その年の二月、高等学校の記念祭の頃、ほんごうの彼の下宿へ、から葉書が来た。がわべりの田舎からであった。当分ここにいるから、土曜から日曜へかけてでも、将棋を差しに来ないか。とり位なら御馳走するから、というのである。それは、三造の高等学校を卒業する年で、丁度その少し前に、彼は、学校でしゆうきゆう(アソシエーション)をしていて、顔をられ、顔中ほうたいをして病院へ通っていたのであった。実際間の抜けた話ではあるが、上から落ちてくる球をヘッディングしようとして、一寸ちよつと頭をさげた途端に、その同じ球をねらった足に、下から眼のあたりをしたたか蹴られたのである。眼鏡の硝子ガラスじんに砕けて、瞬間とつぶった彼の眼の裏には赤黒いうずのような影像がはげしくかいてんした。やられた! と思って、動かすと目の中が切れるかもしれないとは考えながら、でも、一寸試す気で細目にまぶたをあけようとすると、血がべったりとふさいでいて、少し動くとと地面に垂れた。それから二人の友人にかかえられて直ぐに大学病院へ行った。硝子で眼のまわりが切れただけで、幸いに眼の中には破片ははいっていなかったので、きずあとを縫って貰ったあと二週間も通えばよかった。しかし、そんな際だったので、丁度それを良い口実にして、「をしていて残念ながら行けない」むねを返事したのであった。彼は伯父を前にすると、自分の老いた時の姿を目の前にみせつけられるような気がして、伯父の仕草の一つ一つに嫌悪を感ずるばかりでなく、時々破裂する伯父のかんしやく(その故に伯父はの伯父と、おいめい達から呼ばれていた。)にも、慣れているとはいえ、多少恐れをなしていた。その上その将棋というのが、彼よりも一枚半も強いくせに、弱いものを相手にしていじめるのを楽しむといった風で、何時いつまでたってもめようとは云い出さないのであるから、これにもいささへきえきせざるを得なかったのである。彼のその返事に折り返して来た伯父の葉書には、災難は何時降ってくるか分らず、人は常にそれに対して、何時遭遇しても動ぜぬだけの心構えを養って置くことが必要である、といった意味のことがしたためられていた。そしてそれきりで彼は一月あまり伯父のことを忘れていた。所が三月の中頃近くなって、又ひょっこり、書きなぐった伯父の葉書が舞いこんできた。近い中にお前の所へ行きたいが、都合は良いか、というのである。大学の入学試験が四五日中にすむので、その後の方が都合がよいのですが、と彼は返事を書いた。所が、それから三日ほどして、入学試験のなかの日に、その日の試験をすまして、下宿で机に向っていると、ふすまをあける女中の声と共に、後から、古風な大きいバスケットをげた伯父がはいって来た。これから山へ行くのだと伯父はいきなり云った。彼には一向話が分らなかった。恐らく、伯父はすでに事の次第を前以て彼に向けて手紙で知らせてあるという風に勘違いしていたに違いない。よく聞くと相州のおおやまこもるのだという。大山の神主某の所へ行って、しばらく病を養うのだという。伯父はその二三年前から時々腸出血などをしていた。それを七十を越した伯父は、気力一つで医者にもかからずに持ちこたえていたのである。その出血が近頃ますますはげしいという。そんなに弱っている身体が、何かにつけて不自由な山などへ籠っては、ますます不可いけないことは明らかなのであるが、それを言うと、どんなに機嫌を悪くするか分らないようなその頃の伯父であったので、三造も黙っているより外はなかった。それに荷物はもう、先へ向けて送ってあるのだと伯父は云っていた。暫く、そのことを話している中に、伯父は、三造の右の眼の縁に残っている傷痕をみつけて、やっと彼ののことを思い出したらしく、そのあいをたずねた。と、それに対する彼の答をろくに聞きもしないで、「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている。」と言い出した。見るとなるほど、髯が──みんな白が黄に染まっているのだが──ひどく伸びている。頭髪はそれほど薄くはなく、殊に両耳の上のあたりはなり長く伸びて乱れている。長寿の印しといわれる、長くと突き出たまゆの下に、大きい眼がくぼんでいる。三造はその眼を前から美しいと思っていた。この伯父と、それから、そのすぐ下の伯父──その牛若丸のような髪を結った隠者のようなお髯の伯父と、この二人の老人の眼は、それぞれに違った趣をもってはいるが、共に童貞にだけしか見られないきよらかさを持って、いつも美しく澄んでいるのである。一つは、いつも実現されない夢を見ている人間の眼で、それからもう一つは、すっかりおちつき切って自然の一部になって了ったような人間の眼である。この二人の伯父を並べて見る度に、三造はバルザックの「従兄いとこポンス」を思い出す。勿論、上の伯父はポンスよりも気性が烈しく、下の伯父はシュムケよりも更に東洋的な諦観をより多くもち合せているのではあるけれども。

