第2話 帰宅

 鍵を開ける音が最小限で済むように、そーっと玄関の鍵を開けた。

 私はゆっくりと扉を開ける。


 「お帰り」

と言われ、声の主を見て驚いた。

 ?!?! えっ?!?!

 「ただいま。どしたん?」

 近所に住む母親が目の前にいる。

何故? こんな真夜中に???


 いつも、ベッドで携帯をいじっている娘が、今日は座って泣いている。

 (何?? 喧嘩でもした? 仕事で何かあった? それとも? 何何??)

 私の頭の中は一瞬で色々な答えを探してフル回転している。


「早く手を洗って、座って!」

 泣きながら、でもハッキリと娘は私に向かって言った。



 言われるがままに、玄関に鞄を置いて手を洗って椅子に座る。

「あれ? 勇二は?」

「あっちにおる」

 ぶっきらぼうに娘は言った。

「どしたん? お母ちゃんまで……」

 訳もわからないが、ただならぬ空気だ。


「話がある」

 娘の表情は硬く、頬は涙で濡れている。

「何??」

 私の心臓は凄い勢いで動いている。

「あの人(勇二)が、私の体触ってくるねん!! 嫌だと言っても辞めてくれない…… もう嫌だ!!!」

「……えっ!!! はぁーーーー??」


 しばらくは奥の部屋で小さくなって座り込んでいた勇二がやって来た。

「本当にごめんなさい」

 勇二は頭を下げて謝った。


 そんなもん、謝って済む問題じゃない!

(ドドドドドドドドドドドド!!!!!)

 私は心の中では銃を乱射している!

「いつから?」

「最初は中学2年になった頃だった……」

 娘の告白に私は言葉を失った。


 私達が結婚して、島へ引っ越しをして。

 一緒に生活を始めたのは、娘は中学生になってからだ。

 島での生活は約一年程だったはずだ。

 その1年後から? 結婚して2年でそんな事する?

 いつだ? 中学2年のいつだ?

 いや、そもそもそんな事をする???


 えっ? はぁ? えっ?


 ちょっと、どういう事だ?


 えっ?夢?イヤ、違う………


 私の頭の中は混乱していた。

 言葉もすぐには見つからなかった。


 勇二はか細い声で言った。

「ごめんなさい」



「ごめんなさいでは済まないから!お母さんとも離婚してもらうから!」

 珍しく娘はきつく、ハッキリと言葉にした。


 とにかく訳がわからないが、大事な娘は傷つけられたのだ。

 それも、自分の夫によって。



 しかも、娘はそれからも我慢して一緒に住んでいたのかと思うと胸が痛くなった。

 何年もの間、娘は苦しんでいたのだろう。

 何年もの間、私は夫に裏切られていた。



 娘はまず、私の母親に相談をしたようだ。

 そして、この日は娘と夫がふたりでいるのが辛いと母親に助けを求めた。



「結、これからどうする?」

「警察に話をしたい」

「わかった」

 私はもう何もしてあげられない。

 傷つけられた娘の気持ちを、とにかく何とかしないといけない。

 私は玄関に置き去りになっていた鞄の中から携帯電話を取り出して、警察に電話をかけた。

 勇二はうなだれたまま立ち尽くしていた。

 もう、私の夫ではない、ただの変態野郎にしか見えなくなった。

 (プツン)と音を立てて、私達の家族の糸は切れた。




 電話はすぐにつながった。

「警察です。事件ですか?事故ですか?」

と聞かれてとまどった。

「家庭内での事なのですが、旦那が娘の体を触っていました」

 電話の向こうからすぐに反応が返ってきた。

「ご主人が娘さんの体を触っていたというので間違いないですか?」

「はい」

 私は不思議と取り乱す事なく答えた。

「今もう警察が向かっていますが、娘さんは大丈夫ですか?」

と聞かれた。

「今は大丈夫ですが、出来れば女性の警察官の方をお願いいたします」

 こんな時の私は自分で言うのも何だが、素早く機転がきくほうだ。

「制服と私服とどちらがいいですか?」

 (ほー、なるほど!)

 娘に確認して返事をした。

「どちらでも構いません。サイレンは鳴らさずに来ていただきたいです」

「承知しました。ご主人が暴れていたりはしませんか?」

 警察官に確認をされる。

「大丈夫です」

「もうすぐ到着しますので、お待ちくださいね」

「はい、お願いいたします」

と、私は電話を切った。




 パトカーは家の近所でサイレンを止めて走ってきたのだろう。

 電話を切って、携帯をテーブルに置いてすぐに、玄関のチャイムが鳴った。

 ドアを開けるとまずは男性の警察官が数名家に入ってきた。

「お電話頂いた奥さんですか?」

と訪ねられる。

「はい、そうです」

 警察官が

「ちょっと入らせてもらいます!」

と声をかけて上がり、そこからは何人もの警察官が家に入ってきた。

「ご主人?」

と勇二を確認して奥の部屋へ連れて行かれた。


 それに続くように、すぐに女性の警察官がふたり入ってきて、猫を抱いたままの娘を連れて娘の部屋に入っていった。



 玄関からまた、数人警察官が入ってくる。

 警察官の持っている無線の音が家の中と外で騒がしく聞こえる。



(サイレン消してもらったけど、意味なかったな。ご近所には何かが起きたことが伝わってしまったであろう……仕方ない……)

 私は娘を守るために静かに進めたかったのだが、そう簡単な事ではなかった。



 どれくらい経ったかは覚えていない。

 警察官のひとりが私に言った。

「これから警察で詳しくお話を聞かせて頂くことになります。お母さんも一緒に少しお話を聞かせて貰いたいので、警察署まで来て頂けますか?

車で移動できます?娘さんをパトカーに乗せるのはねぇ……」

 警察官の優しさに人生で初めて触れた瞬間だった。

「私が車で連れて行きます。運転もできるし、車もありますので」

 私は自分でも驚くほどに冷静だった。


 玄関にはたくさんの靴が並べられている。

 たくさんの警察官のものだ。

 その隙間に私は靴を置いて履き、娘も私に続いて出てきた。


 そのまま娘と二人で車に乗り込み、エンジンをかける。車内にはとても静かで冷たい空気が一気に入り込んだ。


 何も言葉を発しない娘を乗せて警察へ向かった。

 私は車を走らせながら娘に謝った。

「ごめんね。結がそんなに長い間辛い思いをしてたなんて、何にも知らなかった」


 そんな言葉で娘の傷は癒されることはない。

 いくら母親でも、簡単には許せなかったのだろう。

 娘にもちょうどいい言葉が見つからなかったのかもしれない。

 返事もないまま、何の会話もなく15分くらいで警察についた。



 勇二は、家で逮捕されたのだろうか。

 それから会う事もなく、私は廊下で娘の事情聴取ってやつが終わるのをひたすら待っていた。

 その間に、私も少し警察官から話を聞かれた。内容はほとんど覚えていない。

 多分、気分的には嫌な質問ばかりだった。


 気がつくと外は明るくなり、朝日が廊下に射し込んできていた。

 みんなが仕事をそれぞれ持っている。

 今日は仕事にいけるのだろうか。

 娘は大丈夫だろうか……



 その時は訳もわからないまま時間だけが過ぎていた。

 イロイロな事が崩壊していく事の苦しみや痛みを想像すらできずに。

 一睡もしないまま朝を迎えた。



 私は被害者の母親となり、犯罪者の妻となってしまった。

 そして、この日からとてつも長く、とても苦しい闘いが始まる事を、この時の私はまだ知らなかった。

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