──25── 彼女の理由とその反発

「なに、それ……」

 状況に取り残されたように、呆然と立ち尽くすゆり。その姿を見つめた目元を一瞬だけ痛いみたいに歪めて、けれど一ノ瀬はすぐに表情を立て直した。


「さて。じゃあ、弁明を聞こうか」

 不遜じみた腕組みをして、彼は二人へ不敵に笑いかけた。けれど二人は黙ったままだ。いつもと同じ顔の甕岡と、悔しそうにくちびるを噛むゆり。どこか対象的な二人は、同じ沈黙をじっと続けている。


 俺はこくりと喉を鳴らすと、一歩前に踏み出した。手を差し伸べる。

「迎えに来た、小野塚。一緒に帰ろう」

「……いや」

「小野塚!」

「帰らない」

 ゆりはますます身を縮こまらせて、ぎゅう、と甕岡の袖を掴んだ。蕩然と目を細めて、純朴な横顔が甕岡を見上げる。


「私は、この人に、〝そういう〟女にしてもらうの」

「小野塚……」

 甕岡を見つめる、強烈な思慕と信頼がにじむ視線に、ずき、と心臓が痛くなった。見覚えのある眼差しだった。かつての俺と、まったく同じ視線。

 俺は表情が歪みそうになるのをこらえて、ただゆりに呼びかける。


「なあ、みんな待ってる。家に帰ろう」

「……」

「小野塚のバイトのことも、今ここにいることも、俺とこいつと、美優しか知らない。なにもかも大丈夫だ。口外なんかしない。小野塚はただ、俺と一緒に、前の生活に戻ればいい」

 だから頼む、という想いはしかし、ゆりの冷たい声であっさりと打ち砕かれた。

「──勝手なこと言わないで」

「小野塚……!」


 頬を歪めたゆりが、きっ、と目元を鋭くする。

「敬斗くんはなにもわかってない。所詮あなたはなんの関係もない、部外者なの。そうやってつまらない正義感を振りかざして、首を突っ込んでくる押し付けがましさ──やっぱり、あなたはなんにもわかってない」

「っ……」


 普段のゆりからは想像もつかない、きつい物言いに、思わず心が冷たくひるんだ。咄嗟に言葉が出てこない。


(だって、その通りなんだ)

 俺はなにもわかっていなかった。つい昨日、そのことを知ったばかりで、小野塚のためにどうすればいいかなんて、俺にはひとつだってわからない。

 それでも、なにもしないことだけは耐えられなくて、くちびるを噛む。そのとき、すっと隣の一ノ瀬が前に出た。


「敬斗を責めるな。こいつはなにも悪くない」

「……一ノ瀬、先生」


 ゆりの口元がかすかに歪んで、じっ、と燃えるような瞳が彼を見る。一ノ瀬はその眼差しをまっすぐに受け止めると、細い腕で俺を庇うようにした。


「こいつは、ただ小野塚さんを心配なだけ、君のことが大事なだけだ。罵られるいわれはない」

「そんなの、知らない……!」

「小野塚さん」


 少し抑えたトーンの声は、俺の聞いたことのない、大人であり先生であり、かつての恋人でもある、〝小野塚ゆりにとっての一ノ瀬新〟の声だった。

 ひどく真摯な声音が、ねえ、と静かにゆりを呼ぶ。


「みんな君の帰りを待ってる。これ以上君が傷付くのを、もう誰も見たくないんだ」

「……傷付く?」


 ぽそり、と小さな声がした。

 ゆりの頭が下を向いて、顔を隠した前髪のあいだから、震えた声が聞こえてくる。


「よりによって、あなたがそれを言うの」

「っ──」


 一ノ瀬がかすかに息を呑んだ。一瞬だけ逸らした視線を、すっとすがめた目で睨むと、ゆりはべったりと甕岡に抱きついた。


「この人が、私に傷を付けてくれる。あの日怖気づいた先生とは違うの」

「よすんだ、小野塚さん」

「この人は、かならず、私をけがしてくれる。〝そういう〟女にしてくれる。そう約束してくれたもの」


 会話がまるで噛み合わない。一ノ瀬がぐっ、とくちびるを噛む。俺を庇っていた腕がかすかに落ちて、耐えるような表情がゆりを見つめていた。


 俺は、ゆりの背後に立っている甕岡さんを見た。どうして、と痛切に思って、でも、この状況に彼はなにも反応しない。何を考えているかわからない淡々とした表情で、ただ黙って立っている。

 甕岡の胸元にもたれかかったまま、振り切るようにゆりが言った。


「誰も彼もみんな一緒。私のこと、きれいだって、けがれてないって、バカみたいなこと言って、変な目で」


 炎みたいな目が、一ノ瀬を睨み付ける。その言葉はまっすぐに俺の胸も射抜いていった。ゆりの言う通りだ。俺はまだ、〝女の子〟のことを、なにひとつわかってない。


「私は人間だし、当たり前にだらしないところも、汚いところも、生き物としての欲望もある。なのに勝手に幻想を抱かれて、ロマンだの清純への憧れだの、気持ち悪い目で見られて。嫌だった、やめてほしかった、最悪だった」

「っ……だからってこんなこと──」


 耐えかねたように割って入った一ノ瀬の声、それをぶつんと断ち切るみたいに、ゆりが激しく叫んだ。


「──先生だってそうだったじゃない‼」


 びくっ、と一ノ瀬が身を固くする。ゆりはぎっ、と音がしそうな目で一ノ瀬を睨みつけた。


「先生、私のことなんか、人間とも思ってなかったでしょ」

「……ッ」

「わかるよ。そういう目、してたもの」


 一ノ瀬はただ、浴びせられる言葉をぜんぶ受け入れて、じっと黙っていた。そうすべきだと信じている顔だった。

 ゆりは顔を歪めて、声を震わせて言う。


「先生のこと、本当に好きだったのに。触れたい、触れられたい、一緒に気持ちよくなりたい、みっともないところも汚いところも曝け出しあいたい。そんな欲求を抱くくらいには、好きだったのに。先生は私のことなんて、人間とすら思っていなかった」

