第4話 血液型検査ミス事件

「ここが医学部棟だよ」と兵頭部長が私に言った。


明応大学の医学部は文学部や法学部があるキャンパスからは離れていて、大学病院の裏手にある。私と神田君は兵頭部長に連れられて午後四時頃にこの医学部棟に来た。約束の法医学教室の見学をするためだ。


ちなみに仲野さんは気が進まないと言って辞退した。ほかに用があったのかもしれないけど。


兵頭部長は慣れた足取りで医学部棟に入り、一階の一番奥にずかずかと歩いて行った。廊下にはロッカーや機材のようなものがたくさん並べられていて、狭く、かつ、薄暗くなっている。何となく気味が悪い。


「法医学検査室」と書かれた室内札があるドアを兵頭部長が軽くノックして、返事を待たずにドアを開けた。


「やあ、たかし」と室内にいた、白衣を着た男性がこっちを見て言った。


二十代後半くらいの年齢に見えるが、どことなく兵頭部長に似た顔だちだった。


一樹かずき兄さん、今年も部員を連れて来たよ。よろしく」とその男性にあいさつする兵頭部長。そして私たちに、


「僕の従兄で法医学教室の助手をしている立花一樹さんだ。一応医者だから、立花先生と呼んでね。もっとも臨床医にならずに法医学教室に入局した変わり者だけど」


「本人の前で言うな」と言って笑う立花先生。気さくな人のようだ。


「明応大学商学部一年の神田です。今日はよろしくお願いします」頭を下げる神田君。


「明応大学文学部一年の一色です。よろしくお願いします」と私も頭を下げた。


「ようこそ、神田君に一色さん。じゃあさっそく説明しようか」と立花先生。


「法医学教室とは、警察や検察庁からの依頼を受けて事件や事故で亡くなった人を解剖して死因などを調べるところだけど、解剖時に遺体から採取した検体を検査するのがこの部屋さ」


その部屋には実験台や流しがあり、棚の中には薬品の入った瓶がたくさん並んでいた。実験台の上にもフラスコやビーカーやスポイトなどが雑然と置かれている。


「何の検査をするんですか?」と聞く。


「こっちの実験台では主に血液型を検査してる。奥の実験台では薬物や毒物だね。もうひとつの部屋では遺体から採取した臓器の組織標本を作って、顕微鏡で観察したりしているよ」


「立花先生は主に血液型を検査しておられるんですか?」


「うん。本人の身元確認のためにね。身元がわかっている人も一応検査するよ。ただ、検査しているのはABO式血液型だけで、識別能力はあまり高くないけどね」


「と言いますと?」


「犯罪現場で犯人の血痕が見つかって、その血液型が検査でA型と判定されても、日本人なら十人のうち四人がA型だから、誰の血液か特定するのは難しいってことさ」


「ただ、B型と判定されれば、A型の人の血じゃないってことは言えるんですよね?」


「そうだね。肯定は難しいけど、否定は簡単だね。・・・それに、解剖遺体の血液型検査だけではなく、たまに生きている人の親子鑑定をすることもあるよ」


「親子鑑定ですか?」


「ああ。血液型は遺伝子で決まるからね。メンデルの遺伝の法則に従うから、両親の血液型から子どもの血液型は限定されてくるんだ。それで本当の子どもかどうかを調べるんだ」


「親子鑑定についてなら僕も知ってるよ」と神田君が口をはさんだ。


「甲賀三郎の『血液型殺人事件』というのを読んだことがあるんだ」


「どんなお話なの?」


「両親と血液型が合わない子がいてさ、それが原因で殺人事件が起こるって話さ」


「おもしろそう」


「その推理小説では、A型とO型の両親からはB型の子どもは生まれないって書いてあったよ」


「そうだね。ところで君たちはチャールズ・チャップリンを知ってるかい?」


「ええ、無声映画時代の喜劇王ですよね?」


「チャップリンは四回結婚していて、その相手はいずれも十代の女性だったんだ」


「・・・え?」私は思わず引いてしまった。若い子好きだったのか、チャップリンは?


