第17話 すれ違う葛藤

 獣に気を許すものではないよ。君が迂闊な行動を取れば君も獣も、そして国中の人々も不幸になるよ。表現を変えながら、イシュカは何度もユスティーナを教え諭してくれた。


 月の女神が砕き損なったのか砕くまでもないと思ったのか、創世の時代よりは大幅に弱体化しているが、魔獣そのものは今でもこの世界に存在している。一般の獣よりは明らかに強く、人々を直接襲うこともあれば、家畜を食い殺したり農作物を荒らしたりと、直接間接を問わず被害は大きい。


 特にユスティーナは、彼らが恋した女神の生まれ変わりであるため、近付けば真っ先に狙われる。怖い思いをしたことも多かった。兄もイシュカの後押しで玉座を得てからは、極度に獣返りを庇うような発言は控えるようになっていた。


 とどめはヴァスがナインの味方となったことだ。彼の強さに怯える兵士たちを力づけるためにも、マーバル王家全体として、太陽と月の加護を受けた我らが獣どもになど負けはしない、と宣言する必要があった。


 しかしヴァスと何度も刃を交え、彼に対抗しようと情報を集めるうちに、ユスティーナの意識も変わっていったのである。


「イシュカ様にも……あなたの件では、幾度となく助言をいただきましたけど……いえ、あの方が間違うはずはないので、ナインに従ってしまったあなたに情けをかけるものではない、とのお考えだったのでしょうけど……」

『……ふん。そいつはどうかな』


 不遜にもヴァスはイシュカにまで文句を付けたい様子だ。言い返しそうになったが、物問いたげな金の瞳になぜか喉が詰まった。──お前は今でも本当に、心からそう信じているのか? と聞かれたような気がして。


「それにあなたは、私が本気で馬鹿にした態度を取ると、以前から悲しそうな顔をしますし……」

『……ぐ。そ、そんなことは、ないはず、だが……』


 今度はヴァスが答えを失って黙り込む。気まずそうにふらふら揺れる尾につられ、ユスティーナも無意識に腕を動かしながら眉根を寄せた。


「でも、今はなんだか、罵られているのにちょっと嬉しそうに見える時もあって……難しいです。イシュカ様より、ご機嫌を取るのが難しいかも。当然ですけどね、私はあなたに嫌われるようなことしか、してこなかったのですから……」

『……く、くそ、その手には乗らんぞ……! 貴様はまさに月の女神だ、獣を惑わす悪女だ……!!』


 自嘲にユスティーナが顔を伏せる横で、ヴァスは何やら葛藤している。波打つ胸のうちを反映してばたばたと暴れる太い尻尾。思わずユスティーナが伸ばした指は、寸前で避けられた。


『なんだ、さっきから。そんなにオレの毛に触りたいのか?』

「あっ、ごめんなさい! つい……だってそんなにふわふわで、ふかふかなので……」


 真面目に、真剣に話しているつもりではあるのだが、常に石榴色の毛並みのどこかが眼の前をちらちらしているのだ。気になって仕方がない、と訴えると、ヴァスは不思議なことを尋ねてきた。


『もしや以前より、オレの髪に触れたかった……のか?』

「いえ、人型のあなたの髪に触れたいと思ったことは一度もありません」


 色は同じだが、イシュカ以外の異性の髪に触れたいなどと考えたことは特にない。彼のさらさらした、金色の髪の滑らかな手触りを思い出してしまい、ユスティーナは表情を曇らせた。


「食べ物の量を、減らしたからでしょうね。つい癒やしを求めてしまって……」


 イシュカに見放された心の傷を癒やすため、暴飲暴食に走ったのだ。しかしヴァスの理想とする銀月の君に戻るため、そちらはできなくなった。ならば、と代わりの癒やしを求めてしまう浅ましさが、きっと気に障ったのだろう。


『今後は絶対に触らせん!』

「そ、そんな……!」


 断固として拒否され、青ざめるユスティーナ。ふんと鼻を鳴らし、そっぽを向くヴァスだったが、ユスティーナはふわふわの姿に未練の視線を送った。 


「でも……あなたのお世話は、私しかできないのですよね。ブラシをかけて、そのふかふかの毛を維持できるのも、私だけ……」


 まるで触らない、というのは無理なのではないか。一理あると感じてくれたのか、ヴァスはぶつぶつ零しながら振り向いてくれた。


『……そうだな。思ったよりかなり心弱い貴様は、オレのこの極上の毛並みにでも触れて安らぎを得んと、また暴食を始めるかもしれんな……』


 せっかくやせてきたというのに、また太られてはたまらない。だからだぞ、とばかりに、ヴァスは、無造作に太い尾をユスティーナの腕にぶつけてきた。


「うふふ! ふわふわ! ふかふか! ふかふか!! ふわふわ!!」


 待ってましたとばかりに飛びつくユスティーナ。今朝も自分の髪より丁寧にブラシをかけ、たっぷり空気を含ませた赤毛の触り心地はまさに至高。この二週間の間に慣れてきて、ブラッシングの最中に毛をちぎってしまうようなことも(ほとんど)なくなっている。尾だけではなく、背中などの毛も遠慮なく触らせてもらったが、それだけでは物足りなくなってきた。


「あの、よろしければ、なんですけど。膝に乗ってもらえません……? できれば今後も、特にブラシをかける時は常に……」


 ユスティーナが高慢だが万能、という噂に反して少しだけ不器用なのは事実だが、思えば初めてヴァスの毛を梳いてやった時も膝に乗せていたではないか。あの時は毛をちぎったりしなかった。


 事前に毛の絡まりを解していた、つまりは先にちぎっていたおかげもあろうが、単純にあの体勢が一番やりやすかったのだ。長椅子にでんと寝そべった猫の毛を横から整えるのは難しい、とユスティーナは訴えた。


『……さては貴様、素の性格も意外と図々しいな?』


 ふかふかな温もりと重みを直に感じたい、という欲望は筒抜けのようである。ヴァスの目がじっとりとユスティーナを睨む。はっとしたユスティーナは真っ青になって頭を下げた。


「ご……ごめんなさい。自害します」

『なんでお前はそう極端なんだ!?』


 誰がそんなことをしろと言った。ふわふわの頭をふわふわの前足で抱え、ヴァスは苦悩する。


『くそっ、残酷なまでに美しく高貴な、オレの月の女神はどこに行ったんだ!? いや、オレのではないが……オレのでは……ないが……』


 一人で落ち込み始めたヴァスの独白を聞いて、ユスティーナもユスティーナで反省する。


「そう……そうですよね。勝手に死んで楽になるなんて、私には許されない……」


 平均よりふっくらしながらも生き恥をさらしてきたが、あんな手を使って殺したヴァスは生きていたのだ。復讐によって彼の心を満たし、前向きな人生を送ってもらうためにも、ユスティーナはヴァスが許容できる程度まで銀月の君に戻らねばならない。


 そうしなければ、同じく生きているナインと再び手を結び、またしても戦を起こそうとするかもしれない。……今度こそ二人とも、殺されてしまうかもしれない。


 ナインに対しては正直、この機会に反省してほしいという気持ちも強いユスティーナだが、優しいアルウィンのこともある。しっかり反省さえしてくれれば解放し、アルウィンの臣下として迎え入れてもいいのでは、と考えていた。

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