第八章
第八章 1
調子崩したくせに『付いて行く』って聞かなかった俺のせいで、当初の予定よりも何日か遅れての出発になった。
機嫌のいい海を三日ばかし南下して、アビリス島に到着した。久々な感じだ。リオンと出会って以来だから四ヶ月ぶりくらいか。もうそんなに経っていたのかという気持ちと、まだその程度だったのかという気持ちが半々。
珊瑚礁に乗り上げない辺りで錨を下ろして、荷物と一緒に小舟に乗り換える。ディランと俺でオールを回してる間、リオンとアンドレーアは白い砂浜に囲まれた緑の小島に見惚れていた。遠目から見ている分にはいいものだ。淡いエメラルド色かジェードの色をした海の中で、鮮やかな珊瑚が腕を伸ばして、その間をこれまた色鮮やかな小魚が派手なヒレを動かしてうろつく。透き通りすぎた海水は、白砂の海底までの距離感を狂わせる。少なくともまだ十五フィートはあるだろうが、降りたら足がつきそうな感じがしちまう。
「荷物を置いたら、少し泳ぎに来てもいいかもしれないぞ」
ディランが気を利かせて、海に吸い込まれそうになってる二人に言った。
「私、泳げないので……」
「僕も」
そうしたら二人して答えるから、俺はちょっと悪いとは思いながらも笑っちまった。
「そもそも泳いだこと自体あるのか?」
「子供の頃、授業の一環で少し」
「僕はないかな」
嫌なら無理強いはしないでおこうと思うが、どうも二人共興味はありそうな雰囲気だ。
「浅瀬の中歩くだけでも気分いいかもしれねえぜ」
「そうですね……、じゃあ、少しだけ」
「なら僕も」
俺の提案に、二人はまあまあいい感触で乗ってきた。他ではなかなかお目に掛かれないだろう透明度の高い海の魅力には抗えなかったらしい。アンドレーアに関しては、あまり自由の利く身分じゃないだろうし、この機会を逃したら、次ってのはないかもしれない。荷解きが終わったら、ちょっと付き合ってやろう。潮が満ちてくるまで、まだ時間は十分ある。
「万が一、流されそうになっても安心しろよ。すぐ拾ってやるからさ」
「レナートは俺たちの中で一番泳げるもんな」
ディランが補足してくれたんで、俺はちょいと胸を張ってみた。自分で言うよりは説得力がありそうだ。俺たち三人のやることは決まった。どっちにしろ、今日は野営所を整えるだけだ。そういうのは手際のいいやつらに任せちまったほうが早い。俺だって決して不器用じゃねえけど、三年工兵訓練を受けたやつらには敵わない。俺もあと二年ちょっとしたら兵役になるが、どの部隊に配属されるかは分からねえ。
とりあえず荷運びはやらなきゃいけねえから、俺もいつもの野営場所にやってきたわけだが、そこでまた変な感覚に襲われた。十年の間に、野営所に続く道の灌木は切られて、
だが、もうそろそろこの急に環境が変わったような感覚にも慣れてきた。いちいち気にしてたって仕方ねえ。俺はテント張りを他のやつに任せて、荷物を置いたリオンとアンドレーアに声を掛けて、浜までの道を引き返した。
俺も昔はここで暇を潰したもんだっけ。島には七つになった頃にようやく連れてきてもらえたが、役には立たねえから野営所で勉強したり、泳ぎに来たりで、調査期間のひと月くらいを毎度過ごした。ウェリアにいたって暇だったが、こっちにいても暇だった。
岩場の窪みに取り残された海水と、魚と貝と海藻と、よく分からねえ虫みたいな生き物やらを、ブーツを脱いでズボンの裾を捲ったリオンとアンドレーアは興味深げに眺めてる。そこは小さな海だ。ガキの頃の俺は、その小さな海の中を観察するのが好きだった。
「この魚は何という種なんでしょう」
「知らねえ」
