第十三話 「変」

 ●倉橋神社高台


 「昭博と、あのバカが?」

 「あ、あの……せめて息子さんなんですから、その……バカって」

 「これでも特上の扱いだ」

 チラリとイーリスを見るが、イーリスは肩をすくめて“お手上げ”の仕草をする。

 「息子が出しゃばってきたのは、まぁ、いいとして、昭博がここへ?」

 「はい」

 「何故だ?」

 「さぁ……」

 「さぁって、なぁ」

 「主人の行動は私には理解できませんもの」

 「それでも女房か」

 「遥香さんが同じ事言ってましたわよ?私というものがありながら、どうして由忠さんがヨソで女を作るのかわからないって」

 「……昭博にも考えがあってのことだろう。で?今、どこにいる?」

 「宿で寝てます」

 「寝てる?もう昼すぎだぞ?」

 「自業自得です。妻に隠れて裏口座作るわ、高いお料理飲み食いするわ……」

 声が震えてきたので、由忠はそれとなく話題をそらせることにした。

 「で、旦那の代わりに、何をしようとしていた?」

 「実は……私にもわからないんです」

 「はぁ?」

 「ただ、ここに来なければならない。そう思って」

 そっと、由里香は石を撫でた。

 「……で、用事は済んだのか?」

 「それすら、わかりません……」

 申し訳ない。という顔の由里香。

 「―――儀式の動きはまだない。一度、宿まで戻れ。イーリス、護衛しろ」

 「はい」

 「由忠さんは?」

 「倉橋に用がある」

 「倉橋へ?」

 「呼び出された」

 



 


 ●数日前 東京某ホテル

 由忠が祐一からのコンタクトに接触したのは、イーリスとベッドを共にしている最中のことだった。


 

 ―――殺す



 内容の如何を問わず、お楽しみを一時中断された由忠が最初に決意したのはそれだった。


ただでさえさっきから、

 目の前の御馳走(イーリスinベッド)のお預けを喰らい、

 仕事について文句を言われ、

 書類仕事の催促を喰らい、

 頼みの息子は昨日から行方をくらませてどこにいるかわからない中だ。


 (いえ。大佐がお忙しいのはわかりますけど、一応、親なんですから)

 無断欠席の息子のせいで、学校からかかってきた南雲大尉の文句を聞き流し、


 

 (会議は無断欠席!事務仕事は放り出したまま!仕事やる気あるんですか!?)

 樟葉にキれられ、



(大佐ぁ!お願いですから決済回して下さい!)

 福井中尉達、事務職員の涙ながらの訴えに押され、徹夜仕事を約束し、


 (自主規制!!)

 目の前で感情を高ぶらせたイーリスの甘い声すら聞き流し、



 そこまでして―――



 何が悲しくてオトコの声を聞かなければならない?




 「数日中にそっちに出向く!その時話せばいいだろう。こっちは取り込み中だ!」



 大体、祐一の会話は遠回りすぎて、何が言いたいのか要点をなかなか言わないのも悪かった。

 すべてにキれた由忠は、携帯電話目がけて怒鳴り散らすと、イーリスの待つベットへ向かった―――。



 倉橋の思惑なぞ、知ったことか。



 由忠にとって、全てはそういうことだ。




 ●倉橋分家


 ――さすがに、名家というわけか。


 広い庭は、よく手入れされた季節の草花が遷ろう時を彩る。

 建物も長い風雪に耐えたからこその風格を放つ。

 趣味に合う作りを眺め、由忠はしばしの時を忘れていた。

 

 ――今度、家の修理ついでに、庭はこうやってみるか

 

 降格人事に伴う減給処分、さらに浮気―――。

 すべてにキれた妻に吹き飛ばされた家は、現在も半分が廃墟のままだ。

 いい加減、なんとかしなければならない。

 せめて、悠理が「帰省する」などと言い出す前に。

 

 (あの築山はそのままで、楓がいいな。下には桔梗はどうだろう)

