アノマリー・レポート

 ひと気のない暗い道を、僕は走っていた。

 辺りに広がる森の中からは蝉時雨。空にはくすんだ星空。べたつくような空気は微かにそよいで木々を揺らす。

 この道の先に目的地がある。僕にとっては一世一代の挑戦で、かなりの危険が伴うだろう。やがて、その廃墟のような建物が見えてきた。

 蝉の声がなければ不気味に感じただろうが、崩れた壁から覗く錆びついた鉄骨や死人のように白く変色したコンクリート、侵食しようとする自然を拒むように屹立する異質感は、どこか高揚するような夏の暑さで現実感が希釈されていた。古い自動車整備工場の跡地だ。

 車の整備場へのシャッターは焦げ茶色を剥き出しにしていた。建物のそばに一台の車が停まっている。建物の中に誰かがいるのは明白だ。地面に瓶が転がっていた。おそらく、この場所を訪れた人間が酒盛りでもやったのだろう。一本の瓶を拾って、建物の周囲から中を窺う。だが、案の定、どこに誰がいるのかなど分かるはずもなかった。

 車のそばに戻り、近くに落ちていた大きな石を見つける。石を持ち上げて、車のフロントガラスに投げつける。大きな音がしてフロントガラスにヒビが入り凹む。同時に、クラクションが小刻みに鳴り響く。急いで建物の影に隠れる。

 少しして、建物の中から警戒するように男が現れた。クラクションとウィンカーをバチバチさせる車に駆け寄って、周囲に顔を向ける。

「誰だ!」

 男は舌打ちをして、ボンネットに身体を向けると、呆然としたように立ち尽くした。僕はその背中に目がけて手にしていた瓶を思いきり投げつけた。コントロールが良い方ではない。だが、瓶は真っ直ぐに男の後頭部に直撃して、男は声もなく膝から崩れ落ちた。動く気配はない。死んでしまったかもしれないが、そんなことはもうどうでもいいことだ。

 急いで建物の中に侵入する。

 中は苦みのあるような、それでいて生い茂る草のような青臭さが充満していた。きっと、これが廃墟のにおいというやつなんだろう。朽ちた人工物とどこからか入り込んだ草や土の混じり合ったような、退廃的な香りだ。

 ゆっくりと真っ暗な中を進んで行く。

 奥の部屋にライトが立っていた。真っ直ぐとこちらを照らすその光の中に椅子に腰かけた誰かがいる。逆光でよく見えない。急いで駆け寄って、回り込む。その顔を見て、僕は一瞬言葉が出なくなってしまった。

 闇の中に浮かび上がる端正な顔。大きな瞳。華奢な体は結束バンドで椅子に固定されていた。

 橘千尋だった。

「どうしてあなたが……!」

 ここに座るのは坂田だったはずだ。あり得たとしても、ここにいるのは藤堂くらいだ。また歴史が変わってしまったのか? それなのに、アノマリー・ポイントであるこの凶行だけは変わらずにここにあるというのか。

 クリードでは、司馬の後継者を巡って、坂田と藤堂の二つの派閥の間で争いが繰り広げられていた。お互いの派閥のトップが邪魔になっていたのだ。そこで、殺人の計画が進むことになった。殺人をひとつの事業に見立てて、派閥の人間で分業する……。だから、殺人の決行人も、凶器の調達役も、犯行現場の監視役も、被害者と加害者の運び屋も、殺害した後の遺体の処理も、それぞれの役割を耐えられた人間が粛々と自分の仕事をこなすだけだ。

「あなた誰なんですか……。もうこんなことやめて下さい」

 僕の思考の間を縫って、千尋の悲痛な叫びが届く。

「違います! 僕は殺人を止めに来たんだ!」

 千尋の顔が強張る。その頬に涙が流れた。

「殺されるんですか、私……」

「僕が来たからもう大丈夫です!」

 ポケットの中に入れておいたニッパーで結束バンドを切り離しにかかる。暗闇の中に照らされる彼女のぬめっとした生気のない白い手が、なにか恐ろしかった。

「馬渕がやって来て、あなたを殺すはずだったんです」

 千尋は恐怖に震えるだけだった。馬渕のことなど、彼女は知らないだろう。だから、こんなことをわざわざ言う必要はなかった。

「私が引退するって言ったからですか……」

 結束バンドを外し終えると、彼女は弱々しい声でそう言った。

「引退?」

「私のせいでグループのみんなが恐ろしい組織に利用されるのが嫌で……それでこの活動から離れようとしたんです……。それでも、復帰の噂を流されて」

 坂田にとっては、千尋は組織の資金源だ。藤堂にとっては、資金源を得た坂田が組織内で地位を確立するのが邪魔だったのかもしれない。だから、千尋が狙われることになったのか? 坂田と藤堂のどちらが千尋の殺害を計画してもおかしくはない。

