くろがねと偽犬

江古田煩人

くろがねと偽犬


 手記 一九九四年八月十六日 晴れ時々曇り

 

 仕事を片付けるついでに錯感さくかん商店街の裏手にいる偽犬にせいぬの養殖業者を訪ねた。ごみごみした建物がひしめき合っているガラ通りの中でもこの区域は、嵩高かさだかのアパートメントが密集しているせいもあって日が陰るのがやけに早く、俺が向かうガレージはまだ六時前だというのに生臭い闇の中へとっぷりと沈んでしまっていた。偽犬どものうわうわと吠える声が響く闇の奥から影帽子のようにぬっと現れたのは、顔見知りの狼人おおかみじんである久高くだかだった。元々は俺と同じように麻剤まざいの仲買や女肉にょにく配達の斡旋あっせんをして稼いでいた獣人なのだが、数年前に取引先の機嫌を損ねたせいで耳を片方切り取られてからはその足取りがふっつり途絶えたままだったので、こうした形でまた久高の顔を見られるとはまったく思いがけない事で、それは俺にとって嬉しくもかなしい事であった。数年ぶりに会う久高の顔はいくらか老けたようだったが、切り取られた右耳のぎざぎざした切り口は当時のままだった。

「あんたか」

 俺の姿をみとめた久高はあまり感情のこもっていない声でそれだけ言うと、腰に巻いていた合成ゴムの前掛けを外し始めた。先程まで偽犬を絞めていたのだろうか、前掛けの紐に挟んである千枚通しは粘液でぬらぬらと冷たく光っている。どこか殺伐とした雰囲気を漂わせている久高を前にした俺は無意識にジャケットの胸ポケットへ手をやったが、その途端に昨夜からタバコを切らしていたことを思い出した。

「タバコあるかい」

 俺は相変わらず沈んだ目をしながら前掛けをばさばさと畳んでいる久高に声を掛けたが、それを聞くと久高は思いがけずやわらかに目を細めて口の端をひくひくと引き上げながら笑った。口端に溜まった唾液は二つ三つのあぶくを浮かべて真っ赤に染まっている。

「あいにくだが、俺も金がなくてね。知り合いが育ててるクチヤニならあるが、どうだい」

 そう言うなり久高が投げてよこしたクチヤニの実を俺は片手で掴み、すると久高はますます面白そうに歯茎を大きく剥き出して笑った。唇を裏側までまくりあげたような笑顔は、どちらかというと狼というより牝馬のそれに似ている。その気味の悪い笑顔も、俺にとっては当時の久高を思い起こさせるものの一つだった。俺はクチヤニの実を口に放り込み、がりがりと音を立てて噛みながら久高の後を追ってガレージの中へと足を踏み入れた。クチヤニの噛み汁で唾が赤くなるのも頬を刺すような味も好きではないが、仕事明けの脳をいくらかしっかりさせる程度の役には立つ。ようやく覚醒しかけた俺の鼻を途端に鋭く突いたのはガレージ中に充満した獣の臭いで、俺は暗闇で見えないのをいいことにそっと鼻をつまんだ。

「偽犬飼いか。お前、いつの間に随分とおとなしい仕事をはじめたもんだな」

「ああ」

 俺のくぐもった声に、久高はあくびを噛み殺したような声で返事をした。

「何時間か前に雌が子供を産んでね。産ませすぎたせいかな、そいつがすっかり弱って足も立たないようになっちまったから、一思いに楽にしてやってたんだ」

 スイッチを押すかすかな音と共にぱらぱらと蛍光灯が点いた。青白い光に照らされたガレージの中央には、青いビニールシートでくるまれた大きなかたまりが、身じろぎ一つせず横たわっている。シートの端からは赤いしたたりが音もなく垂れ、コンクリートの床を一筋に濡らしながら部屋の隅の排水溝へまっすぐ流れ込んでいた。久高はだしぬけに赤い唾液を排水溝にべっと吐き捨てると、先程の笑顔が嘘であったかのように陰気な顔で俺を見た。

