば針葉樹の森らしき姿と感じられた。 見えたのでは無い、感じたに過ぎない。


「こんな、此処は、一体、一体…」


呟いた木葉刑事の足が、一歩・・一歩・・と前に出る。 不可思議なこの場所を知ろうして、半分無意識に足が動いていた。


だが、それから程なくして。


‐ 憎い・・嗚呼っ! 憎いぃっ ‐


遠くとも近くともない・・・そんな距離感の辺りから、“意志そのもの”と感じれる誰かの念が漂って来た。 声の様に聞こえるが、そのぼやけた響きと恨み辛みが身に軋む感覚は、霊体の思念と木葉刑事には解る。


(この声は・・。 もう既に死んだ者の声だ。 然も、ほぼ確実に怨念…)


その声と聞こえる音に含まれる憎悪は、凝り固まった念と言える。 幾度もこの手の思念を感じて来た木葉刑事だ。 それが解らないなど、もう過去の事。


処が、一方で。


(だけど・・・ん? この感じ方は、何だ? この辺りの彼方此方に、個別の怨念が彷徨っている。 人や他の魂は無く、怨念だらけって…)


体に感じられる思念を探ると、憎しみを持っただけの魂がチラ・・ホラ・・と蠢いているようだ。 現実の世界とは思えないこの場所。 人の姿など何処にもない世界で、無数の念が彼方此方で蟠っている。


そんな理解に苦しむ世界を行く最中、ふと足元を見た木葉刑事は…。


(あっ、これは・・そっ卒塔婆?)


赤く歪んだ大地に転がる、朽ちて折れた卒塔婆。 その表面には、カビで黒ずんだ様子ながらに、何とか筆の文字が見える。


「うえ・・いや、上総かずさ?」


上総と云えば、千葉県北部の古い地名だ。 県名に代わる前は江戸時代の都、江戸の東隣側に当たる地名だろう。 幽かに読み取れた地名を知るとき、木葉刑事の脳裏に或る人物の話が浮かび上がった。


「此処は、まさか・・〔異界〕《いかい》か?」


思い浮かんだ或る話とは、あの鳥神神社の神主をする寡黙神主が教えてくれたもの。 悪霊や怨霊と云う幽霊が自由に動くならば、其処は現実の裏側の世界、“異界”と云う場所に向かうと言った。


“自縛霊の様に止まろうとも、柵を破って蠢き始めたとしても。 現実の世界へ姿を留め続けるのは、絶対に不可能とも云えます。 死んだ時間、死んだ日、死に強く関わった者、憎む相手など、様々な要因にしがみついて悪霊は現れる。 そんな霊達が自由に動けるのは、時間も、生も必要としない場所。 ‘異界’、‘死界’、云われ方は様々ですが。 その場所では、思念が固執して自由となるのです。 異界は、現世の古き過去の姿を持つと云われますが。 その土地は、合わせ鏡の様に成っているのでしょうな。 かの悪霊が利用している以上、行き来も難しくないらしい”


寡黙神主の話を思い出した木葉刑事は、あの広縞の悪意を取り込んだ威霊も居るのではないかと察し。


「此処が異界ならば、この世界の何処に広縞が居る?」


そう感じた木葉刑事は、悪霊と同化した威霊の存在を探る。 目を瞑り、辺りの思念を感じて行く。


すると、突然。


‐ 彼は、今は此処に居ないわ ‐


と、また不思議な声が聞こえて来る。


声に驚く木葉刑事は、脳内に響く様な声に対応するため、奇怪な空を見上げるようにして。


「どうゆう事です? 此処に居ないなら広縞は、今、何処にっ?」


想いを口にして問う木葉刑事に、また不思議な声が。


‐ 悪意のみとなる存在は、魂とは似て異なるの。 この世界と現実の狭間・・、膜の様な処を漂ってる ‐


「どうしたらいいんですか? 俺が此処に居ると云う事は、既に出入りが出来ないって事でしょう?」


‐ ちが・・う。 貴方は・・・まだ・・し・で・・い ‐


「えっ? 何てっ? 良く聞こえないっ」


その不思議な女性らしき声が、酷く掠れて聞き取れない。


‐ いき・さい、生きて・・戻りなさい。 舜! ‐


掠れる様な脳内の声の中で名前を呼ばれた時。 何か不思議な力に喚ばれた気がする木葉刑事。


「俺の名前をっ? どうし・・‘戻れ’って・・う゛っ!」


突然、朦朧とする意識、全身から力が抜けて行く。 まるで、大きい掃除機で精神を吸われる様な感覚で、頭から意識が抜けて行った…。




* * * * * * * * * *



【意識の目覚めは、密かなる決断への問い掛け】



         1



1度、既に死んだ様な感覚からすると、木葉刑事には前世となるかも知れない現実の世界にて。 新たなる人生の再開。 それはあのバラバラ・首無し事件の沈黙後より二月ほど過ぎた4月の初め。


(ん"、んん……)


この日、木葉刑事は意識だけで覚めた。


(からっ、身体が・・ピ・クリ・と・・も、う・動か・・ない…)


縛られている訳では無いが。 痛みと疲労感の混ざり合った様なものに身体が支配され、どうしようも出来ない程に重重しい。 更に、其処へと重力を受けてか、起き上がる力さえまだ入いらないらしい。


(今は・・・何時?)


夢か、魂だけの経験か。 あの異界らしき場所の記憶も在り、知りたい事が次々と湧き上がる。 今は、何時なのか。 あの後、どうなったのか。 広縞の悪意はどうなったのか………。


処が其処へ、ドアが開く音がして。 自分の居る部屋へと革靴の足音を立てる誰かが入るや否や。


「〔鵲〕《かささぎ》。 彼は、まだ寝ているのか」


と、年配男性の威厳すら漂わせる声がした。


木葉刑事は、それが誰のものだか解らない。


(か・・鵲参事官を・・呼び捨てに?)


すると、自分を上手く遣おうとした鵲参事官の声が応える。


「は。 長官、まだ・・見ての通りでして」


その遣り取りだけで、誰が来たのかを木葉刑事は知る。


(嗚呼・・たっ、太原・・警察庁長官…)


「そうか、まだ目覚めないか…」


太原警察庁長官は、歴戦の兵(つわもの)のような威厳を漂わせる、趣の有る還暦を超えた年配男性で在り。 スキッと伸びた背筋より歩む足取りを重くさせながら、その病室の窓へと向かった。 鵲参事官も自分を動かせる数少ない上司に従う形で、その後を追う。 木葉刑事が目覚めて居るのを知らずして、この二人は窓に向かった。 警察病院の特別病棟に在る、木葉刑事の眠る病室内にて。 ベットより窓に向かった二人は、大窓より東京の夜空と街の光景を眺めた。


窓から見える夜空が煙る。 靄の様な薄曇りの膜の所為で、星は見えない。 満月だけが、靄の中でもぼんやり光っていて。 そのぼやかし方は、何か見せたくないモノを隠す様であった。


窓へ、間際まで迫る一人は、還暦ぐらいに差し掛かった人物だ。 済ます顔に威厳と言える雰囲気が現れていて、立派な偉丈夫で在る。 警察官が見れば、誰だか解る者も多い。 現職の警察庁長官、太原だ。


その太原長官の後方に控えるもう一人は、40代終わりに差し掛かるかどうか・・と云う雰囲気の人物で。 押し黙る雰囲気を醸す引き締まった顔は、‘官僚’と云う職業がそのまま滲み出ていると見て取れる男性で在る。 彼こそ、木葉刑事を悪霊退治へと導いた張本人、鵲参事官だ。


窓に近い偉丈夫の太原長官は、色黒の中年男性となる鵲参事官へ振り返らずに。


「なぁ、かささぎ。 このまま木葉は・・目覚めないのか?」


そう言った太原長官から一歩引いた左側に立つ鵲参事官は、窓の下枠を見詰めながら。


「はい、その可能性も高いと…」


「そうか…」


年輩の偉丈夫となる太原警察庁長官は立派なスーツ姿だが。 その顔は悲痛と云うか・・沈痛と云う表情に染まる。


「鵲よ」


「は?」


「折角・・この木葉が、己の全てを擲(なげう)ってくれたのにっ。 こんな中途半端な形が、在るか? 然も、悪霊の母体は・・、あの広縞の悪意に取って代わっただとぉ…」


太原長官の物言いから悔しさが滲むのは、目を瞑る木葉刑事でも察するに余るし。  ‘警察庁長官付き参事官’と云う肩書きの鵲は、拳を握り締める長官を見る。


(この現実は、最も成す術の無い形だ。 あの広縞が、悪意として残っていたとはな…)


そう、太原長官と鵲参事官の云う通り、全ては不完全な解決を迎えた。


そう、迎えたのだ。


幽霊を視る事が可能な木葉刑事は、事の初めからして150人以上の死者数を出した悪霊を鎮め様とした。


驚くべきか、様々な恨みや怒りを持った者が憎しみを思えば、その念に反応して相手を殺し。 そして、その念の発端となる者も殺す。 “呪いの成就と呪いへの制裁”、こう言えば良いのだろうか。 最初は、結婚詐欺師に騙された女性が、金を持ち逃げした相手を憎んだのが始まりだった。 それから、次々と連鎖した。 その規模も1回1回を経る毎には、徐々に。 だが、対処をする側からすれば、まさに急速と言わざる得ない速さで大きくなった。 犯罪に手を染める者が多ければ、その被害者が連鎖に組み込まれても不思議は無い。 既に捕まり、裁判を待つ者。 判決を受けて、刑務所に収監された者。 果てまた、既に刑期を終えた者にも、その呪いの犠牲は広がり。 そんな相手を呪った者が、殺される。 悪霊の起こした事件が古川刑事と某国の大使の家族を殺した事で終止符を打ったが。 それから後は、まだ警察が確認する事の出来なかった事件が次々と判明して行く。 鵲参事官が確認している犠牲者だけで、凡そ150人を超えた。


このとてつもない大事件は、怒りと憎しみの凝縮された怨念が引き起こした。 その怨念が変容した悪霊の根元は、連続婦女強姦殺人事件を引き起こした犯人の、〔広縞〕と云う男が最後の犯行に選んだ被害者の怨念と。 他、6人の被害者遺族の怨念が集まって、人間そのものを憎む霊体に変異した為だ。


そして、事件を扱う警察も捜査する以外に対策無く、捜査本部全体に無力感が広がった2月上旬。


木葉刑事は、自分の親しい刑事の古川が奥さんを轢き殺された事で、犯人を強く怨んで、悪霊’を引き寄せた事。 その事実により、その全ての流れを止め様として、寡黙ことなし神主なる人物の協力を得て鎮魂を試みた。


だが、身勝手に殺された者、家族を殺され者の怨みは、実に強烈だ。 決する木葉刑事は命と引き換えにする覚悟にて、何とか悪霊に取り込まれた無数の魂と、怨念を持った怨霊達を鎮魂の途に導いた。


然し、あろうことか。 殺された者の魂の中ではなく。 怨霊達の中に、殺されたハズの広縞の悪意が潜んでいた。 広縞の悪意は、人間だった頃の広縞の悪心のみが抜き出されて、怨念の如き強い念を持って残っていたのだ。 怨念に現実的な干渉をする力を与えた〔威霊〕なる存在を、最後の最後に残った広縞の悪意が支配し。 彼は、新たな悪霊として復活した。 そして、古川刑事が呪った大使の息子と、呪った本人の古川刑事を殺した悪霊の広縞。


然し、それ以後は姿を現す事も無く、ぷっつりと行方が解らなくなった。 だから今は、平穏が取り戻せたのである。


だが、威霊を乗っ取った広縞は、この東京の闇の何処かに潜んでいる。


もし、それが暴れ出したら…。


制限時間の解らない、時限付き爆弾が日本の何処かに在る様なものだ。 然も、選りに選って、乗っ取ったのがあの広縞とは…。


悪霊の広縞が暴れ出す前に、鵲参事官や長官はその対処に備えたいが。 対処が出来そうな木葉刑事は、この通り倒れたまま死んだ様に眠り続けている。


今、成す術が無いままに、


“仮初めの平穏が永遠に続いて欲しい”


と、この二人は切に願っていた。


さて、朧げな月を見上げた警察庁のトップを預かる太原長官は、此処で横に少し顔を向けると。


「処で、鵲」


「はい?」


「お前、まだ木葉を完全隔離して、誰にも存在を教えてないのか? もう4月に成った。 何時まで、この隔離を続ける気だ?」


その棘の在るニュアンスを微かに含む言い方に、鵲参事官は顔を上げずに。


「はい・・。 コイツが目覚めたら、また・・・必要に成りますから」


‘コイツ’呼ばわりとは、木葉刑事も内心で苦笑いだ。


然し、


(鵲参事官の問題じゃ無い。 これは、俺の最後の仕事だ)


佐貫刑事と組む前から決めた覚悟。 それは全て完徹すると、誰の命令でも無いと決めていた木葉刑事。 今更にモノ扱いされたとしても、最初からそうだったと割り切れた。 そして、今が4月の入りで在る事も知った木葉刑事。


だが、間を空けて、太原長官の話が続く。


「鵲。 この木葉は、お前の奴隷では無いぞ。 彼を本心から心配する者を遠ざけ、木葉を私物化しようとするから。 お前を信じるに値しないと、木葉が隠し事をするんだ。 恭二が、お前に後処理を頼んだのも。 木葉が、同じく後処理を頼んだのも。 お前の思惑が独り善がりで、全てを悟る側からすると心許せないからだ。 信じるに値いするなら、頼る。 だが、値いしないから、頼れる処として後だけを頼る」


「………」


太原長官の意見には、策士でも在る鵲参事官が何も言えない。


また、その話を聴く木葉刑事は、鵲参事官も、太原長官も、相当に苦労していると察した。


(そうか。 俺は、まだ病院に隔離されてるのか。 ん・・・まあ、それなら都合がいいや)


と、こう想う。


一方、窓に顔を戻す太原長官は、変わりない東京の街を見ながら。


「鵲」


「はい」


「もうお前の持つ仕事に、今の肩書きが無意味だ」


「・・・」


「必要が無い、と云うんじゃ無い。 お前の才は、亡くなった三叉の場所が適所となろう。 これからは情報収集からデータの管理をしてくれ。 現場対処は、私が対処しよう」


「・・・は」


「それから、来週に木葉は下の階に移して、面会謝絶を解くぞ。 何時までも生死が解らんままでは、彼の少ない交友も断ち切れる。 そうなれば、木葉の協力者も消え失せ。 彼が孤立して、目覚めた時に開ける道も失う。 鵲、お前に其処までの権利が在るか?」


「・・・」


黙る鵲参事官から、ある種の反抗の気配が窺えた。


太原長官は、その気配を察してか。


「自分の事だけ考えるな。 それとも、お前も広縞の悪霊と命を刺し違える覚悟が在るのか?」


「それ・は…」


「君の娘の一人は、幾らか感じる力が在るのだろう? 相手があの広縞ならば、木葉より女性の身と…」


太原長官の言葉が全ての犠牲も許容する様な、そんな覚めた物言いに成ると。


「長官っ、私の家族は公務員では在りません…」


全てを聴きたく無いとばかりに、鵲参事官が太原長官の言葉を遮った。


「だろうな。 自分の身内に置き換えれば、人身が如何に大切か、それが解る筈だ。 木葉が気が付いて、また悪霊を追うかどうかは、個人に決めさせろ」


太原長官に釘を刺され、鵲参事官は強く言えず。


「・・は」


「さ、帰るぞ」


部屋を出る足音がする。 話を聴いていた木葉刑事は、正直な所で鵲参事官の目指す先など解らない。 だが、三叉なる人物を含め、鵲参事官が席を移動すると云う話は複雑だった。


(誰が管理者に成ろうと、この事態は変わらない気がする…)


然し、まだ本当の意味で、何も終わって無い。


木葉刑事は、意識だけ戻った身が情けないが。 身体が自由に成った後の身の振りを真剣に考える事にした。 この動けない時に目覚めたからには、広縞の悪意と戦う時に備えた行動をどうするか、深く考え始めた。



          2



4月上旬の終わり。


東京都内の或る場所に、敷地もなかなかと云う立派な家が在る。 三階建ての家で、間取りもそれなりに考慮されていそうな家だ。 庭は差ほどに広く無いが、敷地の四方の角には、桜、椿、梔子、桃と、花を咲かせる木が植わっていて。 右側の縁側と云うかテラスには、葡萄の蔦を這わせた庇が付く。 この庇、良く見れば高さを最大にした物干し竿4本と、その支えが本体で。 態とやったのか、葡萄を植えたらこう成ったのか…。 そんな印象的と云うか、微妙な形をしている。


さて、この日の朝。


「小母様、では行って来ますね」


穏やかな声を出してその立派な家から玄関先へ出たのは、青いブレザーに桃色のリボンネクタイをする、学生服姿の美少女で在る。 黒髪が背中まで流れ、清楚感も在れば、何処か大人の女性に変化し始めた雰囲気も在る。 目鼻立ちがクッキリして、さぞかし男性にはモテそうな美少女だと、一目で感じられる女性。


一方、その美少女の出た家の玄関内では、化粧っ気は無いが精神的に自立した様な、とても大人びた雰囲気を纏う年輩女性が立っていて。


「あ、詩織ちゃん」


「はい」


「帰りに悪いんだけれど。 駅まで着いたら、ウチの人へメールして。 あの人ったら、仕事以外の何から何まで色々と苦手でね。 お遣いを頼んでも、必ず何か忘れるから…」


玄関の外に出た美少女はこう云われると、笑顔で頷き。


「はいっ、先生をしっかり見張ります!」


と、敬礼をしてから道路に出て走った行った。


さて、黒い上下の部屋着姿で居る年輩女性が玄関を閉めて。 ゆったりとした足取りにて、12畳は有りそうなフローリングのリビングに戻ると…。


「明日香さん、監視を付けるとは心外ですよ。 夕飯の買い出しぐらい、私一人でも出来きます」


と、男性の声がする。


黒い部屋着の年輩女性にこう言うのは、50歳どうかと云う感じのトレーナー姿で居る男性だ。 ちょっと上目遣いにて、部屋に戻った少し年上そうに見える年輩女性へ不満げな様子で言うではないか。 少しヒネた子供が母親にモノ云う様子にも見えなくない。


