08●クイーンから聖母へ。ミランダの青春の物語。
08●クイーンから聖母へ。ミランダの青春の物語。
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さて、『ヴイナス戦記』をSFではなく、「青春グラフィティ」だと解釈するならば……
ヒロをはじめ登場するティーンエイジャーたちの心と行動に、「戦争」が大きな転機をもたらすことになります。
それは昭和の薫り高き、ベタだけどガチな青春群像。
それこそが、『ヴイナス戦記』の、他のSFアニメ作品の群を抜く、唯一無二の特色であり、素晴らしい価値であると思います。
登場する若者たちは、人間的に変貌します。
物語のスタートとラストで、特にヒロ、ミランダ、そしてスゥが、見事なまでの人格的成長を見せてくれます。
惜しむらくは、その“成長の軌跡”が簡単にわかるようには説明されていないこと。
『ヴイナス戦記』の脚本は極めて精緻で、登場人物の多い濃厚なストーリーを巧みに凝縮しています。物語りの時間であるおよそ二か月の間に、それぞれの登場人物の身の上に起こったそれぞれのドラマがあるはずなのですが、その多くが描かれぬまま省略されて、大河ドラマの総集編のように、二時間弱の上映時間に煮詰められているのです。
たとえば、雨でずぶ濡れのスタジアムの戦闘から、パッと太陽がギラつく荒野のハウンド部隊への場面転換とか。時間と空間を突然にヒョイと跳躍する場面が多く、観客は意表を突かれます。が、しばらく観ていたら各人のセリフで物語の前後関係がつながってくる……といった演出です。普通のアニメならナレーションやテロップで説明するところを、あくまでセリフでやる。そのプロセスの整合性は、もう見事としか言えません。
余分な場面は可能な限り省いて、セリフも要点のみに絞り上げ、あとは登場人物の仕草や表情といった“腹芸”で語られてゆきます。
そこはつまり、「観ることで察してくれ」と、観客に要求しているのです。
ですから、注意深く観察して、人物の表情や仕草に隠された本人の思いを推し量る……という、ある意味メンドクサイ“手間”が必要になるのです。
これも、『ヴイナス戦記』が当時の若者にヒットしなかった理由の一つでしょう。
劇場で一度観ただけでは、やはり随所が説明不足なのです。
かといって、一度観ればわかるような、単純な表現の物語は「子供だまし」と批判されかねず、リアリティを損ねますし、登場人物の魅力も損ねます。
今ここでセリフにして喋るのもいいけれど、グッとこらえて腹の中に収め、あとは黙って行動だけで示す。
そんな“腹芸”ができてこそ、人物像に独特の深みを与えられるのですから。
それだけに、一度観ただけではわからない。だから「繰り返し何度も観る」ことで、より味わいが深まるという、稀有な作品でもあります。
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そこで、ミランダです。
彼女は大きく変貌します。
物語の冒頭部分の彼女は、バイクレースのクイーンです。
その美貌と気っ風の良さで、チームに君臨しています。
気分は、女帝ですね。
プライドが高く、ガリー氏を面と向かって「おっさん」呼ばわりし、対等な関係を築いています。
男性メンバーも全員、ミランダに一目置いています。
ミランダが睨みつければ、たいていが従います。
だから彼女の発案ひとつで、スタジアムに居座ったタコ戦車に戦争を仕掛けるという、無謀な計画が実現してしまいました。
男まさりの高飛車娘、しかしその気迫は実力を伴っている。
そんな、迫力を秘めた偉丈夫のレディなのですが……
物語の中盤、ヒロとカーツの“峡谷の決闘”が終わり、イオ市への帰宅が許された時の彼女は、まるで別人です。
彼女は、戦場に残るヒロに呼びかけます。
「死ぬんじゃないよ! 帰っといでよ!」
ヒロ、ミランダに背を向けていますが、ハッと緊張して足を止めます。
本心から、驚いたのです。
ハウンド部隊に強制収容されてから、イライラ、ムスッと嫌味を振りまき、スゥに鉄拳を食らわせるなど、まるでミス閻魔様の如くにふるまっていた彼女が、今は優しい表情でヒロを気遣っている。
ヒロに多少は好意を寄せていたと思えますが、ただ「ヒロが好き」といった個人的な恋愛感情だけではないでしょう。
恋愛感情が
そうではない。
とすれば、ミランダの心境やいかに?
