第15話 憧れの人だった

 稀なる紫の瞳が、精一杯華やかに飾り立てた部屋ではない、どこか遠くを見つめている。


「イシュカ様、どうかなさいましたか?」

「ああ、ごめんね、可愛い人」


 ウルールの呼びかけに間を置かず応じてはくれるイシュカだが、再三の招きがついに叶い、彼女の部屋を訪ねてくれてから一時間。その間、十五分に一回の確率で彼の心はどこかに行ってしまう。焦ったウルールは、イシュカの関心を引き戻そうと必死に話題を探した。


「乳白茶のお代わりはいかがですか? あっそうですわ、最近流行している、賽子の賭け事などいたしましょうか!」

「ごめんね、僕と賭け事をしてもつまらないと思うよ。僕には出目が分かってしまうから」


 アルウィンも愛好していると噂の遊びに誘ってみたが、イシュカは困ったような笑みを浮かべるばかりである。


「そ、そうでしたよね、申し訳ありません……イシュカ様は全てを知り、なんでもおできになる方ですのに」

「そうだね」


 イシュカが欠点のない存在であることは自他共に認める、ただの事実だ。あっさり肯定されて話は終了した。いよいよ切羽詰まったウルールは賭に出た。


「そういえば、お聞きになりました? ナイン様が、懲りずに謀反を企てているという噂……」

「……おや。そんな話が出ているとは、穏やかではないな」


 ウルール自身も先日参加した宴にてふと耳をかすめただけの、出所がよく分からない噂である。イシュカの完全性を褒め称えた時と同じく、「知っているよ」と流される、もしくはやんわりと「そんな話は、私のところで止めておいたほうが良さそうだね」とたしなめられる可能性も高そうだった。温厚で常に公平な態度を崩さないイシュカならあり得る展開だったが、意外に彼は乗ってきた。


「ええ……命を取られなかっただけでも感謝すべきですのに、あそこまで国王陛下の温情を理解できないなんて! 驚いてしまいました」

「本当にね。ナインの愚かさには底というものがない。僕にも見通せないぐらいだよ」


 珍しく突き放すようなことを言って、ため息を付くイシュカ。彼が支援しているアルウィンに、まだ歯向かおうとするナインの愚かさはイシュカでさえも呆れてしまうようなものらしい。卑怯者ユスティーナの巻き添えを食らい、イシュカまで評判を落としかけたことを割り引いても、なお。


「私、怖いですわ、イシュカ様」


 この機会を逃すものか。ウルールはしとやかに顔を伏せながら決意を新たにする。


 マーバルに生まれた者ならば、幼き頃より創世神話は様々な形で聞かされ続けている。偉大なる太陽神と、その伴侶である月の女神。神の時代を過ぎても、運命の二人は世が乱れるたびに転生を繰り返し、強い絆によって巡り会う。誰もが憧れるおとぎ話。


『ナイン様は困った御方だけど、あの方が企みを抱いたがために、天は再びイシュカ様を遣わせてくださったから……ああ、なんと尊いお姿……!』


 何年か前に亡くなった祖父母は、イシュカの姿を見かけるたびに手を合わせて拝んでいた。数百年単位で「生じる」イシュカを、実際に瞳に映せる者は少ない。無闇に戦乱を望むわけにもいかず、諦めかけていたところにイシュカが顕現してくれたのだから、彼らのようにこっそりナインに感謝している者も少なくなかった。


 ウルールもイシュカに淡い憧れを抱いてはいた。ただし彼は月の女神を伴侶とする、ということまで知った上での憧れだったので、自分が彼と結ばれたいなどと思っていたわけではなかったのだ。


 イシュカに連れられ、社交界に出てきた銀月の君ユスティーナに、会うたび小馬鹿にされるようなことさえなければ。しかもそんな目に遭わされているのはウルールだけではないのだ。ユスティーナも含め、理想の恋人同士として尊敬していたかった、という悔しさがウルールの心の底にはある。


「イシュカ様のご支援で、やっとマーバルも平和になりましたのに、また争いが起きるのではないかと思うと不安で……父も母も、イシュカ様が頼りだとしきりに申しております。いえ、決して国王陛下が頼りにならないというわけではないのですが、失礼ながらお身内に甘すぎるのではないかとも……」


 ナインへの処置もだが、身内に甘いと言うならユスティーナへの態度も甘すぎるとウルールは思っている。反乱の終わり、ヴァスを罠にはめたことでユスティーナの評判は地に落ちたが、それ以前から彼女の評判は決して高くはなかったのだ。


 戦場では無敵だが、イシュカの指示があってこそ。社交の場では太陽神の対に相応しい美姫ではあるものの、隙あらば周りをこき下ろし、己の容姿と才能を鼻にかける態度が目立つ。暗殺未遂事件のせいで山の離宮育ちだから、世間知らずだからと最初は大目に見ていた人々も、あっという間に「イシュカ様は心が広すぎる」と苦笑いするようになっていった。


「私は月の女神の生まれ変わりではありません。戦う力は持ちませんが、あなたを心から敬愛しております。分をわきまえておりますので、イシュカ様の評判を落とすような真似は決していたしません」


 美貌にはそれなりに自信がある。王の妹であるユスティーナには叶わないが、ウルールも王家が主催する宴に出られるだけの身分だ。武芸の心得はないものの、それが一般的な姫君だろう。下手に腕が立ったりしないからこそ、ユスティーナのように出しゃばったりしない。


「ですから、どうか……イシュカ様。私を選んではいただけませんか?」


 満を持してウルールは、決定的な願いを口にした。


「そうだね。そうしてあげられれば、いいのだけれど」


 しかしイシュカが返してくれたのは、控えめな微笑みだけだった。


「だが、戦乱の気配ありとなれば、僕が動かないわけにもいかないな。でなければ、君たちの幸福が脅かされてしまう」


 その関心がすでに、この場所にもウルール自身にもないことを、彼女は絶望と共に察知した。


「楽しい時間をありがとう。君が教えてくれた件、調べてみるよ。ご家族にもよろしく伝えておいておくれ。では、さようなら」


 ウルールが与えてくれた関心事にのみ眼を向けて、イシュカは彼女の部屋から立ち去った。彼が放っていた光を失った部屋は、必死に飾り付けたことが嘘のように侘しく、空しいものに感じられてならなかった。

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