第2章

第9話

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。鳥の囀りが微かに聞こえてくる。

 しまったと内心叫びながら、枕元の目覚まし時計に手を伸ばすと八時を少し回ったところだった。慌てて飛び起きかけたところで今日は休みだったことを思い出し、沙希は再びベッドに沈み込んだ。

 枕に突っ伏した額が重い。地球の真ん中に向かって引っぱられている鉛のようだ。幸い、吐き気はない。

 頭の中に散らばった昨日の晩の記憶をゆっくりと手繰り寄せはじめる。

 仕事をあがったあと、貴宏と待ち合わせて商店街の居酒屋で飲んだのだった。途中までは覚えているが、いつどうやって帰って来たのか記憶がない。貴宏が家まで送ってくれたような気もするが、あまり自信はない。

 沙希は起き上がってカーテンの隙間から表に目を遣った。いつもの場所に自転車がない。やはりタクシーか何かで家まで送ってもらったらしい。いずれにせよ、あとで商店街の駐輪場まで自転車を取りに行かねばならない。

 昨晩は酔った勢いで色々と話してしまったような気がする。だが、嫌な気持ちは全く残っていない。ひどい二日酔いでこんなに頭がずきずきしているのに、むしろ心の重荷がおりて体が軽くなったような気さえする。ちょっと不思議な感覚だ。

 少しずつ会話の断片が蘇ってくる。

 話していて嫌な気持ちにならなかったのは、貴宏が事の善し悪しを判断するような言葉を一切口にせず、ただ相槌を打って自分の言葉に耳を傾けてくれたからだと思う。今もまだ、居酒屋の喧騒の中で感じた、何か大きなものに抱擁されたときに感じるみたいなしみじみとした安心感が身体のどこかに残っている気がする。

 沙希はベッドから手を伸ばし、床に転がっているポシェットを拾い上げて中を覗いた。

 化粧品やらポケットティッシュやらが散乱したサイドポケットの底に白いものを認めるとほっとして安堵の息が漏れた。と同時に、酔った勢いでポシェットの中からタクトを取り出して、握り締めたまま泣いてしまった記憶が朧げに蘇って来た。恥ずかしさが込み上げてきて枕に顔を押しつけたまま一人で赤面した。

 いや、そんなことより、もしかすると脂ぎった居酒屋のテーブルの上にタクトを置いてしまったかもしれない。はっきりとは覚えていないが、居ても立ってもいられなくなって、沙希はベッドから抜け出すと洗面所に行って特製の洗剤で白い象牙を時間をかけて丁寧に洗った。

 自分のほうから貴宏を誘ったのは、このタクトのことを打ち明けたかったからだった。それは今まで誰にも話したことのない秘密だった。そしてその秘密の裏側には、いくら洗っても落ちない汚れのように、いつ、どこで何をしていても罪の意識が纏わり付いていた。

 あのとき、なぜ自分はタクトを鞄の中に入れてしまったのか——。

 小学生の子供が後先のことを考えず、その場の出来心から犯してしまった小さな過ち。傍目から見ればその程度のことだったのかもしれない。しかしそんなふうに済ますことはどうしてもできなかった。仮設住宅に引き篭もっていた十年間も、部屋の隅に蹲ってあの二日間に起こった出来事を頭の中で何度も反芻し続けた。

 自分はこの一五年の間、全く成長していないのかもしれないとも感じる。時が経てば経つほど、小学生だったあの日の想いは色褪せていくどころかますます鮮明になっていく。五歳児の心理状態からなかなか抜け出せないでいる少年のように、この世界で起こっているすべてのことが自分の責任なのだと信じ続けながら、時は止まったままだった。

 昨晩の自分の言葉が少しずつ蘇って来た。

「一番怖いのは、もしもう一度自分があの状況に置かれたら、やっぱりまた同じことを繰り返しちゃうだろうなってことなんだ。タイムマシンなんかあっても何の役にも立たないよ。これ以上ないくらい悔いているはずなのに、また同じ過ちを繰り返す自信があるんだから。頭がどうかしているとしか思えない」

