5-3 車椅子に乗った編集長

 月曜日の放課後、今日の里見は長い時間がかかって書き上げた原稿を持って、水道橋にある出版社に向かっていた。

 カランカランとベルを鳴らしてドアを開けると、まず右手に受付けがあり、担当者に渡されたバインダーに記名をする。エントランスホールには壁際にソファーが置いてあるが、大きなテーブルや観葉植物、衝立等はあまりない。ポトスが二つ三つ、高い場所に吊るして飾られているだけだ。

 この出版社は内部が他と大分違う。例えば、敷居は床から飛び出さないように、というより床の大部分が段差のないつくりになっていたり、洋風建築だがほとんどの扉が引き戸であり、その戸の把手が太く縦に長かったり。廊下も広くとられていて、曲がり角でも途切れない手摺りが付けられている。その他にも様々な、なんだこれ? 変な形だな? と思うような内装や事務用品が使われている。

 この建物は設計の段階から里見のバリアフリーを実現したい、という思いが反映されている。自分の祖母を自宅介護した経験や瑛梨の母の看護婦経験を元に、身体が不自由な人の障壁バリアになる要素をできる限り取り除いたつくりになっている。


「どうもいつもお世話になってます、里見さん」

「はい、いつもお世話になってます。修正した原稿を持ってきました。編集長はご在室ですか?」

「あっ。書き上がったんですね!」

「大変お待たせしてしまい…。あの、こちら毎年のものです」

「いえいえ! この論説は気合いを入れて書くべき内容ですから!


 いつもありがとうございます。こちらは編集長へ直接見せてあげてください。まだかまだかって、楽しみにしてたんですよ〜」

 元気のいい編集者に案内されて1階奥の編集長室へ向かう。コンコンとノックして「里見さんがいらっしゃいました」と声をかける。戸は開けっ放しにしているので入り口までくると、「おっ、待ってました」と言いながらこいこいと手招く車椅子の男性の姿が目に入る。40代に見える男性の両足は膝から下が義足だ。日露戦争で失った。

 前世では平和学習などで戦争について学んでも、あくまでひいおじさん・ひいおばあさん以上の世代から伝え聞くだけだった里見にとって日露戦争は衝撃的だった。編集長と出会ったときも、まず「恐い」と感じた。その頃の編集長は戦場帰りの人間が出す独特の危ない雰囲気を濃く纏っていた。


「なかなか出社できなくてすまなかった。天気が悪いと、どうしても道に出られなくてな」

「わかってますって。でも、雨の日に原稿用紙を濡らす心配がなくていいかも、って思ったりします。自分の方も、中間考査があったりして、学業にかかりっきりで…」


 執務机の横に座り、季節の挨拶のような会話を重ねる。ゆっくりと室内は静かになり、パラ、パラと紙をめくる音だけがするようになった。

 里見が書いていたのは時事・社会的なテーマについてコラムを載せる雑誌『フェガリ』に掲載予定の、肢体不自由者の社会復帰・社会進出と労働力の関係をテーマにした論説であった。今回はリハビリの意味やバリアフリー、補装具の重要性、これらは介護する側の負担軽減にもつながるといった内容になっている。障がい者自身の自立意識の持ちようについても聞き取り調査をして取り入れた。

 述べきれなかった社会の側に求める変化については次回に回る予定だ。どこからか差し止めをくらわなければ。後編は介護を家庭内で完結させることは優秀な労働力になりうる健常者をみすみす手放すことでもある、埋もれている優秀な人材を社会で活躍させよう、という形で締めようと里見は考えている。

 時代的にはとても奇抜な内容である。家庭という聖域を壊そうとしていると思われないよう、柔らかい語り口を心がけた。

 里見は日本の伝統文化を愛しているが、家父長制を盾に増長した男尊女卑は嫌いだし、性別役割分業意識のせいで理不尽な思いをしている人が多いと思う。現代より多くのことを人力に頼った社会なのに、男だ女だとこだわる。性別ではなく、得手不得手を見てその人に合った仕事をした方が能率が上がると個人的に思う。

