──4── 〝天使〟の正体

 はっ、と男が振り返る。俺もつられてそちらを見た。


 そこには──ひとりの少女が立っていた。


 セミロングのさらさらの黒髪が、夜の中でかすかになびいている。すっきりした切れ長の瞳に、すっと通った細い鼻筋。透き通った肌の上に、長いまつげの影が儚げに落ちていた。桜色の可憐なくちびるが、やわらかい微笑みの形を作る。


 細い首を隠す真っ白い丸襟のシャツに、えんじ色のリボンタイ。ワンピースタイプの、お嬢様学校みたいな紺色の制服。膝下のボックスプリーツから覗く華奢な脚は細くて、短い白ソックスと黒いストラップ付きの靴に包まれている。


 信じられないほどの美少女だった。透明感がすごい。顔立ちといい格好といい、清楚という言葉を辞書からそのまま取り出して、少女の形にしつらえたみたいだ。


 かつん、と靴を鳴らして、少女が一歩前に出る。男が、ぴくっと肩を揺らした。


「あ……君は──」

「お兄さん、たしか『セイレーンKONOKURA』のスタッフさんですよね。ここ、お店からはずいぶん遠いと思いますけど。どうしたんですか?」

「あー……えっとね、これは……」

「〝これは〟?」


 陶器の鈴を鳴らすような、少し低めのやわらかい声。にこ、と少女が微笑んだ。おしとやかで清純な微笑み、けれど可憐な瞳の奥には、なんとなく有無を言わせない光があった。

 男がへら、と笑みを浮かべる。肩をすくめ、そのまま数歩後ろに下がった。


「なんでもないって。怒んないでよ。……ね?」

「……」


 少女は無言で微笑んでいる。男はへらへらと笑って、焦ったような早口で言った。


「ごめんって。ちょっと悪さする若いコがいたからさあ。みんな困ってたし。だから」

「だから、お財布まで?」

「あー……それは」


 にこ、と少女は笑う。「それはだめですよね?」と宥めるような優しい声。男がこくこく頷いた。


「わ、悪かったよ。ね。もうしないからさ。だからうちの紹介は」


 ふーっ、と細く小さなため息の音。少女はかすかに眉を寄せると、華奢な肩を少しだけすくめてみせた。


「……しょうがない方ですね。今回だけですよ」

「っ……あ、ありがとー! いやー良かった。君の紹介してくれるコ、みんないいコで良く稼ぐんだもん。さっすが──」

「お世辞は結構ですから。もう行ってください。今日もキャッチあるんですよね」

「あ、ああ、うん。じゃあその……またね! 次もよろしく頼むよ、〝天使〟ちゃん!」


 男がひらひらと手を振る。そして彼は、足早に路地の向こうに去っていった。

 遠くかすかなざわめきを残して、路地裏が一段静かになる。俺はほうっ、と大きく息をついた。その音を聞き届けてか、男を目で追っていた少女がくるりと振り返る。俺ははっ、と肩を震わせた。


(そうだ、今『天使ちゃん』って──この子が?)


 たしかに、ウワサ通りの美少女だった。お嬢様学校っぽい制服に身を包んだ、とびきり清楚な女子高生。今すぐにでも坂道系グループのセンターを取れるレベルの美貌。なにもかも本当だ。


 澄んだ切れ長の、清楚な瞳がじっと俺を見つめた。表通りから差し込むネオンが映り込んで、なめらかな眼球の表面がきらきらと光っている。それがあんまりきれいで──吸い込まれそうになる。


 美しい眼差しが一度ゆっくりとまばたいて、彼女は静かに俺へと歩み寄る。コツ、コツ、と靴が硬い音を立てた。


 きらびやかな電飾を逆光に背負って、目の前に立った少女の影が、俺の顔にそっと差しかかる。楚々とした端正な顔が、すっと近付けられた。揺れる髪からふわり、と花のような香り。