 自嘲気味の笑みを浮かべているのが自分でもよくわかった。貴宏は黙ってどこか宙を見つめていた。

「でも、どうしてもそう感じてしまうの。だってそうでなきゃ、彼に申し訳なさ過ぎるから。たとえ何度同じ状況が訪れても、その度に同じ過ちを犯し続けるくらいでなかったら、それこそ浅はかな行動だったってことになってしまうから」

 貴宏は無言のまま箸の先でつまみのほっけを突っついた。

「今頃になってあのときの気持ちを否定したりするのは、過ちの行為そのものよりも罪が重い気がしてならないの。だから私、何度でも同じ過ちを犯し続ける自信がある。でなきゃ、もっと罪深い気がしてならないから」

 貴宏は顔をあげて真っ直ぐに沙希を見据えると、目を細めて微かに笑みを浮かべた。それからグラスを口に運んでビールを飲み干し、テーブルの上のブザーを押してやって来た店員にビールのお代わりを注文した。

「運が悪かったなんて、そんな一言で済ますことはどうしてもできないの。人は自分の運の悪さにも責任があるって、いつもそう感じながら私は生きてる。患者さんが亡くなったり容態が悪化したりするのも自分の運の悪さが伝染したせいだって、私、いつもそう感じながら患者さんと接してる。人間って、自分の運の悪さにこそ責任を負わなきゃいけないって、いつもそう思ってる」

 そんなことを滔々と口にしながら、不思議と自分も大樹と同じような考え方をしているな、と思った。やたらと責任を被りたくなるのはやはり東北人のDNAなのかもしれない——タクトを握り締めた両手の甲に涙を垂らしながらそんなふうに感じた記憶が朧げに残っていた。

 沙希が一頻り話し終えると、二人はしばらく沈黙に落ちた。

 いくらか冷静さを取り戻すと胸のうちに不安が込み上げてきた。

 一番怖いのは安っぽい慰めの言葉だった。今まで誰にも話せずに来たのはそれが怖かったからだ。陳腐な慰めの言葉に自分が傷つくのが何より怖かった。

 貴宏は時々グラスを口に運びながら、テーブルの上のほっけをじっと見つめて何かを考えていた。

 だいぶ長い沈黙のあとようやく彼は呟くように言った。

「知ってたよ」

 沙希は顔をあげた。

「見てたんだ」と貴宏は続けた。「あのとき沙希ちゃんがタクトを鞄の中にしまうのを、オレ、見てたんだ」

 沙希は目を丸くして彼を見つめた。

 誰にも見られていないつもりだったのだが、あれだけ大勢の人が周りにいたのだから誰かに見られていたとしても不思議ではなかった。

 だが今頃になってそんなことを知らされるのは、それはそれでショックだった。この一五年間あなたが抱き続けてきた罪悪感は不完全な不良品に過ぎなかった——そう言われた気がした。

「あのとき、たしかにまだ円谷は体育館の中にいたよ。ちょっと声を掛ければすぐ呼び止められるところに間違いなくあいつはいたと思う。でも——」

 貴宏は言い淀んだ。俯いたまま言葉を探しているようだった。沙希は静かに続きを待った。

「でも」と貴宏は繰り返した。「オレも同じことをしたかもしれない。少なくとも、しなかったっていう自信はない」

 沙希は言葉に詰まって無言のまま貴宏を見つめた。

「前にこんな小説を読んだことがあるんだ」と貴宏は続けた。「ミラン・クンデラっていうチェコ人の作家がいてね。『存在の耐えられない軽さ』っていう小説。映画にもなっている。そこにニーチェっていう哲学者の話が出てくるんだ。ニーチェってわかるか?」

「うん」と沙希は言った。「名前は聞いたことある」

 貴宏は頷いた。「ニーチェには永劫回帰っていう不思議な思想があるんだ」

「エイゴウ、カイキ?」

「えい、ごう、かい、き」貴宏はそう言いながら指先で宙に漢字を書いた。「もし仮にこの世界が有限個の粒子で構成されているとすると、いまこの瞬間に世界で起こっていることは必ずまた繰り返されることになる。世界の粒子が有限で時間が無限なら、粒子の配列が同一になる日はいつかまた必ずやって来る。しかもその可能性は無限に存在する。だから無限回繰り返される」

