第8話 女神に恋した獣

「ヴァス、あなたが特別に獣の血が濃いことは知っていましたが……まさか本当に、猫になれるなんて。道理であの高さから落ちても生き延びているはずですね」


 神話の時代、月の女神の愛を求めて暴れていた魔獣たちは、夫である太陽神の加護を得た女神その人に成敗されて砕け散ったという。砕けた欠片の大半は世界中に飛び散り、人々の心にも少しずつ溶け込んだ。中でも多くの欠片を受けた者は獣返りと言われている。


 獣返りの中には魔獣のような肉体の強靱さや優れた運動神経を受け継いだ、並の人間ではとても勝てないような力を持つ者たちがいる。強さを尊敬されることもあったが、力におぼれて普通の人間を蔑む者も多かった。獣の血が強すぎて、見た目からして人間と異なる、そもそも対話が成立しないなどといった場合もあった。


 特に近年、ナインが不穏な動きを見せ始めるまでは平和な世の中が続いていたためだろう。戦士としての獣返りが求められる機会が少なく、多くが山賊まがいに身を落とし、人々を苦しめていた。もっとも獣返りのほうからは、「差別のせいでまともな職に就けないからだ」という意見もあるが、どちらが先かは最早誰にも判断できない。


 とにかくヴァスは獣返りの中でも祖先の血が色濃く、そのために送ってきた辛い人生を取り返すことを求めていた。侮辱され、馬鹿にされてきた獣の時代を、我が友ナインと共に再び取り戻してみせると。口先ばかりではなくその実力は絶大で、骨張った体からは信じられないような腕力と体力で盟友を支えていたのだ。


「ふん、生き汚いとでも言うつもりか? だいいち、猫もどきは体力の消耗を抑え、かつ油断を誘うための仮の姿だ。本当のオレ様の姿を見たら、女子供など震え上がって逃げ出すのだからな!」


 長々とふわふわの猫さん扱いしてくれたが、馬鹿にするな。そう言いたげなヴァスの威嚇を、ユスティーナは大真面目に受け止めた。


「そうですね。人間の姿のあなたも、偉大な戦士。持って生まれた獣の力を磨き上げ、私を凌駕するような実力を持つ……」


 最終決戦の前にも何度か彼と戦う機会があった。最初のうちこそユスティーナが優勢だったが、ヴァスはすぐに対応策を見つけ、会うたびに力の差はなくなっていった。


『イシュカ様が付いていて、獣返りごときにあれほど手間取るとは』

『月の女神の生まれ変わりとやらも、大したことはないな』


 そんな声が耳をかすめるたび、銀月の君らしく「わたくしの足下にも及ばない方々が、何をおっしゃるやら」と言い放ち冷静を装っていたが、内心では大嵐が吹き荒れていた。ヴァスの強さが恐ろしかった。それを認めてしまうのが、何より怖かった。


 ユスティーナは戦士としても誰よりも優れているのだ。それが当たり前で、そうでなければ価値がない。イシュカの求めを満たせなければ、彼の側にはいられない。


 だが、もうイシュカはいない。彼に逆らったユスティーナには、価値がなくなってしまったからだ。


「オ、オレが貴様より優れた戦士だと認めるのか……? 散々オレやナインのことを、弱者救済と言いながら自分は生まれ持った特権を振りかざしていると、馬鹿にしてきたくせに……」

「……あなたたちだって、血筋とイシュカ様頼りの小娘だと、言いたい放題だったじゃないですか」


 うめくようなヴァスの声で現実に引き戻されたユスティーナは、お互い様だと苦笑いした。


「でも……今はもう、あなたは私の敵ではないから、認められます。獣返りと蔑まれ、厳しい環境に耐えながら己を鍛え抜いたあなたの強さも。あなたの、正しさも……」


 獣返りという立場を悪用する、小賢しい男だという悪評も絶えなかったヴァス。ユスティーナもそれは否定しないが、生まれてすぐに獣返りだと分かってしまい、親に捨てられるほど彼に流れる獣の血は濃い。


 濃ければ濃いほど能力は高いが、その制御には並々ならぬ精神力が必要となる。月の女神に恋して太陽神に破れた獣には、マーバル人であれば誰もが得られる加護もない。ユスティーナのように偉大な導き手が側にいたわけでもなく、むしろ周りから弾かれてきたヴァスは会うたびに力を増していた。一体どれだけの努力をしてきたのか。


 どれだけの努力を、自分は踏みにじったのか。 


「……ごめんなさい、ヴァス。あなたには、本当に申し訳ないことをしました」


 こんな場面を、胸を痛めながらも何度夢見たことだろう。その場に崩れ落ちるように膝を突き、深く頭を下げたユスティーナの後頭部に刺さるヴァスの視線はかえって冷たくなった。


「命乞いのつもりか?」

「いいえ。助かりたいのなら、とっくに警備兵を呼んでいます」


 顔だけを上げ、冷ややかなヴァスを見つめて首を振る。


 双子たちにも先程言ったように、ヴァスを追い払うなり何なりしたいなら、とうの昔に警備兵を呼んでいた。侍女たちなどの昔から親しい者たち以外とは顔を合わせづらく、普段は眼に入らない位置まで遠ざけてはいるが、ユスティーナは様々な術も使える。


 出生時の太陽と月の位置により、マーバルの人間は地水火風創破陰陽、八方いずれかの加護を受けている。太陽神の対であるユスティーナは全ての加護を受けているため、初歩的なものならあらゆる方位の術を使えるが、特に得意なのは出生時の加護も加わっている風だ。術ならそう身体能力も必要としないので、今でも風に声を乗せ、こっそり警備を呼ぶことはできる。


 そうしなかったのは、ちゃんと謝りたかったからだった。守るべき価値を失った、ただの臆病で卑怯者の少女になった今だからこそ、偉大なる戦士を正直に褒めることができる。

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