灰色の街に熱い血を落とせ

山野エル

詭弁と救済

 ドアがノックされた。午後十時だ。


 クララがドアを開けると、靴音を鳴らして男たちがぞろぞろとリビングにやって来た。いずれも一筋縄ではいかない強面だ。

 そいつらの最後尾からステファノ・スカヴォリーニがコートにハット姿のままゆったりと歩み出た。彼は五人の男たちに顎で合図した。家の中に靴音が響く。

 俺は腰に抱きついてきたイレーネの細い腰を抱き止めて、クララをそばに引き寄せた。


「夜分遅くに悪いな」形だけの詫びを入れてステファノは手にしたブランドの紙袋を掲げた。「ニコラの誕生日を祝いに行かねばならんから、手短に済ませたい」

「奥さんの誕生日は四日後じゃ?」

「自分の都合ばかりを押しつける男になるな、ティト」

 ダイニングからやって来た男が椅子を二脚乱暴にリビングの真ん中に置くとステファノは腰を下ろして、目の前の椅子を指さした。

「クララ、イレーネを連れて二階に行け」

 ステファノは俺を遮った。

「座れ、ティト。私を早くクロトーネに行かせたいのならな」

 俺は大人しくステファノの向かい側に座った。家中を物色していた男たちが荒々しく踵を鳴らして戻ってくる。

「ありません」

 そう報告を受けると、ステファノは親の訃報でも受け取ったかのように溜息をついた。俺を見つめる鋭い眼光は、この街を数十年にわたって支配してきた男の強靭さを物語る。

「カネはどこだ、ティト?」


 ソファで身を寄せ合うクララとイレーネを肩越しに見た。

「妻と娘もいるんだぞ」

 男たちが気を張るのが分かった。その腰の膨らみは物言わぬ脅迫者だ。ステファノは静かに身を乗り出した。

「いいか、今日中にチチェローニに二〇〇万ユーロを納めなきゃならんのだ」

「あんたらの白い粉には一切関わらないと言ったはずだ。取引にもカネにも」

 ステファノは黒い革の手袋を嵌めた拳を突き上げて腕時計に目をやって短く言った。

「マルコ」

 俺のそばの男が拳銃を取り出して、その銃口を俺の頭に突きつけた。

「ティト!」

 クララが声を上げて、イレーネの目を覆った。俺は落ち着くようにと軽く手を挙げる。

「クララ、俺は大丈夫だ。取り乱すな」

 すすり泣く声が返ってくる。

「お前にはずいぶん世話になってる。だから、乱暴なことはしたくない。だが、分かっているだろう? 私の気が短いことは」

 ステファノの前では、犬だって言うことを聞かなければ永遠に後悔することになる。

「カネの在処ありかなど知らん。他を当たるんだな」

 マルコが銃把じゅうはで俺のこめかみを打ちつけた。凄まじい衝撃と痛みが同時に襲ってきて、思わず椅子から転げ落ちた。すぐに腕を掴まれて椅子に座らされる。頬に流れる熱いものが心臓の鼓動を速めた。

「ティト、私は同じ質問を繰り返すのが女の喚き声よりも嫌いなんだ」

「便利屋の分際でいい気になるな」

 イレーネのそばの男がだみ声で俺を煽る。それを無視すると、男はイレーネに銃を向けた。

「やめて!」

 クララが叫ぶ。イレーネが泣き声を上げた。

「早く喋らねえと、娘の脳味噌の破片に挨拶することになるぜ!」

「やめろ、ペトロ」

 ステファノが低い声で制すると、ペトロは素早く銃を引っ込めた。

「ティト、お金の在処を知ってるなら早く話して! こんなこと耐えられない!」

 クララのヒステリックな声にステファノが怒号を発した。

「黙れ! それ以上喚きやがったらお前のケツの穴に娘の頭を捻じ込んでやる!」

 怒りの残響が部屋を震わせて静寂が訪れる。


「マルコ」

 ステファノが命じると、マルコは懐から一枚の写真を取り出して、俺の膝の上に叩きつけた。運転席で頭に風穴を開けた男がハンドルに突っ伏している。

「ああ……、パスカル」

「クロトーネの方へ逃げようとしていたらしい。激しく抵抗したので黙らせた。知人の話じゃ、奴がここに寄ると言っていたらしい。カネの入ったバッグをお前に預けたんじゃないのか?」