 倉橋の件とは全く別問題を考えつつ、由忠は目の前の茶が冷めるのにも構わず、ただ、庭を見ていた。


 すっ。

 不意に襖が開き、神主姿の男が入ってきて、平伏した。

 「お待たせして申し訳ございません」

 由忠は、この男に見覚えがあった。

 神社本庁の集会でみかけた、この県の代表格ではないか。

 互いに神職同士、しかも格がある。無碍な対応は出来ない。

 「いや。連絡も寄越さずお伺いして申し訳ない。で?何か願い出たいことがあると?」


 祐一の申し出は、ストレートだった。



 「――綾乃様を、諦めていただけませんか」



 由忠は黙った。

 申し出がストレート過ぎるのが、逆に気になったからだ。

 「綾乃様、とは―――瀬戸綾乃のことか?」

 「はい」

 「瀬戸綾乃は現在、誘拐されたものとして警察の捜査対象になっているはずだが?」

 「そこはそれ、でございます」

 「誘拐したのは、あなた方と、認めるのか?」

 「いえいえ。お連れしただけでございます」

 圧倒的な自信が祐一の言葉の端々に感じ取れる。

 自分がやったら、近衛という超国家レベルの権力の存在があるといえる。

 しかし、倉橋にそれほどの力があるとは、到底、思えない。

 その根拠が由忠には気になった。

 「誘拐して、あまつさえ、それを探す者に諦めろとは、虫がよすぎはしないか?そもそも、本人は今、どこにいる」

 「安全な場所に」

 「本人の生死も確かめずに約束事なぞ出来るか。まずは本人と会わせて欲しいものだが」

 「いやはや、難しいものですなぁ……」

 祐一は、頭をかきながら、由忠を見た。

 くだけた仕草だが、決して何もくだけていない。

 綾乃に会わせる気は、毛頭ない。

 「……」

 「……綾乃様は、倉橋の跡取りです」

 「それはあなた方の都合だ。我々水瀬家、そして瀬戸家にも都合はある。何より、本人の意志がどこにもないではないか」

 「綾乃様の御意志は、いずれ決めて頂きます」

 「継承の儀式のことか?」

 「はい」

 臆することなく、祐一は言った。

 「本家の儀式に対抗する形で、今度の満月に」

 「あと、3日か」

 「さすがによくご存じで。ご理解が早くて助かります」

 「儀式の後、倉橋の巫女として、その力を手にした者として、進退を決めてもらう。そういうことか?」

 「ますます話が早い」

 「断る」

 「―――ほう?」

 「その申し出、応じたとして、水瀬家としての旨味がどこにある?損ばかりではないか」

 「成る程成る程……」

 クックッ。

 喉を鳴らせる笑い声が、由忠の神経に障った。

 「いやはや。その通りでございますな。いずれにせよ、我々も次代の倉橋主流となるわけですし。水瀬家とも蜜月の関係でいたいものですから」

 パチンッ

 祐一の指が鳴った途端、祐一が入ってきたのとは別の襖が開いた。

 無言で入ってくる背広姿の男の手にはジュラルミンのカバンが握られている。

 「迷惑料込みということで、一つ―――」

 開かれたカバンに入っていたのは、金塊だった。

 金額になおせば、恐らく、億単位の額では効かないだろう。

 「―――息子の嫁を、これで売れ、そういうことか?」

 「滅相もございません。あくまで、水瀬家に嫁ぐか否かは、綾乃様のお決めになられること。――倉橋の巫女としての責務をご自覚いただいた上の話ですが――せめて、水瀬家におかれましては、倉橋の儀が終了するまで、介入を控えて頂ければ、それで」

 「我が家へ、瀬戸綾乃、次代の巫女が嫁ぐはずはない―――そう確信してのことか」

 「まさか」

 じっ。と見つめ合う二人。

 やがて、由忠が口を開いた。

 「よかろう」

 由忠は言った。

 「水瀬家として、今回の件からは手を引く」

 祐一の顔がパッと明るくなる。

 「ただし、条件が三つある」

 「何なりと」

 「まず一つ、息子だ」

 「ご子息が、何か?」

 「いわば自分の妻を誘拐されたことに腹を立て、最早、家として止めることが出来ない。息子の介入は、水瀬家としては止められないかわりに、水瀬家は、息子の行動の一切に、家として関与しない」

 「やむを得ますまい。ただし」


 祐一が逆に念を押すように言った。


 「万一の際はご覚悟を」


 祐一のその目は、

 (たかがコドモ、介入できるならやってみろ。殺してやる)

 と言っていた。


 「無論だ」

 何のことはないと言う顔で応じる由忠。


 (悠理がこの程度の小物共にやられるなら、逆に見てみたいわ)



