第4話 このわたくしに洗えと?

 三人の少女たちに頼まれて、幼い頃から彼女たちの世話をしている料理人のマリエルも、猫の餌やりを快く承知してくれた。


「運のいい猫だねえ。ついさっき、採れたての川魚を届けてもらったところですよ」

「ありがとう、マリエル……良かったわね、猫さん。来た甲斐があったわ」


 五分に満たない移動も今のユスティーナにはきつい。息を整えながらマリエルに礼を言った彼女の横で、暗い赤毛の猫は当然だな、とでも言いたそうな顔をしている。リラはこいつジスラの大河に流してやろうか、という顔をしている。


「お気になさらず、どうせその大きさでは捨てるだけですし。あ、ユスティーナ様の夕食は、ちゃんと一番大きな魚を取ってありますので! 二番と三番も!!」

「あ、ありがとう……」


 子供の頃のユスティーナをよく知っているせいか、マリエルはユスティーナを王族というより姪っ子のように扱う。がっしりと身の詰まった、たくましい体型の彼女自身も食べるのが大好きということもあり、ユスティーナがどれだけ食べようが愛おしげに見守ってくれるばかりなのだ。責められるよりはありがたいものの、そこまで食べると思われているのかと考えると複雑なユスティーナだった。


「二番ぐらいまでなら、ぺろりなのは否定しないけど……」


 厨房までの移動による消費で、もうおなかが空きかけているのは事実である。


「その意気ですよ、ユスティーナ様! 戦場を駆け回る御方が、あんなに細かったのがそもそもの間違いなんです。あたしまでとは言いませんけどねぇ!!」


 料理には力仕事の一面もある。ぐぐっと腕を折り曲げ、力こぶを作ってみせるマリエル。彼女の持ち芸とも言えるその姿に、いつかのユスティーナも笑った。隣でイシュカもにこにこと笑っていた。


 しかし厨房を出て二人きりになった時、イシュカは優しい声でユスティーナを諭したのだった。


 ──マリエルはここの料理人としては実に素晴らしい女性だ。でもね、ユスティーナ。君は僕の伴侶であり、マーバルを代表する貴婦人になるんだ。自分が周りからどう見られているか、どう見られなければいけないかは、常に意識しておくんだよ。


「ユスティーナ様? どうかされましたか」

「い、いいえ、なんでも! あ、あら、猫さんもどうしたの、気にせず食べてちょうだい」


 マリエルがうろこを剥ぎ、骨も抜いて食べやすくしてやった川魚をがつがつと貪っていた赤毛の猫が、やけに静かな目でユスティーナを見ていた。ユスティーナに促されると、わずかに残っていた骨を上手に避けつつ、すぐに食事を再開したが。


「さすがマリエル、ぺろりね」

「そうですね、これでおなかは十分でしょう」


 猫がきれいに魚を平らげるとユスティーナは一安心し、リラは待っていたとばかりに袖まくりをした。


「さあ、きれいにするわよ、でか猫……きゃっ!?」


 目付きは置いておくにせよ、汚れた姿で帰すものかとリラはやる気満々だ。しかし、彼女がさあ捕まえるぞと伸ばした腕に、猫は身軽に飛び乗ってしまった。そのままぽーんと跳ね、洗い場の横に着地すると、さも馬鹿にしたように人間たちを眺めやる。


「こら、危ないよ! 割れ物ばかりなのに、おっとぉ!」


 厨房の主としてマリエルも取り押さえようとしたが、その手もすり抜けて猫は再び跳躍し、今度は窓枠に降り立って得意げだ。


「あら、もふもふした見た目の割に、すばやいのね」


 猫とはいえ獣は獣、侮れない。感心するユスティーナとは逆に、リラは完全に頭に来てしまったようだ。


「よくも馬鹿にしてくれたわね、このでか猫! 来なさい、聖なるジスラで汚い根性ごと丸洗いにしてやる!!」

「リラ、そんなに怖い顔をしてはだめよ! ユスティーナ様の飼い猫になるだから、怯えさせちゃだめ!!」


 物騒なことを口走る妹をサラが必死に止め、ユスティーナも逃げ惑う赤毛の猫を目で追いながら苦笑いした。


「いいのよ、そんなに嫌がるなら……私は嫌われているようだし、無理に飼ったりする気はないの。さあ、好きなように遊びに行って構わないのよ、猫さん。おなかが空いたら、またいらっしゃいね」


 一瞬、「彼」に何かしてあげられた気がして嬉しかった。だがしょせんはユスティーナの自己満足に過ぎず、猫に付き合う義理はない。山の中を走り回ればまた汚れるのだろうし、嫌がることを無理にさせても余計に嫌われるだけだ。


 そう思って塞いでいた厨房の入り口を譲ると、部屋中を飛び回っていた猫は目敏くもユスティーナの足下に着地した。そして、彼女のふくらはぎあたりに長い体を巻き付けるようにした。


「……なーう」

「あ、あら」


 不器用な甘え声にユスティーナは眼を丸くし、白い布地に泥が移る様を見てリラが悲鳴を上げる。


「きゃあっ!? こらっでか猫、やめなさい! ユスティーナ様のお召し物が汚れるじゃない!!」


 リラの怒りを無視し、猫は金色の瞳でじっとユスティーナを見上げている。その声が、心が、伝わってきた気がした。獣を惑わす月の女神の生まれ変わりだからだろう、たまにこういうことが起こる。


「もしかして、私に洗えって言ってるの?」

「にゃん!」


 勝ち誇ったように大きく鳴く猫を、それまで様子を見ていたサラがたしなめる。


「猫ちゃん、だめよ。この御方は国王陛下の妹君であらせられる尊い御方。猫ちゃんには悪いけど、そんな雑用をお願いできるご身分ではないの。私たちが洗ってあげるから、ね?」


 国王陛下の妹君。


 尊い御方。


 聞き慣れた言葉を聞いた瞬間、びりっとユスティーナの全身が引き締まる。猫とのささやかな交流で得た温もりが、凍り付いていく。つられたように猫の長い毛が逆立った。


「……そう。確かにわたくしは、雑用などをする身分ではありません」


 今イシュカが側にいれば、きっとそう言うように囁いてきただろう。決して双子には聞かせず、ユスティーナだけに分かるように。


 それが彼の優しさだった。イシュカの婚約者として、月の女神の生まれ変わりとして、取るべき態度は幾度となく教え込まれてきた。それなのに目先のことに惑わされがちで、一貫した姿勢を見せられないユスティーナを導いてくれていたのだ。


 だが、もうイシュカは側にいない。「彼」への仕打ちにどうしても納得できなかったユスティーナの決定的な間違いによって、見捨てられてしまったから。


「でも……もう、銀月の君などではないのだもの。可愛い猫さんの頼みを、聞いてもいいのよ」


 周りを圧する気迫を放ったのも束の間、ふう、と肩を落としたユスティーナは猫の警戒を解くように微笑みかける。


「さあ、来なさい猫さん。きれいにしてあげる。サラ、リラ、手伝ってくれる?」

「もちろんですユスティーナ様!」


 声を揃えた侍女たちと共に、ユスティーナは踵を返し、貴人専用の沐浴場へと歩き出した。赤毛の猫も、用心深い足取りながらついて来た。

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