「つまり、いま起こっていることはすべて無限に繰り返されるってこと?」

「ああ。いままで起こってきたことも、これから起こることも、すべて無限回繰り返される」

「ふーん」と沙希は言った。

「それからクンデラはこう問うんだよ。もしあらゆる出来事が無限に繰り返されるとしたら、何かしようとするときに人が下す一つ一つの決断は重たいものになるだろうか。それとも軽いものになるだろうか」

「決断が重たいものになるか、軽いものになるか——」

「いま自分が下す決断が永遠に繰り返されると考えると、それはとても重たい決断になる。一方で、人生は一度切りではなく永遠に続くんだと思えば、一つ一つの決断はずいぶん軽いものになる——」

 二人はまた沈黙に落ちた。自分の罪が無限に繰り返されるとき、それは重いのか。軽いのか。

「もっと正確に言うと、一個一個の行動が無限に繰り返されるなんて考えてたら、人間生きていられなくなる。だから、物事なるようにしかならないって腹を括って生きるしかない。そしたらかえって肩の荷が下りて人生気楽になるかもしれない」

 貴宏の言うことは自分にもわかるような気がした。

「ごめん、変な話して」と貴宏は言った。「沙希ちゃんの話を聞いてたらふと思い出しちまって」

 沙希は俯いたまま首を振った。

「もし沙希ちゃんの運の悪さが沙希ちゃんの罪なのだとしたら、あのとき見ていたのに止めなかったのはオレの運の悪さだろ?それならオレにも罪があるってことになる。だったらオレも一緒に罪を償うよ」

 沙希は顔をあげて貴宏に目を遣った。彼はまた箸の先でほっけをつついていた。

貴宏の様子を盗み見ながら、変わったことを言う人だ、と思った。


 昨晩の遣り取りをぼんやりと回想しながらもう一時間くらい微睡んだあとで、沙希はようやくベッドから抜け出した。それから熱めのシャワーを浴びた。

 浴室が白い湯気で一杯になる。全身が弛緩して、体中の細胞と細胞の間に詰まっていた汚れがボディソープの泡と一緒に洗い流されていくような気がして、ひどく心地いい。こんなに肩の力が抜けてまったりとした気持ちになるのは久しぶりのことだ。というか、震災以来たぶん絶えず全身が強ばっていたのだと思う。今朝はまるで、一五年間身に着けっぱなしだった重たい甲冑を脱いだみたいな感じだ。

 気持ちがリラックスしたせいだろうか、立ち上がる湯気と一緒にここしばらく考えないようにしていた考えが次々と沙希の頭に浮かんできた。

 この間、海が見えるあの場所で出会った人は誰だったのだろうか——。天翔に違いないと直感したあの男性はいったい誰だったのか——。本当は、彼はまだ生きているのではないか——。自分は何か大きな記憶違いをしているのではないか——。

 そんな怪しい考えが止めどなく湧き上がってくる。まるで手錠を外され自由の身になった人間がこれからは何だってできると妄想を重ねているかのようだ。

 現実と非現実が錯綜して、どっちがどっちなのか自信がなくなってくる。

 浴室から出ると、沙希はバスローブを羽織って二人がけの小さなソファに腰を下ろした。コップに注いだ冷たい牛乳を乾いた喉元に流し込む。ゴクリと喉が鳴った。おいしい。

 リモコンを手に取り、テレビをつけてドライヤーで髪を乾かしはじめた。

 そろそろ自転車を取りに行かねばならない。そう思ったとき、ふとドライヤーを持つ手が止まった。テレビ画面に目が吸い寄せられる。何気なくつけていた朝のワイドショー番組の画面が大きな黒い物体を映し出している。

 ピアノだ。

 画面上に「奇跡のピアノ、再び?」という文字が現れた。沙希はドライヤーを止めるとリモコンを手に取ってボリュームを上げた。

「——こちらのピアノは、〇〇県××町にあります本町第二小学校にあったものです。復興の記念に修理しようと町内の倉庫に保管されていたとのことなのですが、一向に修復の話が先に進まないまま、気がつけば一五年の歳月が流れてしまったのです」

 女性リポーターがピアノの周りをゆっくりと一周しながら経緯を語っている。

「一五年前の三月一一日、このピアノは体育館の舞台の上に置かれていました。そこで翌日に予定されていた卒業式で弾かれるのを静かに待っていたのです。そしてあの瞬間が訪れました——」