 伯父はころがるようにして階段を下りて行った。ついて行くと、伯父はもう下宿の下駄をつっかけて出て了ったあとで、帳場で主婦かみさんと女中が笑っていた。

 一時間程して帰って来た伯父はすっかりれいになっていた。着物の前は合っていなかったけれども、はかまはキチンと結ばれ、とおった鼻筋とはっきり見ひらかれた眼とは彼を上品な老人に見せている。顔の肌も洗われたばかりで、老人らしい汚点しみもなく黄色く光って見える。二人はまた火鉢の側に坐りこんで、暫く話をした。彼等の親戚達のうわさばなし。その頃支那からやって来た天才的な少年棋士のこと。新聞将棋のこと。日本の漢詩人のこと。支那の政局のこと。その中に何かの拍子で共産主義のことが出た時、伯父は、資本論の原本をその中に誰かに借りて来てくれ、と言い出した。又始まったなと彼は思った。このような実行力を伴わない東洋壮士的豪語がいつも彼を腹立たせるのである。なに、マルクスが正しい独乙ドイツ語さえ書いていれば俺にだって分るさ、と、彼の顔色を見たのか、伯父はそんなことまで附け加えた。彼は伯父が早く此の話を切上げてくれるように、と念じながら、黙ってばしで灰に字を書いているより外はなかった。その中に突然伯父は、急に気が付いたような様子で「傘を買って来てくれ。」と言う。降っているんですか、と聞きながら障子をあけて外を見ようとすると、今は降ってはいないけれども、とにかく要るものだからと伯父は言った。そうしてがまぐちから五十銭銀貨を一枚出して、何処とかで、五十銭のじやを見たから、そういうのを一本買って来て貰いたいと云って、変な顔をしている三造にそれを渡すのであった。三造は女中を呼び、自分の財布から、そっと五十銭銀貨二枚を出して、それに附加え、買って来るように頼んだ。女中はすぐに表へ出て行ったが、やがて細目のこんの蛇の目を持って帰って来た。伯父はそれを、いきなり狭い四畳半で拡げて見て、成程、東京は近頃物が安いと言った。

 間もなく伯父は、もう大山へ行くのだと言い出した。何時の汽車ですと、あやうく聞こうとした彼は、伯父が決して汽車の時間を調べない人間だったことを、ひょいと思い出した。伯父は、どんな大旅行をする時でも、時計など持ったことがないのである。

 彼は東京駅迄送るつもりで、制服に着換え始めた。伯父はそれが待ちきれないで、例の大きなバスケットを提げて部屋の外へ出ると、急いで階段を下りて行った。と、先刻さつきの蛇の目を忘れたことに気がついたらしく、階下したから「三造さん。傘! 傘!」と大きな声がした。彼はめんくらった。いまだつて伯父は彼の事を「さん」づけにして呼んだことはなかった筈である。いつも三造、三造のよびすてであった。彼は、その伯父の呼方の変化に、伯父の気力の衰えを見たというよりは、何かしら伯父の精神状態が異常になっているのではないかというような不安が感じられて、ギョッとしながら、傘をもって階段を下りて行った。