だが、170センチを超えそうな身長を持つ年輩女性は、トーストを齧りながら言う起き抜け姿の男性を見返すと。


「アナタ。 そう言う事は、用意したサラダにちゃ~んとドレッシングを掛けてから仰いなさい。 また、どれがドレッシングか解らなくて、手短にお醤油なんか掛けて…」


年輩女性はそう言いながら、男性の服を用意する為に廊下へ消えた。


トーストを片手にした男性は、食卓で椅子に座りつつ。 醤油挿しを見てからテーブルの上を見回し、


(あ)


と、ドレッシングの入った白い小皿を見つけた。


この御間抜けそうな男性は、埼玉方面に在る有名大学病院に勤め。 外科医と解剖医を兼任している人物だ。 然も、大学では、


“何でも出来る〔越智水〕《おちみず》准教授”


と、生徒達から尊敬されているのだが。 家では、何故かこの体たらく…。 然も、着替えを持って来た妻の、明日香の前では。


「明日香さん。 昨日に着たシャツも着替えるのかね?」


「アナタ。 そんなシワの寄ったシャツを着て、仕事場に行く気ですか? さ、ズボンを御脱ぎに成って」


「はいはい…」


と、この通り。 下半身のトランクス一枚に成る越智水医師は、妻の明日香に云われるがままに。 上の下着からズボンやYシャツまで、全て着せて貰うのだ。


そして、朝の8時半ば頃。 トイレから出て来るのは、これまた二十歳前後の肩ぐらいまで黒髪を伸ばした若い女性。 その女性はリビングに来るなり、ズボンを穿かせて貰う父親を見て。


「お父さん。 詩織ちゃんもお父さんのその姿を見て、‘本当に驚いた’って顔をしてたわ。 見慣れてる私も、正直に言って久しぶりで恥ずかしさを覚えたわよ」


と、こう云うではないか。


理知的な顔ながら、先ほどに出て行った詩織と云う美少女とは、またタイプの違う雰囲気の彼女。 ‘美人’と云うよりは、今時の可愛い女性・・と云う雰囲気の娘、亜歌璃アカリに言われる越智水医師。


「亜歌璃、そう云われてもねぇ・・。 明日香さんが居ないと、私は生きて行けないから」


普通に、サラ~っとこう言う越智水医師で在る。


「ハイハイ、仲が宜しくてよ。 子供としては、その方がイイけれど〜〜」


呆れた娘の彼女は、キッチンへと向かう為に廊下へと。 自分に用意された食事を食卓へ運ぶためだ。


そして、今は日本に居ないが。 この越智水医師には、もう1人娘が居る。 次女の美礼みゆきだ。 海外の一流大学を目指し、海外の高校に自分から志願して移住している。 夏休みと冬休みに帰って来るが。 その娘を迎えた越智水医師は、また海外へ戻る娘に涙を流して見送るのだ。 娘が可愛い越智水医師に、新たな詩織と云う娘が家族となり。 この家は、明るさが増した。


大学病院にて‘天才外科医’とか、‘彗眼を持つ解剖医’等と言われて一線級を張る越智水医師は、今日も妻子に呆れられながら、出勤する準備をこうして整えた。


だが、この日は普通の朝とは違った。 木葉刑事が倒れてから姿を消して居る日々の中で、行方を知らされ無いままに。


“彼は生存し、一命は取り留めました。 ですが、これからその身柄を警察庁預かりと成る為に、面会は全て謝絶。 マスコミ対策として、居場所も伏せさせて頂きます”


と、突然に云われた時と同じぐらいに…。


では、何時もと違うのは、何か…。


9時を目前にして。 髪型もキメて、黒いビジネスバックを片手に玄関を出た越智水医師。 先に詩織なる美少女も向かった、この辺りに住む住民が利用する最寄り駅へと歩いて行こうとすると、直ぐの路上に見覚えの在る女性の姿が。


(おや、彼女は…)


視界に映るのは、黒いスーツ姿に身を包み、サングラスをしてストレートヘアの黒髪を首回りで揃える女性。 越智水宅の間近に在る公園前にて黒い車を路肩に停車させ、越智水医師を待って居たかの様に車へ寄り添って居たのだ。


駅に向かう過程で、その黒いスーツ姿の女性の前に立ち止まる越智水医師。


「あの時からすると、約二月ぶり・・ですか。 確か、〔茉莉〕《まり》さん・・・でしたな」


姓を呼ばれた黒いスーツ姿の女性は、後部座席のドアを開くと。


「ドクター。 本日は不躾ながら、大学病院まで送らせて下さい。 少々、此方からお話が在ります」


そう聴いた越智水医師は、他の歩行者がまだ多数に行き交う路上にて。


「話・・ですか」


と、呟き。


「では、御言葉に甘えましょうか」


と、すんなり申し出を受けた。


茉莉なる女性が開く車の後部シートの方に向かうと、越智水医師は後部座席に座った。


‘茉莉’と越智水医師が言った黒いスーツ姿の女性は、運転席に回るとエンジンを掛けて車を走らせ始めた。 そして、狭い路地から広い車道に抜け出した頃合いか。


「ドクター。 朝に、コンビニなどへは?」


気遣いされる越智水医師だが。


「大丈夫です。 大学で事足りますから」


こんな軽い遣り取りが為された後に。 黒いスーツ姿の茉莉は、運転をしながらに。


「ドクター」


「はい?」


「古川(ふるかわ)元捜査員のお嬢さんは、お元気ですか?」


窓から車窓の外を流れる都内を眺める越智水医師は、あの一件から今日までを回想しながら。


「流石に、あの古川さんのお嬢さんですよ。 お父さんが、事件を終わらせ様としてあの通りに殉職。 その知らせを受けて驚いたお祖父さんが、心筋梗塞で急逝したと云うのに…。 気丈にも毎日ああして元気に、学校にも通ってます」


と、答える。


越智水医師は、本心から詩織と云う美少女を立派に想う。 古川詩織の父親、古川刑事より託された彼女だが。 母親、父親、祖父と立て続けに亡くして。 その後、母方、父方の祖母二人まで立て続けに看取ったのだ。


(私が彼女ならば、もう立ち直れ無い。 古川さん、こんな立派な娘さんを遺して逝くだなんて…)


古川詩織を家に招いてからたった2ヶ月足らずの間で、何度となく同じ想いを考えた事か…。


その後の沈黙の中、頷いた茉莉は、


「あの事件で大怪我をし入院していた木葉刑事が、彼女と古川刑事を酷く気にして居ました。 残るは彼女だけですが、大学卒業まではお力添えを願います」


この話す流れを断ち切らせたく無いと、こう続けて来た。


然し、これは他人には云われたく無い事だ。 越智水医師は、少し覚めた物言いにて。


「それは、言われなくとも…」


一つの依頼と応えが交わされた所で、茉莉は本題に入ることにした。


「実は、警察庁よりご報告が有ります」


「報告?」


「はい。 昨日、木葉刑事の身柄を預かる者が変わりまして。 警察庁長官の決定に基づき、今日から木葉刑事の面会謝絶が解けます」


茉莉のした話に、初めて越智水医師が彼女を見た。


「本当に?」


「はい。 警察病院の別棟となる特別看護病棟と云う建物が御座いまして。 その5階の部屋に、彼のベットが移動します。 移動が今日なので、本日はどうか解りませんが。 明日からは見舞いも自由に可能でしょう」


「そう・・ですか」


顔の向きを窓へ戻して、今日にこの女性がわざわざ来た意味を納得した越智水医師。


だが、ふとまた疑問が湧いた。


「その話は、木葉君の知り合いには、全て?」


こう聞き返す越智水医師だが然し、その言葉に力は無い。


運転する茉莉は、サングラス越しからバックミラーを窺い。


「いえ。 木葉刑事は、親族と絶縁状態ですから。 お伝えするのは、ドクターと極身近な警察関係者のみに成るかと」


「なるほど…」


まだ気懸かりでも有るかの様な、すんなり喜べてない越智水医師。


「ドクター。 何か心配事でも?」


窓から街並みを見る越智水医師は、‘心配事’と云われると真っ先に或る一人の女性が思い浮かぶ。


「一人、伝えるのが面倒な女性が・・ね」


その言い方で茉莉の脳裏に浮かんだのは、美人女医の〔清水 順子〕《しみず じゅんこ》と云う人物だ。


「その心配とは、‘ドクター清水’の事ですか?」


すると…。


「あぁ。 今、彼女はね。 我が大学とは姉妹校と成る、関西の大学に特別出向講師として招かれ。 また向こうで開かれた医学学会に出席する為に、半月ばかりかな、京都へ行っている。 だが、帰って来たが最後、この話を聴けば木葉君の元へ入り浸るだろうな…」


「あ、それは・・ちょっと」


何で木葉刑事を面会謝絶にしていたかを考えると、入り浸りは困る茉莉だから。


「然し、ドクター清水も、仕事が…」


「ん・・それが、今は彼女にしてみても微妙な時期でしてね」


「微妙・・と仰いますと?」


「はぁ。 実は去年から、彼女を准教授にしようと此方の大学の役員の間から話が持ち上がりましてね」


茉莉と云う人物は、悪霊に関わった時の木葉刑事に纏わる経緯は、粗方だが把握していた。 特殊な任務に携わり、あらゆる情報の収集を要求されて集めたから。 越智水医師と清水順子の居る大学の内緒も、他人とは比べ物に成らない程に収集をしていた。


その為か。


「確か、ドクター清水は、あの事件の所為で上司と成る教授を失った筈。 若手の実力派で在るドクター清水ならば、論文も多大に評価されて居ましたから。 その申し出もすんなり行くのでは?」


と、こう言ったが…。


何処か困って居る表情の越智水医師。 額をさすりながら、ちょっと恥を曝すかの様な様子から。


「貴女の云う通り、‘すんなり’と行けば良かったのだがね…」


「何か、支障でも?」


「医学部時代の彼女へ医学を教えた者としては、こんな事を云うのも恥ずかしいが。 見ての通りに順子クンは、誰もが頷ける才色兼備だ」


「ま・・、確かに」


「その彼女が出世するとなり、無理矢理に親族を結婚させようとした或る理事が居ましてね」


「無理矢理・・ですか。 確かに、権力や役職がモノを云う世界では、若くして准教授に成る美人は・・」


「えぇ。 将来が約束されてますからね。 親の威光を頼る異性には、最高の結婚相手…」


人間の詰まらない習性の様で、茉莉は黙る。


越智水医師は、茉莉の沈黙を貰って。


「警察関係者の貴女でも、詰まらない事だと感じますか?」


と、問う。


然し、仕事柄から、その世界を見て居ながらに。 役職に在る者が優秀な人材と子供を結婚させる事に、大した意味は見いだせ無いと感じる茉莉。


「・・私は、直接的に警察機構に組して居る訳では無いので。 その手合いは、別世界の様に思えます」


と、中立的な事を云った。


「そうですか…」


「はい」


越智水医師の物言いは、何となく悟るニュアンスが含まれた。  自分の感覚に突っ込まれては、何となく話をしづらい茉莉。 長く間を空けて欲しくは無いので、続ける様に自分から。


「ドクター。 ドクター清水は、大学を辞すると?」


誘い水を出され、越智水医師は中途半端な頷きを見せると。


「実は、その順子クンがですね。 その・・理事の親族を訴えそうに成りまして。 相手は大学運営の理事の一人。 普通はそんな事をすると、順子クンが離職問題と成るのは当然です」


「ですが、そうなった…。 詰まり、押し売りが強過ぎた所為ですか?」


「はい。 ですが、その訴えると言い出した一番の根っこと成ったのは、実を云うと木葉君の存在が絡んでの事なんですよ」


「は? と・・仰いますと?」


「いえ、ね。 言い寄った相手の理事が、順子クンの周りを探偵を遣って調べ、木葉君の存在を知り。 彼の過去をそこそこ調べましてね」


「それは、全て探偵を使って?」


「と・・言いますか。 向こうの理事も、有名大学を出て居ます。 同期や先輩後輩の人脈には警察関係者も居りますから。 それに、探偵も織り交ぜて…」


木葉刑事の人生の大体は、茉莉なるこの黒いスーツを着る人物も色々と知っていた。 彼の人生には、他人に語るべきでは無い部分が在る。


茉莉は、眉間を少し険しくすると。


「ドクター。 その理事の方は、木葉刑事の過去の何処まで調べたのですか?」


「そうですね。 母親が不倫をして、彼と父親を捨てたと云う情報とか。 後、彼が捜査情報や捜査物件を違法に隠したり出したりしている・・と云う嘘の辺りです」


「それは…」


‘偽りの情報’


と、安堵した茉莉だが。 併せて口に出し損ねた感想を飲み込んだ。


木葉刑事は、幽霊を視る事が出来る。 その過程で、事件の情報や物証を正しい認識で得る事が可能だった。


然し、だ。


普通の刑事は、それを一つ一つ調べて漸く知る。 尋ねて、調べて、知るのだ。 最初から一見すると、物証とは思えない様な物。 または、聴き込みをしてみないと解らない事を、直ぐに理解するなど普通では無い。 それが出来てしまう木葉刑事は、幽霊からは無念を。 仲間や上司からは、疑惑を持たれながら刑事を続けていた。


「ドクター。 その事については、此方から手を回させて頂きます。 警察内部の情報が第三者により勝手に渡っては、此方としても困りますから」


すると、越智水医師が弱く微笑み。


「それは、良かった」


こう言ってから、窓に顔を戻すと。


「然し、やはり問題は、順子クンの方でしてね。 彼女は、我々やあの事件の経緯から、木葉君の粗方を知ってしまった」


「なるほど。 つまり、その云われる半分が偽りと云う事を知っている…」


「そうです。 それから、‘不倫’などは人間の世界では昔から在る事。 彼女は、木葉君の母親の死の事実は知りませんが。 刑事としての彼を知る為に、薄汚い遣り口を利用した理事から木葉君のことを讒言されて、怒り心頭してしまった」


この茉莉は、順子と云う女性の気質は幾らか知っている。 頭は良いが、それ以上に行動力が突出した部分が在る。


「その時は、修羅場ですか?」


「はい…」


濁りの在る返事をした越智水医師は、頷いてから少し間を空けて。


「理事は、木葉君の真の能力を知らないので、手柄を一人で焦り過ぎたから怪我をした・・と」


「普通は、幽霊など視えませんし。 それに対処の出来る者も、殆ど知りません。 彼が他人を巻き添えにしない様にとした事も、肝心な部分が見えなければ・・そう思われても仕方がない」


「ええ、その通りです。 然し、順子クンは視えなくても、木葉君が視える事を知っています。 ま、関わる経緯から、否応無しに知ってしまった。 それ故に、彼を悪く言われたら…」


「交わらない平行線の様な、終わりの無い言い合いに成りますね」


「そうです。 然も、実際のやり合いでも、順子クンの方が上手でした」


「と・・仰いますと?」


「木葉君と云う警察官の内部情報を含め、他人の過去を全て調べた気に成って勝ち誇ったかの様に振る舞った理事ですが。 その情報はかなり詳細で、そうなると情報源には警察内部の者が関わる・・と彼女は察した。 警察にその資料を持って行き、個人情報の保護違反などに問える刑事事件にして。 その後、その情報を元に結婚を押し付けたと、民事訴訟も起こすと言いまして…」


其処まで聴いた茉莉は、思わず。


「なかなか、賢い・・ですね」


頷く越智水医師で。


「ま、彼女は、ね。 お父様の病気の事が有り、その過程が有った為に医師に成りましたがね。 本当は弁護士をしながら、小説家に成るのが最初の夢だったらしく。 そうゆう機転は、良く働くんですよ」


「ナルホド…」


以前に茉莉は、鵲参事官からの命令にて入院していた木葉刑事を見張っていた。 その頃に、自分へ堂々と声を掛けた順子には、少々驚かされた記憶は新しい。


(あの気質だから、確かに気性は強い…)


偽りで木葉刑事と引き剥がすと云うならば、その罪を明らかにして対抗すると意志を固めた順子。 理事と対立した順子だが、あの一件で警察関係とも連絡先を交換していた。 順子が挙げた証拠や情報は、最終的に警察庁の査察や監査を行う所まで行った。 コレが明るみとなった為か、相手の理事を失脚にまで追い込んだ。


また、この理事の薦める結婚相手とは、理事の甥で。 この甥は前に一度、順子のマンションまで来て、順子を車に連れ込もうとした経緯が在る。 茉莉が連絡して警察官が駆け付けていた事も有るから、情報が警察に行けばどんな事に成るか…。


理事の一人が、この事から失脚した事で。 医学部の役員や大学の理事会の役員が思い知らされた。


“この順子に在り来たりなエサをぶら下げる事や結婚などの結び付きを押し付ける事は、彼女を職場から追い出す事になる”


と、認識した。


順子の行動は、少なからず普通の職員にも何らかの影響を与えた様で。 職場内のイジメや偏見を無くす様に、要望が出され始めている。


然し、順子本人は、地位や好待遇を望んだりはしない。 医学への勉強に必要な情報と患者へ如何にスタッフがより良い仕事をするか、それしか考えてない。 だから順子は、自分の時間を無理して削り仕事をしないし。 他に成り上がろうと云う者を、自分から邪魔しない。


今、順子の代わりに准教授に成ろうとしている医師が、男女それぞれ一人づつ居る。 だが、順子がその二人を差し置く行動はしないし、自分のことに関わらない上の方針にも口出ししない。


だが一方で順子は、警察にも出向き、木葉刑事の所在を知ろうとしていた。 通院を言い渡されたのに、それを無視して悪霊と戦った彼。 その彼を収容して病院に運んだのは、運転するこの茉莉本人だ。


その後を預かった鵲参事官は、木葉刑事を隔離する事で、幽霊に対する知識を有する越智水医師や。 悪霊と戦う知識を授けた寡黙ことなし神主を知る。 然し、寡黙神主が伝えた事実に、鵲参事官は絶望を覚えたとか。 それは、悪霊の脱け殻と成った霊体を奪ったのは、悪意の塊と成る広縞で在り。 広縞の乗っ取った〔威霊〕と云う存在と何度も触れ合った木葉刑事でなければ、戦うにしても、無駄に人命を奪う事に成るだけだと言われたからだ。


“木葉刑事の代用を生み出す事は、不可能に近い”


それを知った鵲参事官は、目覚めたらまた‘相殺要員’にする為、木葉刑事を隔離して面会謝絶の状態にした。 云わばモノとして、自分の権力下に収集した訳だ。


何故に、鵲参事官は此処までの事をするのか。 それは、予想外の事が幾つも立て続けで起こったからだ。


その一つは、鵲参事官を出し抜き、その地位を自分の物にしようとした三叉なる情報管理局の局長が、勝手に現場へ来て殺された事だ。 また、広縞の悪意にて蘇った悪霊に因り、無惨にも殴り殺された大使の息子だが…。 目的地に着く前に、飛行機が爆破された。 その爆発に至る原因は不明で、スタッフは全て大使が用意した。 一部の捜査員の間では、大使が暗殺したのでは・・と、憶測が飛んだ。


警察庁としては、国の意向を受けて。 殺された古川刑事の遺体の傍に在った大使の息子の首を密かに処分して、箝口令を敷き闇に葬った。 幽霊が関わる事件なだけに、こんな物が残っては厄介以外の何物でも無い。


然し、漠然とした不安はいまも拭い切れないままで。 消えた広縞の悪意を持つ悪霊が何処に消えたのか、それを追いたい。 が、追える者が居ない為、やむなく放置している状態で在る。


そして・・大学まで、越智水医師と茉莉の話は細々と続いた…。


さて、その日の夕方。


東京都狛江市に在る聖凛学園にて。 進学課のクラスに在籍する古川詩織は、仲の良い同クラスの女子生徒と図書室で勉強をしてから帰った。 春先、新しく3年生に進級した詩織は、今だに成績は優秀で在り。 母、父、祖父、二人の祖母と亡くした悲しみを秘め、涙を見せずして登校していた。


春の今は、母や父親が亡くなった頃に比べると陽がだいぶ伸びて、暮れなずむ夕日を受けて電車に乗る。 アイドルの勧誘にも頻繁に遭うぐらいの詩織だから、人に見られるのも屡々だが。 それより今は、自分の将来という大切なものばかりを抱えていて、他の余計なモノに眼が行かない。


さて、2月の中頃。 父親、祖父と立て続けに亡くして。 然も、木葉刑事も居ない中、一人でこの先どうしようかと困っていた時だ。 心配して訪ねて来た越智水医師から。


“詩織さん。 もし、君さえ良ければ、大学卒業まで私達家族と一緒に住まないかな。 木葉君と古川さんに頼まれた私は、君が卒業するまで見届けたい”


と、言われた。


越智水医師から、木葉刑事と父親が送ったメールを見せ貰え。 また、警察から帰って来た父親のスマホの中に、自分宛ての遺書が在り。 その中でも、


“俺が死んだ後は、越智水医師や木葉刑事を頼れ。 この2人だけは、俺が本心から頼れる人だ”


と、書いて在った。


詩織は、1日をゆっくり考えた末に。


“先生、一時の間・・頼ってイイですか?”


