055 アナタを英雄にしてみせます

「カムナ団長!」

 ……確かにタチアナさんが俺たちを見送りに行くと言っていたが、まさかこんな所まで来て待っていてくれたとは。


「待ちくたびれたが、はうまくいったようだな」

 カムナが踊り場から階下を見下ろす。

 今もなお『フリトトの呪い』と激しい戦闘を繰り広げている冒険者たちの姿が見えた。


「見送りはありがたいですが」とラースが言った。「騎士団の方は大丈夫なんですか? <勝利の広場>で陣を敷いていましたよ」


「なに、副団長が健在なら問題ねえよ。俺よりうまくやっているさ」

「またそんなこと言っているとタチアナさんに怒られますよ」

「はは。違いねえ」とカムナが肩を揺らして笑う。

 肩にある魔剣『フレイム・ブリンガー44』が、彼の揺れに合わせて炎の粒子を瞬かせる。

 さっき見た巨大な火柱は、この魔剣が持つ特殊スキルなのだろう。


 久しぶりに見た『英雄』に近い男の、本気の一撃。

 その迫力を思い出して、ラースは思わず息を呑んだ。


「行くんだな」とカムナが階下の騒動を見ながら言った。

「……はい」

「そうか。あの時とは逆になったな。俺が出ていって、お前が残ったデランド王国のときとは」

「そうですね」とラースは短く苦笑する。「そう考えると、なんだか行ったり来たりで何やってんだろうって思います」


 ラースは、バーナデットと繋いだままの手を見つめる。


「でも、行きます。自分の選択として。デランド王国で何が解決するかわからないし、たぶんその後もアチコチと旅をすることになるとは思いますが」


「いいんじゃねえか? 悪くねえ風向きだと思うぜ」とカムナは頬を撫でる火の粉混じりの熱風を楽しむように言う。「せいぜい達者でな」


「はい。見送り、ありがとうございました」


「いま<港湾地区ベイエリア>に停泊している飛空艇の定期便は三番デッキだ。お前の連れが先に行って手続きしているはずだぜ」


「そうですか」とラースは城壁を見上げる。「みんな無事だったんだ。よかった」


「当たり前だろ。誰がここにいると思ってるんだ?」

 カムナはそう言うと挑戦的な笑みを浮かべる。

 魔剣を石畳に突き刺し、柄頭に両手を添えると、通りに響き渡るほどの声量で叫んだ。


「開門っ!」


 真鍮で縁取られた巨大な両開きの大門が、地響きを立てて開いていく。その後ろには数名のカムナ騎士団員が控えていた。


「お前らはそのまま後方警戒だけしていればいい」とカムナが肩越しに言う。「前から来る敵は、一匹たりとも逃しはしねえからな」


了解イエス・サー!」と声を揃えて敬礼する団員たち。


 港から吹き込む冷たい風が、爆炎に焦がされた通りを冷やすように通り抜けていく。

 その風を受けて、まるで新鮮な空気を求めるかのように『フリトトの呪い』が一斉に門の方へ向かって移動をはじめる。


 それを見たカムナが二人の背中を優しく押すように門の方へと誘う。


「飛空艇が出発するまで、まだ一〇分くらいの余裕はある」と門の向こう側へ二人を押しやる。「まあ、ゆっくりエントランスで茶でも飲んでるんだな。ここから先は、たとえ蛮神の群れだろうと、何一つ通しはしねえからよ」


 すでに大門前の広場はカムナが巨大な火柱で焼き尽くす前の状態にまで戻っている。

 タチアナの言う通り、増殖速度が時間とともに倍増しているようだ。


「じゃあ、またな」


 カムナが短い別れの挨拶をする――と、同時に亡者の群れへ一足飛びに斬り込んでいった。

 一撃、二撃、三撃……亡者の群れの中で軌道を変えつつ流れるように八連撃まで繋げる炎の斬撃。

 魔剣の付帯効果によって剣戟による衝撃波にもダメージと延焼効果が付いてくる。高い耐久力を持っているはずの『フリトトの呪い』が、瞬く間に数十体、光の粒子となって消滅していく。