 表へ出ると伯父は円タクを呼んだ。どうせ文求堂に置いてある荷物を持って行くのだからと伯父は言いわけのような調子で言った。支那風の扉をつけた文求堂の裏口で車を停めると、中から店の人が、にしたこうを一つ車の中へ運んでくれた。

 車が東京駅に近づいた頃、伯父は彼に向って何か早口で言った。──伯父は非常に聴き取りにくい早弁で、おまけに、それを聞き返されるのが大嫌いであった。──その時も三造は、伯父の言ったことがよくわからなかったので聞えないという風をして伯父の顔を見返した。伯父はいらだたしそうに、今度は、右手は人差指一本、左手は人差指と中指をそろえて、あげて見せた。の禅問答のような仕草は、三造にはますます何のことやら分らなかったけれど、とにかく無意味にうなずいて見せた。伯父はやっと気がすんだような顔をして硝子窓の外に眼を外らせた。駅について助手に荷物を運ばせている時、ふと三造は、伯父が運転手に何も聞かずに一円二十銭──たしかに、それは一円二十銭──払っているのを見た。三造は驚いた。(昭和五年当時、円タクは市内五十銭に決っていたものだ。)やっと、さっきの指の意味が分った。右の一本は一円──円タクというからには一円にきまっていると伯父は考えたのだ──で、左の二本は二十銭だったのである。彼も今更とめるわけにも行かず微笑わらいながら伯父の動作を眺めていた。三造などに聞かなくとも、此の大都会の交通機関の習慣位は、ちゃんと心得ているぞと言った風な、いかにも満足げに見える伯父の顔つきを。恐らく、伯父は、割増一人毎に二十銭と書いてあるのを何処かで見たのでもあろうか。


 それから一月程たって、大山から手紙が来た。身体の工合が益々よくないこと、一日に何回も腸出血があると言うことなどがしたためられていた。が、「ひん」とか「死期が近づいた」とか言う字句が彼に何か実感の伴わないものを感じさせると同時に、かえってそういうことを言う伯父の病態に楽観的な気持を抱かせたし、又、宿のものの待遇の悪さをしきりにののしっているその手紙の口調からしても、伯父の元気の衰えてはいないらしいことが察せられたので、彼はその報知を大して気にもかけなかったのである。所が更にそれから半月程して、今度は葉書で、簡単に、山では病が養えないから大阪へ──大阪には彼の従姉が(伯父からいえば姪だが)いた──行きたいのだが、今では身体がほとんどかないから、大阪まで送って貰いたい、老人の最後の頼みだと思って、是非すぐに大山に迎えに来てほしい、と書かれたのを受取った時、彼は全く当惑した。一体、そのような病人を大阪まで運んでいいものかどうか。それに、どうしてまあ、伯父は大阪へなど行く気になったものか。成程その大阪の従姉は子供の時から伯父には色々と世話になったのであるし、又従姉自身、人の面倒を見るのが好きな性質ではあるが、何といってもそれは、従姉の夫の家ではないか。おまけに、その姪の夫を伯父は常々、馬鹿だ(ということは、つまり此の場合漢学の素養がないと言うことになるのであるが)云い云いしていたのである。その男の所へ行こうなどと言い出す。これは少し変だぞと三造は考えた。前の手紙には驚かなかった彼も、此の叔父の大阪行の決心の中に、伯父の病気の重態さの動かすことのできない証拠を見たように思って、少からずあわてたのである。が、それにしても、とにかく大阪まで行かせることは何としてもいけないと思った。病気を養うのならば、何も大阪まで行かなくとも、自分の弟が──三造にとってはやはりこれも伯父だが──せんぞくにいるのである。三造はすぐにその葉書をもって洗足へ出かけた。洗足の伯父も彼と同意見であった。自分の家へ来るように勧めるために、その伯父は翌朝大山へ行った。が、午後になって手を空しゅうして帰って来た。どうしても(理窟なしに)大阪へ行くと言ってきかないのだそうである。もう、ああ言い出しては仕方がないから、と言って、洗足の伯父は彼に大阪行の旅費を与えた。