アンドレーアが青い鱗の小魚を指して呟いた。俺も何度か見かけてきたヤツだが、調べたことがねえから分からん。しばらくは小魚を眺めていたが、次は貝殻を被った節足動物のほうに気が向いたらしい。
「うわ……」
リオンが小さく呻いた。なにかと思ったら、半透明の細長い魚が、色白の足首に纏わり付くように泳いでる。
「なんだ、気持ち悪いのか?」
「いや、踏み潰しそうだったから」
「普段海の中泳ぎ回ってんだから、そんなに鈍くさくねえよ」
リオンは足を陽に温められた岩に上げた。そうしたら、半透明の魚はくるっと向きを変えて、小さな海の中心くらいまで一瞬で移動していった。
「ほらな」
それを指差したら、リオンは納得したみたいに頷いた。狭い場所にいたって、水の中ならこいつらは動ける。海の素人がこいつらの動きに追いつこうってのは、まあ至難の業だ。魚を追って生計立ててる人間だって苦労するんだから。
岩場で遊んでるやつらを横目にしながら、俺は空気に霞んで空との境目が曖昧な水平線を眺めた。古い珊瑚礁の道が、透き通った水の下を通って、どこまでも続いているように見える。大潮で水が引いていくと、あの道は海の上に現れる。死んでも尚硬い骨格を保ち続ける珊瑚の上を歩くのが、俺は好きだった。骸を土台にした別の生物を発見すると、妙に気分が高ぶって、帰り道が沈むのにも気づかずに眺めてしまったこともある。そんなとき、時間なんてものは些末に思えた。
「わあ!」
ぼんやりしていたら、アンドレーアの叫び声が聞こえたんで、驚いて目を向けた。足を滑らせて岩場から落ちたらしい。大した高さでもないし下が砂だったんで、怪我はしなくて済んだみたいだが、服がすっかり濡れて呆然としてる。
「藻で滑るから気をつけろって言っただろ」
「急に波が来たので、驚いてしまって」
言われてみれば、さっきより少し波が高くなってきたか? リオンの服にも飛沫の跡がついている。
しかしまあ、浅瀬とは言え海に落っこちたくせに、アンドレーアは楽しげだった。海は好きじゃないなんて言っていたのは、ついこの間のことだ。きっとこいつの海嫌いは、こいつ自身が海でなにか怖い思いをしたからじゃなくて、海で身内を失ったからなんだろう。母親はともかく、兄弟の方は生きてたって分かったし――当初は複雑な気分だったみたいだが、今はそうでもないようなんで――、少しは嫌な印象が和らいだのかもしれない。
「野営所の方に川があるから、あとで洗って乾かしとけよな」
海水で濡れたのをそのまま乾燥させると、着心地が悪くなる。そうやって忠告してやってるのを聞いているのかいないのか、アンドレーアは海水に浸ったまま、波が寄せて胸まで濡らすのも気にした様子なく、座り込んで遠くを見ている。しばらくそうして、顔に掛かった飛沫を拭った手をチロッと舐めた。
「涙よりからいんだ」
なんて、ボソッと呟くから、なんか可笑しくなっちまった。
「知らなかったのかよ」
「知識にはありましたよ」
からかい半分で言ったら、アンドレーアはちょっとばかしムッとした感じで答えた。まあ、頭の中で分かってても、実際に体験すると驚くことってのはあるわな。
岩の上に腰掛けて、脚だけ水の中に突っ込んでるリオンの隣に、俺は座った。渦巻く潮水に踊らされる海藻が脚にまとわりつくのを、何考えてるのか分からねえ顔して眺めている。
俺はせっかくだしひと泳ぎ行きてえところだけど、二人残して一人で海の中うろつくのもなんだか心地よくはなさそうだ。たまには眺めるだけってのもいいかと思って、日暮れ近くにいよいよ波が高くなってくるまで、三人でぼんやりしていた。
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