無邪気な少年時代はここに終わりを告げる

 突如現れた武者たちによる襲撃。妖の都に降りかかった未曾有みぞうの混乱は、そこまで長く続いた訳ではなかった。始まりが唐突なら終わりも唐突、ある時を境に武者の出現がぱたりと止んだのだ。

 とはいえ、都の空気は未だに緊張を保ったままだ。理屈が分からない以上は再び同じことが起こっても不思議ではない。降って湧いた平穏が仮初のものでないと、誰が証明出来るだろう。

 油揚げ屋の店舗にて、小雪は少しだけ開いた扉の隙間から慎重に外の様子を伺い、店の奥で身を寄せている店員たちに告げる。


「あの妙な武者たちは消えたみたい。一体何がどうなってるんだか……」


 何てことない顔でやれやれといった体を装ってはいるが、小雪の内心は先程から気が気でなかった。


「あのさ、守って貰ってるくせに何様だって感じだけど、冷良のところに行かなくていいのかい?」


 まるで内心を読んだかのような頃合いで疑問を投げかけてきた陽毬に、小雪は力のない笑みで応じた。


「……私が行っても足手まといになるだけだから」


 小雪は妖としては比較的強い部類だが、戦士ではない。一瞬の遅れが命取りになるような戦いでは、あっという間に殺されてしまうのが目に見えていた。

 嘘は口にしていない、建前でもない。

 ただ、いましめではあった。他ならぬ自分に対しての。

 感情が理屈を押しのけるのは容易い。だからこそ、言霊ことだまという強い鎖で自分を縛る必要があった。それでも不安が残るからこそ、小雪はここにいる。陽毬たちを守るという理由をつけて。