 カメラが損傷箇所を次々と映し出していく。側板の表面には何かで引っ掻いたような大きな傷跡が残っている。脚柱の一つからキャスターが失われ、全体が前方に傾いている。開かれた屋根の内部をカメラがアップで映し出した。響板に大きなひびが何本か入っているのが見える。フレームも破損し、白く乾いた泥があちこちを覆っている。弦やダンパーもほぼ残っていないようだ。

 頭の中で、テレビ画面に映るピアノの像が湖面を揺蕩う傷ついた白鳥の姿と重なりあった。心臓の鼓動がはち切れそうになっている。見たくないのに画面から目が離すことができない。

 画面が切り替わり、カメラはピアノの正面から鍵盤を映し出した。八八鍵のほとんどが白鍵も黒鍵も失い、鍵盤板が剥き出しになっている。その姿を見た瞬間、指先が震え始めた。まるで電線に触れたときのように指の先端がビリビリと痺れている。

 それ以上耐えられず、目を閉じた。

 すると映画のフラッシュバックシーンのように、目蓋の裏側に次々と目を背けたくなる光景が浮かび上がってきた。あの日、高台の公園から見た小学校の屋上の光景が、切り刻まれた紙芝居のように目蓋の裏に映し出された。きつく目を閉じているのに涙が溢れ出て頬を伝った。

「こちらは、今回このピアノの修復にあたられる地元の調律師、菅野太郎(かんのたろう)さんです。菅野さん、如何でしょうか?修理のほうは可能なのでしょうか?」

「正直なところ、厳しいかもしれないという印象を持っております。震災後、何台か修理して参りましたけれども、数年のうちでしたらまだ塩害もさほどではなかったのですが…。一五年経っているとなるとですね、やはり相当に難しいのかなと感じております——」

 激しい吐き気が込み上げて来た。片手で口を押さえながら、ペンと紙を手にとると、菅野太郎、と書き付けて慌てて洗面所に駆け込んだ。


 そのピアノ工房は町外れの住宅街の中にあった。

 生まれ育った地元の町であっても、一度も行ったことのない地区や通りというのは意外に多いものだ。ましてや自分は、小学校のあと一〇年間も内陸の都市に避難していた。中学に上がってこれから行動範囲が広がるというときに、この町を離れてしまったのだ。ようやくヒキコモリの状態から立ち直ったあとも看護師学校に通うために仙台に行ってしまった。地元と言っても、知らない場所がまだまだたくさんあるに違いない——。そんなことを考えながら、自転車を引いて住宅街の並木道を歩いていった。

 昨日とは打って変わって日射しが和らいだようだった。背の高い街路樹の枝葉の合間から、瑞々しい日の光が零れ落ちてくる。

 時々立ち止まり、日射しに向かって顔をあげた。目を閉じてゆっくりと深く息を吸い込む。空気にはもう秋の匂いが兆していた。二日酔いのせいでまだ頭の中に鉛の塊が詰まっているみたいなのに、陽の光が本当に気持ちいい。

 どこまで行っても通りはひっそりとしていて、まるで人影がなかった。もう昼近いとはいえ、平日の午前中なのだから当然かもしれない。そもそもどのくらいの人がこの一帯に住んでいるのか、通りの様子からはよく分からない。古い街並みがそのまま残っている感じからすると、さすがにこの辺りには津波は届かなかったのだろうが、たぶん家屋の多くは空き家なのだろう。他県に避難したまままだ戻って来ていない人たちも——そしてもう一生戻らないことに決めた人たちも——きっとたくさんいるはずだ。

 片手に握り締めたスマホの画面に目をやった。もうそろそろ目的地付近にさしかかっている。次第にまた心臓の鼓動が高鳴り始めたのが自分でもわかった。

 菅野太郎という調律師名をネットで検索すると、意外にもすぐそばでピアノ工房を営んでいることがわかった。居ても立ってもいられず、商店街まで自転車を取りに出た足でそのまま工房を訪ねてみることにしたのだった。