 よろめく彼女の腕を取って、建物の外に向かう。

 息の詰まるような屋内から、騒がしい外に躍り出る。車のそばの男は倒れたままだ。千尋は何かを言おうとしたが、僕は無視をして歩き続けた。

「ここをずっと行けば街に着く。そしたら助けを呼ぼう」

 千尋の腕を僕の肩に回して、ゆっくりと歩く。きっと、これで全てうまくいくはずだ。

 廃墟からずいぶん離れたところまで来た。千尋の足が急に重くなる。

「ちょっと……休ませて下さい……」

 彼女の額には汗も滲んでいない。やや体温も高まっているように感じられた。熱中症なのかもしれない。長時間暑い中で拘束をされて、水も補給できなかったことだろう。僕は彼女を道路脇の古びたガードレールに寄り掛からせた。だが、もたもたしている暇はない。今にも道の向こうから、馬渕を乗せた車がやって来るのではないかとひやひやしてしまう。

 突然、道の先に雷が走った。

 驚いてそちらを見ると、バリバリと音を立てながら光が広がっていく。そして、その光の亀裂から、武装した集団が姿を現した。千尋が驚いて立ち上がると、後ずさりする。

「そこの二人、動くな」

 集団のリーダーらしき男が粛々とそう発した。僕らはあっという間に囲まれる。武装集団の輪の中に、リーダー格の男が歩み出る。その目は真っ直ぐと僕を捉えていた。

「お前はタイムラインを不正に改変した。直ちに拘束する」

 僕は両腕を二人の男に掴まれた。ものすごい力だった。

「だ、誰なんですか……あなたたちは……?」

 千尋は腰を抜かして地面に尻をついていた。突如として目の前に現れた武装集団を見ても、現実だと理解できるだろうか?

「我々はアノマリー検知隊。このタイムラインを監視している」

「タイムライン……?」

 千尋が目を白黒させた。リーダー格の男が僕に近づく。

「実体を失ったことを逆手に取って逃げ続け、タイムラインを混乱に陥れた罪は重い」

「離せ! 僕にはやらなければならないことがあるんだ!」

 僕の目の前に、不思議なデバイスが突きつけられる。ホログラムが現れて、ひとりの女性が表示された。

「キリュカ・オブラン……タイムラインの書き換えを行った」

 次に、どこかの駅の防犯カメラ映像が流れる。浮浪者のような男がバッグを抱えて走り去っていく姿だ。

「この男は、とあるナイフの入ったバッグを電車内から盗み出した」

 さらに、封筒を手にホテルに入って行く女性の写真が中空に表示される。

「ある文学賞で発表される内容の記された封筒を入れ替えた女もいる」

 千尋が不安そうに見つめているのが見える。

 リーダー格の男は次々と映像や画像を示した。未来の馬渕遣佑と名乗る男、星条旗のスーツを着た男、コンビニに現れたフードの男、キマウ・カ・タコサ、ジミヘンのバンを用意しろと伝えたパシリの男……。

「全てお前だ」

 時が止まったかのようだった。

 そうだ。あれは全部僕だ。このタイムラインを何度も何度も何度も……。心が挫けそうになっても諦めることなどなかった。

 リーダーの男は最後にひとりの少年の姿をホログラムで呼び出した。

「玉坂光喜……。お前はなぜこんなことを繰り返す」

 僕は答えなかった。僕の大切な思いだけは、誰かに勝手に解釈され、汚されたくなかったのだ。

 男はホログラムにリストを表示して、僕に提示した。

「これが、お前が直接的・間接的に関係した実行済みの事象と未実行の事象をまとめたアノマリー・レポートだ」


越境者

論理的な殺意

守護天使

/*A hackneyed creative mot*/if(i=

Y字路の男

ユビキタス・ラブ

帰巣本能

世紀の嫌われ者

渚に馳せる影

カイロフォビア

死んだ街

推しを笑うな!