 彼女はそれを不義理だと感じた。同時に、そんな申し訳なさそうな表情を浮かべる必要は無いのに、とも。

 気まずくなってしまった雰囲気を変えようと、両手を打ち鳴らして話題を変える。


「さて、ひとまずの危機は去ったわ。これからどうするか――」

「あれ……?」


 陽毬は狐の耳をぴくぴくと動かしていぶかしげな表情を浮かべる。獣が由来の妖は五感が優れていることが多いが、彼女は特に聴覚が並外れているらしい。


「どうかしたの、陽毬?」

「何か……大勢が城へ向かって走ってる」


 言われて再び外を覗いてみれば、確かに城へ向かって走る妖たちの姿が目に入った。


「酒呑童子様が首謀者を捕まえたぞ!」

「どうやらまだ子供の雪女らしい!」

「舐めた真似してくれやがって!」

「皆でなぶり殺しにしてやろうぜ!」

「――っ」


 感情を縛る鎖が砕け散る。ここまでの我慢が嘘のように、あっさりと。


「小雪ちゃん!?」


 陽毬の叫びも、店を飛び出した小雪が足を止める理由にはならなかった。


「ああもう!」

「陽毬!? 一体何がどうなって――」

「親父たちはこのまま隠れてて!」


 小雪が聞いた内容は陽毬にも聞こえていたらしい。事情を飲み込めていない店員たちを放置して後から追いかけてくる。

 単純な身体能力で比べるなら陽毬の方がずっと上だ。服装も陽毬の方が走りやすい。

 それでも、先を走る小雪に、陽毬が追い付くことは無かった。


     ◆


 見知った人たちが悲痛な表情を浮かべている。

 嫌だなぁと思いつつも、今の冷良にはそれをどうにかしようという気力すら残ってはいなかった。


「おう、しっかりと捕まえて来たみてぇじゃねーか」

「ああ」


 酒呑童子によって無造作に放り投げられ、受け身も取れないまま地面に転がった。

 衝撃が冷良の身体を通り抜ける。が、それだけだ。打ちのめされてぼろ雑巾のようになった冷良の身体は、外部からの刺激などあっという間に痛みの彼方へと飛ばしてしまう。

 咲耶姫の加護はとっくに尽きている。治る傍から滅多打ちにされていては、権能で溢れる生命力も焼け石に水というものだ。

 崇徳が嗜虐しぎゃくに満ちた笑みを浮かべながら近寄って来た。


「よう、威勢のいい巫女。いい格好になったじゃねえか」

「が……ひゅ……」


 言い返そうとしても空気は喉を素通りし、意味の無い風音を立てるばかり。


「お前がどうしてこんな目に遭ってるか分かるか?」

「俺が説明しておいた」

「そうかそうか! 残念だったなぁおい、たくらみが上手くいかなくて」


 違う、と声高らかに叫びたかった。


「前ん時みたいに突っかかってみろよ、『力には屈しません、私は弱者の味方ですぅ!』って感じでな! ぎゃっはっは!」


 面白半分に髪を掴まれ、額を地面に打ち付けられる。

 何度も、何度も何度も何度も――


「もう止めてくださいまし! 冷良さんが死んでしまいますわ!」

「あん?」

(駄目だ、紅さん……!)


 正義感というよりは、凄惨せいさんな仕打ちを見ていられなくなったのだろう。けれど今は悪手だ。崇徳は気分が乗っている時に水を差されるのを嫌う。そして冷良に容赦しない輩が、全く同じ立場の紅に容赦する理由は無い。

 ゆっくり、じわじわ追い詰めるように、崇徳が紅へと近付いていく。

 二人の間に幹奈が割って入るが、それが責任感による悪あがきに近いものであることは、彼女の決死の表情が物語っている。


(どうにかしないと……どうにか……!)


 自分の為ではなく大切な人たちの為、最後の一滴まで気力を絞り尽くして痛みにあらがう。どうにか寝返りを打てたところで、崇徳がこちらに気付いた。

 奴の興味が幹奈たちから逸れただけで万々歳。後は這ってでもすがりついて抗ってやる。


「……その目、気に入らねえ。やっぱ殺すか」


 愉快そうだった崇徳の表情から笑みが消え、その手に葉団扇が現れた。崇徳は無造作に腕を振り上げて――どこからか飛来した氷解を叩き落とした。

 怒りを宿した崇徳の視線を追ってみれば、そこには荒い息を吐く小雪がいた。傍らにはやっちまったとでも言いたげな陽毬の姿もある。


「……一応聞いといてやる、何のつもりだ?」

「うちの可愛い冷良に何してんのよこの長っ鼻!」

「痛めつけたのは俺だがな」


 律儀に補足を入れた酒呑童子に、小雪の冷たく鋭い視線が突き刺さる。まるで弟をいじめた悪がきに突っかかる姉のようだ。

 だが、今彼女が突っかかっている相手は悪がきではない。その意味は、妖である彼女が誰よりも理解している筈なのに。


「……今まで人間も妖も大量にぶっ殺してきたが、ここまで虚仮こけにされたのは初めてだ」

「だったらどうだってのよ」

「いつも変わらねえ――ぶっ殺す! その後に着物ひん剥いて都中で晒し者にしてやらぁ!」


 再び葉団扇を振りかぶった崇徳に、今度は冷良が氷柱を飛ばす。身体は動かせなくても、少量の妖力ならどうにか集めることが出来た。怒りで目の曇っていた崇徳は気付くのが遅れ、危ういところで身を反らして不意打ちから逃れた。

 仮に命中していたとしても、大した痛手にはなっていなかったであろう、ささやかな反抗。それでも今の崇徳にとっては、逆鱗を逆撫でされるに等しかったらしい。


「邪魔すんじゃねえ死にぞこない!」

「ぅ……」


 全力で振り抜かれた蹴りが、冷良の顎を直撃した。脳が揺れ、意識と天地の感覚が曖昧になる。

 今度こそ邪魔者のいなくなった崇徳は激情のまま小雪を亡き者にしようと――


「崇徳! 酒呑! 一体何やこの騒ぎは!」

「ああぁっ!?」


 都合三度目となる横槍は、空から入れられた。

 騒動が始まっても姿を見せてこなかった玉藻前だ。たしか先日発生した地震の影響を確かめるために近隣の集落を回っていたのだったか。遅ればせながら都の異変に気付いて急遽きゅうきょ戻って来たというところか。羽を持ってないのに空中に浮かんでいるが……まあ、神通力を持っているなら不思議でもない。


「今度はてめぇかよ九尾の! 一体何なんだ!」 

「せやから、『何だ』はこっちの台詞やて。都中ぼろぼろであちこち殺気立っとる、おまけに呼び付けた客は拘束され、内一人は半死人みたいな有様。うちが納得出来る理由はあるんやろなぁ?」


