グレートな人々

 前回のつづきです。


 ピケティの『21世紀の資本』を読むと、小説の見方がちょっと変わる。資本のあり方は社会のあり方に直結しているだけでなく、小説作品に描かれる「人間の価値」や「人生の目標」にまで大きな影響を与えてしまうのだ。今回は、ピケティが取り上げてない作品について自分なりの考察をしたいと思います。


 『家なき子』や『小公女』みたいな19世紀の子ども向けの小説を今の時代に読むと、ちょっと違和感を持つ。どちらも貧乏話なのだけど、最終的に主人公は親の財産のおかげでハッピーエンドを迎える。『家なき子』は、本当のお母さんが資産家の未亡人だという設定だし、『小公女』の方は死んだはずのお金持ちのお父さんが帰ってきて大団円となる。ある意味チートだ。一生懸命働いてお金を稼ぐとかではなくて、親が実は大金持ちという設定で強引にハッピーエンドに持って行くのだから。でもこれは、逆にいえば、そういうチートを持ち込まないと貧乏人の子どもの物語でハッピーエンドを描くことは難しい、という当時の絶望的な経済的格差を反映したものだと思えば少しは理解できる気がする。


 ディケンズの『大いなる遺産』もまた、誰かの財産を当てにした物語だ。主人公のピップは遺産相続のために努力をするけれど、その努力は仕事を覚えるためのものではない。あくまで、上流社会の住人としての作法を身につけるための努力だ。きれいな字を書くこと、言葉遣いを上品にすること、ダンスを覚えること…。真面目に働けばいいじゃん、と言いたくなるけど、働いたって大して稼げないのだ。ピップは子供時代、鍛治屋の親方の元で育てられていた。鍛治屋としてどんなに努力しても貧乏からは逃れられない。だからここでも、「主人公への遺産相続を申し出る謎の人物の登場」という、チート設定が必要になってくるのだ。そうしないと、主人公の貧乏な日々を描くだけの退屈な作品になってしまう。


 しかしこれが、20世紀初頭のアメリカの小説である『グレートギャツビー』だと少し趣が変わってくる。


 この作品は村上春樹がべた褒めしている。私は大学生のときに読んだけど、正直なところ、当時はあまり面白いとは思わなかった。「失われたものを取り戻そうとする主人公」という設定は村上作品と共通している。かなり影響を受けたんだろうなあ、というのはわかる。しかし、面白くない。恋愛小説なのに、肝心のヒロインがぜんぜん魅力的でなかったからだ。なぜこんなろくでもない女にギャツビーはのめり込んでいるのだろう? 美人ではあるかもしれない。でも、それだけだ。人間としての中身はほぼ空っぽだと言っていい。ギャツビーがいったい何に執着しているのか、当時の私にはよくわからなかった。


 しかし、今思えば、『グレートギャツビー』はそもそも恋愛小説ではなかったのだ。そしてこれもまた、当時のアメリカの資本の状況を考えると理解しやすくなる。


 ピケティによると、当時のアメリカの資本格差はヨーロッパほどひどくはなかった。というのは、アメリカの場合、人口流動が激しいからだ。19世紀のヨーロッパは資本は相続税もかけられずに相続されるので、金持ちの一族はずっと金持ちだ。つまり、資本格差が固定化しやすい。そして資本はさらなる収益を生み、その収益を投資すればさらに資本を増やせるわけだから、格差はますます拡大していく。一方、人口流動が激しく、相続財産にあまり頼れない19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカでは、そうした格差拡大が比較的緩和されていたのだ。


 だから、ギャツビーのような貧しい出身の人物でも努力次第でのし上がることができる。運も大事だけど、この小説の場合、運はあまり重視されていない。ギャツビーの場合も実は遺産話があった。若い頃に命を助けた資産家から遺産を相続してもらえることになっていたのだ(ここらへんは『大いなる遺産』と似ている)。しかし、結局その相続話はポシャってしまう。そしてその後、軍隊に入ったりしたものの貧乏のままで、最終的にはアメリカで闇商売に手を出すことで巨万の富を築くことになる。闇ではあるけれど、少なくとも遺産に頼ってないという点では努力家だともいえる。ただの運ではダメで、本人の積極的な行動がないと実を結ばないという点で、遺産相続頼みの19世紀的なチートとは異質だ。