 亡者に囲まれながらも臆することなく攻撃を交わして、アクティブ・ゲージの回復を待って再び炎の八連撃を浴びせる。


 炎の戦車と化したカムナの猛攻。恐怖を感じるはずのない『フリトトの呪い』の亡者がたじろいでいるかのように見えるほどの剣圧である。


 亡者の渦の中にいたはずのカムナが、あっという間に亡者の屍の中央に姿を現す。


「ふぅ……」と魔剣を肩に担いで一息つく。


 しかし、またすぐに増殖していく亡者によって灰色の肉壁の中に姿を消していった。


「まったく……やりたい放題じゃねえか。こいつもまた、

 カムナの口角が自然と残忍につり上がっていく。


 再び亡者の渦の中へ飛び込むカムナ。豪快な斬撃が鮮やかに燃え上がる。


「すごいです……。あれは団長さんの必殺技なんですか?」

 どう回避すれば逃げられるのかわからないほどの豪剣による八連撃。あの技だけで『フリトトの呪い』が溶けるように消滅していく。

 後ろに控えている騎士団員が助太刀せずに見惚れているのも納得の破壊力である。


「そう見えるかもしれないけど、あれは単なる『チャージ・スラッシュ』なんだ。ハレンチ騎士のリンでも使える初歩的な技さ」


 どこかで大きなくしゃみが聞こえた気がしたが、空耳だろう。


「えっ⁉ それであの威力なんですか?」とバーナデットが目を丸くする。


「もちろん、連撃仕様にするにはバフ・スキルやアビリティを工夫して構築する必要があるんだけど、技としては『チャージ・スラッシュ』なんだ」


 チャージ攻撃の硬直をいかにキャンセルするか。アクティブ・ゲージをぎりぎりまで切り詰める身体駆動マニューバとタイミングも身体で覚えないといけない。


「まあ、誰でもできる動きではないけどね。そういう意味では、たしかに団長の必殺技のひとつと言ってもいいかもしれないね」


「強いんですね団長さんは……」とバーナデットが興奮して言う。「ただ怖いだけの人じゃないんですね! それに初歩的な技であれだけのことができるのも感動です!」


「そうだね。どんな基本的な技でも工夫次第で強くなれる。ほんと、いいゲームだよ『アストラ・ブリンガー』は」


「あのな、そんなところでモブキャラみたいに解説してんじゃねえよ。恥ずかしくてやりづれえだろうが。とっとと行け」


 さらに百体以上を消滅させたカムナが呆れ顔で言う。


「そうでした」とラースが苦笑いする。「行こうバーナデット」


 ラースがカムナへ手を振る。バーナデットも深々とお辞儀をしてから<港湾地区ベイエリア>へ向けて走り出す。


 二人が見えなくなると同時に重厚な門が再び閉ざされる。


「さて、と」


 振り返ると『フリトトの呪い』は何事もなかったかのように踊り場を埋め尽くしている。


「久しぶりの何でもアリな戦闘なんだ。もう少し楽しませてもらうぜ、しかばねどもっ!」


 凶暴ともいえる野獣のごとき笑みを浮かべながら、カムナは亡者の群れへと突進していった。



■同時刻

■帝都ヴァンシア

港湾地区ベイエリア


 東の大門を抜けると、急勾配の下り階段となる。

「さすが団長だ。確かに門からこっちには『フリトトの呪い』が一匹も入ってきていない」

 階段を降りるほどに、さっきまでの喧騒が遠のいていく。


 階段を降りきって、船着き場の小屋が並ぶ通りを小走りに駆け抜ける。

 見かける人影はアストラリアンばかりで、プレイヤーはまったくいなかった。

 あの状況でこの地区に入ってこれる者はいなかっただろうし、もともとこの辺にいたプレイヤーは街中へ戻っていったか、様子見のためログアウトしたかのどちらかだろう。


 東の大門を抜けた先の<港湾地区ベイエリア>は巨大な湖である<リゾン湖>から船を接岸させるための港でもあり、飛空艇の発着場ともなっている。


 飛空艇は湖に着水し、船のように港へ接岸するのだ。


「三番デッキって言っていたな」


 飛空艇用の船着き場は全部で五つある。表示灯を眺めながら三番デッキへと向かう。

 幸い、船着き場に停泊している飛空艇は一隻だけであった。


「無事だったか! 遅すぎだっつの!」

 甲板から身を乗り出すように叫んでいるヨハンの姿が見えたときには、二人で顔を見合わせて自然に笑い声が出た。


「あ! おい! 言っておくがなぁ! 俺が目の前にいるときはイチャコラ禁止だからな!」


「あー、わかったよ。みんなも無事か?」

「団長さんにいつか菓子折りでも持っていかねえとな」とヨハンが楽しげに言う。「あんな化け物が門の前にいるんじゃあ、亡者共の方に同情しちまうよ。いいからチャッチャと上がってこい」