「何斤か持ってくかい。精がつくよ」

 俺の返事も待たず久高はビニールシートをめくりあげると、死んだ偽犬の腹のあたりを黙って探り始めた。まるままの偽犬を見るのは初めてではなかったが、こうして見ると気味の悪い生き物である。偽犬とは言っても犬に似ているのはその大きさと四つ脚であることくらいで、見ようによっては両耳をごっそり削いだ黒犬に見えなくもなかったが、久高の説明によると犬よりはひるに近い生き物らしい。しゃがみ込んだ久高が何をしているのか、俺の立っている位置からははっきりとは見えなかったが、わざわざその手元を見たいとも思わなかったので俺はクチヤニを噛みながら久高が事を済ませるのを待っていた。やがて立ち上がった久高の手元には偽犬の腹から取り出したばかりらしい艶々した肝がゴム玩具のようにぶらさがっており、久高は壁に引っ掛けていたポリ袋を一枚むしり取るとその肝を無造作に放り入れた。俺は偽犬の死骸をわざと視界に入れないようにしながら、血だらけの手からポリ袋を受け取った。

「儲かるのかい、偽犬飼いってのは」

 ポリ袋の口をしっかり縛り直しながら俺が尋ねると、久高は耳の辺りをがりがりと掻いた。

「どうも、さっぱりだな。儲かるどころか、肉質がよくないって安く買い叩かれちまって、餌代を稼ぐのがやっとさ。こんな貧民街じゃ培養肉の方が流行るんだろうね、せいぜい蝙蝠人が血餅の材料として血をいくらか買いに来る程度だよ」

「皮はどうだい。なめせばそれなりの物になるんだろう」

「仲間うちで噛み合うせいで、皮も傷物ばかりだ。やっぱり素人が世話した程度じゃ、だめだね。かといって今さら培養肉を作ろうったって、あっちもあっちでそれなりの設備がいるんだ。もう今更取り返しのつきようがないよ、まともな暮らしをしてこなかったつけ・・だな」

 そう言いながら唇を裏返した久高の笑顔があんまり自虐的だったので、俺は黙ったまま床に唾を吐いた。細かなあぶく混じりの唾は、クチヤニの噛み汁と混じって偽犬の血と同じくらい赤かった。

「せっかくなら、畜舎の方も見ていくかい」

 出し抜けに久高はそう言うと、ガレージの隅にある流しで手を軽くゆすいでから地下へと続く階段を降り始めた。俺の久しぶりの来訪に久高は思いのほか心を開いてくれているようだったが、その様子を前にして俺は気持ちがますます滅入ってくるのを感じた。どうせなら、変な情が湧く前にさっさと仕事を済ませてしまった方がよいのだが、久高の姿はすでに階段下へ消えてしまっている。仕方なく、俺も重たいポリ袋をぶらぶらさせながら階段を降ると、やがて目の前には鉄柵でいくつもの仕切りが設けられた偽犬の畜舎が現れた。畜舎とはいえコンクリートの地下室を無理に改装してこしらえているのだから勿論きちんとしたものであるわけがなく、こんな劣悪な環境で飼えるのはせいぜい偽犬か食用蛭くらいで、そのどちらも風通しの良い場所よりこうした湿気の多い不衛生な場所を好むのだからまあ他の動物より飼いやすいといえば飼いやすいのかもしれない。一つがせいぜい一畳ほどの仕切りにはそれぞれ二、三匹の偽犬がうごめいており、目のない顔をこちらに向けては挑みかかるような格好でうるさく吠え続けている。他のものより二回りも小さな偽犬もいくらかいたが、それが久高の言う偽犬の子供なのか、単に小さく生まれただけの畸形なのかは分からなかった。先に降りているはずの久高を目で探すと、奴はちょうど壁際の飼料袋から練り餌らしいものをボウルに一杯すくい取っているところだった。どうやら餌の時間らしい。

