ACT.4-4
「けいん……けいん」
誰かが自分の名を呼んだ気がして、ケインは目覚めた。ベッドから体を起こす。自分が寝ていたのは見慣れた部屋だ。姉と自分がいつも寝室として使っている部屋。
「……けいん」
「アベル?」
再び呼ばれた気がして、ケインは辺りを見回した。自分を呼ぶ声は小さく頼りないが、間違いなくアベルのものだった。
ケインはベッドから降りて部屋を出た。家には誰もいないらしい。中だけでなく外にも人の気配はなかった。
「……けいん」
声は外から聞こえているような気がして、ケインはそのまま外に出る。
「アベル?」
そのまま家の周りを一周する。すると家の裏、ケインの寝ていた部屋の近くにうっすらとした何かが浮かんでいるのが見えた。その何かはケインを見つけると弾むように近づいて来る。
ケインは一瞬身構えた。だがその何かが近づくにつれて、少年の緊張はほぐれていった。
「アベル!」
近づいてくる何かは、化け物の姿をしたアベルだった。だが奇妙なことにその輪郭はぼやけ、薄い水の膜を通して見ているような頼りなさがあった。なによりアベルの体は透けて向こうが見えている。
「アベル、その体どうしたの?」
「昼間ハイツモコウナンダ。ソレヨリ聞イテけいん。オ父サンニ会ワセテクレルッテ」
「本当?」
「ウン。オ父サント同ジ魔術師ノオジサンガ、会ワセテクレルッテ。けいんモ連レテ来イッテ」
「分かった、行くよ」
なぜ自分も行かなければならないのか。ケインはそれを疑問思うことなくアベルの言葉に頷いた。
「ナラ、今スグ行コウ」
ケインの手をとり、アベルは引っ張ろうとする。
「え、いま? ど、どこに行くんだよ」
「森ノ奧。昔探検シタ洞窟ガアッタデショ? アソコニ行クンダヨ」
「なら、準備しないと」
アベルの言っている場所まで少し距離がある。子供の足で往復するなら、帰りは暗くなってしまうかもしれない。
「デモ、オジサンハ早ク来イッテ」
「ケイン!」
躊躇っている少年の耳に、家の中から姉の呼ぶ声が聞こえた。アイラが帰って来たようだ。
「……分かったよ。行こうアベル」
姉に見つかってしまうと、アベルと一緒に行けなくなるかもしれない。そう考えたケインはこっそりと家を離れた。
☆
【我思ウ。汝ハ渦巻ク風ナリ】
呪文は風を生み、風は小さな竜巻となってイェルラを襲う。イェルラは避けることをせず、右手を竜巻に向けて突き出した。
【我思う。汝は貫く氷なり。強く鋭く敵を貫く】
呪文の終了と同時にイェルラの右手から氷の槍が放たれた。氷槍は向かってくる竜巻を貫き、魔術で生まれた風を霧散させる。そしてそのまま魔術師へと向かい、相手の体を貫いた。
「オオオオオ……」
魔術師は
魔術師の胴体には穴が穿たれていた。人であれば致命傷になってもおかしくない位置を貫いたにも関わらず倒れることはない。それどころか傷口から血が流れることもなかった。
「完全に人でなくなってるわけね」
「オオオオオ……」
化け物と成り果てた魔術師が、天を仰いで咆哮した。
【我思ウ。汝ハ猛キ風ナリ。スベテヲ包ミスベテヲ切リ裂クモノナリ。汝ハ何モ残サナイ。タダソコニ無アルノミ】
五節で作りだした呪文により、行使される魔術はより強力に世界の
黒い嵐が巻き起こった。風は草を、枝を、幹を――触れたもの全てを細かく砕き塵へと変えていく。空間を飲み込んだ嵐は、イェルラを中心にその規模を急激に縮小させる。そして彼女が動く間もなく、黒い嵐は小さな球体となった。
そこにイェルラの姿はない。彼女の腹部があった辺りに黒い球体が浮かぶのみだ。その球体を中心に地面は大きく抉れていた。
魔術師の左上半身――肩から脇腹にかけて――が大きく弾けた。膝をつき、片腕で辛うじて体を支える。強力な魔術行使の代償が術者を襲ったのだ。
緩衝する手段を持たない魔術師は大きな怪我を負うが、化け物となってしまった今、そのまま命が尽きてしまうということはない。
