第57話 僕は変われない

 ふと眼を覚ましたユスティーナは、月の光の下に座り込み、イシュカの頭を膝に乗せていた。


「……あーあ」

「えっ……あ、え……?」


 その腕に腹を貫かれた瞬間、ユスティーナは意識を失っていた。高い生命力と鍛錬によって、かろうじて生きてはいたかもしれないが、気付けば夜空は元に戻っている。そしてユスティーナの体も、血の匂いこそあたりに充満しているが、腹を貫かれる前に戻っていた。


「何をぼんやりしているんだい? 銀月の君ともあろう者が」


 声も目線も下から来たが、なぜか上から見下ろされている気しかしない。いつものイシュカの口調で話しかけられても、ユスティーナはまだ夢の中にいるような気がしていた。


「わた、し……治って……?」

「当然だろう? 僕は完璧なんだ。創の術だって、君がいくら修行したとしても遠く及ばないよ」

「……イシュカ様が、治してくださったの?」


 呆けたままのユスティーナの問いかけには答えず、イシュカは彼女の膝に預けた頭の角度を変えて言った。ちなみに彼も顔色が多少悪いだけで、大怪我を負っているような様子はない。


「勘違いするなよ、獣返り。お前の実力じゃない。ただの時間切れさ。僕は世界の混乱を防ぐために『生じ』、それが終われば消える運命だからね」

「……オレの実力ではないことは、確かなようだな」


 減らず口はどこへやら、どこかさっぱりした口調でつぶやいたのは、ユスティーナの正面へと歩み寄ってきたヴァスである。


「ヴァス!? さすがです、服もちゃんと用意していたのですね!」


 何がどうなったものやら、ヴァスも暗赤色の髪をなびかせた、ふてぶてしい美青年の姿を取っている。猫から人になった時は毛布に頼っていたが、獅子から人になった彼は放り出したはずの武装をきちんと身に付けていた。腕に負わされたはずの傷もない。


「残念ながら、お前の膝の上でいいご身分の野郎の置き土産だ」

「そういうことさ。こいつのためじゃない。君の眼を汚さないためだけどね、ティナ。おかげでもう、何もできないよ」


 二人の口ぶりから察するに、イシュカがわざわざヴァスの衣装まで戻してやった、ということらしい。このあたりでようやく、ユスティーナにも実感が湧いてきた。


 膝枕の距離にあるイシュカの存在感が薄れていくのは、現実なのだ。


「イ……イシュカ、さま」

「もういいさ」


 ユスティーナと眼を合わせないまま、イシュカは静かに彼女の言葉を遮った。


「僕の自由になるのは、君たち銀月の君だけだ。でも薄情な君たちは、転生のたびに僕のことを忘れてしまう。毎回毎回、僕が探しに行って、一から愛を育まないとならない」


 戦乱の気配が世に漂い始めると自動的に「生じる」イシュカ。彼には父もない。母もない。爵位、財産、その手の世俗的なものは一切持たない。


 彼に何かを贈ろう、あるいは押し付けようとしてくる者は数多いが、全てを笑顔で断っている。太陽神の生まれ変わりである彼の影響力は強大すぎて、何かに肩入れしているように見えてしまえばそれだけで、世界の均衡を変えてしまうからだ。


 イシュカが思うように接することができるのは、神話の時代から連れ添った運命の恋人のみ。


 しかし、そんな銀月の君も人の中に生まれてくるためか、転生のたびにイシュカとの思い出を忘れてしまう。やっと会えたね、イシュカにとっては万感の想いを込めた再会の言葉にも、首を傾げられてしまうことが多い。


 可愛さ余ってなんとやら。変わらない彼女に、変われない自分に、二人の運命に憎しみを覚え始めたのはいつからだっただろう。


「ずーっとずーっと昔から、僕たちはたくさんの苦難を乗り越えてきた。ほんの数百年前だって、ジスラの恵みを独り占めしようとしたタルマガ……の前の国を一緒に滅ぼしたよね。歴史書には残っていないようだし、君もなんにも、覚えてないだろうけど」

「ご、ごめんなさい、イシュカ様……わたし……覚えていなくて……ごめんなさい……」


 熱い涙がユスティーナの眼から零れ落ち、イシュカの顔に滴る。ヴァスがぼそりと「お前は本当に忘れっぽいな」と毒突くと、イシュカも褐色の肌に涙を伝わせながら、「まったくだよ」と同意した。


「君は本当にだめだね、ティナ。とんでもなく忘れっぽい上に、この程度のお涙頂戴に、呆気なくだまされてしまうんだから」


 確かめる術もないくせに、と皮肉を述べたイシュカはため息をつくなり、上を向いてユスティーナと視線を合わせた。


「でも、僕と一緒に戦ってくれるのは、いつも君だけなんだ」


 万能の太陽神であるイシュカを誰もが畏れ、敬い、頼りにする。少しでも歓心を得ようとすり寄ってくる。


 格の違いがあり過ぎて、誰もが見上げるしかない太陽。自分も操り人形程度の動きしかできないと承知の上で横に立ち、共に苦難に立ち向かってくれるのは、神話の時代から現在まで銀月の君だけなのだ。


「私、だまされていません」


 ユスティーナもまた、希有なる紫の瞳をじっと見つめて断じた。


「私は、至らぬ銀月の君ではありますが……あなたが私を求めてくれていることだけは、分かります。だから……」


 求めた形とは違っても、他者には向けられぬ情動は感じていた。イシュカにとっての銀月の君が、特別な存在であることだけは間違いないのだ。


「だからあなたは、私の死に、少しぐらいは動揺してくれる。それに賭けたんです……」


 怪我を治してくれる、とまで踏んでいたのではないにせよ、図々しい発言にイシュカは情けなさそうに眉を下げた。


「……さすが僕の対だ。残酷な女神だよ、君は」


 ふい、とその瞳がユスティーナから逸れた。


「まあ、いいさ。僕たちは、どうせまた巡り会う。僕がすり切れてしまうぐらい長い間、何度も手を貸して導いてやっても、愚かな人間は必ず出て来るんだしね。そうだろう? アルウィン」


 呼びかけにユスティーナも、近付いてくる足音に気付いた。


「……兄……陛下!」

「わ、私は……」


 あえて護衛の一人も付けずに来たのだろう。久しぶりに顔を合わせた兄王アルウィンは、よろよろとユスティーナとイシュカの側に屈み込んだ。


「私は……あなたの存在がなければ、この国を守れなかった。マーバルを代表して、心からの感謝を。我らが守護神、偉大なる太陽よ……」


 妹によく似た、黒曜石の瞳を潤ませ、彼はイシュカに向かって深々と頭を下げる。


「イシュカ。あなたにとっての私は、銀月の君の兄でしかなかったでしょう。至らぬ王であった自覚はしております。あなたにすがるばかりで満たせなかった我らを、どうぞお許しください……!」

「ユスティーナのことは関係ない……とは言えないね。天が君の妹を銀月の君に選んだのは、君に王の器があるからさ。大丈夫だ、アルウィン。ナインもさすがに反省したんだろう。これから先は、君が理想とする王の道を歩いて行けばいいよ」


 誰もが知る太陽神の生まれ変わりの顔で、イシュカは穏やかにアルウィンを力づけた。


「じゃあね」


 全てを区切るように紫の瞳が閉じられる。月明かりに溶けるように、彼の姿は消えた。

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