第5話 丸洗い

 貴人専用、つまりは現在ユスティーナ専用である沐浴場は離宮一階の奥にある。近くにある川の水を引き込んで使っているそこは、豪華さこそラージャ宮殿に一歩譲るが、大きな窓から見える四季折々の森の景色が何よりも贅沢な調度品だ。ちなみに雨の少ない直轄領に水を提供しているのも、このカイラ山付近を水源とするジスラの大河である。


 大抵の人間ならありがたく使う場所だが、猫はあまり水を好まない。厨房での暴れぶりからして、きっと沐浴場でも一騒動あるだろう。


 そう覚悟していたユスティーナだったが、予想に反して猫は意外におとなしく彼女に洗われてくれた。お前が洗え、という希望は正しく、それに従った以上は無駄に手を焼かせるつもりはないらしい。


「いい子ね、猫さん」


 たらいの中に少し温めてもらった水を張り、ユスティーナは手ずから暗赤色の毛に絡んだごみを落としていく。長い毛同士が絡まっているところも根気良く、猫に痛い思いをさせないよう丁寧に。


「にぎゃっ!?」

「ご、ごめんなさい猫さん、また引っ張ってしまったわ……本当にごめんなさい」


 真心に指先が付いていかず、何度も猫の毛を抜いてしまうユスティーナを見てリラがいい気味だ、と笑う。


「ほら見なさい、だから私たちに任せれば良かったのに」

「ユスティーナ様は、戦闘以外はほんのり不器用でいらっしゃるからね……」


 言葉を選ぶがサラも大体同意見である。ユスティーナは二人に任せようか迷ったが、猫は毛を抜かれた瞬間こそぎゃあぎゃあ鳴くものの、逃げる様子はない。


「……分かったわ。私もがんばるから、あなたももう少し耐えてね、猫さん」

「ふぎゃっ!」


 言う側からまた毛を抜いてしまったが、それ以降はユスティーナもこつを掴んだ。ふうふう息を乱しながらの作業は、やがて終わった。


「まあ、きれいな毛並みね、猫さん! 乾かしてよくとかせば、もっとふわふわつやつやになるわ」


 休憩を挟みつつ丸洗いした猫は、石榴石のように重厚な色合いの毛を取り戻した。今は濡れて毛がぺしゃんこになったことで、意外に元の体が痩せているのが分かって貧相にも見えてしまうが、野生の猫ならこんなものだろう。……なんだか裏切られたような気がしたのは、銀月の君以前に人としてしょうもないので黙っておいた。


「ふーん。汚れを落とせば、割ときれいな毛並みじゃない。ユスティーナ様の飼い猫にしてやってもいいかも、きゃっ!?」


 横で見ていたリラの好感度は上がったようだが、彼女が触れようとした途端に猫はべしんとその指を払う。どうしてもユスティーナに最後まで洗わせたいらしい。


「はいはい、分かったわ、猫さん。リラ、ごめんね。サラ、拭くものだけ持ってきてくれる?」

「分かりました。リラ、気にしないで。私もさっき拒否されたから」


 ふくれっ面の妹の頭を軽く撫でてから、サラが体を拭くための布を持ってきた。たらいから出した猫を拭いてやろうとして、ユスティーナは気付いた。


 思ったより猫がおとなしかったとはいえ、こびりついた泥などを洗い落としている間にあちこち水が跳ねている。拭く過程でもっと濡れるだろう。部屋着の裾にも猫に擦りつけられた汚れが付着したままなので、どのみち着替えなければならない。


「どうせなら、私ももう一回沐浴をしようかしら。裸で拭いたほうが」

「ぎにゃっ!?」


 そのほうが洗い物の手間も省けるだろうと考えたユスティーナだったが、考えを口に出した途端に猫が大きな悲鳴を上げた。


「にゃーっ! にゃにゃーっ!!」

「えっ、なに? あ、あら、一緒に体を洗うのはだめ……?」


 びしょ濡れの毛を振り回しながらの猛抗議に、ユスティーナはしょんぼりと肩を落とす。分かっていたが、そんなに嫌われているのか。おとなしく身を任せてくれていたので油断していた。