突如、黒い球体の内部から光りが溢れた。最初はいくつもの細い光の帯だった。だがその帯はすぐに広がり、黒い球体を逆に飲み込んだ。
「無茶をするものね」
光の中からイェルラが現れた。胸の秘紋が強い輝きを放っている。光は収束し、イェルラの背後で幾何学に並んだ秘紋を作った。真ん中に彼女の胸にあるのと同じ秘紋。その周りを五つの秘紋が囲む。
世界の
イェルラは秘紋を使い、自分の周りを世界の理から切り離して魔術を防いだのだ。
「そこまで節操がないと、捕らえて連れ帰るわけにはいかないわ」
イェルラの背後にあった秘紋が崩れ、純粋な魔力の塊となって魔術師へと迫る。通常、秘紋は文字としての形を正確に真似、魔力を通すことにより擬似的な秘紋を作り出す。その擬似的な秘紋を通じて力を借りるのだ。
擬似的な秘紋を構成していた魔力は鋭い槍となって、魔術師を串刺しにした。
「グォォォォォ」
魔術師は足掻くが、強い力で貫かれた体は動かない。膝をついた姿勢のまま完全に動きを封じられる。この戒めを解くにはより強い魔力で打ち破るしかない。
【我思う。汝は封じる氷なり。永久に続く枷となる。そして汝は滅ぶものなり。ただ静かに崩れ去る】
イェルラの口から五節の呪文が紡がれる。魔術師を貫いていた魔力がその形を変え、貫いた場所から氷となる。それは全身に広がり成長を続け、やがて八面体の氷へと変化した。そして中に魔術師を封じ込めた八面体の氷は、微細な氷の塵となって魔術師共々消え去った。
「相手もようやく動き出したみたいね」
イェルラはローブを脱ぎ捨てた場所まで向かうと、それを拾った。裾の端がすり切れているが、着られないほどの損傷はない。安堵のため息を一つついてから、イェルラはローブを纏った。
☆
テンとビーゲイトは森の中を歩いていた。コエンと別れ、ゼルの捜索を行っているのだ。
昨夜は遅くまで歩きづめだったせいもあり二人の足取りは重い。捜索の範囲を広げたことも手伝って、疲労はかなりのものだった。
「ゼルの野郎は見つからねぇ。化け物には襲われる。散々だな」
テンがぼやく。抜いた剣で下生えを切りながらゆっくりと進んでいる。
「コエンが上手くやってくれてるといいんだが」
「ケッ。あの野郎のことだ。賞金稼ぎ相手に、話し合うつもりじゃねぇのか。問答無用で襲っちまえばいいンだよ。話しすンのはそれからさ」
「そうもいかんだろ。魔導院まで動いてるんなら、俺たちは二つの組織を同時に相手しなきゃならねぇんだ。うかつなことはできん」
「面白くねぇな、クソッ」
「――って――。――ル」
それに最初に気づいたのはビーゲイトだった。どこからか聞こえてくる声。大男は手を上げてテンを制した。テンも声に気づく。
「ねぇ、アベルってば。少し休もう」
耳を澄ますと、声ははっきりと聞こえてきた。
「おい、あのガキじゃねぇのか?」
「ああ」
傭兵たちは互いに顔を見合わせた。二人は注意深く、声のした方向へ足を進める。倒れた倒木の上にケインが座っているのが見えた。その顔はすぐ横の、何もない空間を見上げている。
「デモ、早ク来イッテ言ワレタンダ」
「アベルみたいに早く歩けないんだ」
何もないところから声が聞こえる。アベルはそれを不思議に思うことなく会話を続けていた。
「どこから聞こえたんだ?」
「よく見ろ、何かいる」
言われてテンは目を凝らす。差し込む光に紛れて見えにくくはなっているが、確かに少年の横には〝何か〟いた。それも隣にいるビーゲイトと同じかそれ以上の大きな何かだ。
「おい、まさか……」
透けて見えているそれは、巨大な猿のように見えた。盛り上がった上半身からは丸太のような太い腕が伸びている。
「アイツだ! 俺が見たのは。畜生。ゼルをどうしやがった!」
「! おい、待て」
飛び出したテンをビーゲイトが止めようとするが間に合わない。ビーゲイトは懐から虚笛を取り出すと、決められた符丁にそって笛を吹いた。