幻聴の翼

静謐な牢獄

星海の虚ろ舟

複眼のウロボロス

腐蝕宇宙

読者への挑戦状


「お前は数週間後に敵陣営によるシミュレーション介入によって落下する小惑星の直撃を受ける。その際に、敵対陣営の妨害工作によってプログラムを書き換えられた。それから、このタイムラインを破壊するために動き続けたんだ。だが、もう諦めろ」

「諦めるだって?」そんなことができるわけがなかった。「あの人との日々を取り戻すために、希望を持てる未来を作るために、ここまでやって来たんだ! お前たちに邪魔なんかさせない!」

 僕はもがいたが、押さえつける腕を振りほどくことなどできなかった。ここまでやって来たのに……。気が狂うほどにやり直して、やってここまでたどり着いたのに……。

 男が僕にぶつからんばかりに顔を近づけてきた。

「お前を徹底的に解析してやる。それが我々の陣営の勝利に繋がるのだ」

 新しい宇宙の覇権をかけた戦いのことを言っているのだろう。僕の身体を引っ張るようにして男たちが歩き出す。

「何をするつもりなんですか……!」

 千尋が声を上げた。その目は弱々しくも力強い。まさか、僕のことを助けようと思っているのか? そんな華奢な身体で。そんな弱り切った力で。

 男たちは彼女の声に聞く耳などもたない様子で、歩を進める。

「待ちなさい……!」

 千尋の声が遠のいていく。僕には何もできないのだろうか?

 こんな危機的な状況を覆すような一手など存在するのだろうか?


 僕は、君との青春の日々を過ごしたかっただけなんだ。

 あの隕石が降って来る光景を忘れることはない。家から電話が来たせいで、君と別れて僕は海の方へ。気がつけば、僕は死にながら生きる亡霊になっていた。何度もあの海を見つめた。そのたびに、君を想った。君との日々を手に入れられるなら、なんでもする。その決意を運んできたのは、あの海のさざなみだったのかもしれない。

家から電話が来た理由は、叔母さんが事故に遭ったからだ。だから、事故が起こらなければ、僕らは帰り道で別れることはなかっただろう。事故の原因は無謀な運転をしたバイクを避けるため。そのバイクに乗っていた男はコンビニで強盗をして、逃げている最中だった。強盗を阻止しても、叔母さんは事故に遭った。無駄なことなのか、と僕は頭を抱えた。

 男が強盗をするハメになったのは、クリードの派閥争いの末に計画された事件に関わっていたからだ。その事件が起こるのを阻止するために、あらゆる手を尽くした。犯罪に利用する車を派手なものにさせたり、犯行現場の近くに車を走らせたり、クリードの派閥争いのきっかけになった司馬の失踪が起こらないように時間のループに閉じ込めようとしたり、千尋の卒業と引退を阻止させるためのシステムも用意した。だが、結果は変わらなかった。

 事件の実行犯にされたのは、馬渕遣佑……別の時間軸での作家としての名前は山野エルだ。クリードという組織に属するようになった時間軸を否定するために、彼の人生の岐路で進む方向を変えさせ、彼に文学賞が与えられるように手を加えた。それでも、彼の絶望を取り払うことはできなかった。彼は違う時間軸の自分を思い描き、それが時空を引き裂くことになってしまった。世界が混沌に陥ってしまったのは、僕のせいなのだ。

 落下した小惑星は、遥か昔、宇宙のどこかで崩壊したウアネッタという惑星の破片だ。それが数億年という時間をかけて地球にやって来た。当初は地球のそばを通り過ぎるだけのはずだった。ところが、人工衛星とぶつかったことで地球へ落下した。ウアネッタの崩壊を阻止するために過去に遡る手を考えたが、それも失敗に終わった。

 僕がここまで逃げおおせることができたのは、山野エルという男のおかげかもしれない。山野エル……このシミュレーションにもともと組み込まれていた存在。彼にはこの世界を記述する力があった。彼が創造することは、なぜかこの世界で現実のものとなる。時空がズタズタに断裂し、二つの時間軸が生まれ、遥か昔の宇宙の歴史が作られた。彼は本当の意味で創作者だったのかもしれない。彼のもたらした混沌に隠れるようにして、僕はここまでやってこれたのだ。