と、申し出に答えた。


さて、同居を決めた詩織は、越智水医師の妻で在る明日香や、娘の亜歌璃と会って落ち着いた。 大人として成熟した明日香、優しく朗らかな亜歌璃と一緒に生活して救われた。


“私は、絶対に負けない”


越智水医師の家族に助けられた詩織は、そう心に誓った。 その心の強さは、両親からの愛情が齎したものだろうか。


電車を乗り継ぎ、中野区に在る越智水医師の家に帰る詩織。 駅前から歩いて少しのスーパーで、今日は早い上がりの越智水医師と落ち合う予定だ。


だが、この詩織にしても予想外なのは…。


(ハァ。 先生って、仕事や物事にはあれだけしっかりしているのに。 どうして私生活は、とんでもなく甘えん坊なんだろう…)


正直、妻の明日香に対するべったり感は、詩織ですらドン引きした。 その様子に、実の娘となる亜歌璃が詩織に言った。


“ゴメンね。 お父さんって、お母さんナシじゃ生きて行けないの”


然し、それは詩織の父親も、或る意味では全く同じで在る。


(お父さんと、半分ソックリ…)


と、こう感じた詩織。


また、一番に詩織を安心させたのは、仕事は出来るし精神的にも生活も自立したカッコイい女性の妻で在る明日香。 彼女の存在は、詩織の理想に近い人物で在り。 一方で木葉刑事を良く知る娘の亜歌璃は、詩織には上級生のお姉さんみたいで在り。 彼女は、越智水一家とは非常に付き合い易かった。 越智水医師の一家と一緒に暮らして、まだ一カ月と少しだが。 馴染みが早い事に、ちょっと自分を戒めたい詩織で在る。


処が。


もう一つ、越智水医師について詩織には不思議な事が在る。


それは…。


「あ、詩織クン。 こっちだ」


スーパーの前で、帰りの越智水医師と落ち合う詩織だが…。 二人してスーパーの中に入って。


「えぇっと・・豚肉の小間切れは、これか」


越智水医師が取り上げるのは、外国産牛肉の小間切れで在る。


「先生、それは牛肉。 豚肉は、こっちです」


「あ、あら」


夕方の買い物時ともなれば、商品が他人の手で混じる事も在る。 越智水医師は仕事では緻密な人間なのに、こうゆう事には安穏として素直が過ぎる。 コーナーがそうならば・・と、モノを良く見ずに買うのだ。  以前、初めて買い物に付き合ったときに。


“木葉さん。 この人・・本当に、仕事の時の先生と同じ人なんですか?”


と、居ない木葉刑事へと疑問を投げかけた。


早速、ギャップに困る詩織から手渡して貰った肉を籠に入れると。


「あと、砂糖だが…」


越智水医師は、砂糖のコーナーに入るってまた腕組みして悩み始めた。 料理用の砂糖を頼まれているのに、三温糖やらコーヒーシュガーやら見ているのだ。


それを見て居られない詩織は堪らずに。


「せ・先生、明日香さんの使っている砂糖は、コレですよ」


差し出された砂糖を受け取る越智水医師は、


「あら、コレだったか」


と、すんなり受け取った。


立派な人物だと父親や木葉刑事から聴いていた詩織で。 医師としては一流だと直ぐに知ったが、この姿を見ると。


(う~ん、お父さんよりヒドい…)


と、思う。


実は、亡くなった父親の古川刑事も、奥さんから頼まれた買い物をする時。 買うべき品が解らないと、いい加減に他の物を買ったり。 似たような商品が多いと、数種を一気に買う事が在ったが…。 この越智水医師は、悪い意味でそれより更に上手で在る。 結局、明日香より頼まれた物を全て、この詩織が吟味した。


その後、買い物を終えて家に戻れば丁度、妻の明日香が帰って来た時と重なる。 車庫で車から降りた明日香は、玄関先で会った詩織に。


「詩織さん、買い物の付き合い大変だったでしょ」


と、笑う。


「は・いえ…」


何度も経験して居るが、毎度悩む為か思わず‘はい’と言い掛け、飲み込む詩織。


二人して仲良く家に入ると、互いに部屋で部屋着に着替え。 明日香が料理を作り、それを手伝う詩織だが…。 手伝って貰う明日香は、アレコレ言わずとも次々と手伝える詩織を見て。


「詩織さん。 貴女ってば、本当に手際がイイわね。 御両親の教えが、良く窺えるわ」


明日香は、自分の言った通りの買い物をして、手伝いもこなす詩織にこう言って笑顔を見せる。


「父親さんの仕事が不定期だったので、手伝ってした方が早く自分の時間が持てますし。 母と二人して色々と話せましたし」


すると、明日香は苦笑いながら。


「貴女も、御両親も、本当に立派だわ…。 それに比べてウチの家族は、私以外がヘンな処だけ似てるのよ」


サラダを盛る詩織は、その話を聞いてギョッと驚いた。


「え゛っ? それじゃ・・・あ、亜歌璃さんや美礼さんが・・先生と?」


芸術大学の音楽課で大学院生に成る娘の亜歌璃は、ひと月ひと月で居る時と居ない時が在る。 ヴァイオリニスト、ヴィオニストとして、既に楽団へ所属していて。 演奏会やら発表会にで、日本国内外に行っている事が在る為だ。 また、自分より1つ年下となる美礼は、生物学や考古学が好きで、海外の最先端を行く大学を目指して留学した。 何方も、普段の越智水医師と似ているとは思えない。


また、今は都内での仕事が集中する為、実家に戻って居る亜歌璃で在る。


すると、詩織の態度を見て困った様に頷く明日香。


「見た目は、違う様に見えるわ。 でも、亜歌璃もね。 勉強とか、仕事はしっかりやるのに、料理はまるでダメ。 洗濯や洗い物も、主人に似ていい加減なの」


「明日香さん、それって本当ですか?」


この1ヶ月と少し。 一緒に生活していた詩織は、半月ほど亜歌璃を見て居たが。 そんな様子は見えなかった。


(でも、ちゃんと料理は自分で持って行くし、洗濯物だって亜歌璃さんが部屋へ…)


そう考えて居ると。


(あ、そう言えば…。 自分で料理をした事は無いし、洗濯も最終的にスイッチ押すだけ。 自分で畳んでいる所は、見たことが無いわ)


それに気付いた詩織は、サラダを盛りながら。


「あの、亜歌璃さんを一人暮らしさせない理由って、それですか?」


「えぇ。 あの娘に家を一週間くらい任せただけで、冷蔵庫の中身は賞味期間なんか関係無くなったジャングルに成るわ。 然も洗濯機の中は、洗いっ放しの衣類で溢れ返るわよ」


「あ、はぁ…」


返す言葉が無い詩織。 明るく朗らかな優しいお姉さんのハズが…。 様子を想像するだけで、身震いする想い。 そんな話をする内に、亜歌璃も帰って来た。 食事を済ませる一家だが、越智水医師の甘えん坊の姿は、何度見ても詩織を驚かせる。


そして、詩織はもう1つ疑問が浮かぶ。


「では、妹さんの美礼さんは、全然違うんですね」


「あ、あの子は、基本的に亜歌璃とは全然違うわ。 綺麗好きな方だし、私に似てる方よ。 でも、考古学とか、生物学が好きな点は、夫に似てる。 それで、趣味とか、勉強に没頭すると生活がいい加減に成るのは、夫譲りね」


「先生の話では、その方面の学者さんに成るのが夢とか」


「うん。 もう、それしか目指して無いみたい」


「木葉さんが、少し面白い人って言ってましたけど」


「あぁ、そうね。 今時の若者が好む流行りとかは、余り興味無いみたいだけど。 木葉さんとは、ウチの人より話が合う子だわ」


「え? 木葉さんと?」


「そう。 雑学とか、ホラーとか、変な事に興味を持つ子でね。 事件を解決する木葉さんを、“先生”なんて呼んで困らせてたわ」


「へぇ…。 でも、木葉さんは、お父さんの目から見ても優秀な刑事さんみたいですから」


「ウチの人も、そう言ってるわ。 警察で木葉さんに悪口が上がるのは、やっかみだって言うし。 私も、彼に不正は必要なんて全く無いって思うのよ」


どうやら詩織も、越智水一家も、木葉刑事の普段を幾らか知っているらしい。 木葉刑事の雑談で食事の支度を終えた二人。 食卓に運ぶや、越智水医師が買ってきた食材を探し始める。


そして、夜の9時を回る頃。


風呂も歯磨きも終わった詩織が、自室の在る三階に行こうと云う時だ。 妻から寝間着に着替えさせて貰った姿の越智水医師が。


「詩織クン、ちょっといいかな」


と、リビングへ誘って来たではないか。


「あ、はい」


不思議に思った詩織。 トレーナー姿の越智水医師だが、その顔は甘えん坊亭主の顔では無く。 自室にて仕事をしているときの顔つきに似ていた。 リビングのL字のソファーに呼ばれた詩織は、越智水医師とテーブルを面して近くに座る。


越智水医師は、一つ大きく深呼吸すると。


「実は、ね。 今日、警察関係の方から或る知らせを受けたんだ」


‘警察関係’


と、聴いた詩織も、顔を緊張させる。


「それは・・・父の事でしょうか」


「いや、木葉君の方だ」


‘木葉刑事’と聴いた瞬間、詩織が越智水医師へと迫った。


「先生っ、木葉さんがどうしたんですか?」


少し声を強めた詩織の態度からして、やはり一番の心配が彼の存在だ。


“一応は、彼は生きている”


と、二か月前に警察庁の者から云われただけだったからだろう。


さて、詩織から迫られた越智水医師だが。


「詩織クン、安心なさい。 悪い話では無いから」


「え?」


「今だ、彼は眠ったままだが。 肉体の回復度が一定を越え、検査も終わって別の特別病棟に移るらしい。 面会謝絶も取れて、お見舞いが出来るそうだ」


この朗報を聴いた詩織の顔が、見る見るうちに崩れてゆく。 これまで殆ど涙を見せなかった詩織が、涙をぽろぽろと流し始めて。


「良かったっ。 木葉さんだけでも・・生きてるぅ…」


そのまま大泣きし始めた詩織だから、その声を聴いた妻の明日香も、娘の亜歌璃まで部屋から降りて来た。


「アナタ、どう為さったの」


「どうしたの詩織ちゃん。 だ・大丈夫?」


家族が揃った処で、越智水医師が木葉刑事の状態を教えた。 詩織の泣く姿を見て、明日香や亜歌璃も、如何に木葉刑事が詩織の大切な人物なのかと解る。


越智水医師は、明後日の土曜日は夜から仕事なので。


「土曜日の午前中、一緒にお見舞いに行こう。 一度行けば、詩織クンも部屋を覚えられる」


泣く嗚咽から声の出ない詩織が、顔を手で覆いながら何度も頷いた。


何故、こんなにも詩織の心には、木葉刑事の存在が在るのか。 その答えは、これまでの付き合いに加えて、父親の遺したメールの未送信に在った手紙の存在がある。


‐ 詩織へ。


今、俺は…。 木葉に返せない程の迷惑を掛けている。


木葉は、お前の為と、和世の為と、俺を捜している。


退院したばかりの身体で、不必要な無理してる。


詩織・・。


アイツに会えたならば、謝ってくれ。 そして、礼を言ってくれ。


和世が、木葉を好み。


‘息子みたい’


と、言った意味。


俺は・・今頃に成って解って来たよ…。


済まない、詩織。 お前には、迷惑を描ける。 済まない…。 ‐


この一文を読んで、木葉刑事に見せたかった詩織。 警察に問い合わせても、部署が違うとはぐらかされたが。 漸く、言えるらしい。


越智水一家も木葉刑事との付き合いが在るのだが。 詩織がこほどに強い繋がりが在るのか、と驚いた。




           ★



4月、中旬に切り替わろうと云う、或る土曜日。


警察病院の特別病棟5階にて。 詩織が越智水医師と一緒に、木葉刑事を見舞いに来た。


ベットに横に成る木葉刑事は、既に意識は目覚めて居たが。 自分の身の振りを考える為、微かに動かせる様に成った指すら動かさない。


然し。


(越智水先生。 詩織ちゃんと来てくれましたか…)


と、来た相手を察する。 越智水医師の雰囲気や醸し出す背後霊のオーラと言える気配は、もう木葉刑事には慣れ親しんだもの。 一方、新たに母親の和世と二人して居る詩織の事も、同じ部屋に入れば良く判る。


だが、安穏と目を覚まし、只単に前と同じく過ごせば。 広縞の悪意に染まった悪霊を捜すにしても、誰かを巻き込み兼ねない。 自分が起きてからどうするか、それを決めるまでは目覚めを誰にも悟られたく無い木葉刑事だった。


さて、そんな彼の心持ちなど、部屋に入って来た二人は知りもしない。 死んだ様に寝ている木葉刑事を覗き込む詩織は、ベッドの横に椅子を使って座ると。


「木葉さん、やっと逢えたね。 心配してたよ。 みんな・・心配してたよ…」


言って居る最中に、涙ぐむ詩織。 父親が死んだあの時から、木葉刑事に会いたくても会えない。 生死すら確かめられない中で、安否を心配し続けていたからだ。


ベッドの足元に立つ越智水医師も。


「木葉君、生きて会えて・・良かった」


と、目頭を抑える。


聴いて居る木葉刑事は、


(先生、後の事は大変だったですか? 詩織ちゃんの事、宜しくお願いします)


と、思って居ると…。


詩織は、木葉刑事の痩せた手を握り締めて。


「あのね、木葉さん。 私、今は越智水先生の御家族と、御一緒させて貰ってるの。 居候・・させて貰ってるの。 木葉さんも、お父さんも、先生を頼っていいって・・・言ったからね」


詩織の話に、木葉刑事の胸のつかえは取れた。 越智水医師の元ならば、一安心と云えた。


(先生、有り難う御座います)


そこへ、軽く鼻を啜った越智水医師が。


「木葉君。 詩織クンの事は、任せてくれ。 妻も、立派な娘が増えたと喜んで居たし。 亜歌璃も、新たな妹が出来たとな。 ははは、結局の処で、私が家では一番弱いよ」


また、詩織も。


「木葉さんが、先生の愛妻家ぶりはウチのお父さんと同じって言ったけど、その意味は、同居して良く解ったわ。 甘えぶりは、ちょっと驚いたけどね。 大学卒業まで、居させて貰います」


「甘えぶりって、木葉君。 前情報を渡していたのかい? 困ったな…」


二人の話で、木葉刑事も凡そ、その様子が頭に浮かぶ。 越智水医師の奥様への甘えは、正にマザコンに近いものが在るからだ。


(先生。 多分は、大抵の人に驚かれますよ。 ま、明日香さんにドップリなのは、悪いとも思いませんが。 亜歌璃さんの仕事が出来ても家事が出来ない性格は、先生そっくりですから)


口には出さないが、三人で会話をして居る様で。 その後、詩織から祖父母まで亡くした事を聴いた。


一方、越智水医師からは、霊体の事に関わる以外の近況を聴かされた。 犯人の行方が解らないままに、事件はぷっつり起こらなく成ったとか。 大使の息子の乗った飛行機が、経由先のシンガポールへ向かう海の上空で爆発されたとか…。


黙って寝ているが、色々と聴く事が出来た。


午前中一杯まで居た二人は、木葉刑事を見て安心を得るまで話し掛けて居た。


さて、木葉刑事への面会謝絶が解けた。


彼を取り巻く環境の変化は、死者の数だけ大きく変わった。 古川刑事の娘の詩織のみならず、彼と関わった者に多大なる変化が訪れた。 鵲参事官の部所移動も然り、特殊部隊に所属する茉莉隊員の班も長官付き特別部隊に変わった。


