第10話

 大樹のリハビリが始まって一週間が経った。

 彼の回復力には本当に驚かされるばかりだった。長下肢装具が取れるのはまだだいぶ先だったが、彼は日に日に回復して、すでに平行棒を使ってなら理学療法士の補助なしに一人で歩けるようになっていた。

 彼の頑張りを支えているのは、間違いなく、週に一度のチェロのレッスンだ。その日だけはリハビリも休みになり、午後、大樹は由美の運転で嬉しそうにレッスンに出かけていく。

 それ以外の日も、彼は毎日欠かさず自分の部屋でチェロの練習に励んでいる。夕方リハビリが終わったあとの三〇分だけ、身体に触らない程度なら練習してもよいという許可が、正式に主治医の貴宏からも与えられている。

 そんな彼の姿を日々間近で見ていると、正直なところ、沙希は内心焦りを感じずにいられなかった。出会ってからもう数ヶ月になるというのに、二人の間の溝は埋まるどころかますます深まっていくようにさえ見える。少なくともそう感じる瞬間がまだまだ毎日のようにあるのだ。

 例えば朝の検温で、沙希が個室に入っていって「おはよう」と微笑む。すると決まって彼は「まだいたの?」と呟いて顔を顰めた。飽きもせず、彼は毎日それを繰り返した。それはもう立派な習慣になっていた。だから最近では、部屋に入っていくと沙希のほうから「おはよう。まだいたよ」と付け加えるようになっているほどだった。

 午後の処置のときも、沙希が声を掛けても彼が口をきいてくれることはめったになかった。一日中一度も目を合わせてくれないことにも最近はもう完全に慣れっこになっている。

 由美がそばにいるときにはさすがに彼も露骨な態度は見せなかったが、個室で二人きりになると、何かにつけて当て付けのように舌打ちをしたり溜息をついたりした。そして「勘弁してよ」とか「看護学校で習わなかったのかよ」などと小さな声で聞こえよがしに呟くのだった。

 ある日の昼食の配膳では、こんなことがあった。

「大樹君、御飯だよ」と言って個室に入っていくと、大樹は枕元の壁に寄りかかっていつものように本を読んでいた。沙希は「お腹空いたでしょう?」と微笑んでからベッドの上にオーバーテーブルをセットし、その上に食事のトレーを置いた。

 大樹は本を置いて身体を起した。それから無言のまま枕元の床頭台へ手を伸ばして抽斗を開けた。だが、その日はいつもの場所に彼の箸が見つからなかった。

 毎回の食事のあと、ドア口の脇にある洗面台で自ら箸を洗い、それから床頭台の抽斗に戻すのが大樹の習慣になっていた。気軽に歩き回ることもままならない身であることを考えると、それはひどく立派な行いだと感心せずにはいられなかった。由美や他の者たちがいくら代わりに洗ってあげるよと言っても、彼は一向に受け入れようとしなかった。

 彼という少年が、単に生意気で臍曲がりな早熟の子供なのではないということがそういうところによく現れていた。彼には他の子供たちにはないような、きっと他の大人たちにだってないような、何かに対する強いこだわりがいくつもあった。それはおそらく、長い闘病生活の中で彼が彼なりに自分というものを支えるための足場として築いてきたものなのだと思う。そして彼の周りにはそんなふうにして数えきれないほど多くのこだわりが地雷のように埋められていて、うっかりそれを踏んでしまうと彼から激しい攻撃を受けることになるのだ。

 その日、彼は朝食のあと箸を洗って、そのまま洗面台の上に置きっ放しにしてしまったのだった。

 それに気づいたとき、咄嗟に、今日ぐらいいいだろう、と思った。第一、いまから彼が洗面台まで箸を取りに行っていたら戻ってくる頃までには食事が冷めてしまう。そう思ってしまった。後々振り返ると、そんな考えが表情に表れていて、ひょっとすると彼はそのことに反発したのかもしれない。とにかく彼の代わりに箸を取ってこようと沙希が洗面台に近づくと、背後から「触るな」という声がした。それはこれ以上ないくらい冷たい言い方だった。耳にした途端に背筋が凍りついた。

