第3話

 保健室への逃げ癖がつくと、彼と顔を合わせる回数も同じように増えていった。


「学校には来ていないのかと思ってた」

「家にいても暇だし、他に行くようなとこもないし」


出席数も一応稼いでおきたい、と窓際に置かれた丸テーブルの向かいで彼は言う。頬杖をつくその姿は、とても退屈そうで、少し眠そうだった。


 カレンダーを見ればまだ五月で、それなのに外は夏の陽気を感じる。開けられた窓から通る風が心地いい。


 「あー、涼しい」


これくらいがいい、と彼は目を細める。その姿が、猫が風の匂いを嗅ぐ姿によく似ていておかしかった。


 「その中のやつ、脱げばいいのに」


 既定の学ランは着ていないけれど、半袖のカッターシャツの下から黒の長袖Tシャツが覗いている。


「半袖のほうが涼しいよ」

「やだ、脱げばいいなんて、吉岡、大胆なんだから」


にやりと彼の口角が上がる。両手で自分の体を抱きしめるような仕草をした彼に、自分の顔に熱が集まるのが分かった。そういう意味じゃない、と返した声も思わず大きくなる。彼はそれにケタケタとお腹を抱えて笑うから、からかわないでほしいと眉を寄せた。


 この頃から、彼は私を「吉岡」と呼び、私も「今野」と呼ぶようになった。今野がどういう理由で私を呼び捨てにしたのかは知らないけれど、今野からは「今野くんって呼ばれ慣れてなさすぎて、ムズムズする」と言われて呼び捨てにするようになった。仲良しね、と私たちを見て言うスミちゃんに、今野が「俺らマブダチだからさ」と返す。冗談っぽく言われた言葉だったけれど、なぜだかそれが嬉しかった。


 保健室で向かい合って、今野とお昼ご飯を一緒に食べることもあった。

そういう日、今野はいつもお弁当を持ってきていた。紺色で長方形のお弁当箱の中には、いつも綺麗におかずが詰められている。


「お母さん、お料理上手だね」

「誰の母さん?」

「今野の」


 そう返すと、今野は自分のお弁当箱に視線を落とした。

 冷凍食品と手間を掛けて調理されたと分かるものがバランスよく入っている。それは、昔、私のお母さんが私に作ってくれたものとよく似ていたから、このお弁当も、彼のお母さんが作ったものだと思った。


 今野が私へと視線を戻して、「違う、違う」と左手を顔の前で振った。


「この弁当作ったの、俺」

「今野なの?」


今野は「そう」と短く言って頷く。箸で挟んだ黄色い卵焼きをもぐもぐと頬張る。それを飲み込んで、一息を付かぬまま、


「俺、母さんいないから」


と、次のおかずへと箸を伸ばしながら言った。なんてこともないような、口調だった。「そう」とだけ返して、それ以上の言葉に詰まる。苦し紛れで出た言葉は、


「私も」


というもので、今野と目を合わせることは出来なかった。


「知ってる」


今野はまた、なんてこともないような口調でそう言った。「そっか」と私が頷いてそれきり、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、私たちは言葉を交わさなかった。おじいちゃんが詰めてくれたお弁当の味は、途中から覚えていない。



 その日の放課後のことだ。


 町にある唯一のコンビニ。家へ帰るには少し遠回りになるけれど、どこかに寄り道をしたくて初めて足を向けた。


 少し重い扉を引いて中に入れば、既に冷房が効いていて、ひんやりとした空気が私を包む。「いらっしゃいませ」という、中年の男性のボソボソっとした小さな声が、店の奥のおにぎりコーナーのほうから聞こえてきた。


 何か目的のものがある訳でもない。雑誌が置かれた棚を適当に流し見をしながら、店内をぐるっと回る。小さなお菓子でも買おうか、と適当なスナック菓子を手に取った。


 「最悪。お金足りないんだけど」


歯切れの良い、鋭く可愛らしい声が店内に響く。レジのほうへ顔を向ければ、一人の女の子が鞄の中をごそごそと慌てた様子で漁っていた。


 白い袖に紺色の襟のセーラー服。襟と同じ色のスカートは膝より短い。腰まである長い髪はゆるゆると巻かれ、毛先が薄い紫色に染められていた。


 「百円だけまけてくれない?」

「それはできないですよ」

「ケチ」


店員に対しそう吐き出して、唇を可愛らしく尖らせたその子が振り返る。目が合って、一瞬戸惑ってしまって、目を逸らすのも失礼かと口元を少し緩めた。きっとうまく笑えず、ひきつっているだろう。


「お金、貸しましょうか?」


気まずさから私は何を口走ってしまったのだろう。でも、どうにも放っておく訳にもいかなくてそう言ってしまった。


 彼女はそう言った初対面の私に、予想していたような怪訝な表情を浮かべること一つせず、むしろパッと表情を明るくさせて、「いいの? お願い」と両手を可愛らしく顔の前で合わせるのだった。


 彼女の不足分を払い、自分の買い物も済ませ、一緒に店を出る。

 

「本当にありがとう! お姉さんがいなかったら大変なことになってたよ」


 満面の笑みには幼さが見える。

 いえいえ、と首を横に振った。


 「家に帰ったらすぐにお金返せるだけど、この後用事があって少し急いでるんだ」


 お金返すの、今度で良い? と今度は申し訳なさそうに眉を下げる。


「いいよ、百円くらいだし」

「ダメ、ダメ。そういうの良くないよ。私が気持ち悪いから、絶対返す。ライン教えてくれる? スマホあるよね」


 でも、とまだ口籠る私に彼女は少し怒ったような目を向ける。渋々、鞄からスマホを出せば、彼女はようやっと表情をまた明るくしてくれた。


 「……。どこの学校なの?」

「え?」

「いや、見慣れない制服だから」

「あれ、お姉さん、ここの人じゃないの? 私、そこの中学に通ってる」


彼女が指を差したほうを見れば、古い校舎が見える。


「引っ越ししてきたばかりだから」

「そうなんだ」


引っ越ししてきたばかり、とは言ってももう一月以上は経っている。この町の中学校ならば、きっと登下校で見かけている制服のはずだ。気付いていない自分が少しだけ恥ずかしかった。


 「大人っぽいから、よその高校の子なのかなって思っちゃった」

「本当? ありがとう。私、早く大人になりたいんだ」


 私のスマホの下に滑り込ませるようにスマホを持っていた彼女が嬉しそうに声を弾ませる。こちらのスマホの画面の表示が変わるのと同じタイミングで、彼女は「あ、」と少し体を跳ねさせた。


「ごめん、そろそろ行かないと。またすぐ連絡するから」


じゃあね、とまるで友達のように手を振り彼女は去っていく。嵐のような子だった、と思いながら、その勢いには可愛さがあって、どこか微笑ましかった。何か確信があるわけでも何でもないが、この町の人とはまたちょっと違う雰囲気を彼女は身に纏っていたように思う。


 メッセージアプリに『ココロ』と表示された名前。その下にある『追加』ボタンをタップする。初期設定のままの白い人型をしたアイコンは、何だか彼女らしくなく意外だと思った。

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