序章 はじまりの夜①

 あるあわれな女の話をしましょうか。

 その女にはこんやく者がいました。容姿は整っている方で、こうしやく家の方です。ちょっと流されやすい人ではありましたが、女は彼のそんなところも好きでした。

 彼は三男だったので、婿むこりして家を支えるという約束で両家は婚約を結びました。女が十歳のときに婚約したので、もうあれから十年のお付き合いになります。

 ええ、つまり一番楽しくて美しい時間を彼にささげたということになります。ふふ、ご存じです? れいじようにとってその時間がどれだけ大切か。

 まあ、それはいいんです。二人はもう少しでけつこんするはずでしたから。

 でも、それなのに。

 彼はひどい裏切りをしました。男は女の妹とたんです。

 え、ご令嬢が言う言葉ではない? ぱらいのざれごととして聞き流してください。それに、妹の方がご令嬢らしくないことをしていますよ。

 ……ゴホン、話をもどしますね。

 幼いころから、妹はとにかくその女を目のかたきにしていました。そのせいで、女は事あるごとに散々な目にっていたんです。思い出すだけでも……うん、この話はやめましょうか。

 とはいえ、女もまさか妹に人の婚約者を寝取るしゆがあるとは知らなかったそうで。しかも妹に問いめたとき、彼女はなんと言ったと思います?

『ずっとお姉さまからあの人をうばいたかったの』

『なんで今さらなのかって? そんなの決まってるじゃない』

『だって、その方がより絶望した顔が見られるもの!』

 自分の耳を疑いましたよ!

 本当にこんなヤツと血がつながっているのかと疑いました。あ、これは私の話じゃないですよ。

 でも、それだけならまだえられました。妹はけいしよう権を持っていないし、男は三男なので領地はありません。二人は結婚すると平民になって、二度と女の視界に入ってくることはありません。女は男より何倍もいい人を探すって、そう思っていました。

 なのに、それなのに!

 あろうことか、男は私にこのまま結婚しようと言い出したんです!

『悪気はなかったんだ! 君の妹がどうしてもって聞かないから付き合ってあげただけで、好きなのは君だけだ。信じてくれ、あれは気の迷いなんだ』

 ふざけるなって階段からとそうかと思いましたよ。あくまでもこれは知り合いの話ですけどね。

 本当なら出入り禁止にしたいくらいですが、女の両親は男のかたを持つのです。謝ってくれたし、悪気がないのなら許してやれって、じようだんかと思いましたよ。まあ、むすめより家門が大切らしいので、女が結婚できず家がつぶれることをおそれたのでしょう。あんまり経済じようきようもよろしくなかったようですし。

 いえ、家門が潰れてしまうと使用人も路頭に迷うので、気持ちは分からなくもないですけど。それにしたって、少しは気をつかうか妹をとがめるくらいしたっていいじゃないですか。

 ……女の妹は、こうなることが分かっていたのでしょう。全部彼女の計画の内だったんです。幸せだと思い込んでちようてんな姉を地にたたき落として、自分は何の責任も取らずによくぼうを満たしてゆうえつ感にひたる。あくも泣く所業ですよ。


「そう思いませんか?」

「今ちまた流行はやりのれんあい小説だって、ここまでびんではありませんね」

 ごうけんらんしきのダンスホール、から少しはなれたバルコニーのソファー。

 優美な音楽や談笑する声からかくれるように、私は酔いをますために果実水を片手に風に当たっていた。心にうずくどろどろとした気持ちからげるために参加したとう会だが、他人の幸せそうな顔がやけに目について気分が悪くなったのだ。

 そんなやけ酒をあおっていた私に、先ほど声をかけたのがとなりに座ったこの男だった。

 光を反射してかがやぎんぱつは月のようで、切れ長の甘やかに細められた目はとおるようなアイスブルー。礼服を着ていてもかたはばが広くて胸板が厚いことから、体をきたえていることが分かる。

 酔った頭が見せたげんかくかと疑うくらい、れいな男だ。

「そうでしょう? そうよね? 別に泣いたっておかしくないですよね?」

「おや、知人の話だったのでは?」

「ええ、知人の話ですよ。私は彼女に同情しただけでーす」

 そう適当に付け加えれば、男はじやさがふわりと散るような、くつたくのない笑みをかべた。

「ははっ、ではそういうことにしておきましょうか」

 おだやかに私の話を聞いてくれる男の名前は知らない。すぐ隣がパーティー会場なのにおたがい貴族のれい作法など何一つ守っていないし、なんなら名乗ってさえいない。

 パーティー会場のすみで一人酒をあおる女なんてめんどうくさいに決まっているのに、人当たりのいい笑顔で近づいてきたのだ。どういうつもりかは知らないが、とにかくだれかに胸の内をき出したかったのでありがたく利用させてもらった。

 だんならこんなことはちがっても口に出せないが、アルコールが私の判断力をにぶくする。

「ところで、貴女あなたはその男にまだ未練はありますか?」

「まさか、むしろ妹もろともごくに叩き落としてやりたいくらいですよ……って、これもう私の話だと認めたようなものですね」

「おや、その設定はもういいのですか」

 からかうように言った男に無言でうなずく。今さらしたって余計に見苦しいだけだ。

「ふふ。なるほど、それは良かったです」

「良かった!? もしかして人の不幸を喜ぶタイプですか? ……それとも貴方あなたうわをされたのです?」

「そういうことではありませんが……私もしつれんしたことがあるので」

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