 崇徳と違って玉藻前の声量は比較的小さく落ち着いている。けれど低く重く響く声色からは、隠し切れない本気の怒りが滲み出ていた。他の二人と比べて理知的な印象が強かったが、やはり彼女も決して怒らせてはならない存在なのだと、改めて思い知らされる。

 ただしそれも、あくまで冷良たちにとっての話。


「女狐、お前は妙な武者たちを見たか?」


 特に酒呑童子は冷良と戦った時点で目的を果たしてしまったからか、不気味なほどに普段と調子が変わっていない。周囲の空気が張り詰めている中で、一人だけ違う時間の流れに身を任せているかのようだ。


「……? 何のことや?」

「ふむ。となると、昨日のあれは都だけで発生していたのか」

「……その様子やと、何かえらいことがあったみたいやな」

「俺たちが不利益を被ったのは事実だな。そして崇徳は花の都から来た調査隊が黒だと睨んでいる」

「証拠は?」

ある」


 一応、に込められた言外の意味合いを巡って、酒呑童子と玉藻前の間で無言の確認が行われる。

 玉藻前は蓄積した怒りを追い払うように、あるいは今後の憂鬱ゆううつに頭を痛めるように、深く重い溜息を吐いた。


「よう調べな駄目やな。落とし前はその後や」


 彼女の呟きは、この修羅場の終わりを意味していた。

 だが、それに納得出来ない者が一人。


「おいおいおいいきなり出しゃばって勝手に終わらせるとかふざけんじゃねぇぞ!? 俺様を虚仮にした奴らはどうするんだよ!?」

「どうもすなや。あんたのおかげで面倒な事態が更にややこしゅうねじくれてもうた。今回ばかりはあんたにも詫び入れてもらうで」

 普段は崇徳の傍若無人な振る舞いをていよく受け流しているような印象だったが、今回はよっぽど腹に据えかねたらしい。

 ――何故いつもは崇徳と波風を立てないようにしているのか、忘れてしまうほどに。


「……俺が、詫び?」


 一説によると、脳が認識可能な感情の量には限界があるらしい。そして感情量が許容内である内は、他者や物との関りで発散出来るような仕組みになっている。世間で激情家なんて評される者たちも、結局のところは感情の振れ幅や頻度が平均から外れているだけで、十分正常なのだ。

 だが、これが許容量を超えてくると、一般的な理屈では説明のつかない反応が表に出てくる。まるで読本の中に一枚だけ、全く違う内容のこうが紛れているような

 冷良が今抱いている違和感が、まさにそんな感じだ。

 直前まで激しく怒りを撒き散らしていた崇徳が、いきなり知らない言語を聞いたかのように首を傾げている。

 ここまでの流れで何故こんな反応に至るのか。分からない、分からないが……嵐の前、いや、噴火直前の火山を前にしているような、不吉な予感が冷良の脳内で警鐘を鳴らしていて。


「ああ、そうだ。言い忘れていたが、俺もこの巫女を殺すのは反対だ。神々はどうでもいいが、こいつは中々骨がある上に伸びしろも大きい。生かしておけば将来より強くなってくれそうだ」

「…………」


 酒呑童子の意見にも崇徳は全く反応を示さず――


「という訳で、我儘は止めておけ。どうしてもと言うのなら、俺がお前を殺してやろう」

「――っ」


 何かが切れたような音を、確かに聞いた気がした。


    ◆


 妖の都は世間の一般常識が通用しないならず者たちの都だ。世界を生物の身体、人や物の流れを血液に例えるなら、妖の都は世界の癌といったところ。

 しかし、世間の流れから隔絶されているということは、世間で渦巻く荒波からも無縁ということ。人と妖の社会が交わり、噴出する様々な問題に世間が苦慮する中、妖の都は悠々と昔ながらの在り方を保ってきた。

 信仰や損得は揺らいでも、『力』はそうそう揺るがない。老化とほぼ無縁な妖であればなおさら。体制面から見るなら、妖の都は非常に安定しているのだ。


「――それでも、崩れる時はあっさり崩れるものです」


 燐光りんこう漂う聖域が、邪気の渦巻く魔窟まくつへと転じた。


   ◆


「何なんだよどいつもこいつもぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 絶叫――いや、それは紛れもなく咆哮だった。