「餌は練り餌なのかい」

「一日三回、ふすま粉に肉骨粉にくこっぷんを混ぜたのを丸めて食わせてやればいい。掃除もほとんど必要ないし、世話だけ見れば気楽なもんだよ」

 すくい取った練り餌を爪の間で器用にこねながら、久高は親指の先ほどの団子をいくつも作りはじめた。よほど手慣れているのだろう、手元を見ようともしない。

「あんた狼人だろう。偽犬を飼うって、どんな気分だい」

 我先にとむらがる偽犬の口へ次々と練り団子を放り投げてゆく久高に、俺は尋ねた。幸いにも俺の質問は久高の気分をそれほど害さなかったようで、久高は事務的な仕草で団子を作りながら抑揚よくようのない声で返事をした。

うじのようなやつと蛆とは違うだろうさ。それにこいつは偽犬であって、本物の犬ですらない。まさかあんた、狼人が偽犬やそこらの野良犬に対して仲間意識や罪悪感を覚えるとでも本気で思っているのかね」

 俺が黙っていると、久高は指先で練り餌をこねながら俺の方を振り向いた。結膜炎を患っているのだろうか、右目がただれたように赤い。やはりいくらか老けたようだ。

「あんたにとってそうであるように、俺にとってもこいつはただの家畜だよ。俺にとっちゃ、金になってくれるだけでいいんだ。どんなものでもそうだよ」

 それだけ言うと久高は再び俺に背を向けて、今度は餌にあぶれたらしい小さな偽犬を狙って団子を投げ与え始めた。ほんの指先ほどの団子にむらがって、ぼってりと分厚い唇を地面へ吸い付ける偽犬の姿は見るからにおぞましいものだったが、餌を与える久高の手つきにはあらゆる生物に対する最低限のやさしさのようなものが確かに感じられたので俺はまた気持ちが妙にぐらつくのを感じた。もうそろそろ頃合だろう、俺はこいつと話をしすぎた。黙ったままズボンのポケットに手を忍ばせると、俺の指先に拳銃のつめたい重みが触れた。

「餌は本当に、練り餌だけなのか?」

 俺の声色が変わったことに気付いたのか、久高は初めていやな顔をするとボウルに余っていた団子の残りを仕切りの中へばらまいた。毛艶の悪い尻尾が久高の尻の辺りで振り子のように揺れており、それは明らかに強い焦燥の気持ちを表していた。

「どうしてそんな事を聞くんだ? 俺がこいつらに何を食わせてるか、お前にはまるで関係ないだろうさ。どんなものでも、こいつらの腹に収まっちまえばそれはただの餌だ、そうだろう?」

 久高は思いがけず早口にまくし立てると挑みかかるように俺の方へ向き直ったが、その途端に額へ突きつけられた手動装填式の圧縮ガス銃に気づくと動きをぴたりと止めた。俺はまだ久高を信じたかったが、俺の親指は俺の意思をまるで無視するかのように撃鉄を起こしていたので、そうなると俺も親指の意思にならって仕事をするよりほかにない。すっかり口をつぐんでしまった久高に代わって、今度は俺が話す番だった。

「申し訳ないが、俺はあんたを殺さなきゃいけない。何故だか分かるか?」

 しばらく返事を待ったが、久高は相変わらず黙ったままだったので、俺は話を続けなくてはいけなかった。それは久高のためというより、ためらう俺自身を納得させるためのものでしかなかった。

「一週間前に四ツ鱗よつうろこの運送トラックから死体を受け取ったろう。裏は取れてるんだ、さっきそいつらから話を聞いてきたところでね。数年前にもめた取引先から、無理やり押し付けられたんだろう? 分かるよ、金に困ってる偽犬飼いほど死体処理に重宝するやつはいないだろうからな」

 餌を食い終わって退屈したらしい偽犬が、仕切りの隙間から鼻面を突き出して俺の匂いを嗅ぎ始めた。俺は仕切りから少し距離を取りながら、しかし銃口は相変わらず久高の額に押し付けたまま、言葉を続けた。

「分かるだろう、俺も仕事には逆らえないんだ。口封じだよ。あんたが妙なことをばらさないようにしてこいって……俺だって、耳を切られるのは嫌だからね。あんたの言うとおりだ、まともな暮らしをしてこなかったつけ・・が俺にも回ってきたのかな」