然し、広縞の悪意は何処へ消えたのか。 その行方が誰にも分らず、木葉刑事が目覚めぬ今は不安しか湧かない平穏が続いていた。


目覚めている木葉刑事は、一体どうするのだろうか…。





春、様々な新しい変化が訪れる頃。 様々な人に、その変化は遣ってくる。 そして、今。 大きな変化の真っただ中に在る1つは、人事や部署の改編に忙しい警視庁だろう。 異例の人事交代や刑事の入れ替えが行われ。 一般に向けた警察官の中途採用の募集も大々的に行われている。 4月には、新人が入る頃だというのに、だ。


その原因は、全て殺人犯の広縞から端を発した悪霊の起こした事件に起因している。


地方には府警やら県警と言った、各都道府県の警察を統べる支部が在る。 “警視庁”とは、県警や府警と同じく『東京都警察本部』に当たるのはご存知だろう。 だが、その存在感たるや、やはり警察官のエリートが集まるから、別格とも云えるだろうか。


さて、悪霊が招いた“連続首無し・バラバラ惨殺事件”は、事件を管轄する警視庁に大打撃を与えた。 警視庁や都内警察署に勤める刑事や警察官に、深刻な精神被害を及ぼした。 また、拘置所、刑務所でもバラバラ殺人は20件以上も起こっていて。 その事件に関わった職員も、どうして事件が起きたのか解らず。 責任を追求されたり、酷い死体を見て辞職・休職に追い込まれた者も多く居る。 今、都内の刑事や警察官や刑務官の内、3割強が移動願いやら退職願いを出して居る。 警視庁としては、新たな募集をする為に関東一帯の警察署に推薦を掛けて、人事入れ替えを警察庁に申し込み。 今やその人事の入れ替えが着手され始めていた。 然し、警視庁も捜査力の質を下げたくないのは、言わずも知れた本音で在る。 そして、その変化の兆しは、もう木葉刑事の居た篠田班にも及んで居た。


その為、警視庁の一部を紹介しながら、その新たな変化について描いてゆきたい。


先ず、警視庁には捜査一課から三課までと、組織対策課、鑑識課などが在る。 刑事もののドラマを見れば、捜査一課や鑑識課などは当たり前のように登場するだろう。


では、『捜査一課』とは何をするところかと云うと。 


{暴行・傷害・殺人・性犯罪・放火・強盗・立てこもりなど}


と、主に対人対物の直接的な被害に関わる事件を扱う。


また、捜査一課には、それぞれ‘第一強行犯捜査’から‘第七強行犯捜査’と云う区分に分けられて居る。 そこをざっくりと説明するならば。


第一強行犯捜査には、1係と2係が在り。 1係は、主に捜査一課全体の庶務課となり。 都内の事件発生後に、警視庁捜査一課長と共に、様々な庶務に動く。 2係は、警視庁捜査一課長が捜査本部を設置すると決めると、事件の在った管内の警察署に捜査本部を設置すべく、設置作業から様々な連絡・調整に動く。 また、基本的に所謂の科捜研〘科学捜査研究所〙は、この2係に含まれている。


そして、第二強行犯捜査から第五強行犯捜査には、それぞれ1係から9係までの刑事達が配属され。 一つの係には、5~7人の刑事と主任(班長)で構成される班が、二組ずつ編成されて居る。 因みに、木葉刑事が居たのは、第二強行犯捜査‐2係、篠田班で在る。 そして、第二強行犯捜査から第五強行犯捜査までの刑事達が扱うのは、傷害事件と殺人事件が主に、だ。


次に、第六強行犯捜査。 此処は主に、強盗、性犯罪、暴行、または連続した暴行事件や傷害事件など扱う。 然し、その被害者が死亡した場合には、第二強行犯捜査から第五強行犯捜査に所属する班が捜査を引き継いだり。 また、捜査に加わる事に成る。


そして、第七強行犯捜査と云う所は、放火や失火事件を扱う。 此処でも死人が出て殺人や殺人未遂と判断されると、第二強行犯捜査から第五強行犯捜査までに所属する班が一課長の判断で投入されたり、事件を引き継ぐ事が在る。


その他、第一特殊犯捜査、と云う専門も在り。 立てこもりや人質事件に対応する、特殊犯捜査1係。 電話や怪文書に因る脅迫や恐喝を主に担当する特殊犯捜査2係。 飛行機やら電車などの事故、爆発、爆破の各事件と、労働災害に絡む業務上過失致死事件を扱う特殊犯捜査3係が在る。


そして、木葉刑事達が所属する第二強行犯捜査から第五強行犯捜査と共に最も悪霊事件で振り回されたのは、特異事件を扱う第二特殊犯捜査と云う所に所属する刑事達で在る。 捜査員の中でも、様々な事件に対応が出来るという彼らだったのに。 悪霊の起こす事件の前では、他の刑事たちと同様に肩を落としていた。


また、一課のその後には、事件捜査に於ける最後の砦。 捜査本部が無くなった後も継続して事件を捜査する、特命捜査対策室と云う専門が在る。


この全てが、俗に云うならば捜査一課で在り。 その全てを取り仕切る現場監督が、捜査一課長と成る。


さて、木葉刑事の所属しているのは、この捜査一課だが。 今後の話には、他の課も多少関わり合う事も在るので。 ざっくりと他の課を説明をする。


続けて、『捜査二課』とは、知能犯罪を扱う専門捜査課だ。


{各種詐欺・横領・背任・選挙違反・贈収賄・政治資金規制法違反・官製談合防止法違反・企業犯罪・金融機関を軸とした知能犯罪・通貨や公債偽造・不動産奪取及び境界の不正移動他・名誉や信用毀損他、等々}


捜査二課は、一部が組織犯罪対策課と被る所も在るが。 主にこれらの犯罪に対し、一課の様に細かい専門の係を設けて対処する。


次に、捜査三課は、或る意味では地味な捜査を扱う。


{自動車窃盗・預金通帳窃盗・他各種窃盗・すり・等々}


他の課に比べると地味に思えるが、窃盗団やら名うての‘すり’を捕まえると云うのだから、他の刑事とは違った意味で特殊な部署といえよう。


それから、暴力団などの組織犯罪に関わる部署は、他県の警察本部では概ね捜査四課などに成るが。 警視庁では、刑事部長の直轄で、『組織犯罪対策室』として独立する。 木葉刑事の後輩に成る〔居間部 迅〕《いまべ じん》が所属する部署だ。


さて、他にも細かい課は在るが。 最も切り離せない鑑識課を綴る。 鑑識課には、警察に通報が有ると動く‘鑑識班’と‘機動捜査隊’が属している。 鑑識班は、現場に入って証拠採取から指紋判定、下足痕判定を行い。 他の証拠品鑑定は、基本的に科捜研が行う。


一方、機動捜査隊は、俗に‘機捜’と略される。 都内を巡回して24時間体制でパトロールしながら、事件が起こると現場に向かい。 通報を受けて来た管内の所轄(警察署)の刑事達と初動捜査を行う。


因みに、この初動捜査は基本的に約2時間ほどで事件性が明らかに成らない場合は、機捜は引き上げて通常業務に戻る。 一方、事件性が明らかで在り。 機捜の捜査でも犯人が明らかに成らないなど、手が掛かりが明らかに成らないならば。 その事件に沿った課から、一課の刑事達で組織された各班が投入される仕組みだ。 だからといって毎度毎度、全ての事件に捜査本部が立つとは限らない。


一応、長々と組織形態を綴ったのは、これから次々と起こる変化を分かり易くしたいが為だ。


そして、木葉刑事を取り巻く周りでも、木葉刑事の面会謝絶が解けた事は時を動かす為。 先ずは、越智水医師と詩織が面会に来る日の朝まで時を遡ることにする。


あの日、土曜日の朝9時。 警視庁捜査一課、第二強行犯捜査2係所属の篠田班。 その班長と成る篠田主任は、出勤と同時に或る一報を受けた。


「はい・・はい、そうですか。 良かったです。 はい、ありがとうございます」


電話先には見えないのに、頭を下げながら礼をする篠田主任。 その様子には、篠田主任の本音が窺えた。


「はい、はい、では、失礼致します」


受話器を戻した篠田主任は、深い溜め息を吐く。


(木葉の見舞いが、漸く自由に成った・・。 やっぱり、生きて居たか…)


と、思う。


今の電話は、新たに人事変更で交代と成った、苦労人の新任捜査一課長からだ。 4月から新任として就いた〔木田〕《きだ》一課長は、30代で捜査一課の1班を任される主任(班長)となり。 それから6年ほど主任として経験を積み。 その後、係長へ昇格。 4年以上も第五強行犯捜査8係の係長を経験し。 5年前からは、前任者の色眼鏡をした円尾(まるお)一課長の指揮下で、管理官をして居た人物だ。 色眼鏡をした前任の円尾一課長は、移動で警察庁へと上がり。 後任の新しい一課長は、警視総監や刑事部長の意思が反映された人物となる木田が就いた。


さて、今も或る事件の担当を預かる篠田主任ながら。 その捜査本部にも出向かないで、班に宛てがわれた部屋にてジッとしていた。


(木葉が・・生きていた。 嗚呼、生きてた…)


今まで解らなかった事が解り、ホッとした篠田主任は椅子に腰掛けて脱力する。


思えば、時を遡ること2月の初旬の終わり。 雪の舞う日にて。


“木葉刑事が、また犯人と格闘して倒れた”


と、聴いた。


その後、直ぐに篠田班から彼が外されてしまい。 また、2ヶ月近くも生死の有無を知らされないままに居たので、これは朗報と言えば朗報だった。


然し…。 デスクに就く篠田班長は次第に頭を抱える様に成ると、眉間を揉んで悩むしか無い。


(だが、まだ意識が戻って無いとか…。 木葉アイツを無くして、俺の存在価値は無い・・・、無いなぁ…)


弱気に成ってこう想うのは、現在の彼の現状がそうだからだ。


今、篠田班に於いて、木葉刑事のデスクはそのままに在り。 その机には、〔里谷〕のネームプレートが片隅に嵌る。 人事移動にて、警護課より里谷警部補が移動して来たのだ。


普通、‘警部補’に成れば逮捕状の請求が出来る為に、篠田主任も警部補だから階級が一緒に成る。 然し、篠田班へと来た里谷警部補は、


「私は、木葉刑事の穴埋めに来ました」


と、こう言い切った。


その経緯は、あの事件の最後に於いて。 刑事部長より、木葉刑事を捜す様に言われた里谷刑事だが。 木葉刑事がまた入院した後、警護課の各班が里谷刑事の上司だった〔寺島〕と云う班長の威光を受けて、里谷刑事の受け入れを拒否したのだ。


その事を知った刑事部長は、里谷刑事を呼び。


“今回の原因の全ての責任は、この私に有る。 里谷警部補、好きな課へ移動を許す”


としてくれた。


すると里谷刑事は、刑事部長へこう言ったのだ。


“ならば、私を刑事課にお願いします。 また、警部補だからと、各班長に取って代わる気は在りません。 木葉刑事を護れず入院させたのですから、降格でも構いません”


と、刑事課を希望する。 然も、出来るならば・・と篠田班を希望した。


刑事部長は、悪霊事件で疲弊してしまった“警視庁刑事部﹣捜査一課”を立て直す為に、新たに大胆な班の編成を考えて居た時だから。 その意思を受け入れて、里谷警部補の意向をそのまま篠田班に入れた。


ま、階級や経験から考えてぶっちゃけると、篠田主任も、人事部も、この人事には正直な処で困ったのだが…。 警視庁刑事部を総括して預かる刑事部長がそれを認めてしまったものだから、珍事件に近い人事移動が行われたのだ。


そして、今。


‘木葉刑事’、と云うイレギュラーと云うべきか、ジョーカーの様な存在を失った篠田主任は、以前の様な奇蹟が無い班を抱えて職業意欲を減退させていた。


いや、新しく来た里谷刑事が、能力的に劣っているのではない。


寧ろ、


“篠田主任以下、他の刑事達のマイナスをも、ジョーカーの様な強運で補いながらも。 それすらを隠すイレギュラー的マイナス要因を持つ木葉刑事が消え。 其処に残る現実は、篠田警部補が班長で在る必要性が薄くなった”


と云う事なのだ。


然も、木葉刑事が抜けた為、班に残る刑事達でも使い物に成るのは、飯田刑事と里谷刑事と云う二人のみ。 他の刑事達は、捜査一課に居れる刑事では無いと、事件の度に失態を曝していた。


そんな現実を突き付けられた篠田主任は、仕事へのヤル気と言える気力を奪われる事に成った。


(ハァ・・。 普通の刑事の集まりの中では、俺は無能だ…。 木葉の様な者を許容していて、初めて存在が浮かぶ。 そろそろ内勤にでも移って、定年の準備が必要かな…)


弱った篠田主任は、先に‘栄転’と云う形で居なく成った、前任者の円尾一課長を思う。 悪霊の関わった最後の事件を解決する事すら出来なかったのに、何故か警察庁に配属と成った。 行き先は閑職だが、本人とすれば願ったり適ったりであろう。 篠田主任は、数年温めた【移動願い】の隠し場所を開く気に成った。


一方で。 今、篠田班の刑事達は数日前に発生した強盗傷害事件の捜査の為に、所轄の警察署に立てられた捜査本部に全員が出勤していた。 その中の一人、木葉刑事の刑事としての才を買って居た飯田刑事は、犯人の潜伏先が解ったと篠田主任に連絡を取ろうとしていたのに。


「ハァ…」


ぼんやりして溜め息を吐く篠田主任。 飯田刑事より来た着信音すら聞こえ無いほどに、気を呆けさせて居た。


さて、その日の昼前。 越智水医師と詩織が、警察病院で木葉刑事に色々な近況を話し続けて居る頃。


都内を走る警察の覆面車両となる黒い新車に、〔里谷〕《さとや》なる女性捜査員が乗って居た。 目白通りを走る車。 助手席の窓から外の風景を眺める里谷は、あの事件を経て少しだけ大人びて来た。 30代の女性として、鍛えた身体はモデルでもイケそうだし。 ちょっと済ました顔は、年相応の成熟具合が窺えた凛々しさすら香る美人でもある。 然し、‘警護課’と云う部署に居た彼女だが、今は捜査一課に移動して、‘里谷刑事’に転身していた。


今、或る場所へ向かう彼女は、運転をする30代後半の男性刑事に近況を聴かれている。 その男性刑事は、永く掛け慣らした眼鏡をし、筋肉質の窺えない太めの長身で、尚且つ無駄に話し好き・・・と、こういう猪瀬いのせ刑事だ。


「里谷さんは、もう一課の仕事に慣れましたね」


“使えない木葉刑事と良く組まされていた”


これが口癖の猪瀬刑事は、丸顔を逸らして彼女へ言う。


助手席に座る里谷刑事は、伸びた黒髪をポニーテールにしながら。


「まぁまぁ、ですかね」


と、素っ気ない。


今の彼女が居る篠田班は、新たに強盗傷害事件の捜査を受け持ち。 逃げた犯人の情報を追って、都内へ聞き込みの真っ最中。 駄話に遊ぶ暇は、何処にも無い。


だが。


「いや~貴女が来て、とっても助かるよ。 木葉と組まされてた時は、面倒ばっかりでしてね。 正直な処、アイツが居なくなって自分はサッパリしました~」


こう語る猪瀬刑事。


だが、彼の話は肝心な所を全て外して言っている。 彼の手柄話は、木葉刑事から回して貰った事実を、自分がさも遣った様に言うのみ。 だから事実、その手柄に至る経緯の確認を突っ込んで聴くと、直ぐにしどろもどろと成ってボロが出る。


遡ること2月の終わりに篠田班へ来て、まだ2ヶ月足らずの里谷刑事だが。 篠田班の中でも一番必要の無い人物は、この猪瀬刑事と理解していた。


(そんなに優秀なら、さっさと犯人を見つけろ。 バ~カ)


今、捜査本部に知らされた情報を頼り、被疑者らしき男性を捜す為に。 その人物の行き着けと云う、或る飲み屋に向かっている。


然し、本部に挙がって来たこの情報は、里谷刑事の頼んだ問い合わせから、他の所轄の巡査が齎したもの。 その間の猪瀬刑事がしていた捜査行動と云えば。 通行人のキレイな女性に格好付けて、無駄にライセンスを見せびらかせて居ただけの様なものだ。


さて、その飲み屋の近くで、案内に来る巡査と落ち合う事に成っていたが…。


練馬区練馬に在る、細い路地の手前。 片側一車線沿いのコンビニへと車を停車させ、巡査と落ち合う刑事二人。


「ご苦労様です。 問い合わせの人物は、向こうの路地に入った所に在る、ちょっと風変わりな居酒屋に出入りしている。 との事です」


50代の派出所勤務と云う年輩巡査から、こう聴いた里谷刑事と猪瀬刑事。 被疑者が潜伏中の場合は、捕り物に成る事を想定する為、辺りの情報を見る里谷刑事は。


「その居酒屋の面する路地は、一本道ですか?」


と、巡査へ問うと。


「はい。 入り口に専用の柵が掛かり、車が入れない道でして。 自転車で移動する一般人や通行人が目立ちます」


「その居酒屋の裏は、どうなってます?」


「あ~っと、やや古い・・小規模のマンションが建ってますよ。 居酒屋の在る並びとは、一応ブロック併の壁で隔たれてはいます」


話を聴いた里谷刑事は、


「なら猪瀬刑事に、店へ入って貰いましょうか。 巡査は、外から入り口を固めて下さい。 被疑者が潜伏していた場合の逃走も考え、私は裏口に回ります」


と、提案をする。


“この店の周りで、被疑者らしき人物を朝に見掛けた”


犯人の異性との交際関係が解り。 問い合わせから、この情報が来て、この目の前の初老巡査が一報をくれた。 今、篠田班の他の刑事は、別の共犯者の行方を追っているので、応援はこの巡査のみだ。


今はまだ、あの悪霊事件の後遺症と云うべきか。 警察官や刑事の疲労度が、全体的に回復しきっていない。 不眠症、自律神経失調症、ノイローゼなど。 体調不良を訴える職員が、警視庁に少なからず居る。 そんな状態だから、傷ついた刑事や警察官は、地方への転属を希望する者も多く。 警視庁や警察庁も募集を掛けて、人員の入れ替えや移動に因る調整をしている最中なのだ。


だが、そんな事とは関係無しに。 里谷刑事の話を受けた猪瀬刑事は、


「いや、僕が裏側に回るよ」


と、云うではないか。


別に犯人確保さえ出来れば、身柄確保やらの手柄などはどうでも良い里谷刑事だが。


(お前ぇ、そんな事を言って大丈夫なの? 木葉さんなら、迷わず前から行くのに…)


と、その意思を憂う里谷刑事。


木葉刑事と云う人物は、自分の能力の長短を解って居る。 無駄な意地を張らないから、彼と云う人物さえ解れば、同僚としてはとても遣り易いのだが…。


「そう。 なら、お任せするわ」


アッサリと交代を受け入れた里谷刑事は、年輩の巡査と一緒に歩き出す。 コンビニ前の片側一車線と成る道路を横断して、斜めに入る路地へ。 確かに、商店街っぽいタイル地の道は、車など入れ無い歩道だった。 そして、その道を二十歩ほど歩いた先で、年輩の巡査が。


「この店です」


と、道の左側に在る居酒屋を指す。


‘鰻の寝床’


それがピッタリの佇まいな居酒屋は、見た目は確かに居酒屋なのだが・・。 電気の点いてない看板には、蝶の絵に〔小百合〕と斜めに店名が在るスナック風ときている。


(‘風変わり’、ね)


店の外観やら通りの人々を確認した里谷刑事は、少し手前に立つ猪瀬刑事を見ると。


‘O.K.’


