第8話 三嶋梨律(リッくん)とバレンタイン7

梨律りつ、ちょっとこっちに」


「ああ、來美くみ

ちょうどいいところに」


キュレールの波柴はしばさんをお見送りしてから、濡れたスーツをどうしようかと思いながらオフィスへと戻る途中、廊下で來美くみが待ちうけていた。


「キュレールのお嬢様のお見送りは終わったのね。

ところで、さっきのは何?

いや、待って……あんた、どうしたのその格好!?」


「あはははは…………。

ちょっと泣かれてしまいまして……ははは……」


「あんたといい、キュレールといい……海斗かいとといい…………。

今日はどうしてそんなに私を悩ませることばかりなのかしら……」


來美くみも元気ない?

あたしの胸貸そうか?」


手を広げて歓迎の意を示す。


「嫌よ。

というか、あんたのそのグチョ濡れの胸に飛び込む奴なんているわけないでしょ!」


「あはははは……だよねぇ…………。

どうしよ、これ……着替えとか用意してないよ……。

次の会合……ほんとどうしよ……」


「それよ!

あんたがあまりにもキュレールのお嬢様にかまけてるから!

代わりに海斗かいとが対応しているわ」


畠山はたけやま部長が!?

でも、スケジュール埋まってたはずじゃ!?」


「アイツならできるのよ、それが……。

でも、そのせいで私との食事はキャンセルかしらね…………」


「……ごめん、來美くみ……」


「その様子じゃ」


來美くみの視線があたしの目元をじっくりと見つめる。

そして思案気に指を自身の細い顎にあてながら……。


「あんたも泣いてたんでしょ?

メイクが少し崩れてるし、目の下が腫れてるわよ。

瞳も充血してる……。


一体あのお嬢様に何を言われたの?

あんたが泣いてるところなんて見たことないわ…………。


愚痴があるならあんたも今のうちに吐き出しちゃいなさい。

今なら少しだけ、この優しいお姉さんが聞いたげる」


來美くみって本当にこういう時、神対応だよね。


「いやー……それがね……」


「ん?なにかしら?」


あたしが口を開きかけた時、來美くみがあたしの後ろに視線を送り、首を傾げた。


「あ、あの!」


「ごめんね、宮下さん。

三嶋みしまさんは今、ちょっと大変な状況だから、もう少し待ってあげてもらえるかしら?

あとで、オフィスに戻る時なら大丈夫だから、ほんとにごめんね」


「あっ、花束ふらわーちゃん?

本当にごめん!今はちょっと……。

後でお話聞かせてね?楽しみにしてる!」


首だけを後ろに向けて、このびしょ濡れのスーツはなるべく見せないようにして、後輩の宮下花束みやした ふらわーちゃんに手を振る。

來美くみ花束ふらわーちゃんの肩をぐるっと回して、オフィスに向かって引き返させてくれた。

一瞬だけ花束ふらわーちゃんの悲しげな横顔が見えた。

後でフォローしてあげないと……ごめんよ、花束ふらわーちゃん。


「ちょっとここで話してるわけにも行かなそうね。

うちのビルの地下にジムができたの知ってる?