 由忠は、視線を庭に向けながら、続けた。



 「第二に、瀬戸家のことだ」

 「瀬戸家、ですか?」

 「現在、瀬戸家から護衛任務の依頼があり、これに水瀬家が家を上げて取り組んでいる。家のメンツにかけて、仕事を投げ出すことは出来ない」

 「―――成る程」

 「瀬戸家の行動については、水瀬家も予測できないが、儀式に関与する場合、水瀬家としては介入をしないものとする」

 「最悪は、瀬戸家――由里香様と、我々の問題だ。と?」

 「第三に、倉橋本家の件だ」

 「―――」

 「倉橋本家については、いろいろ借りがあるので、介入はさせてもらう。分家の儀式ではないので、黙認してもらおう―――以上だ。飲めるなら、申し出に応じよう」


 数分の沈黙の後、祐一は言った。

 「わかりました。それで手を打ちましょう」

 すっと差し出されるカバンを、由忠は一瞥しただけ。

 「今後とも、両家の繁栄を祈って」

 「うむ」



 ●倉橋分家別間

 「祐一様、首尾は」

 由忠を送り出した祐一に、取り巻きが寄ってくる。

 「ふん」祐一の目は、軽蔑しきったものだった。

 「バケモノも黄金色には弱いらしいわ」

 「交渉は、成立したのですか」

 「ああ。いろいろ条件をつけてきたが、水瀬家が介入することはない。少なくとも、我ら分家の儀式には、な」

 「本家には介入を?」

 「ああ。可能性は示唆していたぞ」

 「では、儀式の後は」

 「後は、綾乃様次第だな。綾乃様は?」

 「お薬で、よくお休みになっておられます」

 「催眠誘導薬の効果は?」

 「万全です。自分のことを、倉橋の巫女だと思いこんでいただいております」

 「よろしい」

 祐一は満足そうに頷いた。

 「さらによく暗示をかけておけ。二度と芸能界や、水瀬家のバカ息子のことなぞ思い出せないくらいにな」


 ●旅館「さくら」楓の間

 「馬鹿者!」

 その怒鳴り声に、室内の建具までが悲鳴を上げたように振動した。

 そして、

 ゴツンッ!

 室内に鈍い音が響く。

 由忠が息子の頭をグーで殴った音だ。

 「痛ぁ〜いっ!」

 「やかましいわ、このおおうつけ!」

 「うううっ……」

 「勝手に動くなとあれほど言ったろうが!」

 「だって、だってぇ……」

 「だってもヘチマもあるか!」

 ゴツンッ!

 「反省の色がない!」

 ゴツンッ!

 「由忠さん、まぁ、それくらいで……」

 たまらず由里香が止めに入る。

 「学校は無断欠席!仕事は放り出したまま!貴様、今の立場でやる気があるのか!」

 「だから、あまりに、その―――」

 振り上げた由忠の腕を、由里香がそっと止めた。

 「教育上、これ以上は逆効果ですわ」

 「ええいっ。息子はこれ位厳しくしなければならんというのに」

 「そりゃ、私は男の子は育てたことありませんけどね……」

 「悠理!ことが済むまで今回の件はお預けだ!帰ったら覚悟しておけ!」

 「うっ、う……ううっ……」

 うえーんっ!

 水瀬は、もう本当に泣き出していた。

 「由忠さん。ホントに悠理君だって綾乃のこと心配して―――」

 「それとこれとは話は別だ」

 由忠は言った。

 「後、3日で儀式が始まる。連中は神経を高ぶらせている。こんな時に下手な動きをすれば、逆に綾乃ちゃんの命が危ない」

 「儀式が?でも、儀式の準備の動きが」

 「3日もあれば十分だろう」

 「場の浄化だけで一ヶ月はかかるんですよ?」

 「?」

 由忠は、由里香のその言葉にひっかかった。

 「場を浄化するなら、神道の儀式でいえば、結界を張って―――」

 「高台から見ましたか?場の結界は、一カ所、そうです。本家の儀式の場しかなかったですよね」

 「……」

 そういえばそうだ。

 連中、どこでやるつもりだ?