 大樹はオーバーテーブルを足下へ押しやると、物々しい様子でベッドから這い出し、長い時間を掛けて左足の長下肢装具を装着した。それから枕元の壁に立て掛けられていた松葉杖を手に取って、沙希が見詰めるなか、一歩一歩、息を切らしながら洗面台まで自力で歩き、箸を手にすると再び時間を掛けてベッドに戻った。

 沙希は心の動揺を抑えながら「さすが大樹君、すごいね」と言って無理やり笑顔をひねり出した。

 大樹は再び長下肢装具を外すとベッドに身体を横たえた。呼吸は乱れ、額にはうっすらと汗が滲んでいた。それから徐に床頭台の抽斗に箸を戻すと頭から布団を被って姿を消した。そしてそのまま置物のように動かなくなった。


 近頃は夕方になると小児科病棟にチェロの音が木霊する。

 当然個室は防音にはなっていないから、同じフロアにいると大樹の奏でるチェロの音がよく聞こえてくる。そしてふと気がつくと、手をとめてその演奏に聴き入っていたりする。チェロの音に耳を傾けながら、廊下の窓から遠くのほうを見遣り、岬が夕焼けで真っ赤に染まっているのに見とれていることもある。

 あの日以来、沙希はずっと健翔のことが気になっていた。そのせいで一週間に二回ミスを犯した。幸い二回とも命に別状はなかったが、目の前の作業から思考が飛んで心が上の空になっている時があるという自覚は自分にもあった。

 二回目のミスのあと、沙希は看護師長に呼ばれた。

「大須賀さん」年配の看護師長は静かな口調で言った。「何か心配事とか、そういったことでもあるのかしら?」

 沙希は看護師長の制服に描かれたキャラたちにぼんやりと視線を落とした。彼女は見た目が食パンマンに似ているせいで、子供たちからもそう呼ばれていた。普段彼女の発する言葉はどちらかと言えば冷たく響くことが多かったが、今日は威圧感が出ないように気を遣ってくれているのがよく伝わってきた。それだけに、かえって申し訳ない気持ちになった。

 病院内のスタッフで、沙希が自分の話をしたことがあるのは貴宏以外にはまだいなかった。ここのところだいぶ親しくなってきた先輩の佳奈とさえ、個人的な話はほとんどしていなかった。

 もし打ち明けられたら、食パンマンはきっとやさしく受けとめてくれるような気がする。だがいったいどこからどう話したらよいのか、ちょっと気が遠くなった。やはりどう考えても、職場の休憩時間に話せるようなことではなかった。看護師長の気づかいが嬉しいだけに、心苦しさは募るばかりだった。