「ある時二十代の女優から、自分が生んだ子どもの父親はチャップリンだと訴えられてね、血液型を調べて親子鑑定をしたら、母親がA型、チャップリンがO型で、子どもはB型だったんだ。チャップリンが父親なら、子どもはA型かO型にしかならない」


「じゃあ、チャップリンが父親という訴えは退けられたんですね」と神田君が言った。


「ところが当時は血液型が裁判の証拠として認められていなかったから、結局チャップリンが父親で養育費を払うようにって判決が出てしまったんだ」


「それは・・・」神田君が口ごもった。「チャップリンもとんだ災難でしたね」


「まあ、普通はそうだね。だけどまれに血液型の遺伝子で突然変異が起きて、本当の親子なのに血液型が合わないってこともありそうなんだ」


「そうなんですか?・・・その疑いがある場合はどうするんですか?」と私は聞いた。


「遺伝子の本体であるDNAを詳しく調べればわかると思うけど、今はまだDNAを直接調べる方法が開発されていないからお手上げなのさ」(註、昭和四十四年当時)


その時検査室のドアが開いて、白衣に身を包んだ初老の男性が入って来た。


「おや、来客かね?」とその男性が聞いた。


「は、はい。一年生が見学したいと言って来たので、血液型検査の説明をしていたんです」


「お邪魔しています」と私は頭を下げた。「私はぶ・・・」


その時、兵頭部長が私の口を押さえた。私は声が出せなくなったが、兵頭部長の顔を見て振りほどこうとはしなかった。


「あ、先生、昨日は検査をミスして申し訳ありませんでした」と立花先生。


「間違うことは誰にでもあることだから、気にしなくていいよ」とその男性は言って検査室を出て行った。


「何ですか、部長?」兵頭部長が私の口から手を離したので問いただした。


「ごめん、ごめん。医学生ならともかく、関係ない文学部の学生が出入りしているのを知られると一樹兄さんの立場上まずいので、君の自己紹介を阻止したんだ」


「そうですか。・・・今の方は教授ですか?」


「そう、法医学教授の有田先生だよ」と立花先生が言った。


「ところで一樹兄さん、何かへまをしたの?」


「うん。・・・実は昨日司法解剖があってね、不幸にも事故で亡くなった学生なんだけど、解剖の後で血液型を検査してその結果を紙に書いて教授に提出したんだ。すると今朝、教授がこの血液型が正しいか、もう一度検査してくれって言ってきたんだ」


「それで検査し直したの?」と聞く兵頭部長。


「うん。・・・昨日の検査ではB型と出たんだけど、今日やり直したらA型だったんだ。本職の法医学者として痛恨のミスだよ。検体はひとつしかなかったから間違えるはずないし、抗血清を取り違えたのかな?・・・間違えずに検査したつもりだったけど」


「手慣れた検査だからこそケアレスミスをするんだよ」と兵頭部長が言った。


「どういう風に検査をするんですか?」と私は興味を持って聞いた。


「実際に検査してみせようか?・・・今朝の検査結果の確認にもなるから」立花先生はそう言って冷蔵庫から試験管を六本ほど出してきた。


ガラスの試験管にコルク栓が差され、その上を油紙で覆って輪ゴムが巻かれていた。


「これは被害者の赤血球」と言って透明な液体の中に赤いものが沈んでいる試験管を私たちに見せる立花先生。管壁に番号がマジックで書いてあった。


「そしてこれが被害者の血清」今度は薄黄色の液体が入った試験管だった。同じく番号がマジックで書いてある。


「解剖時に採取した血液を遠心分離して赤血球と血清に分け、赤血球には生理食塩水を加えて懸濁させるんだよ。これを赤血球浮遊液と呼ぶんだ」そう言って立花先生が最初の試験管を軽く振ると、赤いものが液体と混ざって全体が赤い液体になった。


「同じように血液型がわかっている人の赤血球と血清だよ」と残りの試験管を見せる立花先生。二本の赤血球浮遊液が入った試験管にはAまたはBと、二本の薄黄色の血清が入った試験管には抗Aまたは抗Bとマジックで書いてあった。


さらにガラスの時計皿を2枚出すと、スポイトで被害者の赤血球浮遊液を数滴ずつ両方の時計皿に入れた。そして別のスポイトで抗Aと書かれた試験管の血清を片方の時計皿に、同じく抗Bと書かれた試験管の血清をもう一方の時計皿に数滴ずつ垂らした。


立花先生が2枚の時計皿を軽く揺すると、抗Aの血清を入れた方の赤血球が固まり、抗Bの血清を入れた方は固まらなかった。


「やはりA型だね。A型の血球を凝集させる・・・つまり固める抗Aの血清はB型の血液から分離したもので、抗Bの血清はA型の血液由来さ。A型の人の血液にはA型の赤血球と、B型の赤血球を凝集させる抗血清、抗B血清が含まれているんだ」


「A型の血液に抗B血清が含まれているんですか?」と神田君が首をひねった。


「そうだよ。A型の人の血液に抗A血清が含まれていたら、自分の血管内で赤血球が凝集して、血管が詰まって死んでしまうからね」


「逆にB型の人の血液にはB型の赤血球と抗A血清が含まれているんですね?」と私が聞いた。


「そういうこと。ややこしいと思うかもしれないけど、自分の赤血球の型と違う型の抗血清が混ざっていると考えればわかりやすいんじゃないかな?ちなみにAB型の血液にはAB型の赤血球があり、抗A血清と抗B血清のいずれも含まれない。O型の血液にはO型の赤血球があり、抗A血清と抗B血清の両方が含まれているということさ。表にすればわかりやすいかもね」


