エピローグ

 海が見えるあの場所に久しぶりに行きたくなって、昼食を済ませるとコートを羽織って外に出た。

 まだまだ肌寒いけれど、花壇の土の匂いや地面を這いまわるアブラムシの動きにはもうさほど遠くない春の気配が感じられた。

 蕾をつけたばかりの桜の枝が控え目な風情をして風に揺れていた。少し見ない間に石段の一角が崩れかかり、石が剥き出しになっていた。

 桜に寄りかかって、しばらくぼうっと海を眺めた。潮風に耳を澄ませる。

 静かに凪いだ海の碧と澄み渡る空の蒼が混じり合って水平線は見えない。光の渦だけが空に氾濫している。

 心の中にはぽっかりと穴が空いている。塞がることはない。ただ慣れていくだけだ。大したことじゃない。もとの独りぼっちに戻っただけの話だ。

 昨晩、久しぶりに健翔からメッセージが届いた。

 Rainbow Music Clubを正式に手伝うことになったのだという。主にピアノの指導を担当するそうだ。兄のあとを追って音大では指揮科に所属していたが、本人曰く、ピアノの腕前ではむしろ兄より上だったらしい。実は『別れの曲』が大の得意なのだと珍しく自慢げに語っていた。一年前、初めて聖マリア病院のチャペルで調律をしたときも、アップライトの状態を確認するためにまず『別れの曲』を弾いたのだと付け加えていた。

 海を眺めながら、二人に何か小さな贈り物をしようと思いついた。

 何がいいだろう。あれこれと想像を巡らせていると、アイデアが次々と溢れ出てきていつまでも飽きることがなかった。

 腕時計に目を遣った。そろそろ戻らなければならない。午後の処置は怖がりのエミちゃんからだ。最近はエミちゃんママもすっかり信頼してくれている。だが油断は禁物だ。

 西病棟へ急いで戻る。少しゆっくりし過ぎたようだ。もう午後の処置が始まる時間だった。沙希は正面ロビーを走り抜け、西病棟のエレベーターに駆け込むと八階へ上がった。

 エレベーターのドアが開くと同時に廊下へ走り出た。すると、ちょうど目の前を通りがかった男性と激しくぶつかった。

 スーツ姿のその人は床に倒れ込むと体操選手のように派手に転がった。どこか見覚えのある転び方だった。

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

 男性は立ち上がると、顔いっぱいに子供みたいな笑顔を浮かべた。

「お帰り、沙希ちゃん」

 沙希はキョトンとした表情を浮かべて彼の顔を見上げた。

 零れ落ちる笑顔をどうすることもできなかった。それはこっちのセリフだよ、と呟いたけれど声にはならなかった。

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水と光の森 青山ごう @clockbird123

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