「いえ、特にはありません。本当に申し訳ありませんでした」

 沙希はソファの上で姿勢を正すと、揃えた膝の先に両手を重ねて深々と頭を下げた。

「そう」と看護師長は言った。力のない声に残念な気持ちが滲み出ていた。ふと、初潮を迎えた朝、台所に立つ母と言葉を交わしたときの光景が脳裏に蘇った。

「困ったことがあったら、本当に何でも相談してくださいね」

「はい——ありがとうございます」

 沙希は立ち上がるともう一度深々と頭を下げ、休憩室を後にした。


 その日の午後、玄関口で大樹をチェロのレッスンに送り出すと貴宏がすかさず切り出した。

「ミスしたって聞いたけど、大丈夫か?」

 さっきからどこかそわそわしていたのは、それを訊きたくて仕方がなかったせいだろう。

「点滴の静脈内注射が漏れちゃって」

「どのくらいの間?」

「一回目は五分くらいで気づいたの。でも二回目は三〇分以上気づけなくて、かなりの浮腫ができてしまって」

「そんなに?」貴宏は顔を歪めた。「実は、この間のことと関係があるのかってちょっと気になってたんだ」

「この間のこと?」

「居酒屋で話したこと。辛いことを思い出させちまったんじゃないかって。ミスをしたのも、ひょっとしてそのせいじゃないのかって」

「ありがとう」と沙希は言った。「でも違うよ」

「ホントか?」

「ホントだよ」

「そうか。ならいいけど」

 二人は沈黙に落ちた。それから沙希は言った。

「ツンツル、いま少し時間ある?」

 貴宏は何かを察したのか、小さく頷くと親指を立ててOKの仕草をした。

 幸い、西病棟最上階のカフェテリアは空いていた。二人はそれぞれ飲み物を買って、前に座った窓際の席に腰を下ろした。

「だいぶ涼しくなって来たな」

 貴宏は窓の下に広がる庭園を眺めながら言った。彼方に浮かぶ水平線に目を遣ると、今日は静かに凪いでいるようだった。

「そうだね」

 そう返事した切りなかなか後が続かなかった。どう切り出したらいいのかよくわからなかった。

 二人はしばらく沈黙したまま互いに御茶を啜っていた。貴宏はじっとこちらが話し出すのを待っていた。モヤモヤした気持ちに突き動かされるように、ようやく沙希の口から言葉が漏れた。

「ツンツルは『妖精ヴィッリ』って聴いたことある?」

「ヨーセー、ヴィッリ?」

「プッチーニが最初に書いた歌劇」

「たぶんないな。オレは音楽はあまり詳しくないから」

「そう」

「その曲がどうしたって?」

 いくらか戸惑いがちに呟いた。「幽霊が聴いてた」

 貴宏は眉を顰めて顔を覗き込んできた。

「その歌劇の中に死んだ女の幽霊が出てくるんだけど、私、その幽霊と間違われたんだ」

「なんだそれ?」と貴宏は苦笑して言った。

「幽霊に幽霊だと勘違いされたってことだよ」

「うーん」と貴宏は腕を組みながら言った。「で、沙希ちゃんを幽霊だと勘違いしたその幽霊ってのは、いったい誰の幽霊なんだ?」

「落ち着いて聞いてね」

「わかった」貴宏はいくらか姿勢を正して言った。「いいぞ。言ってみろ」

「円谷君だよ」

「へ?」

「円谷君だってば——」

「あの円谷天翔のことか?」

 無言で頷いた。案の上、貴宏は目を丸くしていた。

 喉元につかえていた言葉が突然堰を切ったように流れ出してきた。菅野ピアノ工房を訪れた顛末を貴宏に話して聞かせた。

 一頻り話を聞き終わると貴宏は言った。

「でも円谷に弟がいたことは前から皆知ってたよな?沙希ちゃんだって知ってただろ?たしか二つ下だったと思うが——」

 あの男性が天翔の幽霊だということをあっさり否定されて、気持ちが一気に萎んだ。熾し掛けていた火が冷たい風に吹かれて消えてしまったような気持ちになった。

「どういう経緯で円谷の弟がそのピアノ工房で調律師をやってるのかは知らな…」

「違うよ」堪りかねて貴宏の言葉を遮った。「ホントにそっくりなんだってば」

 自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。周りの人たちも驚いてこちらに目を向けている。貴宏は唖然とした表情を浮かべている。

「ごめんなさい」沙希は頬を赤らめながら言った。「でもホントにそっくりなんだってば」

 貴宏は目を細めてこちらを見た。

「ツンツルは頭が良すぎるんだよ。だからすぐそんなふうに考えちゃうんだよ」

「なるほど」

「ツンツルも実際に彼に会ったら絶対に天翔の幽霊だって思うに決まってるよ」

 貴宏は黙ったまま苦笑した。なんと言葉をかけたらいいのかわからぬまま途方に暮れているようだった。

 もう一度、ツンツル、ごめん、と心の中で呟いた。そして、長い時間かけて積み上げてきた積木の城をうっかり指先が狂って崩してしまったときのような、遣り場のない気持ちに襲われた。


 少し肌寒くなり始めた秋の初めの休日、沙希は自転車に乗って海岸沿いの公園に出掛けた。

 よく晴れたきれいな午後だった。果てしなく続く埋め立て地にまっすぐな道路が延びている。たぶん震災前に一本道があったのと同じ辺りだと思う。右手に海を眺めながらペダルを漕いでいく。夜勤あけでいまさっき起きたばかりの腫れぼったい顔に、ひんやりとした潮風がひどく気持ちがいい。