こう言わんばかりに親指を立てて、隣のアパートとの間から奥入って行く彼。


(何が、O.K.なんだか…)


こう思った里谷刑事は、年輩の巡査に。


「もし、奥から音がしたならば、迷わず裏側の応援へ。 絶対に裏側のマンションへは犯人を行かせたく無いので。 緊張すると思いますが、素早い対応をお願いします」


こう指示した里谷刑事の気持ちは、


“市民への迷惑は、最小限にしたい”


これ一つで在る。


だが、里谷刑事の思惑は、情け無い刑事の所為で危ぶまれる事と成るのだ。 それは、鍵の掛かって無い店側のドアを開き。


「すいません、ちょっとお訊ねしたいのですが…」


と、声を掛けた時から始まる。


カウンター奥にて空いた酒瓶を片付ける細身の中年女性が、パッと里谷刑事を見ると。


「アンタっ! 警察だよっ!!」


と、大声を出す。


その一声にて、奥に犯人が居ると確信した里谷刑事がつかつかと店の奥へと向かうが。 部屋に上がる硝子の障子前に、スェット姿の中年女性が立ちはだかる。


「犯人隠匿、公務執行妨害に成りますよっ」


里谷刑事が、一応と前口上を云う間に。


「う゛わ゛ぁっ! サツっかっ? くっ来るなぁ!!!」


案の定、裏側から切羽詰まった感の大声がした。 その声を聴いて里谷刑事は、逃亡の可能性は薄く成ったと思う。


だが、あろう事か…。


店の裏側で待機していた猪瀬刑事は、二階から裏路地に飛び下りた被疑者を掴んだのに。 その手に持たれた黒いペーパーナイフを見て、掴んだ手を放したのだ。


「もう逃げられないぞ!」


挟み撃ちに回って来た巡査は、特殊警棒を出して追い込むが。 反対側の猪瀬刑事は、月並みな言葉を並べて喚くだけ。 彼の柔道三段は、何の為のものか…。


そして、それからは…。


“待てっ、逃げるな!”


と、犯人を牽制だけする猪瀬刑事。


だが、無我夢中で逃げる事しか考えて無い犯人だ。 そんな生温い牽制に、大人しく成る訳が無い。


“うるせぇっ!!”


ペーパーナイフを振り回しては猪瀬刑事を威嚇し、隙を突いてはマンションの方へとブロック併を登って逃げようとする被疑者。


だが、犯人を逃がしたくは無い猪瀬刑事は、


「そっちに行くな゛っ」


大慌てで服を掴み、路地へ引きずり下ろすのだが…。 何故か引きずり下ろした後は、抑え込もうとせずに距離を取る。


そのふざけた様子に被疑者は返って苛立ち、またブロック併を登ろうとするが。 その様子にジタバタする大慌ての猪瀬刑事は、おっかなびっくりの様に被疑者を引きずり下ろすだけをして。 また、逃げる様に距離を取り、これを何度も繰り返した。


一緒に居て捕まえ様とする巡査からすれば、その様子はお笑いの芝居の様で在る。


一方、同時期の居酒屋の中では。


行く手を塞いで物を投げつけて来た中年の女性店主を、電気ケトルのコードで拘束した里谷刑事。 その後、捜査本部に応援要請を入れながら、硝子の障子戸を開け奥の間に上がると、右側に急な狭い階段を見つける。


下から覗けば、まだ影がチラッと見えた。


“まだ、誰か居る”


そう踏んだ為、階段を上がって二階に行くと。 強盗の共犯者で在る若い男性を見つける。


「警察よっ。 強盗傷害容疑で、逮捕しますっ!」


里谷刑事の言葉で、窓から降りるに降りれなかった彼は、


「うわ゛ぁーーっ!!」


と、破れかぶれの様子で里谷刑事に襲い来る。 然し、警護課でも武術だけ問えば、指折りの実力と言われた里谷刑事。 得意の護身術で、路地裏の被疑者より先に此方を確保する。


さて、二人も捕まえた里谷刑事は、窓からゆっくりと確保した様子を見下ろす気だった。 処が、開きっ放しの窓からは、まだ捕り物さながらの声がする。


(猪ブタっ、何やってンのよっ)


“まだ確保が出来ないのか”、と二階の窓から見下ろした里谷刑事は、その遊んで居る様な光景を目の当たりにする。


(ちょ、チョットっ! な゛によっ、あれっ!)


若い男の逮捕に手錠を使った里谷刑事だが。 そのまま窓から下へと飛び下りて加勢し、残る男も確保に至る。


要請を聞いた他の篠田班の刑事など、事件担当の捜査員が来ると。 女性店主と犯人の男性二人をそれぞれに分けて、捜査本部の在る警察署へ連行する運びと成るのだが。


この時に、年輩の巡査から。


「いやいや、本庁の刑事さんは、女性でもお強いですな」


と、要らぬ誉め言葉を貰うハメとなった里谷刑事。


(私が強くて、どーすんのよ゛っ!)


情けない猪瀬刑事に苛々した里谷刑事は、所轄にて他の刑事に事情聴取やらを任せ、事件を管理する50代となる男性管理官に報告すると。 同じ班の飯田刑事が運転する車にて警視庁へと戻り。 夕方には、篠田主任の前に班の全員が揃い。 事件の経過報告をして、今日は仕事を終えるとなった。


然し、その中で猪瀬刑事が篠田主任から何も言われ無かったのは、寧ろ無言の叱責で在る。 捜査本部では、猪瀬刑事は係長から怒声で叱責されたらしい。


さて、逮捕までの報告書を書く為。 他の刑事が定時上がりと成ったのに、班の部屋に残った里谷刑事だったが…。


「主任、報告書です」


提出された報告書を見た篠田主任は、軽く頷くと。


「なぁ、里谷」


力ない篠田主任に呼ばれ、主任のデスク前に立ち続ける里谷刑事。


「はい、何か?」


すると、のそりと席を立つ篠田主任で。


「チョット、付き合ってくれ。 まぁ、軽い残業だ」


と、帰り支度をする篠田主任。


「はぁ」


里谷刑事も帰る支度をしたが。 篠田主任の後を付いて行けば、向かった先は地下の職員駐車場。


「悪いが、俺を乗せてちょっと運転しろ」


何時も車で出勤する里谷刑事だが。 自分の車と成る新車のSUVの助手席に、篠田主任を含め他人を乗せるのは初めてだった。


然し、車に乗り込むと。 駐車場の先をぼんやり見詰める篠田主任が。


「里谷、実はな。 今日から、木葉への見舞いが解禁された。 だから悪いが、警察病院まで付き合ってくれ」


と、言うではないか。


一方、運転席に座って、走る準備をする里谷刑事だったが。 木葉刑事の様子を見れると解って。


「はいっ」


と、張り切り運転をし始める。


そして、警察病院へと向かう、その車中にて。 車内の窓からぼんやりと、晴れた茜空を眺める篠田主任が。


「木葉のヤツ・・今度は、目覚めるの何時だろうなぁ~」


と、徐に言うではないか。


運転する里谷刑事は、弱った篠田主任へ。


「まだ、意識は回復していないんですか?」


「みたいだな~。 猪瀬みたいな~お荷物も、木葉ぐらいの変わりモンだからボロも出させず組めたのさ…」


この意見には、酷く理解が行く里谷刑事。 ぶっちゃけ、自分と飯田刑事を抜けば、他の刑事が捜査一課に居れる事、それ事態が‘異常’と、そう思えた。


更に、篠田主任のボヤキは続く。


「変な噂を立てられるぐらいに、木葉は変わったデキを見せたが。 木葉が居なくなりゃ、見えるのはお荷物の現実のみ。 所轄の巡査から所轄の刑事を経て、管理官に猪瀬の苦情が来たってよ…」


力無い篠田主任の声に、里谷刑事は同情する。


(あのふざけた姿を見せられたら、確かに捜査一課の刑事かと、誰でも疑いたくも成るわねぇ)


と、思った。


然も、だ。 先程の捕り物の後、犯人を所轄の警察署へと連行する時に。 楽に移送が出来そうな女性店主を誰の相談も無しに真っ先と選んだ猪瀬刑事で。 応援に来た刑事を含め、場を呆れさせた彼。 木葉刑事を隠れ蓑にしていたマイナス面が、完全にバレてしまったのだ。


ま、以前から猪瀬刑事の移動は、人事移動の時に度々と話へ挙がったらしい。 だが、木葉刑事の無欲さから手柄を譲り受け、マイナスを帳消しにされていた様だ。 今のままでは、秋の人事でどうなるやら…。


さて。


見舞いの為に警察病院に来ると。 里谷刑事も、昨年の12月末から2月初めまで入院していただけに。


(ハァ、去年の年末に食らった悪霊の一撃の痛みが、フラッシュバックしそう…)


と、嫌に成る。


埼玉に在る、或る大学病院にて。 強力な怨みを持った悪霊を鎮め様とした木葉刑事と一緒に、悪霊の反撃を受けて入院した里谷刑事。 肋骨の一本を粉々にされ、人工肋骨と入れ替えた程の大怪我だった。 今でも服を脱げば、手術の傷痕がうっすらと胸の下に残っている。


そんな事を思い返しながら、面会時間ギリギリながら受付で記名すると。


(あら、あの大学病院の先生と、古川さんのお嬢さんが…)


午前中の来客として、〔越智水医師〕と〔古川詩織〕の記名が在った。


(まぁ、それは来るわよね~)


一緒に入院している間で、木葉刑事の性格から人付き合いまでの大半を知った気に成れる程、様々な情報を得た里谷刑事だ。 見舞いの先を越されても、全く不自然に思わない二人で在る。


然し、疑問は別に湧く。


(でも、誰が知らせたのかしら。 それと、清水さんは、まだ来てないのね…)


と、思う。


さて、木葉刑事の病室へ行くと、花瓶に真新しい花が入り。 水やお茶のペットボトルやら、衣服の差し入れが在った。 夕陽の入らない部屋だから、既に暗い。 明かりを点けて椅子を使った篠田主任は、ベッドの脇に座ると。


「目覚めてないな・・木葉。 お前や古川さんは、一体、誰と…」


悪霊など、殆どの者が視えない。 感じる程度の者すら一握り。 霊の存在など解らない者からすると、木葉刑事をこんな風にしたのは、一体誰なのか。 全く想像もつかないだろう。


「木葉・・木葉よぉ」


弱気な篠田主任の声を聞く里谷刑事は、その姿を見るのが辛く成る。


独り言のように語り掛ける篠田主任を見た里谷刑事は、


(本人が、自分の価値を一番知ってそうだったけど…。 意外と、一番知らなかったのかもね)


と、こう思う。


里谷刑事は、刑事に成ってたった2ヶ月の間に、とても不思議な光景を既に見ている。 それは、篠田班に事件が宛てられ、数日と進展が無いと。


“木葉が居れば、そろそろ何か掴む頃だよな”


とか。


“おい、死角から情報や物証を持って来るヤツ、他に居ないのか?”


と、刑事や主任の間で無駄話が出る。


それを見た里谷刑事は、素直に思った。


(ヤッカむぐらいに、本当は認めてるのね…)


刑事達の無駄話を聞く里谷刑事は、普通では無い木葉刑事が、何処かもう捜査一課に馴染んでいた事を察した。


そして、現に…。


ピクリともしない木葉刑事の手を握り、篠田班長がまだ独り言を呟く。


「お前、何時に為ったら目覚めるんだ? 早くしろ、早くしろよ…」


木葉刑事の事を誰よりも認めているのは、この篠田主任なのかも知れない。 木葉刑事が何を疑われても、絶対に班から外そうとしなかったと聴いた。


然し、或る一部からの情報を、全く別ルートから受ける里谷刑事だから。


(個人的には、気が付いては欲しいけど・・ね。 目覚めた瞬間から、また悪霊の相殺要員に成るのなら…)


このまま寝っぱなしの方が、木葉刑事には良いのかも知れないと感じる。 国の大臣やら首相の指揮下に入り。 特殊な警護部隊に所属する〔茉莉〕《まり》隊員から情報を貰った時に、強くそう感じた里谷刑事だ。 篠田班へ里谷刑事が移動した頃か。 秘密裏に逢った茉莉隊員は、ハッキリ言った。


「鵲参事官は元より、太原長官ですら、再び悪霊が事を起こした時に。 木葉刑事が目覚めて居たならば、頼らざる得ないかも知れない。 あの悪霊を感じて追える人間は、他に居ないから」


と、教えて貰った。


それは、木葉刑事と云う存在を深く知る者には、とても嫌な話だ。


然し、


“他に適任者が居ない”


と、云うのだから仕方のない事なのか…。


(もし、少しでも対処が利くのなら、何度も死ぬまでこんな状態に成る事を繰り返し続けるの? 他に、誰か、誰か居ないの? もっと、完璧に対処の出来る誰か…)


こう考える一方で、然し。


“他の誰かなら、こう成ってしまうのもいいのか”


と、自分を責める気持ちが浮かぶ。


(考えるのも、イヤな事。 でも、あの越智水って云う先生や、〔寡黙〕《ことなし》神主とか云う人からの情報が確かなら。 今度は、あの凶悪犯だった広縞が、次の相手? でも、一向に現れ無いのは、何故?)


全く幽霊など感じない里谷刑事からすると、良く解らない原理だが。 悪霊とまで変化した女性の怨念は、既に悪霊の母体から離れている。 だとするならば、広縞の悪意とは、一体何なのか。


‘怨念?’


こう捉えてみれども。 元々は彼が生み出した怨念が相手だ。 怨念を怨むなど、お門違いだろうと感じる。


(あ゛ぁっ、もうっ! 何がなんだか全然・・解らないわよ…)


考えても、全く理解が行かない。 これも俗に云うならば、


‘畑違い’


に、成るのだろうか。


そして、暫くして色々と語り掛けていた篠田主任が席を立ち。


「里谷」


「あ、はい?」


「お前は、前の入院からの誼で、偶にはコイツの見舞いに来てやれよ」


「え・・あ、はい」


「全く、あの美人女医を遊ばせて、コイツも何時まで寝るやらな…」


こんな言葉を最後にして、トボトボと出口に向かって歩き始める篠田主任。


‘美人女医’とは、‘清水順子’の事と里谷刑事は想い。


(美人女医に、超美少女も・・ね)


順子と詩織を知るだけに、どっちも似合いそうでムカムカ? いや、モヤモヤ?