 翌日、三造は小田急で大山へ行った。その神主の家はすぐ分った。通されて二階に上ると、伯父は座敷の真中のとんの上に起きて、古ぼけたきようそくもたれて坐っていた。伯父は三造を見ると非常に──めつに見せたことのないほどの──嬉しそうな顔をした。それが何だか三造を不安にした。荷物はすっかりととのえられていた。立つ際になって、封筒に入れて置いた紙幣が一枚、その封筒ごとくなったといい出した。伯父のなくしものは何時ものことである。その時もすぐに、その封筒が部屋のすみの新聞紙の下から出て来た。が、それは半分破れて取れていて、中には、これもやはり破れた十円紙幣が半分だけはいっていた。伯父がとまちがえて自分で破って捨てたものであることは明らかであった。他の半分は、だが、探しても探しても出て来なかった。伯父は捜索を断念しようとしたけれども、それを聞いて一緒に探しはじめた其の神主の家人達が承知しなかった。探し出して、くっつければ、結構使えるのだからと、そのお内儀かみさんはそう言って、家の裏の捨場や、その側のたけやぶまで、子供達を探しにやった。「見つかるもんか。馬鹿な。」と伯父は、露骨に不快な顔をして、まるで他人ひとごとのように、彼等の騒ぎ方を罵るのであった。自分自身の失策に対する腹立たしさと、更に、その失策を誇張するかのような仰々しい彼等の騒ぎぶりと、又、自分の金銭に対するてんたんさを彼等が全然理解していないことに対するふんまんとで、すっかり機嫌を悪くしたまま、伯父はその家を出た。ふもとまでは、三造にも初めての山であった。あまり強そうにも見えない三十前後の男が前後に一人ずつ、つえをもって時々肩を換えながら、石段路を歩きにくそうに下って行った。三造はそのあとについて歩いた。下り切って了うと今度はじんりきしやに乗った。まつの駅に着いた時はもう夕方になっていた。


 松田駅の待合室で次の下りを待合せている間、伯父は色々解らないことを言出して三造を弱らせた。その時伯父は珍しく旅行案内を持っていて、(宿の神主が気を利かせて荷物の中に入れておいたものであろう)それで時間をりながら、「今、立てば大阪は明日あしたの十時になる」といった。所が三造が見ると、どうしても七時になっている。そういうと伯父はひどく腹を立てて、よく見ろといった。いくら見ても同じであった。伯父が線を間違えて見ていたのである。三造も少し不愉快になってきたので、赤鉛筆でハッキリ線をひいて伯父の見間違いを説明した。すると伯父は返事をしないで、子供のようにとしたまま横を向いて了った。それからしばらくして、今度は、なつかんを買って来いと言い出した。三造の買ってきた夏蜜柑はうまくなかった。「夏蜜柑のえらび方も知らん」と言ってまじめになって小言をいいながら、それでも伯父はムシャムシャ喰べた。そして三造にも勧めた。砂糖がなくてはと酸いものの嫌いな三造が言うと「そんなぜいたくなことでどうする。今の若いものは」と再び小言が始まった。ふだんは、こんな事を言い出しては益々若い者にわらわれることを知って、自ら抑えるようにしているのだが、病気のためにそんな顧慮も忘れて了ったらしい。三造も腹が立ち、ハッキリと苦い顔を見せて、何時迄も夏蜜柑の黄色く白っぽい房を、喰べずに掌に載せたまま、強情に押黙っていた。


