第12話 三嶋梨律(リッくん)とバレンタイン11

「……ぇ?きゃあっ!」


田中たなかくんに強く腕を引かれた痛みと、体勢が崩されて倒れる恐怖で喉から悲鳴が漏れる。

自分でも驚くくらい高い声が出た。


医務室は狭く、救急キットや臨時の飲水のみみずなどが置いてあるので、ベッドを除けば1じょう程のスペースしかない。

おまけに、間仕切まじきかべかこまれていて、外から中の様子は分からない。

そんなところで、あたしは今、男に床に押し倒されている。


腕を引かれて床に倒れる前に、腕をさらに引かれて、少しだけバウンドしながら仰向けに倒れた。

その真上に、床に膝をつきながら"覆い被さるように"、田中たなかくんが"いる"。


「痛ったぁ…………!」


引かれた腕が痛かったのと、後頭部をほんの少し小突かれたような感覚があった。

田中たなかくんの口角が少し上がり気味で、薄く笑っているような表情をしているように見えた。

頭を軽く打ち、胸の上に押さえつけるように乗られている。

心理的な恐怖が彼の表情をそう見せているのかもしれない。

目の前にせま田中たなかくんの口が言葉を発した。


「ずいぶん可愛らしい悲鳴でしたよ、三嶋みしま先輩」


あたしは思わず田中たなかくんの顔を睨みつける。

怖い。

だけど、ここで恐怖に表情を持っていかれれば、相手は何をするか分からない。

抵抗しないと。


「痛いんだけど、退いてくれない?」


「嫌、って言ったら?」


る!」


足を力いっぱい蹴り上げるも、田中たなかくんはあたしの上半身にだけ乗っている。

両腕に重しのように田中たなかくんの体重が乗っていて自由が効かない。

唯一自由な足を振り上げてバタバタと抵抗してみるも、足が届かないところに陣取じんどられていて為す術が無い。


「届かないっす」


うっすらと笑いのこもった声と表情が幻覚ではないことがハッキリした。


「先輩がお礼を今すぐくれれば、俺は戻るっすよ?」


この状況に怒りを覚える。


「この状況で何をしろって言うわけ?ねえ?」


怒りが隠しようもなく、声にも表情にもにじみ出ているだろう。


「怒った顔も素敵っすよ、先輩」


「……!?」


ゾワッと悪寒が背中を駆け抜ける。

目を細める田中たなかくんの表情に、強い恐怖を覚えはじめた。


「俺、先輩のことずっとずっと"ありよりのあり"って言ってきたんですけど、いつになっても先輩は俺を教え子としか見てくれないんすよね……。


だから、俺が男で、先輩が女だってこと、もっと教え込んだ方がいいと思ってたんすよ」


「は?何言ってるの?

あたしは最初から女なんだけど!」


「じゃあ、先輩から見て、俺ってイケメンじゃないんすか?」


「あ!?今関係ないよね、それ?

田中たなかくんの顔がイケメンなのは知ってるけど、だから何!?」


「だったら、俺のものになりたくないっすか?」


「その理論、よくわかんないんだけど?


あたしは田中たなかくんがイケメンでも、田中たなかくんの"もの"になりたいとか一度も思ったことないし!

あんた、女をなんだと思ってんの!?」


「なんで俺じゃダメなんすか?

やっぱり先輩は女同士がいいんすか?」


田中たなかくんが、ベッドに横たわる花束ふらわーちゃんをチラッと気にした様子を見せる。

だけど、そういうことじゃない。

この"顔が良い男"は、さぞモテて来たんだろう。

けど、女性みんながみんな顔が良いだけの男を好きになると思い上がっているのなら、大間違いだ。

顔が良いというのはモテる特徴のひとつだが、パートナーにしたいと思うかは、その先に自分と相手との関係性をどう見いだせるかにかかっている。


「少なくとも、あたしはあたしを、あたしとして見てくれる人じゃないと、付き合ったりする気はない!