「ということは、被害者の赤血球でなく、血清を使っても血液型は調べられるんですか?」と私は聞いた。


「そういうこと。君は賢いね。検体の赤血球に既知の型の抗血清を加えて血液型を検査するのを表検査、検体の血清に既知の型の赤血球を加えて血液型を検査するのを裏検査というのさ。実際にやってみよう」


立花先生はさらに二枚の時計皿を出して、それぞれに検体の血清を加え、さらにAとマジックで書かれた試験管の中の赤血球浮遊液を一方の時計皿に、Bと書かれた試験管の中の赤血球浮遊液をもう一方の時計皿に滴下した。


軽く揺するとA型の赤血球が固まり、B型の赤血球は固まらなかった。


「A型の赤血球が固まりB型が固まらなかったから血液型はA型ですね?」と神田君。


「違うよ!A型の赤血球だけが固まるのはB型の血清と混ぜた時だよ!」立花先生が叫んだ。


「ああ、ややこしい」と神田君が頭を抱えたが、問題はそんなことではなかった。


「被害者の赤血球で検査するとA型、血清で検査するとB型と判定されました。・・・矛盾してますね」と私は指摘した。


「そうなんだよ。表検査用の血清の型の書き間違いか、裏検査用の赤血球浮遊液の型の書き間違いか・・・。いずれにせよ正しい血液型がわからない!大変だ!すぐに教授に報告しないと!」あわてて検査室を出ようとする立花先生。


「待ってください!」と私は立花先生を制した。


「昨日の検査結果はB型、今朝の検査結果はA型だったんですよね?昨日も今朝も、表検査と裏検査の両方をされたんですか?」


「い、いや、どっちも表検査しかやってなかった。・・・表検査用の抗血清は冷凍保存できるけど、裏検査用の赤血球浮遊液を冷凍すると赤血球が溶血して使えなくなるんだ。赤血球浮遊液は冷凍庫でなく冷蔵庫でしか保存できず、それでも自然に溶血するから長くはたない。だから普段は表検査しかしてなかった。教授もそれでいいと了承してくれていたよ」


「でも、今はすぐに裏検査をしてみせてくれましたね?」


「二、三日前に入手した新しい血液で抗血清と赤血球浮遊液を作ったばかりだったんだ。その時はB型の赤血球浮遊液と抗B血清を混ぜて、ちゃんと凝集することを確認した。その赤血球浮遊液がまだ冷蔵庫に残ってたから裏検査がすぐにできたんだ」


「二、三日前は検査用の赤血球浮遊液と抗血清は間違ってなかったんですね?そしてそれらを使って昨日は被害者の血液を表検査でB型と判定した。ところが教授がなぜか今朝に限って検査のやり直しを命じ、表検査をやり直したらA型になった。昨夜のうちに誰かが抗A血清と抗B血清を入れ替えたんじゃないですか?」


「だ、誰かって?・・・まさか、教授が?」


「それはわかりませんけど、正しくB型と判定されたら困る人がいたのかもしれませんね。それが教授ご本人なのか、すり替えを頼んだ別の人がいたのか、私にはわかりませんけど」


「まさか、死んだ学生が戸籍上の父親の子どもではなかったとか?」と兵頭部長。


「ぼ、僕はどうしたらいいんだ?教授を問いただすべきなのか?」今度は立花先生が頭を抱えた。


「試験管にマジックで書いた文字が変わってたってこと?マジックで書いた文字が消せるの?」と神田君が聞いた。


「いくらマジックでも、ガラスの表面に書いた文字は洗剤を付けてブラシでこすれば簡単に落とせるんだ。僕の筆跡を真似て書き直されたら、気づけないよ」


「法医学教授のような、血液型検査の重要性を理解している人がすり替えたのなら、また元に戻そうとするでしょうね。試験管に目印をつけて、明日の朝にでも確認してみたらどうですか?・・・それから教授の先生に問いただすかどうかは、先生にお任せします」と私は立花先生に言った。


「試験管の下の方にアンプルカッターで目印の傷を付けておくよ」


「市販の抗A血清と抗B血清には色がついてたんじゃなかったっけ?確か青と黄色の」と兵頭部長が聞いた。


「そうなんだけどね、市販の抗血清は値段が高いから、うちのような貧乏教室では自前で用意した抗血清を使ってるんだ。血液から分離しただけの血清は色では識別し難い・・・」と立花先生がぼやいた。

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