第15話

「お疲れ様です、営業本部の女神です」

「総務部の市橋いちはしです」


 事業所の守衛にIDカードを見せて入構する。つくば事業所は、工場が併設されているのもあって広大な敷地を誇る事業所だ。毎年、桜の時期に合わせて社員とその家族に事業所が解放されるのだけれど、来たのは初めて。

 今日はふたりとも、お祭りだからとパンツスタイルだ。友香は黒のタートルネックカットソーに黒のワイドパンツ、細ベルトの赤がぴりっと効いている。わたしはフューシャピンクの薄手ニットに細身ジーンズ。


「本社からの参加ですか。お疲れ様です。今日は楽しんでください」


 つくば事業所はすでに、事業所勤務の社員とその家族で大賑わいだった。

 事務所の建物は五階建ての北棟と南棟に分かれており、渡り廊下で繋がっている。渡り廊下と交差する道は奥のグラウンドへと続いており、隣には体育館まで建てられている。福利厚生もばっちりのようだ。

 今日はそのあちらこちらに屋台が並び、家族連れで賑わっている。グラウンドにはステージも設置されているらしい。とことんお祭り騒ぎだ。今日は「社員と家族への感謝の日」らしく破格の値段で飲食可能だという。

 譲くんには着いたとメッセージを入れておいたけれど、この盛況ぶりでは譲くんを見つけるのは難しそう。


「あっちでビール配ってるって! せっかくの休日だし、飲んじゃお」

「わたしも! お疲れ様でーす!」


 屋台の前でプラカップにビールを注いで配る女性に明るく挨拶して、わたしは黄金の一杯を手にした。唇に泡をつけて勢いよく喉に滑るビールのなんとおいしいことか。

 至福の一杯に気をよくしたわたしは、ビールを配る女性に見覚えがあることに気づいた。

 いやでも、どこで見たんだっけ?

 喉元まで出かかっているのに、答えが出てこない。来場客に次々とビールを勧める女性をじっと眺めて考えていると、足音が近づいてきた。


「さっそくビールって。いつ見てもいい飲みっぷり」

 呆れを含んだ笑いに、わたしは口元に泡をつけたままふり向いた。

「譲く――」

 わたしが声をかけ終える前に、鈴を転がすような声が譲くんを呼んだ。

「譲! 今日なら話ができると思って探してたんだよ」

「み……伊吹いぶきさん」


 伊吹さんと呼ばれた女性が譲くんに駆け寄る。ビールを配っていた女性だ。そして、彼女の声を聞いて、パズルのピースがぴたりとはまった。


「間瀬さんの彼女……」


 靴を買いにいったデパートでちらっと見た、彼女だ。間違いない。姿こそ一瞬しか見てないけれど、この甘い声はデパートで耳にしたものとおなじだった。

 友香がぎょっとしたけれど、さいわい譲くんたちには聞こえなかったみたい。

 同時に、わたしはもうひとつ気づいてしまった。譲くんがかすかに体を強張らせている。このふたりはきっと……。


「こんにちは、営業の女神です! 女の神様で女神と書きますが、残念ながらご利益はありません。さっきはビールをありがとうございます! そしていつも設計の皆さんにはお世話になってまーす!」

 微妙にぴりっと張りつめた空気を破るべく、わたしはことさら明るい声で伊吹さんに挨拶する。友香もノってくれた。

「総務の市橋でーす! 苑田さんには直央がお世話になってまーす。どもー」

 わっ、友香が先制のジャブを放った。

 伊吹さんがわずかに顔を歪めたのをわたしは見逃さなかった。ああ、やっぱり。

「ああ、営業の。なんだ、お世話って職場でってことですよね。譲の新しい彼女さんかと思っちゃった」

「いえいえ、違――」

「姉の結婚式の件で手伝ってもらってる。それだけだから」


 わたしが否定するのに被せて、譲くんが否定する。胸の奥にすうっと隙間風が吹きこんだ。ん? なんでだろ。


「そっか、なあんだ。お手伝いさんなんだ。譲のお姉さん、結婚するの? 私に言ってくれればよかったのに」


 間瀬さんと付き合っているのに、伊吹さんはわたしがただの手伝いと知って花のほころぶような顔をした。


「女神さんも市橋さんも、せっかくだから楽しんでいって。伊吹さん、俺も話があった。ちょっといい?」

「これまでどおり、実乃梨でいいのに。でもちょうどよかった、譲、一緒に回ろ? ……女神さんたち、楽しんでくださいね。ひとつだけ注意ですけど、この事業所はヒール禁止ですから、次からは気をつけてくださいね」


 譲くんがうながすと伊吹さんは潤んだ目で背を向ける。あっというまにふたりは並んで行ってしまった。


 友香がわたしの肩を揺さぶった。目が怖い。

「……直央、苑田取ろう」

「え、なに急に。さっきは手を引けって言わなかった?」

「さっきはさっき。今は今。お手伝いさんって、なにあの言いかた。明らかに馬鹿にされたわよ、あれ。苑田の元カノなんだよね? ってことは……」

 友香の言わんとすることをわたしは正確に察した。

「うん、そうだと思う。この前、間瀬さんとデートしてるところを見ちゃったんだよね。はは。わたしって相変わらず運が悪い」


 伊吹さんは譲くんが間瀬さんに取られたという、元カノだ。

 はあ、とため息が漏れる。

 

「直央のこと品定めしてたよね。あれ、まだ苑田に未練たらたらじゃん。あっちは直央が間瀬さんと付き合ってたのを知ってんの?」

「どうかな、間瀬さんから聞いてる可能性はあるかも」

「あのクズなら、平気で今カノに元カノの話してそうよね」

「元カノというか、わたしと伊吹さんと、並行してお付き合いが進んでいたかもなわけで……」

「はー、だから上から目線か。最後にあんな棘を刺してくんのも性格わるっ。苑田もあんなのと別れて正解だって。よし、ヨリを戻す前になんとかしなくちゃ。行くよ」

「行くよって、どこに?」

「なに言ってんの! あのふたりを追うよ」


 ぎょっとした。でも友香は真剣そのものだ。いまいち混乱したままでいると、友香がわたしの腕を取ってぐいぐいと引っ張った。ちょっと、ビールが零れる! まだ飲みきってないんだけど!


「苑田の誘いで来たんだから、案内させる権利があんのよ」


 人混みをかき分けて譲くんたちを追う友香に呆れながらも、わたしも腹を決めてビールを飲み干した。


「わかった。譲くんと話をするくらいはいいよね」

「当たり前よ! その意気!」


 通りがかりに見つけたゴミ箱にプラコップを捨てる。わたしも早足になった。

 なんといっても、花見のために誘われたのに、まだ桜も見ていない。桜くらいは譲くんに見せてもらわないと困る。

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