ガーリャの青い文字

いときね そろ(旧:まつか松果)

ガーリャの青い文字

 家の中はあらかた片付いた。あとはガリーナが使っていた部屋だけだ。

 アントニーナは狭い部屋を見回した。由緒ありげな家具類は全て白い布で覆われている。軍に接収された後、この部屋は将校の夫人たちに使われるのだという。悔しいが、自分にはどうにもできない。


「お嬢様、これはなんでしょうね」

 マーシャが掃除の手を止めて驚いている。見ると、ベッド脇の壁に青い文字のようなものが不規則に並んでいる。

「なにこれ……落書き? じゃないわよね。水晶魔女は文字を書くのを禁じられていたし、まず筆記具だって持ち込めなかったもの」

 だが、そこに並ぶものは確かに文字としか言いようのない形状だ。ほとんど読み取れないが、同じ単語を繰り返し書いたようにも見える。


 この世に存在の記録を残さないため、筆記を禁じられていた水晶魔女。だが一度だけ、ガリーナにせがまれてこっそり教えたことがある。水差しの盆の上にこぼれた水滴を、指で辿って。あれはなんの文字だったか……思い出しながら壁の文字跡に触れたアントニーナは、指についた青い色を見て怪訝な顔をした。

「これ。パステル、じゃないわね。チョーク?」

「裁縫用のチョークでございましょう」

 マーシャがしみじみと答えた。

「その……わたくしがこのお部屋でチョークの欠片を落としてしまったことがございました」

 アントニーナは驚いてマーシャを見、壁の文字を見、そしてフフフッと笑った。

「私たちふたりとも、掟破りをやってたわけね。ママに知られたらおおごとだわ」

「お叱りは覚悟いたしておりますよ。さ、消してしまいましょう」


 石鹸水で拭き取られていく青い文字。ほとんど形にならない中で、最初の文字だけは丸い形に整おうとしているのがわかる。指で追いながら、アントニーナは記憶を辿った。自分が教えた時、ガリーナは何を綴っただろう。

「まって。これ、丸じゃなくてOオーだわ。Oで始まる単語……あ!」

 小さく叫んでアントニーナはマーシャの手を止めた。

「オーレグ。そうよ、オーレグと読める。これも、これも。全部そうだわ。ああ、ガーリャったら!」


 光に透けそうなガリーナの笑顔が記憶に蘇る。

 水晶魔女として、誰に対しても平等に、公平にふるまっていたガリーナ。繰り返し繰り返し十三歳という時間を生きる少女のまま、個人的な感情など誰にも見せなかったガリーナ。だが。


「この壁、ベッドの天蓋に隠れて誰にも見えない場所でしたよ。オーリャ坊ちゃんの名前を書いていらしたとは……これは何かの魔法でしょうかねえ」

「ばか言わないで。ただの文字よ。ガーリャったら、こっそり文字の練習をしてたんだわ」

 アントニーナは立ち上がり、眼尻の涙を拭いながら窓の外に顔を向けた。

「自分の名でもなく、詩の言葉でもなく、オーレグの名をね……オーリャも馬鹿よ、こんなに愛されてたのに気づいてなかったなんて。まったく」

 そのまま勢いよく窓を押し上げ、アントニーナは寒い空に叫んだ。


「そういうところが嫌いって言ってるの! だいっきらーい! だいっきらーい! だい……」

「お嬢様」

 マーシャに肩を抱きかかえられて、アントニーナは泣きながら笑った。

「あはは、みぃんな、いなくなっちゃった。パパも、ガーリャも、オーリャおとうとも」

「わたくしはいなくなったりしませんよ、お嬢様。お屋敷に住めなくたって、ガートルード様と一緒に森の中で待っておりますとも」

「うん」

「街が辛くなったら、いつでも帰っていらっしゃいまし」

「うん」


 風に乗って、黄金色の葉が一枚、部屋の中に舞い込んできた。アントニーナはそれを手に取って、大切に掌に包んだ。


《了》




 



 



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