 ……山野エルの記述。

 そこまで考えて、僕に最後の閃きが訪れた。

「ちょっと待ってくれ!」

 必死で声を上げると、前を行く男が振り返った。

「最後の悪あがきか?」

 男がそう言うので、乗っかってやった。

「ああ、そうなんだ。僕がここに存在した証を残したい」

「証だと?」

 僕はポケットからニッパーを取り出して、アスファルトの地面に膝を突いた。

「ちょっと記号を書くだけだ。それだけならいいだろ」

 男は鼻で笑った。

「好きにしろ。だが変な気は起こすなよ」

 僕は最後の賭けに出た。

 ニッパーで地面を削る。白い線が現れる。大きくその記号を刻みつけた。



 アノマリー検知隊が呆然とそれを見つめる。そして、笑った。

「それがお前の生きた証か? 下らないことに時間を使わせるな」

 何も起こらないのか?

 山野エル……あんたが残した呪詛はこれで完成するんだろう?

 道の向こうに雷が走った。

 時空の切れ間から、武装した集団が姿を現した。

「なんだ!」

 男たちが身構える。

 やって来たのだ。本当のアノマリー検知隊が。

 彼らの武器からビームが放たれ、僕の周囲の男たちを消し飛ばしてしまう。すっかり敵の影が消え去ってしまうと、現れたアノマリー検知隊のリーダーが凛々しい声を飛ばした。

「無事か?」

 僕は膝を突いたままうなずいた。後ろを振り返ると、驚いた表情の千尋が固まってしまっている。信じがたい場面に出くわして正気でいられるだろうか?

「間に合ったようだな」

 リーダーが僕の腕を取って立ち上がらせてくれる。優しく、力強い手だった。僕は千尋を指さした。

「彼女、相当弱ってるんです。助けてあげて下さい」

 そう言うまでもなく、アノマリー検知隊が彼女のもとに駆けつけて、応急処置を施してくれていた。

「彼らは旧型のプログラムだった。誤った修正を加えるところだったな。どうやって我々を呼び寄せた?」

「山野エルという男が人々を自らの物語の中に綴じ込めたんです。しかし、その物語には終わりがなかった。つまり、未実行のままだった」

「我々のもとにも未実行の事象の問題は届いている。その男が原因だったのか」

「だから、物語に終止符を打つ必要がありました。そのためには、閉じ鍵括弧がひとつだけありさえすればいい」

「なるほど、そういうことか。君がこのタイムラインの正常化に力を貸してくれたわけだ」

 だが、僕はうまく笑えない。僕が望むのは、このシミュレーションを完成させることなどではないのだから。

「殺人を回避することができたとしても、僕が望む未来が手に入るわけではありません」

 リーダーは首を傾げた。

「君の望む未来とは?」

「あの人との普通の日々」

「あの人とは?」

 僕は思わず苦笑してしまった。

「馬鹿ですよね。それが名前を知らないんです。ただ、僕の色褪せた日々に色を落としてくれた人なんです」

 リーダーは僕の肩に優しく手を置いた。

「だから、タイムラインを奔走してきたのか。その人との日々を掴むために」

「あの瞬間に、僕は死ぬはずだった。だけど、どういうわけか時間を行き来できる存在になった。神様がくれたチャンスだと思ったんです。だけど、きっと今度も僕の努力は無駄に終わる」

「あながちそう決めつけるものではない」

 リーダーがそう言って、腕のデバイスを起動させた。シミュレーションのタイムラインが表示されている。リーダーは静かに話し始めた。

「『死んだ街』の冒頭で、〝私〟の部屋にライターが残されていた。ライターは殺人の後、殺人を行なった証として部屋に持って来られたものなのか、それとも、これから起こる殺人の現場に被害者が連れて行かれる際に置き忘れて行ったものなのかという二通りの解釈がある。言葉を換えれば、〝私〟の彼が馬渕遣佑である可能性と、坂田である可能性だ。前者の場合は、すでに殺人が行われ、馬渕は殺人現場から坂田のライターを持って来たことになる。彼を殺したという証を持って来いと言われていたからな。だが、君が閉じ鍵括弧を使って山野エルの物語に終止符を打ったということは、未実行の事象が実行されたということに他ならない」