 ひゅ、と久高の口からかすかな息が漏れ、それが悲鳴に変わる前に俺はとっさの判断で引き金を引いてしまっていた。ぱすん、と存外乾いた音がし、久高の額にぱっと赤い穴が空いた。久高は突然のことに考えがついていかないような顔で両目をうろうろと泳がせたまま、すぐにその視線をやや右斜め上に固定すると仰向けの姿勢でコンクリートの床にどうと倒れ込んだ。俺の臭いを嗅いでいた偽犬は今や久高の額からほとばしる血の方に夢中で、いや、その場にいる全ての偽犬が俺と久高の方に鼻面を向けながらしきりに吠え立てていた。俺はガス銃をしまうと手際よく久高を丸裸にし、服を脇によけると身体の方はさっきまで俺の臭いを嗅いでいた偽犬の仕切りに放り込んでやった。粉っぽい練り餌に飽き飽きしていたらしい偽犬どもは新鮮な肉の匂いを嗅ぎつけるや否やまっしぐらに久高に駆け寄り、その身体を丹念に舐めまわし始めた。そうして幾たびも舐められるうちに久高の厚い毛皮はごっそりと抜け、露わになった灰色の地肌から血がにじみ始めると偽犬どもはそのぼってりとした唇を一杯に押し付けて頭を小刻みに震わせ始めた。こうなるともう死体が偽犬の腹に収まるまで五分もかからない。俺は久高の身体がすっかり偽犬に覆いかぶさられて見えなくなっても、しばらくその様子をただぼんやりと眺めていた。いまや久高のなごりをこの世に残すものは、やつが着古した服と腹を満たした数十頭の偽犬だけだった。

 久高のかすかな温もりが残る服をゴミ捨て場に押し込み、疲れた体をひきずるようにしてモーテルに帰り着いた。無性に腹立たしく、それでいて泣き出したくなるような奇妙な気持ちだった。頭から冷たいシャワーを浴びても、部屋に残しておいたとっておきのタバコに火をつけても、もやついた俺の頭は一向に冴えなかった。寝酒代わりに小瓶のウイスキーをちびちび舐めているうちにようやく気分は落ち着き、気が抜けてぼんやりし始めた俺の手は自然といつもの手記を開いていた。それで、今日起こったことを一から書き記し、今に至る。俺にとってこの手記は俺の人生そのものであり、俺の前から消えていった人々に対する俺なりの追悼の形でもあった。

 人なつこく、陰気で、馬のような笑い方をする久高が死んだ。今日、俺が殺した。

 断っておくが、俺は久高になんの恨みもなかった。始末を任されたのが俺だったというだけで、もしかすると俺以外の人間が久高を殺すことだってありえたのだ。俺がやつの口封じを請け負ったのが偶然なら、やつが偽犬飼いをしていたのも偶然で、その無数の偶然の隙間には俺が二度と久高に出会わなかった人生もあったかもしれない。運命のいたずら、と言ってしまえばあまりに陳腐な話だが、俺はこうして手記を書きながらも、俺の死体を無造作に柵の中へ投げ入れる久高の姿を、俺たちが辿っていたかもしれない別の人生をありありと想像してしまう。

 やつは俺が手に掛けた標的の一人に過ぎないが、同時に俺の人生を作り上げる小さなかけらの一部でもあった。こうして俺が書き溜めた手記がいつか誰かの手に渡れば、その誰かが無数の人生のかけらの中から哀れな久高のことを探り出すだろうか? 気休めにもならないが、俺は、俺自身にとって久高という人間がどういう存在であったかをこうして書き残している。久高だけではない、この手記に書き残した人すべてを俺は俺なりの方法でいたんでいる。いつか俺が死期を悟った時、もし俺にいくらかの金が残っていればこの手記を印刷所なりへ持ち込んで本にでもできるのだろうが、常に立場が脅かされているような暮らしではどうしたって叶わぬことだろう。それに、

 

 これは読み物なんかじゃない、ただの手記だ。

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