【Ⅱ】

 今日も今日とて無料タダの残業、もとい研究をしてしまった。特定の遺伝子配列の細胞の培養だ。

 哺乳類由来の細胞は培養が難しい。町工場レベルの設備じゃ全然上手くやれない。そろそろ諦めるときなのかも知れん。あの萌黄もえぎだって卵子と精子を用意し、受精卵をこしらえた上で事をなしたのだから。時間は経ってはいるが―技術の進みは哺乳類由来細胞培養に限って言えば遅々ちちとしたもんである。


 ―んじゃあ。受精卵用意したら?

 その問にこたえるなれば。倫理的な問題が多すぎる。

 そも受精卵を弄くり回す行為。これが人権の侵害になるという考え方もある。なんせ、正しい手順を踏めばヒトになるものを、人格権が生まれるものを、パーツの一部として扱うのだから。命をもてあそんでる―そう言われたら反論不可能だ。まさしくそれをやってるんだから。

 

 一応、萌黄の凍結卵子は残ってはいる。

 しかしだ。こいつを使う気になれないのは何でだろう。よく分からないが忌避きひ感がある。もっとも簡単な方法だと言うのに。失敗を恐れてる―のだろうか?


 嫌な考え方をしてもいいなら。

 利用できる人間を1人あげることも出来るのだが。それを考えると憂鬱だ。なんせ命の恩人だからな。そう、撫子なでしこちゃんだ。

 ああ。なんで俺は簡単な事を避け、最悪な方法を思い浮かべているのだろう?


                    ◆


 

「ただいまっと」と俺は1人暮らしのはずの家で言う。

「おかえりっと」と返事。ああ、やっぱ居るのね、撫子ちゃん。勘弁してほしい。特にここ最近は顔を見るのが辛い。

「勉強、進んでっか?」と俺は当たり障りのない話題から入っていく。

「ぼちぼちと。世界史がしんどいかなあ。中国史苦手なんだ」撫子ちゃんは意外と理系だ。普段は文系な感じさせてるんだが。

「ああ。あのへん漢字ばっかだし、内ゲバ多いしメンドーだよな」俺も…いや一生も苦手だったな。世界史。アイツはギリシャの文化史とかダメだった、人名が頭に入ってこなかったらしい。

「そうなんだよ…なんで理系なのにこんなんせにゃならんのか」といいつつおでんを運ぶ撫子ちゃん。

「そら君の志望校が求めてるんだからしゃあなし…」と俺はワンルームの真ん中のこたつに入りながら言う。

「生命化学に世界史って関係あるかな?無いと思うんだけど?」と撫子ちゃんはちくわとか大根とかひょいひょい持ち上げて取皿に入れてくれる。

「専門馬鹿にならんようにするためには必要…というか名を残すような科学者は大抵文化にも通じてる…発想力のある人間は知の種類を問わない…ところで牛串ある?」なんて何で俺が偉そうに言ってんだか。

「言われて見ればそうかな…ニュートンもデカルト読んでたって言うしね…いや。牛串無かったらおでんじゃないじゃん」牛串は未だに西日本の文化みたいだけどな。

「いや、関西と九州くらいのもんだぞ。おでんに牛スジ串いれるの」

「まじで?」なんでそこに食いつくのか。

「マジだ…もしかしてちくわぶとかご存知ない系?」ちくわぶ…東日本のおでんにのみ存在する種。小麦粉の塊のネチャついたアレだ。

「ちくわじゃないの?」と言う。彼女は九州っ子だからな。まあ、知らんのも不思議はない。俺も知ってるのは親戚が―一生の―関東に居たからだ。

「いや小麦粉の塊…すいとんに似てるかもな」

「すいとん…あんま食べた事無いや」なんとなくだがすいとんも関東のがメジャーだった気がする。

「ま、所変われば何とやらって奴さ。今のご時世になってもローカリティってのは消えてない」遺伝子の移動が頭にちらつく。あれの移動、種の移動は―遅々としたもんだった。だから、どんだけ現代社会が便利になろうとローカリティは残る…

「いい加減均質化されたと思うんだけどねー方言とか絶滅危惧種だよ」と彼女は言う。言われてみれば彼女はあまり訛ってない。まあ、俺も関西から来た割には訛ってないけど。そう考えると文化というミームの移動は早いもんだ。生物とは大違い。

「そう言うたかて、自分訛ってんで、標準語」なんて方言でイジってみる。ふざけたい気分なのだ。そうしてないと―仕事場で考えてた事が頭によぎってしまう。

「そうでもなかろーもん?」と撫子ちゃんもノッてくれる。ありがたい。こうやってずっとふざけて、可能性なんてモノに目を向けないようにしなくては―


                 ◆


 

『ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし』

 ―方丈記の一節。私は河原を歩きながらそれを思い浮かべていた。一生さんに専門バカになるなって言われたからじゃないけど。

 私はこの文ほど時間の特性を言い当てた文を知らない。いや。知らないだけかも知れないけど。


 私達の時間は否応なしに未来へ向かっていく。今が進んでいく。そして過去を置き去りにしていく。

 その過程でいろんな物を失っていく。それは定めだ。この酸素にまみれた地球に住む私達は酸化をまぬがれない。それは腐食し、私達を損なっていく。しかし、それが無いとエネルギーの産生さんせいもままならない訳で。


 ヒトという生物はサルの時に両手をから開放し、運動能力を犠牲にして知能を得たという。そして知能は言語を産んだ。言語はコミュニケートを可能にし―他我たがという概念が産まれた。自らの外にある者を自らになぞらえて理解し始めた。


 自らが在り、他が在る。そうすると―関係性が産まれる。動物にも高度な社会はあるが、人間の社会は発展が早く、より複雑だった。言語の発達も大きなファクターだが、なにより、運動神経を大きく落とした事が影響しているのでは無いだろうか?そう、協力しないと生活がままならないのだ。


 協力する社会では規範が求められる。そのために他我を利用する。社会の成員せいいん同士で縛り合うより―何か大きい存在を想定したほうが都合がよろしい。かくして神が登場する。そして神はイデオロギー、宗教を創る。


 さて。ここで話をすっとばそう。現代は無宗教の時代だ。宗教家には悪いけど。

 しかし。死という宿命だけは現代化の波をのがれてる。未だに宗教の力を借りないと処理できない。

 だから運命とか定めとかが『死』という言葉にくっつきがちだ。

 私の姉も運命の決するところにより―消えた。


 わたしは運命という概念が大嫌いだ。いつだってロクな事しやしない。今度は一生さんを連れて行くんだよ?そんなの認めない。

 だから。わたしは生命科学を学ぶ。クローン体だろうが、まっとうな人生を歩ませる。

 それが私の未来。

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