「了解」とラースが肩をすくめる。


 可動橋タラップの前まで来ると、ミアとトラコが出てきてチケットを渡してくれた。それをアストラリアンの船員にみせて船内へと入る。


「街中はどんなだった?」とミアが訊いてくる。

「増殖速度が跳ね上がっている。早くここから離れないと本当に帝都が壊滅してしまうかもしれない」


 団長にはゆっくりお茶でも飲んでいろと言われたが、とてもではないがそんな気分にはなれない。


 甲板に出ると、ヨハンとヴィノが周囲に異常がないか目を光らせていた。

「バーナデット、アイテムの補充とか大丈夫?」とミアが言う。「ここまで来るのに相当色々と使ったでしょう」


「え? あ、はい。そうですね」とバーナデットがアイテムを確認しながら言う。「でも、私は普段からあまり持ち物が少ないので、どちらかと言えばラースの方がたくさん回復薬を消費しているはずですよ」


「俺はあとで補充するから大丈夫」とラースが笑顔で言う。「ついでだからミアに色々と見繕ってもらいなよ。最低限冒険に必要なものを今のうちに買っておくのは悪いことじゃない」


「さあさあ! 買い物しよ、買い物!」とミアはバーナデットを強引に船内の売店へと連れて行く。


「甲板上からの警戒は俺とヨハンで続けるよ。俺の『索敵アナディ』、ヨハンの『敵感知』と『千里眼』があれば、ほぼ全方位をカバーできる」


「じゃあ俺とトラコ嬢で船内の見回りでもしてこようかね」とヴィノがトラコへウィンクをしてみせる。


「そうだな」とトラコはヴィノのウィンクをまったく見ることすらしないで同意する。「街中にまで入り込んできた怪物だ。念には念を入れておいたほうが良いだろう。いくぞチンドン屋」


 言うが早いが、颯爽と歩き出すトラコ。


「久しぶりに聞いたな、チンドン屋って言葉」とヴィノはむしろ感心したように言いながら彼女のあとに続いた。


 一気に甲板が静かになる。どうやら他の乗客はいないようだった。


 ラースとヨハンは、しばらく無言で警戒を続けていた。

 時折、街中のほうから怒号や爆発音が聞こえてくる。しかし、その響きはすでに遠い別の世界で起きているような残響のように感じられるほどの静寂だった。


「なあラース」とヨハンが遠くを見つめたまま言った。「この騒ぎで犠牲になったアストラリアンは、いったいどうなっちまうんだろうな」


「まったく見当がつかないな」とラースは吐息混じりに言う。「俺とバーナデットがこの国から離れれば、この得体の知れない騒動も収まるらしんだが……」


「なんだそれ? どっからの情報だ?」


「<廃坑>で会った謎の美少年さ」


「また会えたのか?」


「なんの情報も聞き出せない短い時間だったけどね」とラースが続ける。「この騒動の結末、バーナデットと『アストラ・ブリンガー』の関係性、そして謎の少年クロン・ミューオン。何一つ解決していることがない。それどころか、分からないことが増え続けている気がするよ」