「……ごめん」


 ぽつりと謝罪をこぼす一ノ瀬の声を、ゆりはまるで聞いていなかった。黒い瞳孔を大きく開いて、まるで絶望みたいな顔をして、彼女はぽつぽつと言う。


「先生だけじゃない、みんなそうだった。だから私、この街に来たの。私はきれいな生き物じゃないってことを、普通の、生きた、欲望を持った、ただの人間だということを、わかってほしくて」

 だけど、とゆりは表情を歪める。

「どう頑張っても、アンダーの私では『孤独と傷のために身をやつした、本当は純粋な女の子』として見られてしまう。勝手な幻想を押し付けられてしまう」


 甕岡の胸元を掴んだ手が、ぎゅう、とシャツに深い皺を刻んだ。呆然と目を見開いたゆりは、くちびるをかすかに震わせる。


「やっぱりだめなの。はやく、早く本当に〝そういう〟女にならないと。じゃなきゃ私はいつまでも、〝そういうんじゃない〟子として見られ続ける……!」


 背後の甕岡にしなだれかかったまま、ゆりは彼の腰に手を回した。甕岡はゆりを抱き返さない。ゆりが言う。


「甕岡さんだけ。この人だけが私をわかってくれる」

 純朴な顔がすうっとめぐって、横顔が、陶酔じみた表情で甕岡を見上げた。

「甕岡さんと話してて私、気付いたの。本当は傷付いてたって。孤独だったって。あんな家は出るべきだって」


「──違う!」


 気が付けば振り絞るみたいに叫んでいた。甕岡を見つめるゆりの目は、正気のそれとは明らかに違っている。はっきりと見覚えのある目が、かつて俺もしたことのある眼差しが、どうしようもなく心臓をずきずきとさせた。


「違うんだ、小野塚……」

「……敬斗くん」

「みんな本当に心配してる。思い出してくれよ、そんなんじゃなかっただろ?」

「……」


 冷えた目のゆりが、ひく、と眉をかすかに動かす。俺は首を振ると、頼む、と呼びかけた。


「母親だって美優だって、それこそ俺だって! みんな、ほんとに小野塚を好きだった。ちゃんとおまえを想ってた。小野塚だって、それはわかってたはずだろ……⁉」

「ちがう、そんなのぜんぶ嘘」

「嘘じゃない!」


 何を言っても通じないゆりから、背後の甕岡に視線を移す。甕岡はさっきからぴくりとも動かずに、薄い笑みを頬に浮かべたまま、淡々とその場に立っている。どこか得体の知れない穏やかな表情が、少しだけ怖かった。


(それでも、俺は──)

 信じたくなかったものを、信じざるを得ないものに置き換えて、息をする。自分の中のなにかを振り絞る。


 ゆりの語る、現実とは明らかに違う思い込み。ありもしない孤独と傷。実情とは合致しない家庭の事情。なにもかも、あきらかに──甕岡の手によるものとしか、思えない。


 数メートルの距離を空けて、甕岡はただ静かな表情で、俺たちを見つめていた。穏やかで、誠実で、いつもとなにも変わらない、やさしげな顔。でも。


(──この人は、〝物語〟を与える人だ)

 俺には美しい理想と、それを守るという立場を。美優には、愛されている恋人という幻想を。そしてゆりには孤独な環境と、傷付いた自我を。それぞれの〝物語〟を、彼は俺たちに与えてきた。


 この人はいつも〝物語〟を語る。熱っぽく、真剣に、まるで特別な真実みたいに。その語り口に、俺たちは与えられたものを信じ込み、飲み下す。そして、彼の解釈のとおりに世界を捉え直してしまうのだ。たった今、ゆりがそうなってしまっているように。


「甕岡さん。どうして、小野塚を……? 美優だけじゃ、足りなかったのか」

 押し殺した呼びかけに、甕岡がぴくりと眉を動かす。初めての、反応らしい反応だった。

 甕岡の、とても静かな声がする。

「あれ、喋っちゃったの? ……美優ちゃんはおしゃべりだなあ」

「っ……!」


 少し照れたように、困ったように笑う甕岡。穏やかな、はにかむような声。それがこのシチュエーションにあまりにも不釣り合いで、ぞっとした。

 ゆりが振り返って、えっ、と目をしばたたかせる。

「みゆぽもじゃ足りないって、どういうこと──」

 呆然とつぶやいたゆりに、甕岡がくすりと笑った。事もなげに放たれた声は、怖いくらいあっさりとしていた。


「いやね。僕、美優ちゃんと付き合ってるんだ」

「え……っ?」


 目を見開くゆりに、「むしろ、気付いてなかったんだ?」と甕岡が笑う。小さな微笑みがゆりを見下ろして、穏やかな笑みが言った。


「まあ、しょうがないかもね。僕たちが大人のキスをしてたとき、きみは寝室のクロゼットで、必死に息を殺してたんだから」

「なに、それ──……」


 零れ落ちそうに目を見開いて、ゆりが愕然とする。こわばった半開きのくちびるを、甕岡の親指がそっと撫でた。びくん、とゆりの肩が跳ねる。甕岡が、すっと俺たちのほうを見た。




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