第5話 泣き顔
「五十分まで休憩でーす!」
佳代の大声が地元音楽ホール全体に反響すると、部員たちは一斉に自席で伸びたり出歩いたりし始めた。ホール練も佳境に近づいている。
本番前日の空気は、やはりどこか違っていた。
舞台上に並べられた椅子は本番同様の半円を形作り、各譜面台の上に置かれているのも、普段使いしているボロボロのクリアファイルではなく、本番用に楽譜を貼りつけた真新しい厚紙だ。
そこはかとない焦燥感と、お祭り前のワクワク感。
どの生徒も妙に落ち着きがなく、動きがギクシャクしている。
「はぁー、部室とは全然違うわ、音が」
客席から舞台に帰ってきた萌絵が、待っていたサックスパートに向けて感想を述べた。
先ほどまで、各パートひとりずつ客席側に座り、ホールで音がどう聞こえるのかを体験していたのだ。
「クラとのバランスとかちょっと……でも今からは変えられないしなぁ……」
「なんかもう緊張してきましたよぉ」
後輩がいちかの後ろから顔を出した。しかめっ面で胃をさすっている。
「早くね? 本番までまだ二十四時間あるぞ」萌絵が怪訝そうに言う。
「あぁ、だめですぅ、本番って聞くだけでぇ……ゲーしたい……」
「ゲーはまずいなぁ」萌絵は愉快そうに笑っていた。「甘いもの食べると緊張が落ち着くって聞いたことあるけどね」
「私飴あるよ。取ってくる」
いちかが立ち上がる。
「あ、いちか先輩すいません」
「部長に見つからないようにね。飴舐めてたら怒られるから」
いちかはちょっと悪戯っぽく手を振ると、サブバックを置いた舞台下の一隅へと向かった。
そこで、ちょっと固まった。
いちかが置いていたその場所は、外見が全く同じ鞄で山のようになっていたのだ。
ほとんどの部員が、学校指定のサブバックを律儀に守っているからこそ発生する事態である。
大方通行の邪魔になって一か所に寄せられたのだろうが……俯瞰するとまるで鞄が自己増殖したかのよう。
「どれがどれだか……」
いちかはその濃紺の塊をかき分けて探し始めた。が、暗いホールに積まれた同じデザインの鞄から、たったひとつを探し出すのは困難を極めた。
いちかは鞄に装飾品をつけていなかったので、それを目印にすることさえできない。
「これか? 違うな。こっちは、うぉ、ぬいぐるみがそのままついてる……」
鞄の海を泳いでいる中、ふとホール外へ繋がる扉の先から、佳代の声が聞こえるのに気づいた。
「あー、湿布もうないかー」
小声で話そうとしているようだが、やはり声が大きい。
なんとなく気を引かれたいちかが、扉から廊下を覗くと、救急箱を探る佳代と、壁にもたれて座る美雪が視界に入った。
美雪は、手首をさすっているようだ。
副部長が、ホールの出口を指差す。
「ひとっ走り、買ってこよっか⁉」
「いや、いい。そろそろ練習終わるし」
「……了解。明日終わったら、少しは休ませようね?」
副部長の優しい言葉を無視し、唐突に、美雪がいちかの見ている扉を振り返る。
いちかは慌てて首を引っ込めた。
いちかの知る限り、部内で最も練習しているのは、間違いなく美雪だった。
ぶっ続けの練習に、手首の関節が耐えきれなくなっているのだ。
「大変だ……」
バッグの捜索に戻りながら呟く。
そのときだった。
ガシャン――ッ!