 事前に電話を入れてみようかとも思ったが、何となく気が引けた。こうして目的地のすぐそばまで来ている今でさえ、あのピアノと再会することを本当に自分が望んでいるのか自信がなかった。工房の前まで行って怖じ気づき、そのまま帰るはめになるかもしれない。第一、本当にピアノ工房がやっているのかどうかもわからなかった。ただ、ネット上では「ただいま営業中」となっている。

 ふと見ると、スマホのマップ画面が、目的地です、と表示していた。沙希は足を止めて、自転車を街路樹の脇に停めた。道の両側には庭付きの古い日本家屋が等間隔で静かに並んでいる。自転車を離れて辺りを見まわすと、通りの反対側にある四角い鉄骨の家屋が目に入った。

 緑色の蔦が建物全体を包み込んでいて、まるで抹茶のチョコレートみたいに見える。周りの家と異なり塀や門扉はなく、正面がそのまま通りに面していて、間口の広いシャッターが下ろされている。あのシャッターを上げれば、グランドピアノでも簡単に搬入できるに違いない。

 沙希は通りを渡って、シャッター脇の入り口に近づいてみた。

「菅野ピアノ工房」というプレートが蔦に巻き付かれてほとんど埋もれた状態になっていた。ドアは半開きのまま開いていた。換気のために開けっぱなしにしているのだろうか。それともただの廃墟なのか。どこにも玄関ベルのようなものは見当たらなかった。

 ドアの隙間から中を覗き込んだ。薄暗くてよく見えないが、どうやら作業場へ通じる玄関口の廊下のようになっているらしかった。壁に何かの額縁が何枚も掛けられているのが見えた。

 ドアの奥に向かって、ごめんください、と言ってみた。返事はない。

「失礼します」

 本当にあのピアノと再会したいのかどうかという究極の問いはひとまず棚上げして、吸い込まれるように薄暗い玄関口の中に足を踏み入れた。

 通路奥から微かに光が差し込んでいて、壁に掛けられた額縁を照らしている。

 顔を上げた沙希の目に真っ先に飛び込んできたのは、グランドピアノの前でカメラを見つめる男性二人の写真だった。年配の男性はたぶん菅野だろう。朝、テレビに映っていたのとほとんど同じ姿をしている。もう一人の若い男性は息子に違いない。目元の辺りがそっくりだ。

 ハッとして写真に顔を近づけた。間違いない。それは本町第二小の体育館だった。写真に日付が印字されている。2010.10.05。震災の前年だ。菅野が本町第二小のピアノを調律していたことなど全く知らなかった。この写真も調律を終えた際に撮ったものなのだろう。気のせいか、グランドピアノが嬉しそうに微笑んでいるように見える。思わず懐かしさが込み上げてきて目頭が熱くなった。だが唇を噛みしめてぐっと堪えた。今日は泣きに来たわけではないのだ。

 他の写真にも目を向けた。壁一面に数十枚はあるだろうか。どの写真にもピアノと一緒に菅野が映っていた。震災よりもだいぶ前の写真も混ざっているらしかった。そのうちの何枚かには菅野の隣に少年が映っていた。いつもはにかんで、緊張気味の表情を浮かべていた。まだ幼い頃の写真のようだった。

 かなり最近の写真も多数あった。

 大雨で流された後のひどく破損したグランドピアノ。土砂の中から運び出された直後の泥だらけのアップライト。他にも災害後に損傷したピアノの写真が何枚もあった。その様子を見る限り、もう二度と元通りになるとは思えないものばかりだった。だがそれらの写真の隣には決まって修復後の写真も並べられていた。同じピアノとは思えないほど美しく誇り高いフォルムに生まれ変わったピアノたちが、皆嬉しそうに写真に収まっていた。本当に奇跡としか思えなかった。手を合わせて菅野に礼を言いたい衝動に駆られる。そしてピアノたちに対しても、生き返ってくれてありがとうと礼を述べたい気持ちで胸が一杯になった。

 勝手に人の家に入ってずいぶん長い間写真に見入っていたことに気づいた。ようやく我に返り、玄関口の奥へと進んでいく。

 壁の写真はまだ続いていて、ぼんやりと眺めながら前を通り過ぎていった。

 そのうちにふと、菅野の息子が映っている写真はさっきあった震災の前年のものが最後であることに気づいてしまい、いつもの嫌な予感が脳裏を掠めた。内心必死で自分を励ましながら通路の奥へと進んでいった。

