「ヴェネツィアの宿」に出会う

須賀敦子の「ヴェネツィアの宿」を読んでいた。


 出発前夜、遊びまわっていたせいで荷詰めは全く終わっておらず、とにかく「必要そう」なものを畳の上にほっぽってばかりだったのを徹夜して詰めていた。ふと街を歩いている時に思い立っていた「あれ持っていかなきゃ」というアイデアは、そのまま空のどこかに霧消していたりしたのが、部屋をうろつくうちにひょっこり戻ってきては、代わりにたった今詰めようとしていたもののことが頭から転がりおちて、「なにしようとしてたんだっけえ……」と呻きつつ、8畳の自室のあまりの散らかり具合に情報を処理しきれず、ただこんがらがった頭を抱えて右往左往していた。


とにかく何冊か本を持っていくのは決めていたし、持って行きたい本はiPhoneのメモにリストを作ってあったのを、それすら忘れて、とにかくこげ茶の本棚の前に立ちはだかって並ぶ背をぼうっと眺めていた時にヴェネツィアというまちに反応して手に取った。


“懐かしい人達はここにいる”とひと昔前のデコラティブな、スナックの看板なんかに使われていそうな書体で帯に書いてあった。池澤夏樹編集の日本文学全集、パステルカラーの可愛らしい(ただしとても分厚い)のずらりの中に名前を見つけて以来、名前の字面が妙に記憶に残って、ブックオフオンラインで古本を一気に買った時にふいと買い物かごに入れるボタンを押したものだったと思われる。ひょいと本棚から取り出して、もっていく、と決めたものをただ投げ集めているエリアにそれは収まった。


 海を越えて数ヶ月が経った。えいえんと積み上がっていくリーディング課題を脇に寄せて、勉強机に備え付けの心地よい暖色のランプを、ベットライト代わりにして寝る前に少しづつそのエッセイを読み進めていたのだった。オリエンタル・エクスプレスと彼女の父の死の章を読み終えて、自分の父が死んだら、わたしはちゃんと泣くのだろうと、初めて確信が湧いて起こった。


 両親の死が自らにどんな感情をもたらすのか、私はあまりわからなかった。いつまでも互いを貶し、哀れみ合っている両親の下で育って、私は父母の欠点ばかりが目につくようになっていた。あわれなひと、という言葉を時折つぶやいてみることもあった。あわれなひと。不良上がりの板前だった父と、いわゆる成金の材木屋の長女で、当時としては珍しくアメリカに一年留学したりしたようなお嬢さんの母という組み合わせは、バブルの狂った熱気によってしか生み出されることはなかっただろう。


毎週末のように大喧嘩が繰り返されていた頃、使われていなかった畳敷きの客間を自室として手に入れたのが不幸中の幸いと、不穏な空気を感じ取ったら部屋へ逃げ込むようにしていた。しかし自室は喧嘩の主戦場たる二階のリビングの真下に位置しているせいで、彼らの怒鳴り声やヒステリックな笑い声は筒抜けて聴こえるし、戦いが幕を下ろせば、まず酷い勢いで閉められたドアの暴力的なバタンという音に続いて、階段を降りて私の部屋に向かう母の、普段より乱暴な足音、そして極め付けにわざと明るい歌うような調子を作ろうとして、でも失敗した震え声で、「トントン」と発声しつつ扉を叩く母が迫ってくる。苦々しい気持ちで短くどうぞ、と答えて母を入れる。むりにあげようとした口角が張り付いているようで気味が悪く、目をそらす。そこで先ほどまで聞こえていた喧嘩のリプレイに加えて、いつも同じ、「いい人なんだけど、」という短い留保とともに始まる彼の無計画性、無知、あるいは気の回らなさに対する愚痴を、またそれによって自分が受けた仕打ちの愚痴を、時には涙とともに撒き散らす。


私は高校三年生だった。親、というより一人の、そう、「あわれなひと」としての母の姿は、だいぶ前から私の目に明らかで、そうして少女のように泣く母を前に、その絶望的な現状に、どうすることもできず、ただ黙っていた。その頃から、足のかぶれを掻き潰してはシミにするのが、やめられないでいる。


 酔いつぶれては洗面所の床に転がり、吐瀉物を玄関に撒き散らしたままトイレに何時間も籠もったり、物凄い音を立てて深夜/早朝に帰宅して、壁にぶつかりながら意味のわからない言葉を撒き散らしたり、韓国人と中国人を差別し、ネットのいかがわしい「メディアに隠された日本の真実」みたいな動画から得た情報でご高説を振り回す、疎ましい、醜い、だらしない、そうして「俺の料理はうまい」とただそれだけを繰り返しながら、祖父の葬式の費用が払えず母親に金を借りた代償でキッチンを使うことも許されずに一年半が過ぎていて、時給千円ちょっとの郵便配達のアルバイトと、経営していた店をひとに貸して得ている家賃収入とで、バブルの頃の癖が抜けずにすぐにタクシーを呼び、高額の寿司屋に通い、フェラガモの靴を買う、貯金など一切している様子の無い父親のことを考えるのはさらに憂鬱だった。その存在そのものが坂道を転がり落ちていくように、そうしてそれを認められない、「セールスマンの死」のウィリィみたいに、現実から少しずつ遊離していくように、見えて。


もう一度、「オリエンタル・エクスプレス」を読み返す。セールスマンの死を観たときも、たくさん泣いた。

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