第17話 受難は続くよ、どこまでも
もう何日連続かすら忘れてしまうほどの徹夜明け。
幸人は起床の鐘の音と共に目を覚ますと、庭先を横断する渡り廊下を渡って食堂まで歩いていく。
燦々と照りつける朝日が憎い。途中に石造の洗面所があったので顔を洗う。こうして毎日を意識すると不安や焦燥に襲われる。
食堂は孤児院とさほど変わらない。配膳用の食器棚にお盆が入っており、それを一つ取ってくる。食事は主のスカーレット以外はセルフサービスだ。
今日の朝食はパンケーキにベリー系の果物が入ったヨーグルト。パンケーキは胃にキツかったが、ヨーグルトはすんなりと胃に溶け込んだ。甘さは控えめで酸味が強い。
「…おい、人間」
朝食を終え、席を立とうとするとオークションで会ったきりの犬人種が不遜な態度で幸人を見下ろした。
「は、はい」
幸人は食器を机に押し戻すと、先輩の顔色を伺う。
「お前、与えられた仕事すら満足にこなせないのか?」
浴びせられたのは厳しい叱責だった。
幸人の仕事量が他の使用人に比べて少ないことは自覚している。魔術が使えない分、人より長く働いても、そもそも土台が違うのだ。団扇とクーラーぐらい出力が違う。
「…申し訳ございません。今日中には終わらせますので」
先々日と先日の仕事を合わせて、あと一日で蔵の清掃が終わるところまで漕ぎつけた。
入った時のような蔵の埃臭さはないし、地面に転がっていた空木箱も棚に綺麗に収容している。あとはそれを一区画ぶん終わらせるだけだ。
「…今日中だと?貴様は魔術が扱えないんだろ?」
「は、はい。でも魔術が使えなくても、あの分なら…」
幸人がそう言うとインは眉を顰めた。
威嚇のような唸り声。不信用を意味する信号だった。
「―なにも進んでいるようには見えないが?」
それを聞いた幸人はガシャンと食器を床に落とした。
徹夜明けの怠さも忘れて、一心不乱に走る。向かう先は幸人の仕事場である離れの蔵だ。
「そんな…」
蔵にたどり着くと、そこには昨日どころか二週間分の仕事の成果が全て台無しにされていた。
棚は荒らされ、地面には砂埃が散らされて、空の木箱は壊されている。
―振り出しに戻る。どころじゃない。振り出し以上の酷い有様だった。
「ぷっ」
「ははは!見てみろよ、あの顔」
「傑作だな」
幸人が絶望の淵に立っていると、獣亜人種特有の鼻を鳴らすような笑い声が聞こえた。
振り返ると、その陰には幸人の同僚の見覚えのある犬顔や猫顔があった。
―幸人は思い知る。職場の人間関係悪化とはこういう結路を辿るのだと。
しかし気づいたところでどうすることも出来ない。蔵を荒らした獣亜人種は魔術を使ったのだろう。だが、幸人には魔術は扱えない。やるは易し、直すのは…途方もない労力が必要となる。
「っ」
泣きわめいて全てを投げ捨てたい気持ちを抑え、幸人は再びマイナス地点から作業を開始する。箒を使って蔵に散らされた砂埃を掃く。壊された木箱は廃棄し、棚の補修は工具を用いて行う。荒らされた蔵は複数ある区画の全部。今日一日じゃとても終わらない。
人間種…魔術を扱えないことの無力さを感じる。孤児院に居た時は魔術を必要としない作業ばかりで、魔術はちょっとした便利だという認識だった。
(認識を変えなくちゃ。ここはそういう場所なんだ。周囲から嫌われると転落する)
使用人が定期的に入れ替わるのはスカーレットの傍若無人さのせいだと伝わっている。
…が、それだけではない。この職場は弱肉強食の環境。強い者が弱い者を虐め、弱い者はそれよりも弱い者を虐めて回っている。そうして一番下に回ったものから捨てられていくのだ。
「…あー難しいな、人生」
不眠不休で働いた。でも成果なんて出なかった。
床の材木に引っ掛かり足が縺れる。工具が逸れて手を傷つける。上手くいかないと思った日はすべてが悪い方向に出目が出る。人生そんなものだと割り切らなきゃ前に進む勇気が出なかった。
「幸人。今日の業務は終わりです」
いつものように月十の刻になると、いつものようにブレアがやってきた。
「はい」
幸人は手に持っていた工具を工具箱に仕舞い、あと片づけをする。
一方のブレアは昨日よりもずっと酷い蔵の荒れ具合を見て目を細めた。
「…幸人。蔵が荒れているようですが?」
「えへへ。ちょっと失敗しちゃって」
幸人は渇いた笑みを浮かべた。もう言い訳を考える脳みそすらない。
「…ごめんなさい。まだ時間が掛かりそうです。お給料は下げてもいいのでもう少しだけ頑張らせてください」
幸人は上司のブレアに作業の進捗を伝えると同時に頭を下げた。そして作業に使った工具などを片付け、蔵を後にしようとする。
「…幸人」
そんな幸人にブレアが声をかけた。
夜空の下でも色褪せない短く切り揃えられた白髪。メイドらしく背筋が良く一寸の乱れもない所作で振り返った幸人を一瞥すると、
「少し臭います。汚れているようですし、これから一緒に入浴しましょう」
と幸人の手を掴んだのだった。
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