 公園に着くと、入り口に自転車を停めて園内に入っていった。

ブランコや砂場では意外なほど大勢の子供たちが遊んでいた。遊具の中央にポケモンのラッキーの形をした大きな滑り台が立っていて、子供たちがあげるはしゃぎ声が青空に木霊した。

 そんな光景を見ていると不思議と気持ちが安らいだ。子供たちのはしゃぎ声には何とも言えない明るい希望が満ちている。きっと自分は希望中毒なのだ。小児科のプレイルームで毎日聞いているはずなのに、一日でも耳にしないとすぐに禁断症状が出てくるみたいだった。

 遊具が並ぶ中央サークルを通り過ぎ、その先の広場まで行くと家から持って来たビニールシートを広げて腰を下ろした。

 シロツメクサが広場一面を覆っていて、午後の日射しを浴びた緑の葉が目を癒やしてくれる。一羽の蝶がひらひらと飛んでいた。アゲハチョウだろうか。黒地にエメラルドグリーンの模様が入った羽がゆらゆらと風に揺れている。本当にきれいだ。

 だいぶ長い間、体育座りをしたまま子供たちが遊具の周りを駆け回る光景をぼんやりと眺め、はしゃぎ声に耳を傾けていた。そのうちに希望切れの禁断症状もだいぶ収まって、幸福な気持ちに満たされた気がした。沙希はポシェットの奥から白いタクトを取り出すと、ビニールシートの上にそっと置いた。

 タクトに刻まれたT・Tというイニシャルが陽の光を浴びて微笑んでいるみたいに見えた。ツンツルのボールペンの一件のあと偶然駅前の薬局で天翔と出会い、それからメールアドレスを交換して一気に彼と親しくなっていった頃のことが本当につい昨日のことのようにどんどん目蓋の裏に映し出されていく。ほんの短い間だったけれど、いまにも心臓が破裂しそうなくらいに幸福な気持ちで学校に通ったときがあったのだ。

 あの頃は毎日、毎時間のように二人でメールを交換して、今思えば意味もない話を夢中でしていたのだった。何も起こらないということが起こっている——よくそんなふうに考えて一人で興奮していたことが懐かしかった。

 そして一五年前のちょうど今頃、一度だけ学校帰りに二人で待ち合わせて、当時この辺にあった小さな公園に立ち寄ったことがあった。あの日もちょうど今日のような秋晴れの美しい日だった。公園には同じようにシロツメクサが生えていて、沙希は四つ葉のクローバーを見つけて彼にプレゼントした。

「円谷君の夢が叶いますように——祈ってる」

「ありがとう」

 それから二人でブランコを漕ぎながらアカペラで曲を演奏したのだった。

 最初の曲はあの頃よく練習していたショパンの『子犬のワルツ』だった。沙希が旋律を口ずさむと、天翔は鞄からタクトを出して拍子を取り始めた。沙希は宙で鍵盤を叩いた。天翔は立ち上がってタクトを振った。

ワルツが終わると、

「もう一曲。ノクターン第2番を」

 と言って天翔がタクトを構えた。沙希は頷き、そっと鍵盤を弾き始めた。

 あのとき、夕映えする公園の遊具に囲まれながら二人には本当にピアノの音が聞こえていたと思う。たぶん二人とも、津波に流される運命にあったあの本町第二小のピアノの音を、たしかに聞いていたと思う。

 ふと、すぐそばで子供たちの声がして顔をあげた。すると、目の前を若い男性が子供たちと一緒に歩いていた。

「円谷君…」

 思わず声が漏れた。

 ——いや、違う。よく見ると天翔じゃない。健翔だ。

 彼が連れている子供たちはどうやら障害児のようだった。小さな女の子と手を繋ぎ、ちょこちょことあちこちの子供の頭を撫でたり肩を揉んだりしながら、彼は子供たちと一緒にぞろぞろと遊具に向かって歩いていった。