人の気持ちを踏みにじるあんたなんかとは、一生"なしよりのなし"だから!」


この男からは、あたしのことを"落としたい"という欲望は見えるけど、あたしのことを想い、大切にしたいといった"心"は全く見えてこない。

そんなやつになんと言われて口説かれたとしても、あたしは好きになることはできそうもない。

しかも、口説くのが上手い訳でもない。

"ありよりのあり"なんて言う曖昧なぼかしを口説き文句として使っているのなら、言葉選びから相手に合わせることができない幼稚なものだ。

女としては、日々辛い状況や体調を乗り越えて、努力して美容や健康のために時間もお金も心も費やしている。

だから、毎日褒めて欲しいし、頑張っていることを認めて欲しい。気遣って欲しい。

タイミングや表現方法は頑張って工夫してもらう必要があるけど、顔が良くなくても、チャンスが全くないなんてことはない。

本来人間なら誰にでもできる、ある意味当たり前なことを女は求めている。

少なくとも、目の前の顔が良い男がしている致命的なミスは避けてほしい。

とにかく、女は自分を1人の人間として丁重な扱いをして欲しいと思っている。

そこで他の人にも同じように言っている言葉を使ってしまうようであれば、自分を認めてくれたのではなく、女という存在やその言葉で褒めた"もの"を単に肯定しただけで、丁重な扱いとは言えないのだ。

もちろん、人は顔の造形自体に恋をしたり、優しくされたり、匂わされることに慣れていない子たちもいる。

そういう子を、本当に嫌な言い方になるが、"引っ掛ける"という"遊び"としてやっていることであれば、あたしはそういうのは求めていないから、他所よそでやって欲しい。

しかも、こんな風な乱暴なやり方は、とりわけ嫌悪感しかない。

他人を人としてではなく、遊び道具や何かと勘違いしている。


これまでは田中たなかくんはあたしが教えた後輩、教え子として可能な限り面倒を見てきたつもりだ。

こみちゃんと田中たなかくんの2人だけになった教え子なので、他の後輩社員達よりも贔屓ひいきになることもあったかもしれない。

あたしとしては、お互いに良い信頼関係を築こうと努力してきたつもりだ。

あたしの人生の中で、最も積極的に関わってきた男性の1人だと思う。

父の次に長く過ごした男性かもしれない。

半年ほどみっちり、毎日のように顔を合わせていたのだ。

なのに、こんなことをしてきたのだから、これまでの関係は全て白紙に戻させてもらう。

今後は一切この男に関わりたくないとすら思った。

だから、次に出る行動としては、もうこれしかない。


「ぎゃあああああああああああああああ!!

助けてえええええええ!!

襲われたああああああ!!

田中たなかのセクハラああああああああ!!

ぎいゃあああああああああああああああ!!!」


手も、足も出ない時は、ありったけの大声を出すしかない。

普段からプレゼンや会社同士の会合で大きな声を出すのには慣れている。

高い声を出すのは苦手だけど、声量だけなら下手したらオフィスの方まで届く自信がある。

もう彼の外聞をあたしが守る義理もないのだから、彼がやっていることを阻止するには、もうこれしかない。


あたしの大声に一瞬怯んだ田中たなかは、すぐに口を塞ごうと手を伸ばしてきた。


「ああああああ!!っむぐああ!?がぶっ!」


「やめろ!このっ!うぎあがいてえっ!!?」


田中たなかはあたしの上半身を封じるのに片腕を使っているから、片手しか自由に使えないらしい。

口を塞ごうとしてくる手を首を振ってズラし、その手に噛み付いて歯を突き立てた。

仰け反る田中たなか、やっと自由になれた。


「このやろっ!」


あたしは立ち上がろうとしたけど、今度は田中たなかの反撃に会い、足を引っ掛けられてベッドに倒れ込んだ。


「大人しくしてれば傷つけずに済んだのに、先輩が悪いんすよ」


背後にいる田中たなかから、不穏なセリフが聞こえたが、あたしはベッドに胸を打ち付けて、田中たなかの次の行動に対応することができなかった。

やばいやばいやばい!!

あたしの頭の中に警鐘が鳴り響く。


次の瞬間、視界が真っ白になった。

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