「そうだな。この騒動だってわかったもんじゃないしな」


 ……確かにその通りだ。


 クロン少年はフリトトの魔素がどうとか言っていたが、それならばなぜ、先行するような形でデランド王国で同じ騒動が起こっているのか。


 ……それも向こうに着けば、なにか分かることがあるだろうか。


「大漁♪ 大漁♪」とミアが上機嫌で戻ってくる。

「お待たせしました」


「首尾よく買い物は終わった?」


「はい。ミアに色々と必要なものを揃えてもらいました」

「まったく……今だに基本的な回復薬だけを三個づつしか買ってないのよ、この子」とミアが大げさに溜息をつく。「どんだけ初心者テンプレで推すつもりなのよ」


「そもそも、無敵だった頃には必要のないものばかりだったのであろう」

 トラコが見回りから戻ってきて会話に入ってくる。


「確かに。アイテムに関する知識が少ないのはそういうわけか」とヴィノが言う。


「……これから勉強しますよぉ」とバーナデットが膨れっ面で応える。


 飛空艇が出港の汽笛を鳴らす。

 可動橋タラップが外されて、ゆっくりと岸から離れていく。


「しばしのお別れだな」とヨハンが言う。


「ああ。でもいつか戻ってくるさ」とラースは離れていく街並みへ向かって言った。「<かささぎ亭>の椅子も温め直さないといけないしな」


 港を背にした飛空艇は、ゆっくりと湖面から浮かび上がり、天空へと上昇を開始した。



■同時刻

■デランド王国 王都デネーベ近郊

■レンガ街道 至トラブソンの町


 交易に力を入れているデランド王国は、国内の交通インフラがしっかり整備されている。

 主要都市を結ぶこの<レンガ街道>がその好例であり、馬車であれ徒歩であれ、未舗装の道で悪戦苦闘することなく街から街へと移動できる。


 その<レンガ街道>において、全速力で走り続けている二つの長い影があった。

 まるで<王都デネーベ>から逃げ出すように、都を背にして一心不乱に走り続けている影。


 小高い丘の上までくると、体力が尽きたかのように足がもつれ、街道脇の草原に転がり込む。

 大の字になって、ぜぇぜぇと肩で息をするその姿は、全身黒ずくめの鎧で身を固めている。

 ヘルメットは装着しておらず、その顔はまだ幼さの残る青年であった。

 威圧感のある漆黒の鎧とは対照的に、明るめの茶髪と白い肌。人懐っこい眼差しは、今は不審の眼差しとなって共に走ってきた女神神官ディータ・プリーストへ注がれている。


 倒れ込んでいる黒い鎧の青年の前まで、なんとかよろよろとたどり着いた女神神官の少女は、両膝に手をついて懸命に息を整えようとしていた。


 全力疾走そのものは、あくまで『錯覚』としての疲労感を感じさせる程度のものだ。

 それよりも、街中からここまでの長距離をアクティブ・ゲージのオーバーヒートに注意しながら細かくクールタイムをはさみつつ、パニックの只中を走り抜けてきたことへの精神的な疲労の方が大きい。


 まさに息する暇もなくゲージを管理しながらひたすら全力で逃走してきたのだ。

 呼吸を整えたいという気持ちは現実での全力疾走と大差がないように思えた。


「……お前、さっき……なんて言った?」と黒い鎧の青年が息も絶え絶えに言う。「、だと?」


「そ、その……そのとーり、よ……」

 同じように乱れた呼吸を整えようと肩で息をしながら、少女は人差し指を偉そうに立ててみせる。


 着ている服は見慣れた女神神官が着る法衣。巷に溢れている大多数の女神神官が女神イルナスの神官であり、その法衣は白地に紺色で仕立てられているのに対して、彼女の法衣は白地に黒色を重ねてある。


 異端とも言われる女神アリンランドの神官である。


 ……にしても。


 崇める女神が誰であれ、法衣のスリットから大きく生足をガニ股に開いて力士の四股のような格好で息を整えているその様は、とてもじゃないが敬虔な女神神官とは思えない、はしたなさである。


 少女はようやく落ち着いて、勢いよく顔を上げる。


 髪は鮮やかな金髪。ツインテールにしているせいで、目元は子猫のように吊り上がっている。赤いルビーのような瞳と相まって、活発そうな印象をより強めていた。


「でね、まあ、その超絶凄まじいライゾの力のせいで、使用した地域にシステム上有り得ないくらいの歪みが生まれちゃうらしいのよねえ。はっきり言って、インチキレベルの裏技みたいなもんだからね、あっはっは」


「笑い事じゃないだろうが」と黒鎧の少年もようやく立ち上がる。「じゃあなにか? デネーベの街の、あの騒動は……俺たちのせいだっていうのか?」


「やっぱ、そう思う?」


「違うのか?」


「いや、そうだよ」


「……お前ねえ」と青年は自分の掌で顔を覆う。「どうすんだよ? 今から戻って片っ端から倒して回らないと、二度とあの街に行ける気がしないんだが」


「あ、それは逆効果」と少女が即座に否定する。「あの『フリトトの呪い』ってモンスターは、私とアンタが、この国から離れない限り延々と無限増殖するらしいんよ」


「マジか……」


「うんうん。だから、とりあえず全力疾走で隣町に行って、そこから飛空艇で離れるのが得策だと思ったわけさ。亡者の群れを掻い潜ってデネーベの港に行くより、時間的には早いはずだよ」


「じゃあとにかくデランド王国を出れば、この騒ぎは収まるってことでいいんだな」


「良い良い」と満足そうに肯く少女。


「……そんな情報どこで仕入れてきた? そんな暇はなかったはずだ」


「いんや、知ってたわけじゃないんだけどぉ」と少女は続ける。「デネーベの街がパニックになるちょっと前にから連絡が来たんだよ」


「お父様? 連絡?」

 青年は言っている意味がまったく把握できずに首をひねる。


「うん。まあ連絡って言っても情報データが転送されてきただけなんだけどね。まあ、そのおかげでこうして無事、街から脱出できたわけ。マジでヤバかったっしょ~」

 少女は大げさに額の汗を拭う仕草をする。


「お父様って言ったな。何者なんだ? だってお前は――」


「うん。私のことを。だからお父様よ。そうねえ……この世界における神様のひとりってところかしらね。あ、神様といっても蛮神とかじゃないからね。ホンモノの神様……ん? ホンモノ? じゃあニセモノの神様がいるの? ホンモノの定義とは……」