 健翔はピアノ工房で会ったときとは別人のようだった。楽しそうな横顔に思わず見とれてしまう。その表情は指揮していたときの天翔にそっくりだった。

 しばらくの間、子供たちと一緒に遊び回る健翔の姿を遠目に眺めていた。遊具の向こう側のベンチでは何人かの女性たちが話に花を咲かせていた。私服姿からすると母親たちのようだった。

 少しすると、子供の一人が大声で泣き始めた。どうやら滑り台から出てきたときに勢い余ってどこかに頭をぶつけたようだ。

 額から血が流れているのが見える。健翔は慌てふためいてベンチの母親たちのほうに手を振っているのだが、話に夢中になっていて女性たちは気づいてくれなかった。

額の出血が止まらないようだ。そのうちに彼はシャツの袖で血を拭い始めた。子供は大声を張り上げて嫌がっている。ハンカチを持っていないのだろうか。あんなやり方だとばい菌が入ってしまうかもしれない。見ていられず、腰をあげると健翔に近づいた。

「あの、これ、使ってください」

 そう言ってハンカチを差し出した。健翔は驚いた様子を浮かべたが、

「助かります」

 と言ってハンカチを受け取り、泣きじゃくる男の子の額に押しつけた。男の子は痛がって顔を背けた。

「あの、わたしが変わりますから、お母さんを呼んで来てもらえますか?」

「そうですね。ではお願いします」

 そう言って彼は遊具の向こうへと走っていった。

 ようやく騒ぎが収まると、健翔は沙希に向かって何度も頭を下げた。

「まさかこんなところでまたあなたに救ってもらえるなんて。まさに不幸中の幸いっていうやつでした」

「こんなボランティアをしているなんて偉いですね」と沙希は言った。

「いやいや全然」彼は手を振りながら続けた。「父の入れ知恵なんですよ。将来僕を市議会に立候補させようとしているんです。だから今から地元住民に顔を売らせようとしてるんですよ」

「そうなんですか。でも事情はどうであれ、子供たちと遊んでるところ、すごく楽しそうだったな」

「そうですか。子供はもともと大好きですからね。心が洗われるってやつかな。あなたが羨ましいですよ、毎日子供たちに接していられて」

 思わず顔が綻んでしまったのが恥ずかしかった。自分が褒められたように嬉しかった。こんな小さな社交辞令を間に受けて反応してしまうのはきっと心が弱っているからだ、と思った。

「僕、そろそろ子供たちを送っていかないと」健翔は腕時計を見ながら言った。「今日は本当に助かりました」

 そうは言ったものの、彼はなかなか動こうとしなかった。喉元に言葉を詰まらせて逡巡しているのがよくわかった。

 こちらはこちらで胸の鼓動が波打っているのに気づく。

「そういえば…」ようやく彼は声を絞り出した。「あのピアノの件でまた御連絡を頂けると仰っていたので、菅野と一緒にお待ちしておりましたが——」

 今度は自分が言葉を詰まらせる番だった。

 たしかに奇跡のピアノのことはあれ以来中ぶらりの状態になっていた。というか、あのピアノをいったいどうしたいのか、自分にもよくわかっていなかった。

「もう用件はお済みになってしまったとか?」

「いえ、そういうわけでは…。ただ——」

「ただ?」

「ただ、ちょっといろいろあって、なかなか時間が取れなくって…」

「そうですか」と健翔はいくらかホッとした顔をして言った。「ではこのまま御連絡をお待ちしていればよろしいですね?」

 改めて健翔の顔を見据えた。やはりどうしても天翔の生まれ変わりにしか見えなかった。息が詰まってなかなか言葉にならなかった。

「お待ちしていたらご迷惑ですか?」

「いえ、そんなことは…」

「よかった」と彼は安堵の息を漏らしながら言った。「では、とにかくお待ちしています」

 沙希は彼の足下に視線を落とすと、無言のまま小さく頷いた。

「必ずご連絡くださいね」

 健翔はそう言って小さく頭を下げると、ジャングルジムの前でたむろして彼のことを待っている子供たちのもとへ走っていった。

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