 しかし、いよいよ切符を切り構内に入って露天のプラットフォオムのベンチに、トランクにもたれ、毛布をしいて、ほっと腰を下した伯父を見た時、──沈んで間もない初夏の空は妙に白々とした明るさであった、──三造は、はっきりと、伯父の死の近づいたことを感じさせられた。円い形の良い頭蓋骨が黄色い薄い皮膚の下にはっきり想像され、くぼんだ眼は静かに閉じ、けんこつから下がぐっと落ちこんで、先端の黄色くなった白髯が大分伸びている。そして右手はキチンと袴の膝の上に、左手は胸からふところへ差し込んだまま、眠ったように腰掛けている伯父の姿のどこかに、静かな暗い気がまといついているような気がするのであった。しかし、その死の予感は、三造をうろたえさせもしなければ、又伯父に対する最後の愛着を感じさせもしなかった。妙におちついた澄んだ気持で、彼は、ほの白い薄明の中に浮び上った伯父の顔を、──その顔に漂っている、追いやることのできない不思議な静かな影を──見詰めるのであった。その影に抵抗することは、とてもできない。それは、どうすることもできない定まったことなのだ、と、そういう風な圧迫されるような気持を何とはなしに感じながら。


 汽車の中は、場所はゆっくり取れたけれども、あいにくそれが手洗所の近くであった。伯父は、それをひどく気にして、他の乗客がその扉をあけっぱなしにすると言っては、遠慮なく罵った。三造は毛布を敷き、空気枕をふくらして、伯父の寝易いようにしつらえた。伯父は窓硝子の方に背をもたせ、枕をあてがって、足を伸ばし、眼をつぶった。茶っぽい光の列車の電燈の下では、伯父の顔にももう先刻の妙な「気」はすっかり払い落されて了っていた。ただ、そのやせた顔のしわのより工合や、又時々のひきつるような筋の動きで、その浅いねむりの中でも伯父が苦痛をこらえていることが分り、それが向いあっている三造に落ちつかない気持を与えた。伯父の苦しそうながおを見ながら、しかし、彼は、かえって、この伯父のかつての滑稽な非常識な失策などを思い出していた。伯父が銭湯へ行った所、女湯とあるのを読み、そこには男湯はないものと思って、帰って来た話。又、三造の妹に、駄菓子屋へ行って、キャラメルを五円買って与えた話。そんなことを彼はゴトゴト揺られながら思い出していた。その三造の妹は二年前に四歳で死んだ。それを大変悲しんだ伯父はその時こんな詩を作った。


毎我出門挽吾衣  翁々此去復何時

今日睦児出門去  千年万年終不帰

〔我、門ヲ出ル毎ニ吾ガ衣ヲキ 翁ヨ翁ヨここヲ去リテ何時かえル 今日、睦児門ヲ出テ去ル 千年万年ついニ帰ラズ〕


 睦子とはその妹の名である。三造には漢詩の巧拙は分らなかった。従って伯父の詩で記憶しているのも殆んどないのであるが、今、次のようなのがあったのを、ひょっと思い出した。その冗談めいたちようの調子が彼の注意をいたものであろうか。


悪詩悪筆  自欺欺人  億千万劫  不免蛇身

〔悪詩悪筆 みずかあざむキ人ヲ欺ク 億千万劫 蛇身ヲまぬがレズ〕


 口の中で、しばらくこれを繰返しながら、三造は自然に不快な寒けを感じてきた。何故か知らぬが、詩の全体の意味からはまるで遊離した「不免蛇身」という言葉だけが、三造を妙におびやかしたのである。彼自身も、此の伯父のように、一生何らすなく、自嘲の中に終らねばならぬかも知れぬというような予感からではなかった。それはもっと会体のしれない、気味の悪い不快さであった。眼をつぶったまま揺られつづけている伯父を、暗い車燈の下に眺めながら、彼は「此の世界で冗談に云ったことも別の世界では決して冗談ではなくなるのだ」という気がした。(そのくせ、彼はふだん決して他の世界の存在など信じてはいないのだが)すると、伯父の詩のという言葉が、という文字がそのまま生きてきて、グニャグニャと身をくねらせて車室の空気の中をいまわっているような気持さえしてくるのであった。