見舞いを終えた後は、最寄り駅まで篠田主任を送って。 目黒区に在る警視庁のマンション型の寮に帰った里谷刑事だった。


さて、今日だけで、様々な者の想いを聞いた木葉刑事。


一体、この先をどうする気なのか…。



       4



4月中旬の終わり。 異例なことに、3日間に渡り東京を季節外れの大寒波が襲った。 劇的に発達した低気圧の通過が重なり、その影響から関東甲信越を中心に大雪が降った。 その雪と云うのも、少ない処で100センチ超え。 山沿いや沿岸部では、200センチも積もった場所さえ在る。 この大雪の影響で、首都機能は麻痺。 異常気象も此処まで来ると、諦めるしか無いと思えた。


また、それだけの雪ともなれば、その余波は病院も例外ではなく受ける。 停電と救急搬送されて来る患者は、都内の医者をきりきり舞いにさせた。


その大雪が止んでから、丸々4日後。 大雪の影響にまだ悶える都内の道を走って、一台のタクシーが警察病院へとやって来た。


「ありがとうございます。 帰る時に成ったら、また其方の会社に御連絡します」


お金を払って降りて来たのは、〔清水 順子〕《しみず じゅんこ》だった。 つい先日までは京都や大阪の学会に出たり、姉妹大学の講師に出向いたりして居た。


(やっと、やっと暇に成ったわ。 もうっ、何で2ヶ月近くも面会が出来なかったのよっ)


顔の表面は‘にこやか’でも、腹の中では鵲参事官への怒りで一杯だ。


然し、この順子も思えば変わり者だ。 欲を掻けば今頃は、越智水医師と同じく准教授に座り。 越智水医師以上の権威を着る事すら可能なはずだが。 医師や看護士の待遇などの改善が為されて無いと、一人で運営側と中立を保って一医者として居る。


そんな彼女だが、自分でもこんなに‘肉食’なのかと思うほどに。 木葉刑事へ逢いに来る事に関してだけは、本気で在った。


さて、受付にて記入をすると。


「あら、清水先生。 いらっしゃったんですか」


以前の木葉刑事の入院時で顔馴染みと成った看護士長から、こんな一言を頂くまでに。 彼女と軽い遣り取りをしてから、木葉刑事が眠るままの病室へ。 本日の昼間に、美人女医と噂される順子が病室を訪れた。 冬物のベージュのロングコートに、白いマフラーを巻いて訪れた順子だが…。


「失礼しま・・え゛っ?」


医師である彼女が驚きの声を上げるなど、一体何が起こったのか。 順子が病室に入ると何と目の前には、ベッドで身を起こしている木葉刑事が居る。


一方、ベットの上で身を起こす木葉刑事は、虚空を見詰めたままにジッとしている。


(ど・どうし・・)


まだ、彼は目覚めていないと聞いていた順子。 然も、面会することに躍起となっていた彼女の心は、患者相手の客観的な気持ちとは大きく違った。


「こ・木葉・・さん?」


まるで数年ぶりにバッタリと出会う友人か、元彼にでも声を掛ける様な…。 それほどに驚く順子なのだが。


そんな順子を見返した木葉刑事は、何処かぼんやりとしていて。


「あの・・貴女は、何方ですか?」


と、呟いた。


その言葉を聞いたとき、ギョッとした順子だが。 そこからの対応は、流石に医師で在る。 ゆっくりと木葉刑事へ近付くと。


「木葉さん。 私に・・見覚えが有りませんか?」


と、穏やかな対応にて話し掛ける。 そして、近付きながら問い返すその間に、眼や顔を窺い、患者としての彼の様子を確かめる。


さて、突然に気が付いた木葉刑事だが、不思議そうに順子を見返して。


「いえぇ・・・解りません。 流石に、貴女みたいな美人は簡単に忘れないとは・・・思いますが?」


その返事を聴いた順子は、マフラーをベッド脇に置いて。


「木葉さん。 貴方は、この2ヶ月もの間ず~っと眠っていたんですよ。 何か、記憶して居ませんか?」


ゆったりと、聞き取りのし易い口調で尋ねる順子。


だが、首を傾げる木葉刑事で在り。


「自分が? 2ヶ月もの間? さぁ・・、何かの事件か、事故にでも巻き込まれましたかね?」


ぼんやりと呟く木葉刑事は、ふと窓の外を見ては目を見開いて。


「あ、雪? あの、此処は・・・と、東京ですか?」


まだ、白く雪を纏う木も有れば、日陰と成る窓の縁にはそれなりの雪が残る。 木葉刑事は、それを見てこう言ったのだ。


そんな彼を診た順子は、


(いけない。 事件の度重なるショックから、記憶障害が…)


と、判断して。


「木葉さん、このまま部屋で待って居て下さいね。 担当のお医者様を、直ぐに呼んで来ますから」


ブザーを押して知らせるのも良かったが。 木葉刑事に混乱を与える様な行動は不味いと感じて、ゆっくり席を立ち上がった順子。


「あ、はい・・。 見ず知らずの方に色々として頂いて、すみません」


穏やかに言う木葉刑事に、順子も少し戸惑いが溢れる。


だが、部屋を出る前に順子も或る質問が浮かんで。


「あの、木葉さん。 埼玉に在る大学病院の准教授と成られる越智水先生は、ご存知ですか?」


すると、順子を見返す木葉刑事は漸く笑顔に変わり。


「あ、あぁ。 もしかして、越智水先生のお知り合いですか」


と、返事が来た。


「えぇ、そうです」


頷き返した順子は、全ての記憶を失っている訳ではないと知る。


「では、ちょっと待って居て下さいね」


「はい」


会釈して返す木葉刑事を残して、部屋を出た順子は大慌てとなり。 同じ階の近くに在るナースセンターに向かった。


「すみません。 角部屋の患者で、木葉さんの友人です。 見舞いに来た、清水と云います」


すると、彼女を見覚える看護士の年配女性が現れ。


「あら、清水先生。 今日、お見舞いにいらっしゃいましたか」


と、笑って返してくれる。


だが、珍しく慌てて居る順子は、


「今、木葉さんが、病室で目覚めて居ます。 担当の先生を、今っ、直ぐに呼んで下さい!」


話を聴いた年配女性の看護士は、同じく戻って来た看護士の若い女性と驚く。


「えっ?」


「私も今来て、いきなり見たので驚きましたが。 どうやら怪我か事件のショックから、先日まで関わっていた事件の時の記憶が一部、そっくり欠落しているみたいです」


医師の順子が云うものだから、看護士2人はそれは大変だと。


「それは、直ぐに…」


「えぇっと、今日の担当の先生は…」


ナースセンターが慌ただしく成るのだが。 順子と看護士数人が、木葉刑事の部屋へと行こうとする時だ。 その視界の先にて、皆の見ている前で木葉刑事が部屋よりヨロヨロとしてのっそりと出て来た。 松葉杖に身体を預ける様にして、ヨチヨチ歩きで現れる。 そして、間近の廊下上を歩く男性看護士に近付くと。


「スミマセンが。 トイレは、どっちですかね~」


と、呑気な口調にて尋ねていた。


「あらっ」


「ホント!」


「まぁ、大変!」


ナースセンターから出た看護士達が、本当に目覚めたと知って更に驚き。


また、事件の頃からして更に痩せた木葉刑事からトイレを尋ねられた男性看護士も、目を覚ました木葉刑事を見てその目を丸くした。


そして、病室にて。 担当医師による診察が始まる中で、木葉刑事の目覚めは様々な方面に連絡が入った。 先ずは、留守にする太原長官の代わりに、鵲参事官へ。 その後は、越智水医師の一家と同居する詩織へ。 そして、彼の上司となる刑事部長へ。


また、大雪が降る直前の一週間ほど前に、或る最悪の知らせを聴いて班長の座を辞めようと思って居た捜査一課の篠田班長だが。 所轄署の捜査本部にて、この一報を聴いた瞬間だ。


「いいぞっ! よっしゃあっ!!!!!!」


と、大声を出した。


その場にて、捜査本部に同席していた者が驚き。 同じ班に所属する里谷刑事や飯田刑事も彼の目覚めを知り。


同時刻。 長官直属付きと成った特殊警護部隊の茉莉隊員にも、木葉刑事の目覚めを知る事と成る。


だが…。


その各方面の者達の中には、この目覚めをそのまま素直に喜べる者も居れば。 複雑な心境から、素直に喜べない者も居た。 その一人は、休みで見舞いに来た順子だ。 自分が発見した手前、木葉刑事の目覚めを喜んだのだが…。 その起きた木葉刑事本人は、全く順子を覚えて居ない。 いや、覚えているのだ。 木葉刑事が、広縞との戦いを見据えて記憶を無くす素振りを装う事を決めた。 その目的を達する為には、知り過ぎている順子を身近にして置くのを望まなかった。


一方。 夕方前、午後3時過ぎ。 越智水医師から連絡を受けた詩織が、病室に飛び込んで来ると…。


「木葉さんっ」


起きてベッドの袂に座る木葉刑事に、入って来た詩織がそのまま抱き付いた。


「おっとっと…」


身体が弱りベッドへ倒れる木葉刑事。


彼の目覚めを喜び、泣いてしまう詩織。


「いや~詩織ちゃん、心配を掛けたねぇ~。 でもさぁ、何でこう成ったのか、まぁ~~~ったく解んないンだよねぇ~」


こう語る木葉刑事は、悪霊と遭う前のヘラヘラした感じの彼そのもの。


涙を隠さない詩織は、まるで恋人の様にその顔を両手で包む。


「い・イイんです。 覚えてなくて・・嫌な事なんかっ、覚えてなくて・・・イイ」


と、木葉刑事の顔を撫でるのだ。


母親、父親、祖父と、立て続けに亡くし。 先月は、老人ホームに入所していた父方の祖母も、病院に入院していた母方の祖母まで亡くした。 叔父や叔母以外を除けば、もう独りぼっちの詩織なのだ。


だが、母親の和世が唯一。


“何だか、息子みたい”


こう言った木葉刑事の存在は、そんな詩織には精神的な家族に近い。


詩織も、病室に来る前には、医師から記憶障害を聴いている。 本音を晒せば、寧ろ自分ですら記憶を失ってしまいたいぐらいに辛いのだ。 然も、古川刑事の同僚並びに付き合いや顔見知りの刑事などに会った時、


“木葉刑事を恨まないでやってくれ。 あの男も、命令を無視してまで全力を尽くしたんだ”


と、こう云われていた。 言った側は、木葉刑事を見下しているからこんな事を云ったのかもしれない。


だが、


“君のお父さんは、お母さんの仇を討とうした。 そして、木葉刑事と二人して、例のバラバラ殺人と首を置く委託殺人の犯人を逮捕して、その仇を討つ気だった。 犯人逮捕から、お母さんを轢いて逃げた犯人の情報を引き出し。 その犯人も、捕まえるつもりだったらしい”


と、在る意味、大嘘の話を教えられていた詩織だ。 身体の無理を押して犯人逮捕をしようとした木葉刑事に、暴走した父親を捜しながらと解っていたので、恨みなど微塵も無い…。


さて、記憶が無い木葉刑事は、詩織み見返すと。


「詩織ちゃん、それはヤバいってサ~。 ってか詩織ちゃん・・、なんか大きく成ったね」


全く、‘浦島太郎’的な事を言う木葉刑事で在り。 涙をそのままに、詩織は抱き付いて。


「背が伸びたの゛ぉっ、太って無いんだからねっ」


と、注意する。


だが、只でさえ眠りっ放しで、筋肉量が激減とまでに落ちた木葉刑事で在る。


「てか、詩織ちゃん、重い゛よぉぉぉ~」


と、分かりきった返し見せる。


「ん゛んっ、もうっ! 高校生の女子にそれはタブーよっ」


詩織を態と怒らせる様子を引き出して、やっと普段の木葉刑事らしい所を見せる。


一方、その様子を見る順子は、複雑な心境だ。


(出逢いが早い分だけ、記憶に残る方が・・有利ね)


今の自分は、完全に“越智水医師の知り合い”と云うだけの立場に代わる。


だが、以前から記憶の在る詩織とは、まるで変わらない関係性が続いている。


(なんだか・・・酷い)


珍しく、感情的に不満を想う順子。


然し、その後に担当医師が来て、今日の一般面会を終わらせた。


何故ならば、それは或る人物が来るからだ。


夕方の5時を回り。 外は、4月にしての異例な寒さと成っていた。


さて、


‘明日まで面会謝絶’


との札が、入り口に掛かる中。 自動のドアが開けば、木葉刑事の居る病室に、鵲参事官が重々しい足取りを進めて入って来ると。


「こっ・のは…」


起きて居る彼を見て、思わず言った言葉が上ずった。 半分、憤り。 半分、不満や苛立ちを込めた低い声で在るが…。


然し、病院の食事プラスで、一階のフードコートより追加の料理を運んで貰っていた木葉刑事。 鵲参事官を見返したが、全く誰か解って無い表情にて。


「あ・・何方ですか? 今、自分は・・・その、明日まで面会謝絶なんスけど」


全てを記憶する鵲参事官とは、全く雰囲気の違うトーンで返された。


(ぐっ。 あの霊体との戦いのショックで…)


彼を見詰めた鵲参事官は、あの死を覚悟した様な木葉刑事の雰囲気が、今の彼の何処にも無いのを見抜き。


“佐貫の事はっ? 古川刑事の事はっ? 叔父の恭二の事はっ? 全部を忘れたのかぁぁぁっ!!!!!”


こう怒鳴り散らして遣りたい心境だ。


だが、よくよく経過を精査すれば、全ては自分が主軸で計った事。


また、


“木葉に面会しても、彼を責める事は許さないぞ。 鵲、原因を生んだ主犯は、広縞と悪霊とお前だ。 上に立っていた以上、其処は履き違えるな”


鵲参事官の脳裏に、先程に連絡を寄越して来た太原長官からの釘を刺す話しが思い出される。 木葉刑事は、自分のすべき事をした。 出来る事をした。 それを利用しようとした鵲参事官は、微妙な立場で在る。


また、あの事件の直後。 古川捜査員の遺体を収容して現場より帰った後。


“あの時、古川刑事を始末する事が出来ていればっ”


大使の息子が殺される前に、古川刑事を消すべきだったと鵲参事官は主張して。 冷静な判断を求めた茉莉隊員を処罰するとしたが…。


それを止めた太原長官は、


“悪霊の中に広縞が潜んでいた以上、それは水掛け論だ。 第一に、怨む対象が先に消えたとしても、シンガポール航空に向かう海上の爆破テロは防げなかった。 結局、我々と云う当該機関を有した日本政府が、この事件を解決する事が出来なかった為に。 大使の息子を高飛びさせる以外に手段が無かった時点で、全ては避けようが無かったのだ”


と、最も冷静な分析を返して来た太原長官。


そして、鵲参事官の意見を蹴った太原長官は、こうも云う。


“いいか、鵲。 お前にも、そして亡くなった三叉にもこれは言える事だが。 監視情報局の三叉も、そしてお前も、広縞がまだ生前の時。 既に怨霊が及ぼし始めた霊的な事実に基づく証拠を挙げていたな”


この話をされた瞬間、鵲参事官は固まった。 太原長官が突っついた事実は、鵲参事官の密かなる失態とも云える処なのだ。


実は、悪霊がバラバラ事件を起こす前。 詰まり、広縞がまだ生前の頃で在る。 広縞に殺された遺族の中で、怨霊と化したあの女性の霊体と。 怨霊と化した彼女に因って憑き殺された被害者の遺族達だが。 その不審死事案の現場にても、実際には怨霊と化したあの女性の毛髪が見付かっていた。 然し、その証拠は〔G証拠物件〕として鵲参事官が回収し。 “隠滅指示”を出して、地下の保管庫へと仕舞われていた。


また、広縞が怨霊に祟られ始めた頃。 “不審者在り”とする通報から寄せられた監視映像から、幽霊の存在を感じる事が出来る三叉局長とその部下にて、悪霊の元と成る怨霊の存在らしき影は此方に確認されていた。


そう、怨霊の時の事に関して云うならば、生前の広縞は既に、この幽霊が起こす事件の事を扱う部署の収集した情報の一部に有ったのだ。


然し、三叉局長も、鵲参事官も、互いに自分たちの手を内を明かさないように牽制して居て。 その事に関する情報の共有を、広縞が死ぬまでは一度もしなかった。 特に、三叉局長は、自分で情報を集めておきながら、この情報を軽視して動かなかった。 悪霊が木葉刑事と対峙した時、現場に来たのはこの不手際を逆転の手柄に利用しようとした為なのだ。


その事実を後から知る太原長官からするならば、


“広縞を怨霊に殺される前。 タイミングは非常にギリギリだが、奴を逮捕する事が出来た可能性は残されていた。 マンションで殺されず、逮捕しての違う道筋が在った”


と、認識した。


鵲参事官が木葉刑事の前に現れたのは云うまでも無く、既に悪霊へ変異する前の彼女の証拠データを持っていたからだ。


“今更、その事実を見捨てて、木葉に責任転嫁など許さないぞ。 それをするならば、お前は更迭する。 三叉を含め、明らかな失態だからな”


茉莉隊員へ責任転嫁しようとした時も。 また、本日も、太原長官は、鵲参事官にこう鋭く釘を刺したのだ。


この安穏として記憶の無い木葉刑事を見て苛立つ鵲参事官は、己の不手際を鏡で見せ付けられて居る様で、来るべきでは無かったと後悔すらした。


「木葉警部補。 私は、警察庁の者だ」


「あ」


驚いてベッドからノロノロ・ヨロヨロと降りる木葉刑事が、寝間着姿で敬礼をする。 然し、筋肉が著しく衰え、身体を支える事が難しいのだろう。 膝の裏をベットに預けて、震える様に身体が大きくブレ動く。


その様子は、佐貫刑事を紹介する前にまで時が戻った様で。 尚更、失った佐貫刑事の事を思い出した鵲参事官だが…。


「・・休め。 先ず、ベットに座りたまえ」


と、敬礼を解かせた。


木葉刑事が腰砕けに近い様子でベットに座ると、鵲参事官は1歩、2歩と近づく。


「木葉警部補。 実は、無くした記憶と成るだろうが。 君が関わった事件の後遺症により、今はまだ警視庁の人員が足りない。 体調を整えて、速やかに篠田班に戻れ」


「はっ。 こ、木葉、元よりそのつもりです」


すると鵲参事官は、ビジネスバックよりファイルを出して。


「木葉警部補。 君は、関わった事件の記憶が無いと聞いた。 これは、違例中の違例だが…。 君の所属する篠田班が関わった事件の、極秘な部分も含めた詳細な経緯だ。 記憶を取り戻す事が怖いなら、見なくても構わん。 だが・・、現場の刑事との混乱も有り得る為に、一応・の・残して行く」


必死に自分を抑え、資料のファイルをベッドの足元に置く鵲参事官。


「はっ、ご迷惑を、お掛けします」


真面目な木葉刑事の返しは、全く自分を知らない下っ端の態度。 それに我慢が出来なく成る前に・・と、鵲参事官は病室を去った。


だが・・、その後。 食事を終えた後に木葉刑事が、チラッチラッと資料を読み始める光景が…。


同時に。 病室には来て居ないが、太原長官は木葉刑事のメンタルを非常に心配した。 目覚めた時、その様子に早く気付く為も在るが。 もしも・・の事を想定をして、監視カメラや盗聴器を設置して在る。 映像の監視は、別室に詰める茉莉隊員と数名の特殊班が行う事に成っていた。


さて、同日の夜10時過ぎ。


「嗚呼っ、解らない・・ぞ。 佐貫刑事って、誰だ?」


苦悩する様に呻く木葉刑事の声が、姿が、別室にて監視する茉莉隊員達の目や耳に…。 別室の場所からその映像を観るのは、あのクールな女性の茉莉隊員と。 身の丈2メートルを超えそうな、屈強な体格をした短い頭髪をした加藤隊員。


加藤隊員は、亡くなった三叉局長と古川刑事を発見した、丸坊主の人物である。


「茉莉。 鵲参事官も、全くの悪魔だな。 目覚めたばかりの木葉刑事に、もう資料を送るなんてよ」


感受性が強い加藤隊員は、怒り易くも情に脆い。 格闘能力から尾行能力までスキルは高いのに、最も優秀なチームに入れないのは、其処がウィークポイントだからで在る。


然し、冷静な茉莉隊員も。


「ん・・。 鵲参事官からすれば、自分の思惑を無に帰した相手なのだろうけど・・・。 実際、木葉刑事の霊的能力と存在を無くして、あの撃退法は使え無かった。 詰まり、彼と云う人が必要なので在って、スキルはそれを超えなかった。 鵲参事官の目論見は、想像の段階で的外れだった…」