 まあ、そのためには社会に出て働くということはパワハラ・セクハラが当たり前、という気風が立ちはだかるのだが。女性はか弱いから厳しい世間の荒波に晒されないよう守ってあげなくては、という善意の思い込みは、簡単に不条理な支配や差別へ変化する。

 そもそも、男だからハラスメントに耐えられる、なんてことはないと里見は思う。男だって嫌がらせを受ければ傷つく。傷つけられたら別の自分より弱そうな者に八つ当たりして痛みを紛らわすのではなく、加害者を裁くことでもうこれ以上傷つけられないという安心を得る、その方が心が晴れるのではないだろうか。

 読んでもらっている待ち時間、つらつらと思考を転がしていたので、編集長へ意識を向けていなかった。ふと、編集長の手元辺りに下げていた視線を上げると、ジッと見られていた。いつから見られていたんだろう、と慌てて「すみません、原稿はどうだったでしょう?」とたずねる。一、二ヶ所現代的な言葉を使ってしまっていたので、わかりづらいと添削を受けて説明を添えたり言い回しを変更した。さいわい持って帰って直すことにはならなかった。


「あとはお任せします。よろしくお願いします。

 あとこちら、今年も教会の子らとつくりました。カリカリ梅です」


 里見が風呂敷に包まれた20cm程の高さの壺を差し出す。編集長が顔を緩ませ、身を乗り出して早くくれ、と手を伸ばす。


「カリカリ梅、好きですねー。去年より赤色が薄いかもしれないんですけど、どうでしょう?」

「そうか? いい色じゃないか?一番大事なのは食感だよ。

 うん、普通のシワシワの梅干しよりこっちの方がいいな。刻んでじゃことゆかりと混ぜて食うと、これが美味いんだわ。

 毎年ありがとう。それで金なら払う、というに…」

「材料が元々そちらから融通してもらったものじゃないですか。マージン、利ざやみたいなものだと思ってください」


 里見と瑛梨が定期的にボランティアをしに行く教会の養育院で漬けたこれは、編集長の別れた元奥さんが実家から取り寄せて送ってくる梅を使ってつくっている。日露戦争の帰還兵、傷痍軍人、離婚。軽々しく触れてはいけない、人生の歯車が狂っていた時期がこの人にもあったのだと簡単に想像がつく。


「最近、瑛梨お嬢さんとは? 喧嘩したりしてないか?」

「えーっと、喧嘩はしてないですよ。でも… …、平日の朝昼夕はご飯一緒に食べるようにしてるんですけど、落ち着いてって空気じゃないかもしれません。どっちも次の予定とか、残ってる課題とかを気にしながら食べているって感じがしてて… …」


 養育院の梅仕事も最初は2人で行く予定だった歴史探究部の部室の片付けが終わらず、そちらへ時間を取られてしまった。春菜が血の跡や荒らされた室内を見ると事件の日の光景を思い出して気持ち悪くなってしまう、と言って掃除を欠席したり、異形が鍵が空いていた窓から侵入したことが判明し、戸締り不十分だったとして生徒だけで鍵を使うことができなくなったりしたため手間取った。

 手土産のカリカリ梅は、昨日養育院のボランティアから帰ってきた瑛梨から受け取ったものだ。里見が行けなくてごめん、と謝ると、2人いるんだから片方に予定が入っても対応できるね、と返された。


「あんまりよくねえな。思うに、瑛梨お嬢さんと里見さんはお互いがお互いの、欠くことのできないパーツって感じだ。大切なものの優先度を間違えちゃいけねえよ」


 編集長の言葉を聞いて、里見は「でも予定に遅れたり、やっぱりできません、ってなったら関係する人に迷惑がかかるじゃないですか」と、言いそうになってギュッと口が歪む。人生経験豊富な編集長のアドバイスだとわかってはいるのだ。心の中にある厄介な意固地が、自力じゃ剥がせないくらいガチガチに固まっている。

 外では雨雲が耐えきれなくなったのか、ポツポツと弱く雨が降りだし、少し乾いた道路をまたびしょびしょに濡らしていた。

 里見の中の意固地も、誰かが水を掛けてやわらかくしてくれないだろうか。

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