「なんてことをしたんだ……!」

 視界が滲んでパスカルの顔が見れない。

「お前と奴が親しかったのは知っている。お前が便利屋になったきっかけでもあるんだろ。信頼していたお前にカネを預けていても不思議じゃない」

「知らない! 本当に知らないんだ!」

「ああ、ティトよ」ステファノは天を仰いだ。「お前が勇敢な男なのは百も承知だ。だから、そんな男の悲鳴を聞きたくはない」

 マルコがおもむろに俺の右の人差し指の爪をペンチで挟んで一気に捻り上げた。

 肉を引き剥がす音と燃えるような痛みが走って、俺は思わず叫んだ。

「パパっ!」

 イレーネが声を上げて泣いていた。床に剥がれた爪が叩きつけられて、脈打つ指から血が溢れ出した。全身から汗が噴き出して、悪夢みたいに痛みが駆け巡った。


   ***


「頼む、一時間でいい」

 パスカルはそう言って黒いバッグを俺に押しつけた。

「ふざけるな。俺は関わらないと言ったろ」

「バーの女が俺を待ってるんだ」

 言ってみれば、彼は生粋の遊び人で、女たらしだった。

「仕事を終えてから行けよ」

「何を言ってる! 出会いは黒猫みたいにすぐどこかへ行っちまうんだぞ」

 そう宣う彼の手首で女物のブレスレットがきらりと光った。

「ヴィオラが見たらきっと泣くぞ」

 パスカルは一瞬だけ悲しみを浮かべて、すぐにいつもみたいに調子の良い笑顔になった。

「姉の形見だと言うと、女は俺を愛おしく思うんだ。ギャップってやつさ」


   ***


 ステファノの手にある紙袋のロゴが目に入る。パスカルの手首に光っていたのも同じブランドだった。

「電話をかけてもいいか?」

「嵐の日にわざわざ隣町まで新しいワインを買いに行くか? 家の中にあるもので間に合わせるものだ。それが安物でもな。この場で解決できることはこの場で終わらせろ」

 相変わらず鼻につく言い方だ。この街じゃ、警察など期待できない。かといって、チチェローニに泣きつくわけにもいかない。

「ティトよ、お前たちが家族揃ってバラバラになって世界中の患者たちに希望を与えたいというのなら、それでも構わん。こうして話し合いができることに幸せを感じられるのも今のうちだぞ」

「ティト、お願い。知ってるなら話して」

 クララが懇願する。


 俺は考えていた。

 ステファノ自らがこうして出向いてきたということは切羽詰まっているということだ。そんなことはおくびにも出さないが、奴にとっては俺が唯一の手掛かりに違いない。

 だが、クララもイレーネも危険に晒したままでこの状況を打破できるとは、とても思えなかった。知らないと言えば痛めつけられ、黙ったままでは家族が道連れだ。

 頭を殴られたせいで、思考も鈍ってきた。

 何か……、何か手はないか?