茉莉隊員の話を聴く加藤隊員は、苦悩する木葉刑事を見て。


「全く、それでこの仕打ちとは、な。 逃げた悪霊って奴が、これから先も永遠に暴れ出さない事を祈る。 あんな手を付けられない事件は、もう真っ平御免だ」


「確かに…」


短く返した茉莉隊員は、古川刑事が、妻の和世が亡くなったと知る木葉刑事を観るのが、正直な処で辛かった。


また、あの病室は特別な仕様で。 この監視部屋から出入り口のロックをする事も可能で、然も完全防音と成る。 木葉刑事が泣こうが喚こうが、外には全く聞こえず。 また、ナースを呼ぶことも、半ばは茉莉隊員達に委ねられていた。


最初にこの部屋の用意を計画したのが鵲参事官だから、その性格が現れていると云えよう。


泣いて居る木葉刑事を見て、茉莉隊員はあの夜の記憶が蘇って来た。


(木葉刑事…)


あの、運命の日。 大使館近くの寺の庭先で、瀕死の状態のままに倒れていた木葉刑事。 茉莉隊員と里谷刑事が病院へと運んだ後、何度も心停止などの危篤状態に陥り。 その度に電気ショックやら薬を打った。 処置を見た2人は何度、木葉刑事は死ぬと思ったことか。


そのボロボロだった木葉刑事を見れば、命を賭して様々なものを守ろうとしたのは、一目瞭然だ。


処が、どうして広縞の悪意が残ってしまっていたのか。 怨霊となった女性の霊魂を鎮魂へ導いたのに、その全てが最悪の結果に終わった。 呪いの依頼殺人は、広縞と云う悪意の霊魂に因って成就。 鎮魂すら完全に終わらなかった。


然し、誰が木葉刑事を責められようか。 特に鵲参事官だけは、責める資格など有る訳が無い。 彼の犠牲を亡くして、今の中途半端な平穏すら無いし。 彼の行動が有ろうが、また無かろうが、古川刑事と大使の息子は亡くなったのだ。


そう、あの悪霊のしがらみが生み出す殺人の連鎖に、今の仮初めとなるかも知れない歯止めが掛かっただけでも。 事態を知る全ての者からすれば、‘有り難い’、それ以外の何ものでも無い。


さて、これは、全ての経緯を聴いた寡黙ことなし神主の意見だ。 茉莉隊員達に発見されて、鵲参事官と太原長官の部下より訪問を受けた際だ。 鵲参事官が、古川刑事を殺害すれば回避を見込めたと私見を述べた事に対し。


“貴方の意見は、物質的な一部と云う見方しかしていない。 総合的に我々が判断すると。 今のこの現状は、最良の状況と言えますぞ。 もし、木葉さんが鎮魂を試みている途中で古川さんと云う人物を殺害した場合。 呪いの成就を阻害した事に因り。 あの悪霊は、委託呪殺の柵を乗り越える可能性が強く。 その結果は、木葉さんの試みた鎮魂の場から消える事も可能にするかも知れませんでした。 木葉さんの鎮魂が根本的に失敗して悪霊が柵を飛び越えた場合は、もっと、もっと犠牲を出す形へ変化していた。 誰かを殺害して呪いを阻害すれば、殺害の連鎖を止めれたと考えるのは、貴方々の霊魂に対する知識の浅はかさを現しています。 広縞と云う人物の魂では無く、悪意が残っていたならば。 どうゆう形で鎮魂を試み様とも、最後に同じ結末が有った。 魂には、情の一部も残りますが。 悪意のみとなれば、凶暴な獣と云うより悪魔と近い思念。 威霊に軽く同化しただけで、現実的な攻撃の能力を持つのです。 誰が対処したとしても、同じ結果が待っていたでしょう”


こう言った。


鵲参事官が何よりも衝撃を受けたのは、あの鎮魂の方法を可能にしたのは。 木葉刑事の持った強い悲哀や同情の念と、悪霊とまで変貌した女性の魂に、絆と近い繋がりが生まれていた為だからと云う事。 現実的にそんな甘い話が有るのかと、鵲参事官は怒鳴る程に否定した。


だが、寡黙神主は、木葉刑事の想いを些かばかりか感じていて。 古来より封じられた悪霊や怨霊も、人の傾ける悼む、奉る気持ちより鎮静して行く事をを語り。 甘いと思われる慈悲、悲哀、愛惜などの情念は、時を掛けて怒りや憎しみを少しづつ解いて行くものと語る。


その事実を聞く鵲参事官の顔は、怒りに染まって恐ろしかった。 自分が考えた凡ゆる対処法は、全て失敗に繋がると言われているからだろう。


さて、木葉刑事が受け取った資料に、悪霊や怨念の事は全て外されている。 事件の流れに沿って、木葉刑事と佐貫刑事が挙げた証拠や情報を基に。 客観的にして、現実視した事件の経過が綴られているのみだ。


今の木葉刑事の記憶に無いと、他人には思われている。 佐貫刑事は、犯人と格闘して殉職。 古川刑事も、同じ流れ。 犯人は大怪我をして、逃走中と成っていた。


茉莉隊員から見て、鵲参事官の行動は悪意的と言える。 木葉刑事に態と事件の経過を読ませ、記憶を掘り起こそうと云うのだから…。 PTSDに代表される精神疾患患者を相手にして、こんな遣り方は殺人的と云えよう。 もし、ショックから更に精神へダメージを受ければ、木葉刑事の心が危ぶまれる。


だが、ストッパー役とも言える太原長官が大阪に行って留守と成る今日だから、鵲参事官もこんな事をしたのだろう。


茉莉隊員は、鵲参事官の来訪を止めようとしたが。 此方への直前の連絡を止めた彼で、来て見れば既にファイルが渡ってしまっては、貰った現実が在るので対処をしようにも先が難しく成る。 何より、自分達の行動や存在は、今のところ木葉刑事へはシークレットと成っていた。


また、彼がトイレへと行く間に、渡された資料をそっと回収しようと試みた茉莉隊員は、自分達のチームの副隊長に止められた。 隊長と副隊長は、鵲参事官と昵懇らしい。


(どう成っても知らないぞ。 策謀の化け物共め)


茉莉隊員が彼女にしては珍しく、苛立ちを心に出した。


その答えは、今の木葉刑事に見える。 古川夫妻が亡くなった事を知り、木葉刑事が泣いている。 やっと今日に目覚めて混乱する筈なのに、この仕打ちは酷い。


(事務処理には長けるが、人心を扱う人物では無い・・か。 太原長官の云う通り、この局面で本性が表面化したな…)


此処の処、茉莉隊員はずっと太原長官と遣り取りをしている。 最近、太原長官が茉莉隊員に謝った一度の言葉は、鵲参事官の内面を見抜いてのコレで在る。


ま、鵲参事官が事務処理に於いて有能なのは、否定しない。 こんな人知を超えた超状現象にぶつかって、本心と云うモノが表面化したのだから。


だが、この仕打ちがどんな尾を引くか…。


心配する茉莉隊員は、今の木葉刑事の姿に、慙愧する影を見る。 鵲参事官の八つ当たりに近いモノで、彼本人がこうなるべきなのに。


観ていて、当事者を見ていたのに。 何も出来ない自分の存在すら、微かに罪深いと思った彼女で在る。


一方、病室の木葉刑事は、資料を読み返しながら泣いている。


(どこかで、これは防げたんじゃないか・・。 佐貫さん、フルさん、和世さん、スイマセンっ。 俺が・・不甲斐ないばっかりに…)


記憶の在る、本当の彼。 広縞の悪意を取り込んだ威霊の存在を感じて、こんな形にて目覚めを演じたが。 未だ、心の中では後悔が渦巻いている。


そして、元刑事の古川と大使の息子を殺害した広縞。 その気配は、あれからずっと消えたままだ。 面会の出来て無い寡黙神主の見解だが、越智水医師が聴く処で広縞の悪意は完全に威霊と同化していないらしい。 それを、木葉刑事も朧気ながらに察していた。 悪意の塊として広縞が威霊と同化していれば、もう何らかの方法で呪いの連鎖となる事件を起こしているだろう。 これからは自分を取り巻く環境を覗いながら、広縞の悪意が復活する時を待つ。 それに、広縞が現れた時の対策を考える必要もある。


木葉刑事と彼を取り巻く人々には、嘘を境に違った世界と思いが在る。


そして、明日からはどうなるのだろうか…。



          5



4月下旬の終わり頃。 晴れ。 今年のゴールデンウィークは、最大12連休とか。 その大型連休へ突っ走る初日に全ての検査を終えて、警察病院を退院した木葉刑事。 自力の足で警視庁に向かった彼は、他の刑事達の半数から。


“古川刑事の暴走を止められず。 然も、犯人を逃した刑事”


と、噂されていた。


何故ならば、身勝手な捜査中にスマホを壊し、連絡も出来ずして犯人と格闘に至った・・と。 この情報操作は、太原長官が遣ったものだ。


警視庁にて、記憶が無いとする木葉刑事の登場に、見掛けた刑事の一部は遠巻きに噂をする。


(来た来た、使えないポンコツがよ)


(ま、一人で暴走した挙げ句、所轄の刑事に死なれちゃ~ね)


冷ややかな嘲笑をする刑事達の目が、廊下を行く木葉刑事を蔑んで居る。


処が、そんな一方。


(おい、もし俺等が古川刑事の立場だったら。 お前等は機械的に上へ連絡して、後はほったらかしにするのか?)


(随分と他人ごとだな。 身体を張って犯人を追うのが悪いなら、俺達も事件や仲間に命懸ける必要は無いわな)


後から来た刑事達が嘲笑をする刑事達と睨み合い、こんな事を言い合う。


木葉刑事の行動に対する意見は、様々に分かれて居る。 木葉刑事が渋谷署の刑事へ情報を渡した事や、古川刑事を捜していた事は朧気に噂と成っていた。 古川刑事を犯人にしたく無いと云う想いの刑事や、犯人を是が非でも捕まえたいと思っていた刑事は、木葉刑事をさほどに悪く思って居ない。


やっかむ側と認める側に、警視庁内でも意見が大きく2分し始めていた。


さて、既に班から抜けた存在の木葉刑事。 人事部に行けば連絡は受けて居ると指示を貰う。 復帰した木葉刑事を迎えたのは、警視庁の刑事部長だ。 悪霊が起こした事件の最後にて、里谷刑事に木葉刑事を捜す様に指示した人物で在る。


刑事部長室に木葉刑事が向かえば、好々爺と云える穏やかな雰囲気の刑事部長が椅子に座って居た。 部屋に入った木葉刑事は、そんな刑事部長の机の前へと進み、深々と一礼をし。


「この度は、休職中ながら勝手な真似をし、多大なるご迷惑をお掛けしました。 処分は、全て甘んじて受けます」


覚悟と共に、一課のバッチと警察手帳を机の上に置いた。


木製のデスクを前にして、背凭れのゆったりとした黒いチェアーに腰掛ける刑事部長は。


「木葉刑事。 おもてを上げて下さい」


と、穏やかな物腰の声音で言う。


「は」


顔を上げた木葉刑事に、刑事部長は悟った様な穏やかな表情で頷きを見せると。


「今、警視庁の人員が足りない上、あの一連の事件の後遺症の様なものが永く尾を引いています。 君の様に優秀な刑事を切り捨てても、代わりが居ない。 また、古川刑事、佐貫刑事の亡くなった意味は非常に大きく、警視庁に与えた衝撃も強い。 そして、指揮をしていた我々の失態も在れば、君だけを厳罰に処するだけの立場に無いのも事実だ」


意外な答えが返って来て、木葉刑事は険しい顔をするのみ。 そんな慰めを貰っても、結果が悪過ぎると辛い。


然し、刑事部長は手帳とバッチを見ると。


「減俸、最低2年半以上。 それから向こう10年は、昇進試験の受験資格を無くします。 代わりに、一捜査員として篠田班の中で頑張る様に…」


それは、今回の混乱からするならば、‘破格’と言って良い軽い罰だ。


「しかっ、し…」


驚く木葉刑事は、刑事部長に縋る様に云うが。


瞑目する刑事部長で在り。


「君の処遇については、篠田班長が穏便にして欲しいと重ねて話が在った。 また、君に情報を流していた警察庁の方々からも、今回の君の暴走には向こうの責任が在ると…。 結果、全てを考慮した末に、この処分にと決まったのだよ」


此処で目を開いた刑事部長は、木葉刑事を見ると。


「それが軽い、と君から云うならば、刑事としての行動で皆に返しなさい」


「………」


最もな事を言われてしまい、無念そうに黙る木葉刑事。 古川刑事の死は、後から知った形で。 広縞の悪意に乗っ取られた威霊を逃した後、目覚めてより再確認となったが。 やはり、木葉刑事には大き過ぎる傷だったらしい。


対する刑事部長は、その木葉刑事の心情を違った意味ながら察したのか。


「木葉刑事。 一人で暴走した古川刑事が、君にだけ逃走中もメールや連絡を遣り取りしたらしいが。 それは、君を刑事として認めていたからだと、私は思う。 君のすべき事は、まだ刑事の場所、此処に在る筈だよ」


と…。


食い下がる言葉を見失い、頭を下げた木葉刑事は遣り切れないままに、バッチと手帳を持って行く。 自分を自分でどう罰したら、この胸に湧く無念や後悔を償えるのか。 力は無く、足取りは重く、どの面を下げて班に加われば良いのか。 トイレに向かう木葉刑事は記憶喪失を偽る分、顔にすら出せぬままに苦悩した。


然し、どうして良いか悩み、逃げ込む場所を求めるまま男性トイレに入った時だ。


「おい、木葉」


やや掠れる野太い男性の声がする。


木葉刑事が入口へと返り見たその場に立つ人物は、別の班に所属する40代の刑事だ。 やや偏った性格が在り、これまでの木葉刑事に何かと突っかかって来る人物だった。


「どうも、今回はご迷惑を掛けまして…」


他に云う言葉が見付からない木葉刑事が、先だって遜り小さい声で言う。


トイレに入って来たその刑事は、洗面器前に背を預けると。


「古川さんのこと、奥さんのことも含めて残念だったな」


救えなかった己を知る木葉刑事だ、こう云われては。


「はい…」


力無く云う他に何もない。


「そういえば、先月か。 別件だが、渋谷署の嶽さんと会ったが。 お前の事を酷く心配してたぞ」


「あ、はい…」


「だが、刑事を捨てる気で古川さんを止めに行ったなんて、随分と無茶をしやがってよ」


「すいません…」


「ま、古川さんが亡くなっちまったからな、陰口を叩く奴は多いが。 俺は、お前を見直した。 つか、早く体を整えて、篠田班長を助けてやれよ」


「はい、出来る限り」


これまでの風向きとは全く違うニュアンスの彼の言葉に、木葉刑事の方が困惑に終始する。


だが、手を洗った彼は、鏡の中の木葉刑事を見返すと。


「それから、その湿気た面は止めろ。 陰口を叩く奴らは、お涙頂戴だと冷やかすぞ。 普段のヘラヘラした感じで、飄々とやり過ごせ。 お前なら、実力で見返せる」


と、動きトイレから去る。


驚いた木葉刑事だが、話をする間は無かった。 そのまま無言で居たが、このまま居るわけにもいかないため。 仕方なく顔を洗った木葉刑事は、無表情に近い顔で廊下を行く。 木葉刑事を見て、笑う刑事も居るが。


「よう、退院したのか。 あの事件はまだ未解決だが、大変だったな」


「お疲れ。 寝てた分、気張ってくれよ」


すれ違う刑事に、こう言われる事も。 古川刑事と佐貫刑事の存在を、その言葉の奥に見た木葉刑事だった。


さて、篠田班長の居る部屋に向かえば…。


「おぉっ、木葉っ!」


廊下に出ようとしたのか、篠田班長が先に廊下へと現れた。 心労からか、更に薄くなった頭を見せて、笑顔で迎えてくれる。 篠田班長に捕まるかの様に班の詰め所と成る部屋に入った木葉刑事は、待たされて居た里谷刑事を見る事となり。


「あ・・確か、警護課の…」


と、思い出そうとする様子を演じた。


席より立ち上がった里谷刑事は、警察手帳とライセンスを出して。


「今は、貴方と同じ1課の刑事よ、って。 お見舞いに行った時も言ったでしょ」


里谷刑事とライセンスや手帳を見比べ、木葉刑事は少し困惑した表情をみせる。 いや、病室にて詩織とのやり取りやら篠田班長の話、また里谷刑事が見舞いに来た事でこの事情は知っていたが。 それをすんなり出すのが自分らしくないと思えた芝居である。


「え? あ・、あら」


そんな演技をする木葉刑事に、篠田班長が。


「それよりも、だ、木葉。 今日から4日は、先ず休みを取れ。 これは、刑事部長の命令だ。 身体の復調を第一にして、余計な真似をするな~」


と、復帰を嬉しそうに肩を揉んで来る。


「あ、はぁ…」


生返事をする木葉刑事に、篠田班長は更に。


「古川さんのお嬢さんには、お前からも目を掛けてやってくれ。 親類を立て続けで、何人も失ったんだからな」


詩織の事を言われた木葉刑事は、自分が腐る訳にも行かないと頷き返す。


「はい…」


その日は明け休みに入る里谷刑事に、車で寮へと送って貰う事に成った木葉刑事だが…。




班の改編で、新たな人員が揃うまで他の事件への応援等をしている篠田班だ。 昨日まで別の班の応援に出たりしていた里谷刑事で。 本日の午後より休みとなり、連休の彼女。 そんな里谷刑事の白いSUVに乗り込むなり。


「里谷さん、腹・・減りませんか?」


お腹をギュルギュルと鳴らす木葉刑事で。


運転席に座る里谷刑事は、今日に退院したばかりの木葉刑事を見返すと。 何だか、悪霊と対峙している頃の彼みたいで。


「ハァ、記憶が無いのにね~」


その意味を解って居るのか、居ないのかは、定かでは無いが。


「スイマセン、スイマセン」


と、繰り返した木葉刑事。


だが、待機番の一員として夜勤をし、勤務明けでお腹が空く里谷刑事でも在る。


「ま、いいわ。 私、今日は待機番の夜勤明けで、明日から漸く来た三連休だから~」


と、エンジンボタンを押す。


すると、シートベルトを締めた木葉刑事が、突然のタイミングでハッとすると。


「あ、里谷さん。 そう云えば、確か・・ソウメンの、枯れ木さんは・・って、あれ?」


唐突に、意味不明な事を口走った。 これは、本当に思わず口より出た言葉である。


急に意味不明なことを云われた里谷刑事で、


「ちょっと、記憶が曖昧だからって、ナニを言い出すのよ。 ‘ソウメン’と‘枯れ木’って、何の繋がりが…」


こう自分で言われた事を言い返すのだが。 言っている間に、この目の前の木葉刑事の記憶が悪霊と出遭う前に戻って居ると思い返せば。 去年の自分を連鎖的に思い出して、漸く意味が解った。