という金属の落下する音がホール中に響き渡った。
それは恐らく、楽器をやっているものなら誰もが聞きたくない物音……
耳にしただけで場が凍りつく。
目撃せずとも何が起こったかが分かる。
譜面台が倒れただけであることを祈りながら、いちかが舞台を見上げると、サックスの後輩が号泣していた。
「いちか先輩ごめんなさーい!」
慌てて舞台に駆け上がる。
パートメンバーや周りの部員たちが、まるで殺人事件の死体でも見るように、落ちたものを囲んで状態を確認していた。
椅子の上にあったはずのいちかの相棒は……落下の衝撃でホーンがひしゃげていた。
「あちゃぁ……」
思わず苦い顔になってしまう。楽器に衝撃が加えられた場合、見た目以上に内部構造にダメージが入っていることは多く、一日で直ることはまずない。つまり、いちかのサクソフォンは、この時点で県大会への欠場が決定したのだ。
しかし、この世の終わりとばかりに号泣する後輩を前にしては、いちかは微笑まざるを得なかった。
「大丈夫だよ。大丈夫……」
「ごべんださーい! うぅ、ぐすっ……」
口では後輩を励ましながらも、実際、これは川西高校吹奏楽部の夏の終わりを告げる音かもしれない、といちかは思った。
心配そうに駆け寄ってくるコーチに、落ち着いて頭に浮かんだ計画を話す。
この状態ではリペアは間に合わないので、学校備品の楽器を借りて出場する他ない。今から自分だけ戻って、使えそうなものを選定する。
こんなイレギュラーな状況下で、いちかは自分でも不思議なくらい平静だった。
多少の話し合いの結果、いちかが話した計画のまま動くこととなった。
いちかは、泣きじゃくる後輩をもう一度慰めると、テキパキと準備をしてホールを後にした。
片付けている間、美雪がじっと自分を注視していたことにも気づきながら……
◇
「……うん、やっぱこれがベストかな」
楽器庫にあるサックスを一通り吹いた後、いちかは一人で頷いた。
備品の中から選ばれたのは、マイ楽器を修理に出していた間に多少吹いたことのあるものだった。
所々ラッカーが剥がれていて年季が隠せていないが、家に帰って掃除してやればマシになるだろう。
選んだ楽器以外をすべて元の棚に戻し、埃をはたきながら楽器庫を出る。
すると、第二音楽室の扉の隙間から、規則正しい音が耳に入ってきた。
――タカタカッ、タカタカッ、タカタカッ。
パーカッションの練習用パッドを叩く音だ。
聞く人が聞けば、それだけで巧拙がわかる。リズムにぶれがない、基礎のしっかりした人だ。
その音は、不可解だった。
部員はまだ全員ホール練を続けているはずだ。吹部以外の誰かが二音にいるのか?
いちかが恐る恐る部屋に近づき、分厚い防音扉を開ける。
その先にいたのは、美雪だった。
メトロノームを前にして、湿布を巻いた手で、機械のように練習台を叩き続けている。
傾き始めた夏の日との陰影で、その姿はどこか神秘的だった。
「……美雪さん?」
声をかけると、美雪は手を止め、ゆっくりした動作でいちかに視線を向けた。無言だ。
「えと、どうしてここに?」
「心配したからだけど」
「あ、そ、そうだよね」
美雪はチラッといちかの持つ楽器ケースに目をやると、練習を再開しながら、興味のなさそうな口調で尋ねた。
「……それにするの」
「うん」
「いけそう?」
「大丈夫だと思う」
「だと思うじゃ困るんだよね」
美雪の鋭い眼差しに、いちかは思わず息を呑む。
突然、美と恐怖で人を圧するような眼差しをする。彼女のその攻撃的な姿勢も、いちかの苦手な所だった。
「もっといい方法はないの? もっとマシな楽器貸してくれるあては?」
美雪はパッドで一定のリズムを維持したまま尋ねる。
「いや、私、音楽やってる知り合いなんかいないし。ていうか、この楽器も問題ないよ」
「本当に? ちゃんと考えた?」
美雪の疑いは、しつこかった。
徐々に、徐々に、嫌悪感が増してくる。
――なんでこの人は、私の言うことをいつも信じないんだろう?
「できることは完璧にしておきたい。少しでも良くするためには」美雪は独り言のように呟く。
「なら、それ叩くのやめた方がいいよ」
いちかの口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
美雪の手が、止まった。
「腱鞘炎は、休まないと治らない。湿布は気休め」
「……本番前に楽器が壊れたのに、随分冷静だね」美雪は、動き続けるメトロノームを睨んだまま、ボソッと零した。「まるで、私の方が焦ってるみたい」
「いやだって、もう仕方ないじゃん。壊れたことに文句言っても現実は変わらないでしょ?」
「違う。いちかは、分かってないだけ」
「……何? どういうこと?」
不可解そうに聞くいちかに、美雪は耐えられないとでもいうようにぎゅっと目を瞑ると、腕をパットの前からおろした。
スティックを握り締める細い指は、血の気がなくなるほど力がこもっていた。
「私は全国に行きたい。昔からの夢を叶えたい。だから、やれることはなんでもやる。手が痛いなんてどうでもいい」
「でも、それで腕壊したら地方大会まで響くって……」
「地方なんて行けない! このレベルじゃ明日で終わりなの!」
美雪は拳で膝を叩いた。彼女の言葉は火を吐くようだった。
「最初からわかってた。今年はまずいって。だから、必死でみんなを引っ張り上げようとした。諭して、怒って、励まして……でも、届かなかった……」
メトロノームのネジはいつの間にか事切れ、音楽室には静寂が満ちていた。
美雪は力なくスティックを離すと、いちかの目の前までやってきて、ポツリと、
「ねぇ、私が悪かったのかな……?」
彼女の人一倍大きな瞳は、見る間に潤んでは、大粒の涙を落とし続けていた。
いちかは少しも動けなかった。
普段とは真逆の、弱々しく今にも崩れ落ちそうな姿に呑まれていたから……
「……鍵、閉めとくから。用が済んだら帰って」
美雪は目を拭いながら言い残すと、いちかの脇を抜けて廊下へ去っていく。
残されたいちかは、ただ空っぽになった音楽室の前で立ち尽くす他なかった。
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