 他者に何かを伝えるための言葉ではなく、内に秘めた獣性の純粋な発露はつろ

 ただの空気を伝う音ではなく、強大な事象を呼び起こす儀式。

 目の前で一変した景色を何かに例えようとして、相応しい表現を一つしか見つけられなかった。


(――地獄だ)


 崇徳に呼応するように世界が吠える。地面が割れこの世ならざる口を開き、内側から溢れた漆黒が世界を侵食する。

 あっという間に様変わりしていく光景に認識が追い付かない。

 それでも、あるいはだからこそ、覚えのあるものを見逃しはしない。


「あれは『悪意』の霧!? どうしてこんなところに……っ」


 声こそ出ないものの、冷良も気持ちは幹奈と同じだ。

 視認出来るほどに濃くなった人の『悪意』、神すら妖へと堕とす忌むべき毒。これに侵された散瑠姫を危ういところで助けたのはまだ記憶に新しい。

 だが、散瑠姫の場合は幽世かくりよという環境と長い時がもたらした特殊な例。常識が支配する現世うつしよで何故また出くわす羽目になっているのか。

 異常が発生しているのはこの場だけではない。空に視線を移せば、『悪意』の霧が都の至る所から噴出しているのがよく見える。建物が崩れるような音は、地割れに民家でも呑まれたか。それと悲鳴――いや、断末魔。何があったのかは……考えるまでもない。

 だが、よくよく耳を澄ませてみると、聞こえてくる声は悲痛なものばかりではなかった。妙に猛々しいというか、存在を誇示こじしているというか、とにかく理性を感じない叫びが混ざっている。

 そう、今ここにいる崇徳のように。

 その崇徳も見るからに様子がおかしい。叫び声が収まったと思ったら、糸が切れた操り人形のように押し黙ってしまったのだ。

 が、それもごく短い時間、再び動き出した崇徳の顔は――濃密な『悪意』の霧によって、目と口が真っ黒に塗りつぶされていた。 


『ああ……よく分かんねえが、良い感覚だ』


 何らかの膜を通しているようなくぐもった声。生者の言葉というよりは亡者の怨嗟えんさを思わせる。


『俺ぁ何を遠慮してたんだ? 邪魔する奴ぁ全員ぶっ殺す、今までだってずっとそうしてきたじゃねえか』

「――しっ!」

「後で文句言いなや!」


 崇徳から不穏な気配を感じ取ったのだろう、幹奈は背後から不意打ちを仕掛け、玉藻前も遠慮のない大火球を飛ばす。

 だが、崇徳は身じろぎ一つすることなく、自身の周囲に暴風を発生させて両方とも吹き飛ばしてしまった。

 逆に意表を突かれた幹奈は受け身を取れず地面に打ち付けられ、玉藻前も今の違和感を抱いたのか眉をひそめている。


『てめぇもいい加減黙ってなぁ!』


 崇徳が葉団扇を振り抜き、吹き荒れる風は斬撃の塊と言うべき代物のようで、あちこちを抉りながら玉藻前へと殺到する。

 艶やかな着物が無残に切り裂け、その玉のような肌に痛々しい傷が刻まれる。

 とはいえ、当の本人に傷を気にしている様子は無く。 

「うちをこないなもんでどないか出来る思たか! 舐められたもんやな!」

『思っちゃいねえよ。てめぇは後でしっかりぶっ殺してやる。ただなあ――』


 崇徳の視線が向くのは、地面に倒れたままの冷良と、どさくさに紛れて冷良に駆け寄っていた小雪。


『今は、散々俺を虚仮にしてくれた雑魚共を血祭りにするのが先だぁ!』


 崇徳が葉団扇を振りかぶる。

 小雪が咄嗟に冷良の身体を抱き寄せる。

 時間がやけに遅く感じた。

 どんな攻撃が繰り出されるのか、自分は生き残れるのか、冷良には予想もつかない。

 ただ、崇徳へ無防備な背中を晒す小雪が命を散らすのはほぼ確実で。

 だったら、動くしかないのだ。両腕が動かなくても、両足が動かなくても、何なら四肢の全てが千切れ落ちようとも。芋虫を真似て無様に地を這ってでも、一番大切な人を守るのだ。でなければ今ここに冷良がいる意味は無く、ここに至るまでのあらゆる『冷良』も無価値に成り果てる。