 大金持ちになったギャツビーはかつての恋人の家が見える場所に豪邸を建て、毎夜、彼女の家の方に灯る明かりを眺める。その動機をかつての恋人への恋心と考えると、なぜギャツビーがここまでするのか理解できなくなる。しかし、ギャツビーにとって恋人と結ばれることは、単にひとつの恋愛を成就させることというよりも、自分の運命を乗り越えるという意味があったんじゃないだろうか。貧しく、遺産相続のチャンスさえもふいにした運のない人間が、汚い商売に手を出してでものし上がろうとすること。絶望的な格差が固定化された19世紀では、人は「遺産相続」という運に頼るしかなかった。しかし20世紀では、運ではなく、自分の力で運命を変えることができる。その運命を変えようとするギャツビーの姿こそが、この作品を感動的なものにしているのだ。


 『グレートギャツビー』は、むしろSF映画の『ガタカ』に似ている。『ガタカ』の世界では、人々は生まれた時点で遺伝子を完全に解析されていて、どんな病気になるのか、どんな能力があるのか、といったことがすべて明らかにされてしまう。そして、遺伝子操作によって優れた能力を身につけたものは「適正者」とされ、自然妊娠によって生まれたものは「不適正者」というレッテルを貼られる。人々が社会においてどんな階層を占めるかは遺伝子によってほぼ完全に決定されてしまうのだ。ある意味、19世紀小説での「遺産相続」に当たるものとして「遺伝子」が位置づけられているといえる。


 主人公のヴィンセントには宇宙飛行士になりたいという夢がある。しかし彼は「不適正者」であり、心臓に欠陥があり、長くは生きられない。したがって、宇宙飛行士の候補からも自動的に外されてしまう。そこで、ヴィンセントは整形手術を受け、DNAに偽装を施し、不適正者でありながら宇宙飛行士になろうとする。まるで、闇商売に手を出して貧困から逃れようとするギャツビーのように。『グレートギャツビー』も『ガタカ』も、自分の運命を変えようとする者たちの物語なのだ。


 ところで、村上春樹は『グレートギャツビー』へのオマージュとして、『騎士団長殺し』という作品の中で、ギャツビーに似たキャラクターである「免色さん」という人物を描いている。しかし、『グレートギャツビー』のギャツビーや『ガタカ』のヴィンセントとちがい、免色さんの行動には少しも感動的なところがなく、むしろかなり気持ち悪い。それは、免色さんがいったい何と闘っているのかがよくわからないからだ。


 ギャツビーは「経済格差」と闘い、ヴィンセントは「遺伝子格差」と闘う。そんな風に運命を乗り越えようとする姿が感動的なのだ。しかし免色さんは、やることなすこと動機がよくわからない。たとえば免色さんはIT関係の会社を経営して大金持ちになったという設定だ。だけど、そもそも彼がなぜそうした商売に手を出そうと思ったのかはよくわからない。インサイダー取引に手を出して独房に留置されていたこともあるというけれど、それも、そうしたリスキーな取引に手を出す動機がちゃんと書かれていない(と思う)。能力はやたらとある。しかし、その能力を持て余して、強い動機のないままいろんなことに手を出す人物として描かれている。


 免色さんもギャツビーと同様に豪邸に引っ越してきて、そこからある女性の姿を眺めようとする。しかし相手は恋人ではなく、「自分の娘かもしれない13歳の少女」だ。しかも、望遠鏡まで使って彼女の部屋を覗こうとする。かなり気持ち悪い人物だといっていい。免色さんの行為には、自分の欠落を埋めるという動機があるのだろう。しかし、その欠落がなんなのかよくわからない。「欠落がないことが欠落」なのかもしれない。


 こうした人物のあり方は、1990年代ごろであればもっとリアリティがあったと思う。当時出版された本を読むと、「われわれは経済的成功ばかり追い求めてきた。バブルが崩壊した今こそ、お金では買えない本当の豊かさを求めるべきだ」という主張がちらほら見られる。だけど、2023年現在、日本は社会全体が貧しくなっている。「本当の豊かさ」というフレーズも最近はとんと聞かなくなった。こういう時代に「欠落がないことが欠落」というキャラクターを見ると、ちょっと時代錯誤のように感じてしまう。その時代錯誤っぷりが、免色さんという人物の不気味さを際立たせているのではないか。


 また、「IT関係の会社を経営していた」という設定はあるものの、その詳細は全く書かれていない。だから、「なんだか怪しげな仕事をしていた」というふんわりしたイメージしか伝わってこない。その点で、免色さんという存在は社会から切り離されている。ある意味、亡霊のような存在だともいえる。というか、『騎士団長殺し』という作品自体が、雨田具彦や「白いスバル・フォレスターの男」といった亡霊たちをめぐって展開されているのだけど…。話がずれてくるのでそろそろやめます。

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