 玄関口の暗がりを抜けると、網膜の奥に光が差し込んできて目の前が真っ白になった。それから少しずつ、天井の高い広々とした作業場が像を結び始めた。

 左右の壁に面してアップライトが二台置かれていた。どちらも屋根と上前板が外された状態で、修理作業の途中だとわかる。それを見て、本当に営業中なのだとひとまず納得した。

 作業場の中央には大きなワーキングデスクがあり、その奥にある背の高い棚の中には修理や調律に用いる細かな工具や金物がびっしりと並べられていた。

 沙希は作業場の入り口に立ったまま、もう一度、ごめんください、と言ってみた。

やはり返事はない。

 今日はもう帰ろうか。そう迷っていると、正面奥の縦長の棚の奥がさらに大きな作業スペースになっているのに気がついた。棚はちょうど二つの作業場の仕切りになっているらしかった。

 恐る恐るワーキングデスクを通り過ぎ、仕切りの奥へと進んでみた。

 すると突然、あのグランドピアノが目に飛び込んで来た。奥の作業スペースの中央に、まるでICUの処置台の上で救急手術を待つ患者のようにあの本町第二小のピアノが横たわっていた。今朝テレビで見たときと同じ、全身がボロボロに傷ついた状態のままだった。

 すぐさまピアノに近寄り手を伸ばした。だがどういうわけか、側板に触れそうなところで手が止まった。指先が激しく痙攣していた。

 あなたには触れる資格がない——そう言われた気がした。やはり来ないほうがよかったのかもしれない。悔いる気持ちが後に続いた。

 と、その瞬間、開かれた大屋根の向こうに人影があるのが目にはいった。あまりの驚きで心臓が止まりそうになった。

 数歩横にずれて屋根の向こう側を窺うと、ピアノの内部に顔を埋めて作業する男性の姿が見えた。彼は両耳にワイヤレスのイヤホンをしていた。こちらに気づかないのはそのせいだろうか。歳は自分と同い年くらいか。菅野の息子かもしれない。そう思っていると、男性がいくらか顔を上げ、横顔がはっきり見えた。そしてまた心臓が止まりそうになった。

 天翔——。

 驚きのあまり息が詰まって声が出なかった。ただ呆然と立ち尽くしたまま男性の横顔を凝視していた。

 そのうちに、彼はようやく人の気配に気づいて顔をあげた。そして、うわぁー、と叫び声をあげた。

「ごめんなさい」と沙希は言った。彼は、え?という表情を浮かべ、あ、と声を漏らすと両耳のイヤフォンを素早く外した。それから、びっくりした、と大きな溜息をついた。どうやら最初の謝罪は聞こえていなかったようだ。

「ごめんなさい」と沙希はもう一度言った。「ドアが開いていたのでつい勝手に入ってしまって——」

「そんなことはいいのですけど」彼は興奮気味に何度も瞬きしている。「ちょうど『妖精ヴィッリ』を聴いていたんですよ。ほんとにびっくりしました」

「は?」

「いや、あの、そうか」彼は軍手を外しながら続けた。「若きプッチーニが初めて書いた歌劇です。恋人のロベルトに捨てられて恨みを抱きながら死んだはずのアンナが姿を現すんです。第二幕のクライマックスのところです。アンナは、私はあなたに裏切られた女、と叫んでロベルトに近づきます。私はあなたのことをずっと待っていた、それなのにあなたは帰って来なかった、私はあなたのために命を失ったの、と言ってロベルトを責める場面です。ちょうどそのときあなたがそこに立っていたので——」

「はあ」

 彼はピアノを回って沙希のすぐそばまで近づいてきた。近い。プライベート空間に半歩侵入して来るこの近さ。やはり彼は天翔の幽霊なのだろうか。 

「あれ?」

 彼はまた声を上げた。沙希はびくりとして顔を上げた。

「あなたはもしかして」と彼は微笑みながら言った。「このあいだ病院で道を教えてくれた看護師さんですか?」

 小さく頷いた。彼と中庭で出会ったことは事実だったらしい。ということは、あの時点ですでに幽霊だったということだろうか。突然姿が消えたのも幽霊ならば当然のことかもしれなかった。だがもし彼が天翔の幽霊だとすれば、なぜ自分のことを思い出してくれないのだろうか。