そこでシャワー浴びてらっしゃい」


「え?あたし会員じゃないし、着替えもないよ?」


控え室に入って、來美くみが自分のロッカーで何かを取り出そうとしてる。


「あたしの着替えを貸してあげる。

スーツじゃないけど、その格好のままよりは、きっとマシよ」


來美くみの視線があたしの胸元に吸い寄せられる。

確かに下着にも染みてきてる。


「へぇー。

來美くみってジムとか行くんだ。

けっこう意外」


海斗かいとの付き添いみたいなので軽くね」


「ああ、それなら納得」


「はい、これ。

一応運動用のウェアも入ってるわ。

気分転換に少し走ってきてもいいわよ。


スーツなしじゃ……どのみち会合は無理でしょうからね」


「なにから何まで本当に感謝しかないよ、來美くみ


感謝の印にまたほっぺにキスを。


「やめなさいっ」


「んぶっ」


あたしの唇は來美くみの手のひらにはばまれてほっぺに到達することはできなかった。


「私はあんたと海斗かいとの後始末で忙しいの。

このカードのメンバー紹介で来たって言えば、初回登録料金は割引で無料になるから使って」


來美くみの名前入りのご紹介カードを渡された。

こんな形でジムデビューをするとは思わなかった。

しかし、確かに気分転換もかねて走るのは良いかもしれない。


「ありがとう。

お言葉に甘えて、少しだけ走ってこようかと思う」


着替えと紹介カードを來美くみから受け取った。

この紹介カードで來美くみにも何か還元されるものがあるなら喜んで使わせてもらおう。


「ええ、そうしなさい。

今日は色々あったでしょうから、その方がきっといいわ」


來美くみにお礼を考えておかないと、波柴はしばさんのこともまだ整理がついてないし、なんというか、本当に今日は來美くみに助けられっぱなしだ。

あたしの中で來美くみが会社の友達からスーパーヒーローに格上げされた。

あたしのピンチを1日に4回も救ってくれた。



エレベーターに乗り、押したことのなかった【B2F】のボタンを押す。

フロアの数字が下がって行き、地上階を通り過ぎて、B2Fに到着した。

エレベーターの扉が開いた。

B2Fにはこのジムしかない。

エレベーターのすぐ近くにジムのフロントがあった。

本当に一度も立ち入ったことが無かったのだが、清潔感があってきっちり消毒もされているようで、独特のにおいがした。

受付の人も鍛えていそうなお兄さんで、にこやかに、そしてさわやかに対応してくれた。

ハキハキとした声も好印象だ。

ジムの入会手続きはすぐに終わったが、これからトレーナーによる施設内の説明があるらしい。

入会手続きと同時に一応、Tシャツを1枚購入して、受付のお兄さんから受け取る。


少し待っていると、すぐにスタッフのお姉さんが横のスタッフオンリーの扉から出てきた。

ムキムキというかきたかれた肉体のお姉さんが案内してくれるようだ。

着替える場所やトレーニングルーム、シャワー室など、一通りの案内があるんだ。

イメージ的に、勝手に把握はあくして勝手に使うものだと思っていたので、敷居しきいが高いものと感じていたけれど、丁寧に案内してくれるのは助かる。

今どきのジムってすごい。

入会特典でジムのロゴ入りタオルと給水ボトル、それから動きやすい館内用のシューズをくれた。

靴をもらったシューズに履き替えてから館内を案内が始まった。


やはりトレーナーのお姉さんも声にハリがあってハキハキとしていて聞き取りやすい。

適切に筋肉をきたえることによって肺も呼吸も強くなり、発声にも良い影響があるのだと教えてくれた。

他にも筋肉がつくと自然と自信がつちかわれて、声にも自信がにじみ出てくるんだそうな。

あたしは仕事柄しごとがら、対面でお話をしたり、聞いたりすることが多いから、発声が良くなることは仕事にもアドバンテージがあるだろう。

そういえば、ここに通っているという畠山はたけやま部長の声はハキハキしていて、声のとおりもいい。

何しろオフィス内の全員に届くのだ。

普段からジムがよいしている成果せいか発揮はっきされているのだろうと思う。

対面商談たいめんしょうだんのプロは、こういうところでも自身の向上をかかせないのかと、改めて畠山はたけやま部長のすごさを実感した。


館内の着替え部屋は一人一人が使える個室になっていて、内側から鍵もかけられる。

シャワー室も広くて使いやすそう。

新しくできたジムだからか、あたしが想像していたよりずっと綺麗で、女性にもかよいやすそうな洗練せんれんされた空間がウリのようだ。

トレーナーも指名制で男女共に複数人ふくすうにん所属しょぞくしているようだ。

それぞれに得意なトレーニングメニューがあるのだとか。

会社と同じビル内にあるという好立地こうりっちもあるとは思うが、さすがは來美くみ畠山はたけやま部長が通い続けているだけはある。


ちなみに今日案内してくれているトレーナーの藤原ふじわらさんはボディビル大会に受賞したこともあるらしい。

体作りのプロってすごいなぁと思って不躾にも身体中を眺めてしまった。

藤原ふじわらさんいわく、ボディビルは見せるための筋肉を活性化(?)させる競技(?)らしく、見つめられた方がやる気が出て良いとのこと。

あたしとは生きてる次元が違うのかもしれない。

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