 自分の発した言葉が原因で思考回路の堂々巡りを開始する。彼女の頭上に無数のクエスチョンマークが乱れ飛んでいるような気がして、青年はそれ以上の質問を諦めた。


 勝手に喋って勝手に混乱している少女をみていると、いちいちまともに相手をするのがアホらしくなってくる。


 ……まったく。なんて不完全な人工知能だ。


 初めて出会ったとき、自分のことを『完全無欠の鋼鉄乙女アイアンガール』と言っていたが、彼女の持っている固有スキル『女神の加護・破邪封陣ディータ・アブソリュート・シェル』以外は、なんにもできないポンコツ神官じゃないか。


 ……いや……あれだ、べつに、なにもできない……ってわけじゃなかったな……。


 昨日、絶体絶命の状況で、突如として彼女が自分に口づけをしてきたことを思い出し、青年は思わず顔を紅潮させる。


 仮想空間での擬似的な感覚だ。ただの『錯覚』だ。ましてや、相手は本物の人間ですらない。


 ……なのに、なんで俺はこんなに動悸が激しくなっているんだ。


 あの劇的なキスのあと、なぜか自分に『黒竜ライゾの力』なるものがこの身に宿り、驚異的な攻撃力と、死ぬことを許されないほどの回復力を手に入れた。

 この世界に存在する九頭の竜王。その中でも二番目に位置する神にも等しい力を持つ黒竜ライゾ。

 自分になぜそんな力が宿ったのかはよくわからない。彼女の説明はまったく要点がまとまっておらず、聞けば聞くだけ混乱してくるので説明を途中から聞き流してしまった。


「まったく……とんでもないことになったもんだ」


 実在すら疑っていた灰神教団によるアストラリアンの奴隷貿易なんていう信じられない事件に巻き込まれてしまったのが運の尽き。まさかNPCがNPCを従えて、人身売買を行っているなんて、誰がどう仕組んだことなんだ。

 運営そのものが絡んでいるのかどうかも定かではないが、たとえ隠しイベントや冗談であっても決して許されることではない。


 青年は夕焼けの中でシルエットとなったデネーベの街を見つめる。


 今回はたまたまひとつの現場を救い出しただけのこと。おそらく、この事件の闇は相当に深い。そして、その全貌を把握して、ましてやその企てを阻止するためには自分――と、オマケAI――だけでは不可能だろう。


 ……だが、はたしているのだろうか……。こんな信じられないような厄介事に協力してくれる誰かが。


「どうしたん? レオン」


「……ん、いや」とレオンと呼ばれた青年は空を見上げる。「……仲間がいないとな、と思っただけだよ」


「そうだよね! この先もまだまだ色々なことが起こるだろうからね。まだ見ぬ冒険の数々が私達を待っているんだから」


「できれば楽しい冒険であってほしいね」とレオンが肩をすくめる。「しかし、こんな調子で本当に『アストラ・ブリンガー』が手に入るのか? あまりにも行き当たりばったり過ぎやしないか?」


「ノー・プロブレムよ」と少女はレオンにぐいと近寄る。

 その遠慮のない距離の詰め方に、思わずレオンの方がのけぞってしまう。


「黒騎士レオン・ライデオール! アナタと共に行くこの私、が責任を持って、アナタを英雄にしてみせます!」


「……英雄ねえ」とレオンが笑う。

 やれやれと首を振りながら、レオンはそのままアリアドネの横を素通りして先へと歩きだす。


「あっ! ちょっと! 待ちなさいよぉ! もうちょっと嬉しがったり、ありがたがったりしなさい!」

 アリアドネが後ろから駆け寄ってくる。


「お前の話にいちいちリアクションとってたら、こっちの身がもたな――こらっ! 腕にひっつくなっての!」


「へっへーん。じつは嬉しいくせにぃ~」


 離してはくっついてを繰り返しながら、夕闇に伸びるふたつの影。

 デネーベに夜のとばりが降りようとしている。


 この世界に存在する二つの月、白月パールムーン青月オーシャンムーンが夕闇にうっすらと姿を現しはじめる。


 騒がしい二つの影を見守っているのは、この二つの月だけであった。

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アストラ・ブリンガー ~その神話は恋からはじまった~ 永庵呂季 @eian_roki

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