「普段着だと、アンパンマンの制服姿とはだいぶ印象が変わりますね」

 少し前のことは覚えているのに、一五年前のことは覚えていないらしい。足下からもどかしさが込み上げて来た。

「何か調律に不都合な点でもありましたか?」戸惑う沙希に向かって彼は続けた。「電話を頂ければこちらからお伺いしたのですが。わざわざお越し頂いてしまって申し訳ありません」

 その言葉を聞いて、彼がピアノの調律師であることにようやく気がついた。このあいだも、きっとチャペルにあるピアノの調律のために病院にやって来ていたのだろう。製薬会社の営業マンだとばかり思っていたので、まさかチャペルに姿を消したなどとは思いもしなかった。道理でいくら探しても見つからなかったわけだ。

「あのピアノは今回から自分の担当になったのですが、調律のほうはまだまだ駆け出しでして。今日は菅野とその話をしにお越しになったとか?」

「いいえ。病院のピアノの件ではありません」と沙希は言った。

「そうですか」と彼は少しホッとした表情を浮かべて言った。「ではどのような?あいにく菅野はいま外に出ていて夕方まで戻りませんが」

 そう言われて言葉に窮した。衝動に駆られてここまで来たものの、本当のところ何のためにやって来たのか自分にもよくわからなかった。目の前にあるこのピアノに再会したくてやって来たことは間違いなかったが、それ以上のことは何も考えていなかった。

 言葉に詰まって戸惑っていると、彼はおかしそうに笑みを浮かべた。相変わらずプライベート空間に侵入されたままだった。漫画に出てきそうな澄んだ瞳と爽やかな笑顔がすぐ目の前に浮かんでいた。見ているだけで吸い込まれそうだった。そしてこの匂い。それは間違いなく、大人になった天翔の匂いだった。

「このピアノのことなんです、今日お邪魔したのは——」

 苦し紛れに声を絞り出した。天翔の幽霊はきょとんとした顔を浮かべた。

「このピアノ、ですか?」

 そう言って彼は目の前のグランドピアノを指さした。

「そうです、このピアノです」沙希もまた同じようにピアノを指さして言った。それから「でも菅野さんがいらっしゃるときにまた来ます」と付け加えた。

「そうですか、わかりました」彼はそう言ってワーキングデスクに載っていたメモ用紙と鉛筆を手に取った。「では失礼ですが、御名前を伺っておいてもよろしいでしょうか?菅野に伝えておきますので」

 沙希は逡巡した。

「どうかされましたか?」躊躇っている様子を見ると彼は言った。

「大須賀です」と沙希は言った。

「オオスカ様ですね」彼はメモ用紙の上で手を動かしている。「差し支えなければ下の御名前もよろしいでしょうか?」

「沙希です」

「オオスカサキ様…」

 そのときふと幽霊の手が止まった。それから彼はゆっくりと顔を上げて沙希の顔を凝視した。雷に打たれたように瞳が大きく固まっている。

「オオスカ…サキ…」

 彼はもう一度繰り返した。もう「様」もついていない。驚きのあまり言葉を失っているのがよくわかった。ようやく思い出してくれたらしい。

 胸が詰まって言葉が出てこなかった。あっという間に目に涙が溜まり溢れそうになるのを必死で堪えた。

 天翔の幽霊は呆然と立ち尽くしたままようやく沈黙を破った。

「自分は、弟の健翔(けんしょう)です。その節は兄がお世話になりました——」

 裏庭に面した大きな窓ガラスから差し込んだ日差しが傷ついたピアノの屋根に静かに落ちていた。

 味わったことのない強烈な手持ち無沙汰感に襲われた。掴みかけていた細い糸の先が指先から零れ落ちていくときのような、遣る瀬ない気持ちが後に続いた。

 失語症の患児のようにあんぐりと口をあけて彼の顔を見つめている沙希の鼻腔に、また若い男の匂いが漂った。

 だが、それはもう天翔の匂いではなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る