 翌朝、大阪駅から乗ったタクシイの中で──従姉の家はにあった──三造はそっと自分のがまぐちをのぞいて見た。前日の夕方、松田駅で、切符を買うとき「一寸ちよつと、今、一緒に出して置いてくれ」と伯父に言われて、立替えて置いた金のことを、伯父はもうすっかり忘れて了ったと見えて、未だに何とも云い出さないのである。車に揺られて、ゴミゴミした大阪の街中を通りながら、又この車賃も払わせられるのかと、彼は観念していた。そうなると洗足の伯父から貰ってきた金では、帰りの汽車賃があぶなくなるのである。どうせ従姉に借りれば済むことではあるが、とにかく近頃の伯父の忘れっぽさにはあきれない訳には行かなかった。それに、冗談にも催促がましいことでも口にしようものなら大変なのだから、全く、ひどい目にうものだと三造は思った。車が次第に郊外らしいあたりにはいって行った時、しかし、伯父は、突然自分の財布を出して五円紙幣を一枚抜き出した。明らかに、今度は自分で払う積りに違いない。三造は、一寸ちよつと助かったような気がしたけれど、それにしても財布まで出しながら、まだ、昨夕の汽車賃のことを思い出さないのは変だと思った。車はやがて八尾の町にはいって、しばらくすると、伯父は、そこで車を停めさせて、どうもらしいから下りて見るといった。三造は初めてであるし、伯父もまだ二度目なのではっきり分らないのである。三造を車内に残して、ひとり下りた伯父は、紙幣を一枚、右の人差指と中指の間にはさんだまま、あまり確かでない足どりで、往来から十間ほどひっこんだ路次にはいって行った。そして、突当りのこう戸の上の標札を読むと、病人のわりにかなり大きな声で「ああ、ここだ。ここだ」と云って、彼の方を向いて手招きをした。それからそのまま──紙幣さつを指の間にはさんだまま──格子をあけて、すうっとはいって了ったのである。どうにも仕方がなかった。三造は苦笑しながら、又しても四円なにがしのタクシイ代を払った。


 伯父を送りとどけると、三造はほっと荷を下した気になって、すぐに、ひとりで京都へ遊びに出かけた。京都には、の春、京都大学にはいった高等学校の友人がいた。二日ほど、その友人の下宿に泊って遊んでから、八尾の従姉の家に帰ると、玄関へ出て来た従姉が小声で彼に告げた。三ちゃんが黙って遊びに行って了ったって大変御機嫌が悪いから、早く行って大人おとなしくあやまっていらっしゃいと言うのである。昨日は大変元気でたいの刺身を一人で三人前も喰べたのはいいが、そのおかげで昨夕は何度もおうや腸出血らしいのがあったのだとも言った。何しろ医者を寄付けようとしないので従姉も困っているらしかった。二階へ上って行くと、果して、伯父は大きな枕の中から顔を此方こちらへ向け、黙ってじろりと彼をにらんだ。それから突然、掃除をしろと言い出した。彼が、座敷の隅にかかっていたしきぼうきを取ろうとすると、先ず、自分の寝ているとこの上からかなけりゃいけないと言う。小さなしゆぼうきで蒲団の上を、それから座敷箒で、その部屋と隣の部屋まで、とうとう三造はすっかり二階中掃除させられて了った。それが終ると、大分伯父も気が済んだようであったが、それでも、まだ「お前は病人を送る為に来たのだか、自分の遊びの為に来たのだか分らない」などと言った。その晩、三造はそうそうに東京へ帰った。

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