(動く……っ)


 意識の更に深く、自分の根源と呼ぶべき場所から、枯れた筈の気力を無理やり絞り出していくような感覚。限界を越えるとは、もしかしたらこんなことを言うのかもしれない。

 そこまでして――致命的なまでに時間が足りなかった。

 引き延ばされた時間の中、亀のような遅さで冷良が進めた距離は小指一本分の長さにも満たない。

 結局のところ、全ては無駄な足掻きであり、振り下ろされる葉団扇を絶望して眺めることしか出来なくて。

 だからこそ、他のことは見えておらず、聞こえてもいなかった。

 視界が小雪ではない別の誰かに遮られる。

 直後に舞い散った彼岸花のような鮮血に目を奪われ、崩れ落ちたのか誰なのか認識するのに一瞬の間を要した。


「……陽毬……?」


 呆然とした小雪の呟きで、遅れていた冷良の認識が現在に追いつく。

 風の刃でも放たれたのか、陽毬の肩から脇にかけて大きな傷が一つ、ぱっくりと大きな口を開いていた。


「何……やってるのよ! どうして出てきたの!?」

「……小雪ちゃんが言うのかい……? まあ、あれだ……身体が勝手に……動いたってやつ?」

「もういい黙って。今すぐ傷を塞ぐから」

「別にいいよ……自分の身体のことは、自分がよく分かる……」

「生意気なこと言ってるんじゃ……っ」


 傷口を直視した小雪の息を呑む気配。冷良の視点からもあっという間に広がる血溜まりはよく見えた――これは傷口を氷で塞いでどうにかなるものではない。


「……想像もしてなかったなあ……ここは殺伐としてるけど……何だかんだ普通に歳を取って……つがいを見つけて……母親になって……適当なところでぽっくり逝くもんだと思ってた……」


 語られているのは単なる未来の予想か、あるいは陽毬が思い描いていた理想の未来か。

 確かなのは、どちらも決して訪れることはないということ。


「うん……けど……後悔はしてないから……まあいいか」


 だというのに、死出の旅路を前にした陽毬に悲壮感は一切なくて。


「ねえ……もし小雪ちゃんたちがこの後も生き残ったら……伝えてくれる? 店のみんなに……後は任せた……親父には……親不孝な娘でごめんって」

「わ、私は……っ」


 小雪は言葉を返すことが出来ない。死にゆく者の願いを聞き届けるには、あまりに心を乱し過ぎていた。

 それでも陽毬は不安がることも、念押しするようなこともなくて。


「えーと……他には……あはは……最後だってのに……洒落た台詞の一つだって……浮かんできやしない……」


 血の気の失せた顔であまりに痛々しい笑みを浮かべた陽毬の目が、ふと玉藻前の姿を捉える。


「……そうだ……忘れちゃいけなかった……玉藻様……今まで良くしてくれて……あ…………り……」


 …………。

 いつまで待っても続きの言葉が出てこない。

 陽毬の目はまだ開いている。少なくとも冷良からはそう見えた。

 だが、耳を澄ませてみても、聞こえるべき音は聞こえてこない。

 眩暈めまいに似た、天地が曖昧になる感覚が冷良を襲った。

 どれだけ大変な目に遭っても、世界は揺るがない。自分だけは不幸と無縁、なんて言葉と同じくらい説得力の無い妄想。それを心の奥底で信じていたを、現実が嘲笑う。

 出会ってからまだたった数日、されど数日。冷良にとって、陽毬は紛れもなく親しい友達だった。そして無邪気に、自らの幸せな世界へと組み込んだ。

 結果はこれだ。陽毬は冷良と小雪を庇って――あっけなく死んだ。世界は物語のように美しくはなく、誰にでも平等に残酷だった。何でもできると思っていた自分は、ただの無力な子供だった。

 最後まで冷良を支えていた意志が完膚なきまでにへし折れる。今この瞬間、冷良は心身ともにぼろ雑巾と変わらない存在に成り果てた。

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