「・・ね、木葉さん。 それって・・・もしかしたらさ。 “ソウメンの枯れ木”じゃなくて、“イケメンの彼氏”、じゃないの?」


「あ、あらら…」


言い直されて、木葉刑事も何となくそうだったようなと頷く。


もう別れた男のことを思い出し、呆れては溜め息を漏らす里谷刑事。 まぁ、馬鹿らしいが。 木葉刑事との付き合いならこんなモノと、そう思える里谷刑事だから。


「悪いけど、“ソウメンの枯れ木”さんとは、もう別れたわよ~。 浮気ばっかりだからね゛っ」


と、ムカついてアクセルを踏み込んだ里谷刑事だった。


さて、目黒区の新装オープンしたファミレスに来る。 店に入る2人して、半分以上のメニューを一新したラインナップに目を奪われる。 向かい合って座り、テーブルに置いたタッチパネルの端末機を覗くと。


「あら~、随分とメニューが入れ替わりましたね。 こりゃ、目移りするな…」


と、木葉刑事が言えば。


「そう。 然も、デザートがねぇ・・。 ホラ、有名パティシエ監修のイイ奴が揃ってるのよ。 先週からの、期間限定メニューよ」


テーブルに有る三角の案内を指さす里谷刑事が応える。


二人してメニューを眺め、あ~だこ~だ言いながら午前の11時前から注文して。 その後、食事をしながら班や警視庁のことを話して、途中でオーダーを追加することツゥオーダー。


と、云うのも…。


先付け代わりのフライドポテトが来る間に、ドリンクを取りに行ってから直ぐ里谷刑事の始めたこの話より長話は展開された。


「あのね、木葉さん。 次の出勤時から混乱しない様に、今から云うけど。 篠田班長、ぶっちゃけ今の地位が崖っぷちよ」


オシボリ代わりのウェットシートで手を拭く木葉刑事は、何事かと。


「はぁ? もしかして、何か・・自分の事で不味かったとか?」


右手で頬杖をして、メロンソーダの入ったグラスを片手に飲みながらの里谷刑事は、窓の外の人通りを眺めるままに。


「まぁ、その責任を探すならば、確かに貴方へ行き着くかもね」


「記憶の無い間に、相当な迷惑を掛けたみたいッスね」


ウーロン茶を後回しにして、先ずはと水を飲む木葉刑事。


だが、


「違うわよ。 問題は、記憶の在る時から」


と、里谷刑事が木葉刑事を見た。


「はぁ? どうゆう事ッスか?」


グラスを置いて頬杖を止めた里谷刑事は、ソファーの背に身を預けて腕組みし。


「貴方ね、正直に言って考え方が甘いのよ。 幾ら同じ班だからって、‘猪瀬’や‘田神’みたいなバカに手柄を譲るから、そのバカの悪さが此処に来て表面化したのよ」


話を聴いても意味がサッパリな木葉刑事だ、目をパチクリさせては里谷刑事を見返す。


そんな彼の様子に、里谷刑事はまだ言っている意味が解らないようだと察し。


「いい、木葉さん。 篠田班は、私と飯田刑事と貴方を除いて、残り4人が総入れ替えよ」


「え?」


「あの、貴方が関わった未解決の惨殺事件の前は、み~んな貴方の手柄を貰って何とか刑事課に居れたみたいだけど。 貴方が居なく成ってのこの二か月で、彼らは捜査一課と云う場所に分不相応って、明るみに成っちゃったのよ」


説明されても、経過が解らないから想像が追っ付かない木葉刑事は、更に困った顔をして。


「そんなに、大変な事に成っちゃったンッスか?」


「えぇ」


グラスに手を伸ばし、クリームソーダを飲む里谷刑事。 窓側の向い席で、今は周りに人が居ない場所だからと。


「田神刑事と長谷川刑事は、捜査本部の指示を無視しての見込み捜査から容疑者の不当たり(勘違い)ばっかりして。 遂に、それを理由に相手から訴えられ掛けてね、2人して立て続けに班を干されたし。 大路(おおじ)刑事は、自分の目の前を行く犯人を見過ごして、その直後にナイフで奇襲されて大怪我からのリタイア」


「大路さん、怪我したンッスか?」


「左腕の靭帯を完全にヤっちゃったから、刑事課に復帰は、まぁ~無理ね」


「そ・そうッスか…」


項垂れながら現状を理解した木葉刑事だが。


「でも、一番に程度が悪過ぎるのは、猪瀬ね」


里谷刑事の声音がいら立った事にまた顔を上げる。


「猪瀬さんが、どうかしたンッスか?」


すると、急に不機嫌となった里谷刑事は、また視線を窓に向かせてはグラスのクリームソーダを一気に減らした後。


「全くっ、どうもこうも無いわよっ」


と、小さく吐き捨てたではないか。


入院していた間の班の様子は殆ど何も知らない木葉刑事だ。 返って里谷刑事のその様子に、何やら強い不安を覚える。


「チョット待って。 飲み物のお代わり、持って来るから」


飲み物の御代わりを取りに里谷刑事が立てば、直後にはカリカリに揚がったフライドポテトが運ばれてくる。 木葉刑事は、その匂いに釣られて手を伸ばす。 奇妙な不安のままの間合いが、黙って待つことすら不安にさせたのだ。


さて、二杯分の御代わりを持ってきた里谷刑事は、この2ヶ月足らずの経緯を話し始める。 語る里谷刑事の口調がどことなく苛立って居るのは、余りにも刑事として不名誉な事だからだろう。 話す前に、フライドポテトを数本ばかり一気に掴む里谷刑事が食べると。


「あの・・猪瀬ってバカね。 非番の時は、闇組織が運営する・・・違法カジノに出入りしてたのよ。 ねっ、知ってたぁ?」


「え゛っ、あっ、あ・あの猪瀬さんが?」


「そう。 然もね、以前から一部の違法カジノに入る手入れ(捜索)の情報が、前もって運営側の闇組織に漏れてるって噂が在って。 最初は、組織対策室か、知能犯を扱う二課の誰か、そっちから情報が漏れてるんじゃないか・・って、上層部は思ったらしいの」


「もしかして、それも猪瀬さんが?」


「そ」


「あの猪瀬さんが…」


仲間の不正に、落ち込む木葉刑事。


呆れ果てる里谷刑事は、頼んだステーキが来た事で店員に笑顔を作ったが。 店員が去ると、また顔をイライラ顔へ戻し。


「ね、聴いてよ。 あの猪瀬の奴ってばさ。 ケッコウ~前から、なんと銀座のホステスに入れ込んでて。 その女の体を自由にするとか、違法カジノの出入りの許可とか、カジノで遊んで出来た借金の代償の代わりに。 捜査情報を同期から聞き込んで、自分から進んで流してたみたい」


「うわぁ・・・。 それは・・もう懲戒解雇ッスね」


「当ったり前よぉ。 デカ(刑事)が、捕まえる側に有利な情報を渡してどぉ〜〜〜すンのよぉっ」


「ハァ…」


どうしようも無い話で溜め息を吐く木葉刑事に、ステーキをガシガシ齧る里谷刑事が。


「これに懲りて・・手柄を回す相手も・・・見極めなさいよ。 あんな、アホを生かす為に・・・木葉さんの特異能力が・・在る訳じゃ、無いんだから…」


食べたり、飲んだり、その合間に喋る里谷刑事は、サラッと‘特異能力’と云う。


「あ・・里谷さん?」


パッと木葉刑事を見返した里谷刑事は、周りを窺ってから小声にて。


「木葉さんの霊能力のことは、貴方が失ってる記憶の間で十分に理解したわ。 でも、幽霊を視て情報を得ても、渡す相手が最低のクズじゃ~意味が無いでしょうよ」


叱られた木葉刑事は、猪瀬刑事のことを思い。


「そうですね」


と、気を落とす。


里谷刑事や鵲参事官など、自分の霊能力を知る存在がいる。 そのことを改めて考える木葉刑事は、


(この現状をどう利用する? 広縞との戦いに、里谷さんを巻き込むわけにはいかない…)


まだ、今の本当の自分の状態を、詰まりは記憶を取り戻している事を誰にも解らせるわけにはゆかないと思う。


其処へ、チキンステーキが運ばれて来て。 とにかく食べようとステーキを切る木葉刑事は、記憶喪失をどう利用すべきか、もっと慎重に注意すべきと留意した。


それからは、辞めて行く刑事達と所轄の刑事との間で、班に来たばかりの里谷刑事が如何に恥を掻いたかを聞かされる。 木葉刑事の手柄を貰って居た刑事達は、木葉刑事が班を離れた後に随分と足を引っ張っていたらしい。 また、夜勤明けで喋る事に熱が入る里谷刑事は、ステーキだけじゃ物足りないと。 ドライカレーとチキンのトマト煮込みを追加。


タッチパネルで注文する木葉刑事も、シレ~っとミートパスタを追加した。


さて、今の篠田班長の立場は、本当に首の皮一枚だけ繋がった状態ながら、何とか班長をしていることを知らされた。


だが、4月中頃までは、


『第二強行犯‐2係‐第二班』


として居たのが。 新たに班を増やす人事に当たって改編後の今は、


『第四強行犯捜査‐7係‐第三班』


に、位置が変わった。


或る意味、これも降格の配置換え。 然し、捜査一課は一課だから、捜査する事件は殺人や傷害事件が基本と成る。


因みに。


警視庁が春の組織改編で、捜査一課の中に新たな班を増やした。 その内容は、それぞれ第二強行犯から第五強行犯までのそれぞれの係は、これまでは2ないし、3班としていたのを変えて。 全て、3つの係が入る事とし。 第五強行犯は、改編前は8・9係が入っていたのに。 改編で、8・9係は第四強行犯へ繰り上げられ。 第五強行犯には、10~12係が新たに新設された。


依然として、都内で年間に発生する事件の数は減る様子もない。 また、凶悪事件が減っている訳でも無い。 また、悪霊の一件で警視庁と云う捜査機構が崩れては困ると、東京都の要望を受けた警視総監が刑事部長や木田一課長と話し合って今回の改編を決めたらしい。


そして、更に。


一方、第一強行犯捜査が特別枠となり。 このの中に、特命第三係から特命第五係が新設された。 この新しい態勢での第一強行犯捜査の新設係りでは、時効の撤廃された殺人事件の継続捜査のみを担当する。 近年、殺人事件の時効撤廃の影で、時効の在る事件の捜査が進まなく成りつつ在る中。 特命継続捜査班に人員が揃い、継続捜査と強行犯係りの受け渡しがスムーズに成った為。 縮小されてゆく殺人事件の継続捜査は、ちゃんとした新設の係りで行う事を明確化した形でも在った。


また、新しい組織改変では、知能犯に対する二課の中に、振り込め詐欺のみだけを専門に扱う係りと。 組織対策の一部を扱う専門係りが出来上がり。 組織対策犯罪室に居た、木葉刑事と同じ大学の後輩で在る〔居間部 迅〕《いまべ じん》が。 その組織が関わる振り込め詐欺を捜査する係りに入ったとも、里谷刑事が教えてくれる。


然し、木葉刑事の失った記憶の部分と成る、悪霊に因る殺人事件で。 一部の刑事課や所轄の刑事を始め、派出所等に所属する警察官には深刻な精神的負担を強いる事と成り。 更には、拘置所や刑務所で悪霊に因る殺人が多発。 刑務官にも離職者を多数出し。 その人員の入れ替えやら整理が、素早く対応しきれて無い現状は丸見えだとも教えられる。


そして、話は更に新しい班の態勢へ。


里谷刑事は、“ドライカレーとチキンのトマト煮込み”を食べながら。


「てか、新しく来た班のメンバーってね、なかなかの個性派揃いよ」


「里谷さんも込み、で?」


「YESっ」


里谷刑事と木葉刑事の事は、もう改めて書く必要も無いだろうが。


篠田班長と一緒で、篠田班の最初から居た刑事の飯田は、柔剣道に空手を加えた鍛錬にて細身と見える眼鏡を掛けたインテリ系で、渋みが在る41歳。 低音域の淀み無い声、ちょっと鋭い眼、高身長で服のセンスが良い。 全く良く完成されたナイスミドル。 既婚者ながら、一目で解る中年のイケメンの為か、今だに彼を狙う女性職員が少なからず居る。


一方、新しく入って来た刑事は、如月刑事、市村刑事、織田刑事、八橋刑事の四人。


この四人は、何れも木葉・飯田の両刑事と仕事が出来るならと、自身から申告して警視庁捜査一課入りを志願した人物達と云う。


これを聴いて木葉刑事が。


「確かに、全員が自分と捜査経験が有りますね」


ドライカレーの旨さに喜ぶ里谷刑事が、後がけの濃厚チーズを追いがけしながら。


「それって、やっぱ‘手柄’の絡み?」


「いえ。 四人のどなたとも、物悲しい事件だったり。 被害者が多数居た事件ばっかりでした…」


この返しに、頷き返した里谷刑事。


「ナルホド。 篠田班長も、飯田さんも、同じ事を言ってたわ」


「・・・は?」


「“木葉のお陰で、漸く‘らしい’班が出来上がった”ってさ」


「はぁ?」


トマト煮込みのチキンを食べる里谷刑事は、寧ろ彼より意味を理解する。 猪瀬を始めとした刑事達は、もう‘刑事’としての信念とか、人間性の根っ子が不安と思える程に傷んでいたが。 新しく入って来た刑事達は、確かに‘刑事らしい’刑事で在る。


例えば、市村刑事と云う人物は、容姿が整うスタイリッシュなダンディ俳優とみまちがわれたりするほど。 西洋人の血が混じるクォーターらしく、若い頃から美男子としてモテただろうと解る人物だ。 また、ネクタイやらスーツにシャツやらが派手やかと云うか、個性的で。 年齢も38歳の中年男性。 フェミニストで仕草を決める癖が在る反面、人の話を聴く広さは大人びて居る。


また、如月刑事は、短い頭髪の話し好きな40歳。 噂好きでも在り、‘情報屋’とか‘ワイドショー’と噂されるも。 聴き込みにて情報を引き出す速さや深さは、たった一回の仕事でも組めば解る腕前で在る。


織田刑事は、子供が二人居る女性刑事。 長い髪を白髪を隠さず後ろに縛るだけで、40半ばと云うより50歳過ぎに見えるオバサンだ。 然し、元は所轄の生活安全課で少年犯罪や薬物を追っていただけ在り。 人を視て、話を聴く中でも嘘を見抜く眼は持ち合わせて居ると、飯田刑事が云う。


そして、身長2メートル超え、体重150キロを超える巨漢の八橋刑事は、木葉刑事と年齢に差が無い33歳の新任刑事。 中途採用にて刑事に成って、サイバー対策課が欲しがった人材らしいが。 所轄の刑事をして居た時、木葉刑事とたまたま組んで捜査協力をした。 その経緯から再編を聞き付け、今回は志願入りしたらしい。


だが、篠田班の変化だけでは無く、管理方の変化も有る。


デザートに手を付ける里谷刑事は、その事を感じて居て。


「ウチの班も様変わりしたけど。 管理も様変わりしたわ」


と、情報を匂わせる。


〔チョコレートのミルフィーユブロック〕なるデザートを食べる木葉刑事は、紅茶で口を空けると。


「見舞いに来てくれた飯田さんの話しですと、一課長が新しく成ったみたいですね」


「えぇ。 少し前まで管理官だった木田さんが、新たに一課長へ昇進して。 小山内(おさない)理事官、八重瀬(やえせ)理事官を左右の腕にして、後任の暫定理事官として臨時席に九龍理事官を加えて。 新たに、郷田・・笹井・・今和泉って云う三人が、新たに管理官に成ったわ」


「ナルホド…」


捜査一課長は、殺人・傷害・強姦・暴行・強盗・誘拐など、強行犯係りが対する捜査一課を束ねるおさだ。 都内の事件で、警視庁捜査一課が関わる捜査本部の全責任者で在り、捜査本部を作るかどうかを決める司令官の様な者。 前任者の色眼鏡をした円尾一課長は、点数稼ぎの場が他に無く、仮処置の形で一課長の席に座ったが。 本来は、経験と実績が在って然るべきな者が其処へ座らなければ成らないハズだ。


三角のチョコレートの中が、サックサクのミルフィーユと云うデザートに木葉刑事は満足を得ながら。


「木田さんは、本当に適任者ですよ。 本当ならば、最初からあの方が居るべきッスね」


同意見ながら、サクサク云うミルフィーユの具合を窺っていた里谷刑事は、それが美味しそうに見えて来て。


「ね、私の“季節のマカロン”とそれ一個、交換してよ」


「はい」


シェアまでし始めた二人だが。 さくらんぼのムースジェラートを食べきる里谷刑事は、外を眺めながら。


「でもね。 笹井って人は、管理官にはゼッタイ不向きよ」


「どおしてッスか? あの人は女性を強く推して起用する事で有名な、元4係の班長でしたよ」


今、男女の比率も一般的な刑事課。 女性を強く起用するとしても、当たり前なのだろうが。 それでも、女性の里谷刑事が明らかな不満を顔に見せた。


「あのねぇ、木葉さん。 ‘女性を起用、女性を起用’って、最近は良く云うけど。 世の中の半分は男だし、経験や能力を見抜かずして女性を起用するのは、只の女好きよ」


「はぁ…」


「大体、あの笹井って人の班は女性だらけだったけど。 解決する事件に偏りが在るって、私が警護課に居た頃から噂が出てたわよ」


「ほぉ。 あんまり他の班の事を知らないんで、それは初耳ッス」


こうゆう処は、正に女性らしい里谷刑事。 噂や現実を織り交ぜ、長話に興じる。


ま、この後は木葉刑事を新宿舎マンションに送って、そのまま自分も隣の女性独身寮に帰りゆっくり寝る予定だから、気を抜いて居るのだろう。


処が、それは一通のメールにて、脆くも潰れる事に成ってしまうのだった…。

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{CURSE‐狭間編 暫時と漸次~木葉刑事の捜査日記 1 春夏 蒼雲綺龍 @sounkiryu999

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