「だからなんだって言うんですか。また僕は下らない失敗をしてしまったに過ぎない」

 リーダーは僕の両肩を掴んだ。

「よく聞け。君が実行させたのは、君がタイムラインの時間の定数に変更を加えるという事実だ。それによって、このタイムラインにおける二五〇〇年前にあのライターが配置された」

「それでも、アノマリー・ポイントは動かせない。殺人は行われるんですよ」

「動かせないからこそ、『死んだ街』の〝私〟を取り巻く状況が変化したんだ。火を纏った狼のライターによって、時間の進み方が変わった。『死んだ街』は殺人が行われる前の出来事になり、必然的に〝私〟の彼が被害者となる。すなわち、ここで彼は坂田でなければならなくなる」

「意味が分からない。どうしてそうなるんですか?」

 リーダーはニコリと笑った。

「被害者である〝私〟の彼──坂田は殺人の現場に連れ出されていく。ただし、彼女の部屋にライターを忘れたまま」

「でも、それでも馬渕が彼を殺しに来る」

「彼は『複眼のウロボロス』の永遠の一瞬の中に囚われたままだ。彼を助け出すチャンスはある」

 僕は後ろを振り返った。やや回復した様子の千尋がこちらを茫然と見つめていた。

「じゃあ、どうして彼女はここに?」

「『論理的な殺意』を思い出してほしい。イルフォルドのほくろの位置が変わったのは、メモントゴムに到達して以降のことだ」

 話があちこちに飛んで頭が追いつかない。

「何を言ってるんです……?」

「イルフォルドのほくろの位置が異なるのは、それがパラレルワールドの彼だからだ。つまり、別の時間軸がもうひとつある。今まさに命の危機を迎えている坂田もそこにいるはずだ。君が望みを託した未来は、その時間軸で実現されるだろう」

 僕の望む未来。

 小惑星は落ちるかもしれない。だが、僕はそこで死ぬことはない。そんな未来があるというのだろうか?

 リーダーがデバイスを操作して、時空にゲートを開いた。渦巻く光が時空の亀裂の向こうに煌めいている。まるで、あの海のように。

 千尋を見た。命の危険があろうとも、僕を助けようとしてくれた心優しき人だ。僕は彼女のそばに近づいた。彼女は未だに目の前で起こっていることを信じられないかもしれない。彼女の前に手を差し出した。細い手が握り返してくる。

「僕を助けようとしてくれてありがとう。君が多くの人に愛されるアイドルだってよく分かったよ」

 彼女の手が震えていた。

「でも、私は何もできませんでした……」

「金谷史帆さんのことは知ってるね?」

「かねやんですか……。グループの時にマネージャーをしてくれていた……」

「彼女の部屋に火を纏った狼のライターがあるはずなんだ。あれのせいで、多くの人が不幸になった。そのライターをこっそり処分しておいてほしいんだ」

「処分……」

「彼女の部屋の窓は開いている。そこから入り込んで、気づかれないうちにどこか遠くに捨ててしまってほしいんだ」

 このタイムラインをめちゃくちゃにしてしまった。その後始末を彼女にやらせるのは卑怯なことだと分かっている。だが、僕はこれから坂田を救いに行かなければならないんだ。

 千尋が微かにうなずいた。僕は最後に強く彼女の手を握って、彼女のもとを離れた。

「さあ、行くんだ」

 リーダーが光の渦を指さす。

「この世界をめちゃくちゃにした僕をここまでサポートしてくれるのは、どうしてなんですか?」

 彼は笑う。

「たとえここがシミュレーションの中の世界だとしても、そこに生きる人々の尊厳を守りたいと思うからさ。君が大切な人を想う気持ちが、君を突き動かした。そして、君は諦めることをしなかった。それだけ守りたいものがあったということだ。我々はそれを支えたいだけなんだ」

 不安がある。リーダーの目を見ていたら、正直に口にする気分になった。君のことだ。

「僕は、彼女にまた出会って、今度は名前を聞く勇気が出せるでしょうか?」

「君ならできるさ」

 間髪入れずにそう返された。きっとそうに違いないと思える。

 君を追いかけて、ここまで来た。

 海からの風を受けて膨らむシャツの背中に手が届きそうだ。

 今度君に会ったら、なんて話しかけようか?

 僕はゆっくりと光の渦の中に足を踏み出した。



──了

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アノマリー・レポート 山野エル @shunt13

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