「ユスティーナ様、違いますよ。賢そうな顔をした猫ちゃんですもの。ユスティーナ様のお肌を見るのは畏れ多いと思っているんでしょう」


 サラが取りなしてくれるが、先程の件が尾を引いているのか、同じ顔のリラは不満そうにしながらむんずと猫の後ろ足を掴んだ。


「どうかな、なんだかいやらしい顔をしてるし……きゃっやだ、やっぱりオス! いやーっ!!」


 持ち上げた足の付け根を一瞬だけ覗き込み、絶叫するリラ。見られた猫のほうも全身の毛を逆立てて暴れ始める。


「ぎにゃーっ! にゃにゃにゃにゃーっ!!」

「わぷっ、こら! リラってば、猫ちゃんを刺激しないで! オスといっても猫じゃないの!!」


 止めに入ろうとしたサラは、興奮した猫の太い毛にばしばし顔を叩かれて苦しそうにしているが、リラは「猫でも嫌よ! そんなもの見せないで!!」と叫ぶばかりだ。


「ま、まあ、まあまあ。猫さんだって、好きで見せたわけじゃないんだから……きゃあっ!?」


 今度はユスティーナが仲裁しようとしたが、その一言で猫の標的が彼女に移った。鋭い爪が、濡れた部屋着の裾を切り裂く。怪我こそしなかったが、右足の膝から下が露わになった。


「ユスティーナ様! 猫ちゃん、なんてことをする、の……」


 マーバル王国は大陽の恵み豊かな土地柄である。暑い地域が多いため、王侯貴族の女性であっても肩や腕を出した服装は多いが、異性に素足を見せるのは家族か恋人相手だけ。そもそも足を出すこと自体がはしたない行為とされているのだ。血相を変えて予備の布でユスティーナの足を隠そうとしたサラだったが、そっと押し止められて身を強張らせた。


「……本来であれば、猫とはいえ、このわたくしがイシュカ様以外の男性の体を洗って差し上げるなど、あり得ない僥倖なのですよ……?」


 よく知られた銀月の君らしい高慢さで断じたユスティーナは、固まっている猫を睨み付ける。驚いている、にしては妙に金眼をきらきらさせて彼女を見上げていた猫の首根っこを、ユスティーナは稲妻のような早さで掴んだ。在りし日の銀月の君のように。


「来なさい猫さん! そのままでは風邪を引きます!」

「ぶにゃっ!?」


 ぶらん、と片手にぶら下げた猫を連れて小さな椅子に座ったユスティーナは、問答無用で猫を膝に乗せ、すばやくサラが渡してくれた布を被せた。


「ぎゃっ、にゃにゃっ!」

「大丈夫、私は脱がないから! あなたを乾かしてあげるだけ!! はいばんざい! よし、いい子、その調子!!」


 布の中で慌てふためく猫の毛を手際よく拭き、布を使って風を送る。器用さより力が要る行程であるためユスティーナ向きだ。暴れたせいである程度水分が飛んでいたこともあり、猫はあっという間にふかふかに戻った。


「ふう……まあ、やっぱり、洗えればきれいな猫さんね」


 取り払った布の下、艶やかな暗赤色の毛並みを指で梳いてユスティーナは微笑む。


「さすがユスティーナ様、お見事です……」


 感服した様子のリラがブラシを渡してくれたので、それで全身を梳いてやると暗い赤の毛は初夏の日差しを弾いて鮮やかな色を放ち、貫禄さえ感じさせる姿になった。その間中金の瞳は、何かをこらえるように伏せられていたが。


「ふうん? ここまで来れば、そこそこいいオスじゃないですか。ユスティーナ様が構うだけはあるわ」


 リラのお眼鏡にも無事に叶った様子である。そうして一通り、猫の世話を終えたところでユスティーナは激しい消耗を感じた。


「はあ……疲れた。おなかが空いたわ……」


 歩き回って猫を洗って乾かして、一月分ほどまとめて動いた気分だ。一年前なら肩慣らしにもならない運動でも、心身共に弱った現在のユスティーナには過酷である。


「大変! マリエルに夕食の支度を早めてもらいましょう! リラ、ここはお願い!」

「任せて、サラ。ユスティーナ様も今日はたくさん動かれましたものね! いっぱい食べてもいいですよ!!」


 サラはすぐに厨房へ向かい、リラもさり気ない一言を追加してから沐浴場の後片付けを始めた。

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