「手前ぇ、ゼルをどうした!」
テンは飛び出ると、剣先をアベルへと向ける。ケインたちは突如現れた傭兵に驚いて一瞬、固まった。
「なんでここに」
「それはこっちの台詞だクソガキ」
テンの後ろからビーゲイトが現れる。ケインはそれを見て慌てたようにアベルの方を向いた。
「アベル、逃げよう!」
「
テンは素早く二人に近づくと、一挙動でアベルを斬りつける。アベルはケインの服を掴むと、素早く後ろへ飛び去った。
「僕タチノ邪魔ヲスルナ!」
アベルの瞳が赤く輝き始め、薄い輪郭もはっきりしてきた。透けていた背景が消え、アベルの体の色が濃くなる。だがそれでも、その姿はどこか霞んで見えた。
ケインを横に置いて、アベルは低い唸り声を上げる。
「コエンには合図を送った。時間を稼ぐぞ」
ビーゲイトが言う。手には昨晩の大きな斧ではなく、片手でも扱える幅広の刃を持った戦斧を握っている。大男は戦斧を構えたまま、じりじりと間合いを詰めてゆく。
倒木を挟むようにして、アベルと傭兵たちは対峙した。
「逃げよう!」
ケインの言葉が聞こえないかのように、アベルは体をたわめて跳んだ。空中から太い腕を振り下ろしてテンの頭部を狙う。
テンはそれを体ごと横に動いて躱した。倒木の上に着地したアベルに向けて、ビーゲイトが戦斧を上段から叩きつけるように振る。
アベルは体を捻って躱すが、腕が僅かに切り裂かれた。ビーゲイトの戦斧はそのまま倒木に深く斬り込む。躱した勢いでアベルの体勢が崩れた。
そこへテンが突き刺した。アベルの太ももに剣が突き刺さる。
「イタイ!」
アベルは慌ててテンに向かって腕を振る。だがすでにテンは距離をとっていた。
ビーゲイトは食い込んだ戦斧を力一杯引き抜く。振り上がった状態の戦斧の柄頭を、今度は振り下ろす勢いを利用してアベルに突き込んだ。たまらずアベルが倒木から落ちる。
アベルは倒れた状態から地面を大きく叩いた。腕の力だけで体を浮かせて、ケインの近くまで後退する。
倒木を挟んで再びアベルと傭兵たちは睨み合った。
先に動いたのはアベルだった。自分の不利を悟ったのか、ケインの言葉に乗ったのか、アベルはケインを抱えて逃げ始めた。
「待て!」
テンとビーゲイトが慌てて追いかける。アベルはケインを抱えながら驚くべきスピードで、森の中を走っていた。
「クソッ、追いつけねぇ! 脚に怪我してンのによォ」
テンが悪態をつく。その後ろをかなり遅れてビーゲイトが続く。
アベルと傭兵たちとの距離は詰まらなかった。倒木を乗り越えた時間を考えると、かろうじて見失わないでいることを褒めるべきだろう。
しばらく進んでいたアベルたちの目の前に、人影が一つ現れた。それは昨晩、アベルを追いかけていった傭兵――ゼルだ。
「アベル!」
抱えられたケインはそれに気づいて叫ぶ。だがアベルの足は止まらない。
ケインの叫びを聞いて、テンもゼルに気づいた。
「ゼル! そいつらを
テンの呼びかけに、俯いたままゼルは反応しない。アベルに攻撃できる距離まで迫って来ても動くことはなかった。
アベルはゼルの横をすり抜けて行く。
「おい、ゼル。手前ぇ、どういうつもりだ!」
テンがゼルの元へ走り寄って来る。刹那、ゼルが動いた。剣を抜き、そのまま下からテンに向かって斬り上げる。
「……手前ぇ」
テンは辛うじて自分の剣でそれを受けた。だが予想以上の力で斬り上げられ、テンの手から剣が離れた。ゼルの刃は勢いを止めることなくテンの脇の下、胸の横を切り裂く。
テンは慌てて間合いをとるがすぐに膝をついてしまった。その横に、遅れていたビーゲイトが並ぶ。
「テン!」
「……ゼルの野郎、おかしくなっちまったみたいだぜ」
ゼルは顔を上げてテンたちを見る。その瞳は赤く輝いていた。
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