 「元々浄化しきった場所なら最初から不要なんですよ」


 振り向くと、そこには昭博がいた。


 「昭博」

 「お久しぶりです。先輩」

 「お前、どうしてここに?」

 「いやぁ。先輩の情報調べてたらここに予約とったっていうから、ああ、先輩も動いてくれるんだなぁってわかったもので」

 ハッハッハッ。と笑う昭博の言葉に、由忠はあきれ顔で訊ねた。

 「俺の情報?」

 「ええ。あの女性との関係とか……あの南青山の女性の件とか、高円寺の例の人妻とか、六本木の女性自衛官とか、桜田門の女性キャリアとか」

 「……遥香にバラしたら殺すぞ」

 「ま、絶対、先輩は動くってみてましたから、いろいろ手を尽くしまして」

 「それで何でオンナの情報ばかり」

 「そりゃ、一番効果が見込める情報ですから」

 「……お前、最初から俺を強請るつもりだったな」

 「先輩って、昔から金で動く人じゃないですからね。でもほら、先輩が動いた所が僕の動き所だってふんでましたから、手っ取り早く手に入る材料として」

 由忠の殺気を無視するように、「やむを得ず」と笑う昭博。

 「―――情報の出所は?」

 「内証です」

 「……」

 こいつ、情報部に入ってくれないかな。と、由忠は本気で考えていた。

 「昭博さん。それは今後の水瀬さん所へのカードとして置いておくとして」

 「おい!」

 「最初から浄化された場所、とは?」

 「以前、学生時代、倉橋の神社を調べぬいたことがあるんですよ。御母様の許可があったから、分家扱いの僕なら一生入れないような所までね」

 「よくとりつけましたね」

 「由里香さんとの結婚の条件、それでしたから」

 「昭博さん?」

 「コホン、高台の石、あれですよ」

 「あれが?」

 「そう。実はね、あそこが、本当の儀式の場なんですよ」


 昭博の説明だと、こういうことだ。

 

 儀式の場は、元来があの高台、いわば高台そのものが聖域だった。

 それが、時を経るにつれて儀式も変化し、場もより神社に近い地へと移された。

 「何故、あの高台が聖域に?」

 「由里香さんなら、ご存じでしょう?」

 「何故です?」

 「来月からのお小遣い停止、解除してくれたら教えてあげます」

 「……」

 握った拳を振り下ろす直前、由忠の冷たい視線を感じた由里香は、何とか拳を納めた。

 夫より世間体をとる、人妻の意地そのものだ。

 「コホン……いいでしょう」

 「ありがとうございます」

 「昭博、感謝しろよ」

 「お礼はいずれ精神的に。では、ヒントです。あの高台、地下には何があるでしょう」

 「地下?……あっ」

 「そう。あの高台、下は鍾乳洞なんですよ。随分と大きい、ね」

 「鍾乳洞?」

 「ええ。今では神社のごく一部の者しか知らないはずですが、かつては神社の最大の聖域だったんです。昔の本殿は、鍾乳洞の中にありました。ほら、水瀬さん所の神社と同じですよ。あの竜穴洞」

 「水を生み出す聖域、ということか」

 「ご明察。万物の源となる水を生み出す源の真上、清涼な水が生み出される“産み”の力の集まる場所、というか、多分、鍾乳洞を女性の子宮としたら、あの高台は間違いなく女性の性器そのものということですね」

 「それが、何故、遷ったのです?」

 「解釈ですよ」

 「解釈?」

 「そう。周辺の地形を女体と捉えると、高台は女性のいわば性器そのもの、で、現在の位置は、風水的に見て、ヘソにあたる場なんですよ」

 「産みの場より、体の根元に場を移した」

 「そうです。儀式が“産み”の儀式から“降ろし”の儀式へと変化したことはご存じでしょう。場も同様に、神の子を“産む”儀式から、力を“降ろす”儀式にふさわしい場に遷ったということですね」

 「……」

 「それで?あの場が元々清浄というのは?」

 「やだなぁ……由里香さん」

 「?」

 「禊ぎですよ禊ぎ。常に流れ出る水が全ての穢れを流す、それが禊ぎでしょう?つまり、水が常にその内側で流れる場、つまり、場そのものが常に禊ぎの場となっているんです。だから、あの場は常に清浄なんですよ」

 「……我々の視覚的な清浄ではなく、精神的な意味での清浄、そういうことか?」

 「そうです。だから、あの場は浄化なんて不要なんですよ」

 「随分な大仕掛けだな」

 「ま、それより問題は、ですね?」

 昭博が、どこからか周辺の測量図を取りだした。

 高台の付近に数カ所、赤いマジックでバツ印がつけられている。

 「昨日、ざっと悠理君に頼んで周囲を偵察してもらった結果です。ここと、ここと、ここ、こちらはまだ未調査です」

 昭博が指さす場所は、赤いバツ印の所。一部がマーカーで囲われ、“未調査”と書かれていた。

 「ここに、入り口があります。全てが警戒され、神主の出入りが盛んです」

 「それが?」

 「あの鍾乳洞、僕達がここを出るまで、入れるのはごく一部、限られた者だけだったはずです。ペーペーの神主が入っていい場所じゃないんです。僕だって、御母様の許可があって初めて入れたんですから」