「あ──あの」

「……」


 少女はじっと黙っている。俺はじわじわと熱くなる頬を持て余して、しどろもどろに礼を言おうとした。


「えっと……きみが〝此倉街の天使〟?」

「……」

「や、なんにせよ、助かった……その、ありが──」

「──なにしに来たの?」

「えっ?」


 桜色のくちびるから放たれたのは、驚くほど冷たい声音だった。思わず目を見開く俺の前、まつげの触れそうな至近距離で、切れ長の瞳がすうっと細くなる。


「ここは、君みたいな子供の来る場所じゃないんだけど」

「え……いや、それは」


 咄嗟に気の利いた返事が出てこない。口ごもる俺を、端正な瞳が静かに睨む。ふっ、と嘲笑めいた吐息。


「私のこと、多少は知ってるみたいだけど。どうせ好奇心と下半身に任せてここに来たんでしょ。でもお生憎さま。君みたいな子供の遊べる場所なんて、ここにはないの」


 ぴしゃりと言い放つ声は硬く、はっきりした拒絶に満ちていた。俺は呆然としたまま、ちがう、とつぶやく。


「そ、そういうんじゃない! 俺はただ」

「悪いけど、私は絶対に君の相手なんかしないから。さっさとおうちに帰りなよ。あったかい家でママのご飯でも食べて、お外で怖い人に絡まれたよーって慰めてもらえれば?」

「な……っ⁉」


 にべもない、あんまりな言い草だった。反射的に頭に血が騰って、かっ、とこめかみの辺りがふくらむ感覚。反射的に言い返していた。


「なんだそれ。あんただって、高校生のくせにこんな街ウロウロして、なにやってんだよ!」

「その言葉、そっくりそのまま返すから。早く帰れば、DKくん」

「はぁ⁉ 俺が言いたいのは──」

「君の意見はどうでもいいの。とにかく、さっさとこの街から消えて」

「あのなあ……!」


 侮蔑的な、冷えた視線に苛立ちがつのる。だけどそれ以上にこみ上げた感情があった。もどかしいような苦しいような激情を、衝動にまかせて口にする。


「おまえこそなにやってんだ! 女の子だろ⁉ こんなとこ危ないだろうが!」

「──は?」


 きょとん、と少女の目が丸くなった。切れ長だった目が見開かれ、少しだけ幼い印象になる。ぱちぱち、と長いまつげがまばたいて、俺はいいか、と彼女に指をつきつけた。


「此倉街なんてうろついて、家の人が心配するだろうが! 俺だけじゃない、おまえだって、家に帰んなきゃ駄目なんだ。金なんか、ここじゃなくても稼げる。女の子なんだから、もっと自分を大事にだな──」

「……あんた、バカなの?」

「へっ」


 少女が、呆れ果てた目で俺を見た。はあーっ、と深いため息。とんでもない愚か者を見るような、憐憫と貶みの表情がこちらを見据えた。


「ほんっと、バカみたいな言い分。あんたみたいなの見てると、……死ぬほど腹が立つ」

「なっ……!」


 心配して、ちょっとたしなめただけなのに。なんでこんな言い方されなきゃならないんだ。俺は間違ったことは一つも言っていない。こんなきれいで清楚な女の子が、どうしてこんなところで自分を売らなきゃいけないんだ。ここまで可愛いんだ、此倉街なんて今すぐ出たって問題ない。この子ならアイドルでもモデルでもできるはずだ。なのに。


(ほんと、なんなんだよこいつ……!)

 つまらない意地でも張っているのか。なんにせよ、見つけてしまった以上は放っておけない。ゆりと同じく、この子も家に帰してあげないと。


 さっきの様子を見る限り、彼女はこの街でそれなりに顔が利くようだ。それで調子に乗っているのかもしれない。いっそ怖い思いでもすれば、帰る気になるだろうか。


(不本意だけど……しょうがない)

 俺はきっ、と彼女を睨みつけると、わざとドスの効いた低い声を出した。


「……あんまり男を舐めるのも、いい加減にしろよ」

「え──」


 言うや否や、ぐっ、と細い腕を捕まえる。華奢な身体を力任せに引き寄せて、驚きにこわばる背を抱きこんだ。そのまま重心を傾けて、強引に地面まで引き倒してやろうとした、そのとき──


「ッ──う、うわあ……ッ⁉」


 ぐるん、と視界が一回転した。一瞬の浮遊感。ドッ、と鈍く重い衝撃が半身を打つ。頬に伝わる、冷たいざりっとした感触。景色が九十度に傾いて、変な方向を向いている。


(な、なんだ、なんだ……⁉)

 なにが起こった。わけがわからない。

 だが俺の混乱が収まるのを、彼女は待ってくれなかった。


「っ痛たたたたッ……!」


 ぎりぎりぎり、と腕をひねり上げられて、ものすごい痛みが走る。耐えきれず引き痙った悲鳴をあげる俺の背中に、どすっ、となにか──おそらくは少女の膝──が叩きつけられた。ぐっ、と重量が胴体にかかって、ぐえ、と肺が潰れる。痛みから逃げたくて身を捩り、俺はばしばしとアスファルトを叩いた。


「っ……ぐ、う……いた、痛いって……ッ!」

「──それで。誰が、誰を舐めるの?」


 淡々とした、冷たい声が降ってくる。ごめんなさい、が勝手に漏れる。ふ、と少女が鼻を鳴らす音。


 腕をひねる力がようやく止まった。それでも背に乗り上げた重量は減る気配がなくて、俺はようやく、自分が地面に組み伏せられたのだと悟る。


 とんでもない混乱の中、ひとつの考えが脳裏に光った。まさか。

(待てよ。この体重、力の強さ、もしかして──……)

 そろそろと首をひねった。見上げた先、冷え切った目で俺を見下ろした少女の顔は相変わらず可憐で美しく、清楚で、儚げな透明感があって──だけど。


「お、おまえ……男、だったりする……?」


 恐る恐る告げる。途端、その子は一瞬だけ目を見開いた。そして。


「──だったら、なに?」


 別人のようにトーンの低くなった声が、あまりにもあっさりと言い放った。



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