第4話 母の喜び
学校から帰ると、いちかは食事と風呂をそそくさと済ませ、自室に戻って勉強を始めた。
大学に進学予定なので、部活と受験を同時に進めないといけない。余暇に充てられる時間は、それほどない。
いちかの部屋は、一見すると女子高生が寝起きしているとは思えない殺風景さだった。
カーテンもベッドシーツも寒色で、白い壁にはポスターひとつ貼られていない。
女の子らしいものといえば、かろうじて部屋の隅にある犬のクッションくらいだったが、それもずっと前に母が買い与えたもので、今はペシャンコに潰れて放置されている。
全体は綺麗に整頓されているが、それがさらに物の少なさを強調していた。
いちかが机に向き合いながらイヤホンで聞いていたのは、昨日と変わらずジャズだった。
今もさっぱりわからないが、わからないなりに勉強の邪魔にならないのでちょうど良い。
不意にノックがイヤホン越しに聞こえた。かと思うと、返事をする間も無く母がドアを開いていた。
「いっちゃーん。遊んでぇ」
いちかよりもずっと女の子な寝巻きを着て、飼い犬の老ダックスフンドを抱えた母は、老犬を部屋に解き放つ。
すると、遊びに来たはずの犬はいちかに目もくれず、ヨタヨタとベッドの方へ寄って座り込んだ。長年、一家のアイドルを務めてきた彼は、最近では現役引退を示唆することが多くなった。
「……あ、勉強中だった? ごめんね?」
母は、いちかの前に参考書とノートが広がっていることに気づく。
「別に大丈夫だけど」
答えると、母はいちかの手元を覗き込んできた。
「いっちゃんは偉いね。毎日コツコツ」
「先にやってるだけだよ。直前で焦れないタイプだから」
「はー、本当にお母さんの子かしら」
母は頬に手をやって感嘆のため息をつくと、何気なく卓上カレンダーを手に取った。
部屋同様に殺風景なその三十一の升目には、唯一、県大会の日だけが赤く丸で囲まれている。
「あ、そういえばお母さん、大会の応援行くからね」
「え、いいよそんな……」
「よくないわよぉ。萌絵ちゃんのお母さんたちとね、行くから」
途端に、母は乙女のようにウキウキと話し始めた。
「さっきまた吹奏楽の旅見てたんだけどね? 若い子たちが本気でぶつかってるの見ると、もう勝手に涙が出ちゃう! お母さん、来世は絶対吹奏楽部入るから」
「お母さん、私よりコンクール好きだと思うよ」いちかは苦笑せざるを得ない。
「いっちゃんは好きじゃないの?」
突然の切り返しに、思わず狼狽えてしまう。
「私は……」
口を開くと、昨日の惨めな記憶が蘇ってきた。
佐伯先生から言われた言葉も、未だに鞄の中に押し込まれたままの退部届も……
「そこそこかな」
「そう」
母は柔らかく微笑み返す。
ドアの方から、カタカタと爪でフローリングを叩く音が聞こえた。
いつの間にか老犬はベッドを離れていたらしい。部屋を出ようと爪をドアに当てては、力なく床に落ちている。
「あら、もう他のとこ行きたいの? でもりおの部屋は怒られるよ」
母は老犬をもう一度抱きかかえると、
「頑張ってね。お母さん、いっちゃんのこと応援してるから」
と言って、部屋を出て行った。
いちかはしばらくの間、閉じられたドアを眺めていたが、机にもう一度向き直る。
そして、おもむろに携帯を手に取ると、流す曲をジャズからコンクール曲に変えた。
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