 「普通に立ち入り禁止場所にしている、ということではないか?儀式も近い」

 「そう解釈したいのですが」

 昭博の一瞬の沈黙の意味は、由忠にもわかった。

 「綾乃ちゃんがこの中に?」

 「頻繁に巫女の立ち入りが確認されています。儀式の準備ではなく、食事を持った。つまり、中に神主以外の人がいるということです」

 「供物ではないのか?」

 「悠理君も神社の子、人の食べる食事と供物の区別くらいつくでしょう」

 「悠理」

 「間違いなく、供物ではありません。巫女さん達の立ち話を耳にしましたが、“綾乃様”という言葉が会話の中に」

 由忠は黙考した後、息子に口を開いた。

 「……悠理」

 「はい」

 「救出は待て」

 「!?」

 すぐさま、救出命令がくると思っていた悠理は、動きを止めた。

 「なっ――」

 「確実に綾乃ちゃんがいる場所を突き止めろ。それから、武装した騎士及び一般人との交戦が予想される。綾乃ちゃんを連れて高台から脱出する場合のルートを選定、俺に報告しろ。日付変更までに、だ」

 「……はい」

 「不満か?」

 「いえ」いいつつ、そっぽを向く水瀬。

 「……」

 「由忠さん?」由里香が由忠の袖を引っ張りながら言った。

 「ん?」

 「こういう時は、親として、頑張れ、くらいは言うものですわ」






 

 ―――ハァ、ハァ、ハァ





 亜里砂は真っ暗闇の洞窟の中を必死に走っていた。




 (どうして?)



 (何で?)



 そればかりが頭に浮かぶ。



 後ろは振り返りたくない。



 振り替えれば、彼女がいる。




 亜里砂は、恐怖に押しつぶされそうな中、自分の身に何が起きたのか、子供なりに理解しようとした。


 事の起こりは、いつものように、綾乃ちゃんの所へ遊びに行ったこと。


 儀式の準備のため、二、三日、会えなかったのは、正直寂しかった。

 綾乃ちゃんだってそうだろう。

 だから、今日はこっそりオヤツを持ってきた。

 ばあやにみつかったら取り上げられる。

 みちるちゃんのくれたチョコレートだ。

 とても甘くておいしいチョコレート。

 きっと綾乃ちゃんだってよろこんでくれるに違いない。

 

 そして、いつもの通り、掛け軸を超えた。



 そこは、亜里砂の知らない空間だった―――。

 


 「……」


 綾乃ちゃん。

 そう呼びかけようとして、亜里砂は言葉が出なかった。


 場の空気が、恐ろしく重い重圧となって亜里砂を襲っていたからだ。


 亜里砂の視界に入ってきたのは、燭台の薄暗い灯りに照らし出された巫女の装束。


 

 それが、誰なのか、亜里砂は一瞬、理解できなかった。


 「何者ですか?」

 

 

 巫女の装束が発せられた言葉。

 それが、儀式に臨む母より発せられるそれよりも重く、亜里砂に襲っていたのだ。

 

 だが、その声に、亜里砂は嫌でも聞き覚えがあった。


 だからこそ、信じたくなかった。


 その声が、大好きな人から発せられているなんて―――。


 亜里砂が、なけなしの勇気を振り絞っても、声が出てこない。

 

 「―――」


 じっと見据えてくる鋭い眼差し。


 まるで刺されているような感覚すら与える眼差し。


 自分の心の奥底まで見抜いているかのような眼差し。


 とても子供に耐えられる代物ではない。

 

 いつもなら、明るい笑顔で出迎えてくれた。


 「いらっしゃい」と―――。


 例え、数日会えなくても、でも、それでここまで接し方が変わるはずもない。


 だが、彼女の身に、何が起きているのか、それを理解する術を、亜里砂は持っていない。




 「何者です」




 接する者に重圧を与える冷たい声。


 発しているのは―――。





 綾乃だった。          










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