気になるところです。
私の個人的な見解ですが……
彼女は、“母性”に目覚めたのではないでしょうか。
バイクは好きだった、クイーンの座もハマリ役を自認していた。
自分はいわばアマゾネス、“戦う女”だった。
そして目の前に、ハウンド部隊のパワフルな戦闘バイクがあてがわれた。
さあ、乗りこなしてみろよ、と、試乗テストまで無理矢理にさせられた。
しかし、戦闘バイクは大嫌いになった。
戦闘バイクは男たちのセックスシンボル。それに
レースバイクは、自分に従ってくれる、よき愛馬だった。
しかし戦闘バイクは、逆に自分を隷従させる“男”の存在だった。自分は戦闘バイクに奉仕する部品のひとつ……それも、消耗品の一部にされてしまう。
しかも戦闘バイクは明らかに「人殺しをするための」バイクなのだ。
ミランダはもともと「女としての自分」に高いプライドを持っています。
ガリー氏のヤードで、一枚の仕切り越しに着替えるシーンで、ガリーが思わずチラ見してしまう下着なんかがそうですね。いいかげんな下着選びをしていない。レーシングスーツの下の自分は、まぎれもなく“美しい女”であることを主張しています。
(この点、チームメンバーにスカートの中を覗き見られて、ウブな感じの白い下着であることがバレてしまって怒るスゥと好対照をなしています)
ですから……
ハウンド部隊に同行するにつれて、ミランダは「女である自分」が否定され、血も涙もない冷酷な殺人機械に奉仕する性的奴隷に堕ちていく、そんな屈辱感にさいなまれるようになったのでしょう。
しかも、ハウンド部隊に協力した者の身の上に起こったことは、彼女のハウンド嫌いの感情を決定的なものにしたはずです。
戦争が、彼女のバイクチームの仲間を容赦なく奪っていく。
しかも、考えてみると……
もとはといえば、スタジアムのタコに戦争を吹っ掛けようと発案した自分にこそ、そもそもの責任があるのでは?
ミランダは決して薄っぺらな自己中オンナではなく、リーダーシップも正義感も責任感もしっかりと持ち合わせています。
だから、自分が許せなくなった。
ヒロがカーツに挑発されて、命がけとなる“峡谷の決闘”を受けたとき、ミランダは変わったのでしょう。
“この上、ハウンド部隊は私からヒロまで奪ってしまうの!?”
渓谷の決闘レースが終わった時、ミランダはもう、高飛車なレースクイーンではなくなっていました。
そのかわり、たぶん“母”であることを選択したのだと思います。
別れるヒロに向けた最後のセリフ。
「チームには、あんたがいないとダメなんだよ!」
これ、胸を締め付ける切ない言葉ですね、というのも、ガリー氏なき今、チームの再建は完全に不可能になってしまったからです。
ガリー氏はただのチームオーナーでなく、彼女たちにとって“育ての父親”に近い存在だったのですから。
ですからこの場合、ミランダがヒロに向けたセリフの「チーム」とは、バイクチームのことではありません。
チームだけど「家族」という意味なのです。
最後に残った、ちょっと頼りない男の子三人を連れて、これからガリー氏に代わって、ある意味“母親”となって、家族のように守ってやらなくては……という決意が含まれていたのではないでしょうか。
メンバーの三人の男の子がここにいなければ、ミランダはおそらく、ヒロとともにハウンド部隊に残ったことでしょう。
しかし、三人の男の子を見捨てることはできない。
それが、スタジアムの敵戦車に戦争を仕掛けた自分自身の責任。
だから、これからイオ市で家族のように暮らしを立てて、ヒロ、あんたの帰りを待っているからね!
そんな、切実な思いがほとばしるように思います。
ヒロに別れを告げる、このときのミランダの優しさと包容力に満ち溢れた表情……
それはレースクイーンのクールビューティではなく、むしろ“慈母”に近い面影ではなかったでしょうか。
もう、青春を燃やしたキラーコマンドゥズは戻らない。
そう悟って、クイーンの自分を捨て、“聖母”に変貌したミランダ。
それはまた、メンバーの悲劇の原因を作った彼女の、贖罪の肖像でもあります。
それが、『ヴイナス戦記』における、ミランダの青春の物語だったのです。
【次章へ続きます】
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