 素早く室内を見回す。ステファノの他に武装した男が五人。俺のそばで武器になるものといったら、スタンドランプくらいしかない。銃は二階に置いてある。

 壁に飾ったバハマの写真が目に入ってきた。クララの声が耳朶じだに蘇る。


   ***


「この街は腐ってる」

 ベランダの手すりに肘をついたクララを酔わせたグラスが彼女の手の中で揺れていた。俺は黙って彼女の熱ある声を隣で聞いていた。

「銃声のない週末はないし、ピッツェリアは無愛想。この街には色なんてないのよ。あるのは股にぶら下げたものの大きさを誇ろうとする男たちの赤い血だけ」

 ここは俺の生まれた街だ。だが、不思議と腹が立たなかったのは、ここに見切りをつけていたからなのかもしれない。

 クララは欄干に背中を預けて夢を見るような目を部屋の中に向けた。ベッドの上に横になってうとうとと船を漕ぐイレーネがついに眠気に降参していた。

「カリブ海では思う存分日焼けをして、海風の中で一日中波の音を聞いていてもきっと飽きないのよ。人を何とも思っていない男たちの目を気にする必要もないのよ」

 あの時かもしれない。

 どんな手を使ってもこの街を、このくびきを逃れるのだと心に決めたのは。


   ***


「ティトよ、最後に訊く。カネはどこだ?」

 痺れを切らしたようにステファノが言った。もう俺には覚悟を決めて突き進むしか手がなかった。それがうまくいかなければ、バハマの潮風を諦めるだけだ。

「パスカルがしていたブレスレットを調べてほしい」

「私はプレゼントの品定めをしているわけではない。死にたいのか?」

「奴がしていたブレスレットはあんたの奥さんのお気に入りのブランドだ。そして、奴はクロトーネに逃げようとしていた。あんたの奥さんは今クロトーネにいるんだろ?」

 ステファノの拳が飛んできた。そのまま押し倒されて、馬乗りのまま、何度も殴られた。途切れそうになる意識の向こうで、クララとイレーネが泣き叫んでいた。

「妻を愚弄するな! お前がこの街で生きていられるのは誰のおかげだと思ってるんだ! 今すぐお前のタマを引っこ抜いて娘の目玉と一緒に玄関先にぶら下げてやってもいいんだぞ!」

 ステファノの拳をなんとか耐えると、彼は立ち上がって、俺の乱れた服を直し始めた。

「パスカルは女たらしだった。あんたの奥さんのせいじゃない」

 ステファノは歯を見せて不気味に笑った。

「死にたいのか? それとも妻と娘が引き裂かれるのを見たいのか?」

「違う。聞いてくれ。あんたの奥さんはなぜ誕生日パーティーの日取りをずらしたのか、考えなかったのか? 今日だけじゃない。今までだって、ちょっとしたすれ違いがあったはずだ」

 ステファノはじっと俺の顔を見つめていた。やがて、携帯電話を取り出してどこかに電話を掛ける。

「パスカルの遺留品を調べろ。……今すぐだ!」

 彼は鼻息荒くリビングをウロウロする。


 イレーネがずっと泣いている。ステファノが娘を睨みつけて顔を突き出した。

「静かにしてろ!」

 クララがイレーネの頭を抱きしめる。

「まだ子どもなのよ!」

 クララは強い女だ。それだけに、この街では綱を渡るような危うさがある。

 ステファノは電話の向こうに短く答えて、携帯電話を乱暴にしまった。イライラしたように靴音を鳴らして、整理するかのように俺に言葉を吐きかける。

「じゃあ、なにか? 妻とパスカルが繋がっているとでも言うのか?」

 俺は黙ったままステファノの視線を受け止めた。彼は「クソ!」と叫んで、さっきまで座っていた椅子を蹴り飛ばした。

「何もかも与えたってのに!」

 首の血管を浮き上がらせて絶叫するステファノにマルコが心配そうに声をかけた。

「スカヴォリーニさん、まずは落ち着いて情報を集めましょう」

「俺に指図するな! いつからお前は俺のボスになったんだ!?」

 大男のマルコが見るからに委縮して、

「申し訳ありません」

 と頭を下げる。ステファノは俺を指さした。

「連絡をするまで動くな」

 そう言って、男たちを引き連れて足早に出て行った。


 クララとイレーネが泣きながら俺に抱きついてくる。

「パパ!」

 顔をぐしょぐしょにしてイレーネが俺の血だらけの手を取った。俺の頭を抱きしめるクララの身体は震えていた。

「大丈夫だと言っただろ」

「もうこんなことはしないで」

 怪我の手当てを後回しにして、二人と一緒に荷物をまとめる。急いでガレージの車に乗り込んだ。


   ***


 通りの向こうからパスカルが戻ってきた。俺は必死に彼のもとに駆け寄って行く。

「パスカル、バッグが奪われた!」

 彼は血相を変えて、俺と共に家に駆け込んだ。家中をひっくり返して、パスカルはこの世の終わりみたいな顔で俺を見つめた。

「何があった?」

「知らない男たちが突然やって来てバッグを奪って行きやがった。クララとイレーネを守るのに必死で……」

 パスカルは舌打ちをした。

「ラッタリーノの連中かもしれない。奴ら、こっちのシマでよく見るようになったからな。しばらく身を隠せ」

 パスカルはそう言い残して出て行った。それが彼との最後の会話だった。

 家の奥からクララが顔を覗かせる。

「本当にこれでいいの?」

「パスカルが俺をこの腐った世界に引きずり込んだ。その報いは受けさせる」

 キッチンの戸棚の後ろに作った隠し部屋からバッグを引っ張り出す。

「二〇〇万だ。これでやり直せる」


 俺にはまだやるべきことが残されていた。

 あの男を地獄の淵に立たせる。

 この街に色を取り戻すには、あの男に思い知らせてやらなければならない。

 だが、いくら考えてもその方法がどうしても思いつかなかった。


 ドアがノックされた。午後十時だ。

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