第10話

 千曲の案内してくれた道は、ついてきた若者たちが音を上げるほどややこしく、狭く、急だった。もっと動きやすいものを着てくるべきだったと、葵は思った。案内されていると分かっていなければ、迷い込ませるつもりかと疑うところだ。


 足下のちょっとした藪を何とかくぐったとき、尖った枝が葵の頬を引っかいた。ナギはみずらが片方解けている。采女のひとりは領巾を破いてしまい、若者たちの髪には葉や枝がごちゃごちゃ刺さっていた。


 「どうしましょう」


 領巾をだめにしてしまった采女が嘆いた。


 「采女が領巾を破くなんて……」


 千曲だけは、慣れているのか何ともないようだった。


 そんな道をしばらく辿り、清らかな沢のあるところへ出た。夢に見たのはここだ、と葵には分かった。


 ナギは懐から手拭いを出して水につけ、葵の頬にそっと当てた。清冽な流れらしく、氷を直に当てたくらい冷たかった。葵は思わず眉を寄せた。枝が擦っただけかと思ったのに、ずっと深く冷たさがしみてきたのだ。


 「切れていますね。痛みますか? 」


 痛まない、と答えようとして、葵はいつかの兄水葵を思い出しておかしくなった。唇を上げると、切れた側の頬が重く引き攣れた。


 「少しだけ」

 「まあっ、本当」


 采女たちが我も我もと主の顔を覗いた。ふたりは葵の後ろを歩いてきた上、長い裳が妨げになり、主の傷に気がつかなかった。


 ひとりが悔しそうに呟いた。


 「大水葵さまだって葵さまの後ろにいらしたのに、いつ……」

 「みなさま、これがこの山のドクダミですわ」


 沢を渡ったところで、千曲が言った。先へ続く道は、苔の生えた大岩で塞がっている。その辺り一帯が、ドクダミで埋もれたようになっていた。榊が一本生えている他は、別の草木はそこになかった。


 「いかがです、葵さま……」


 千曲が少し誇らしげに振り向いたとき、千曲のすぐ後ろの榊の枝に白い塊が動いた。白蛇が鎌首をもたげ、赤い目で千曲を見た。


 「あぶない」


 葵が叫ぶのと、ナギが剣子とうすを投げるのとは同時だった。白蛇は尾で剣子を叩き落とし、ドクダミの中へ飛び込んだ。


 千曲はよろめき、ナギの手に縋った。気を失っていた。


 「祟りだあっ」


 若者たちは来た道を脇目も振らず駆け戻り始めた。だが狭い道で、たちまち後がつかえる。白蛇は叢から狂ったように躍り上がり、腰が抜けたひとりと、逃げ遅れたひとりの首を食い千切った。采女たちの悲鳴が血だまりを揺らした。


 ナギが千曲を寝かせ、剣を抜いた。剣子をたやすく払いのけた祟りを相手にするつもりだ。


 「ナギ」

 「葵さま、お出でになりませんよう」


 剣で勝てる相手とは到底思えなかった。あれはただの蛇ではない。それでもナギは、葵の前を動かなかった。采女たちが葵の両脇でうずくまった。


 若者をふたり食い殺したきり、白蛇の姿は見えない。物音ひとつ立てずに、こちらを睨んでいるに違いなかった。


 「何ゆえ我らを襲う」


 ナギが押し殺した声で言った。


 「薬草を求めてくるものを何ゆえ惑わす。誰もそなたの平安を侵しは――」


 どん、というような音がして、ナギの背が初めて揺らいだ。草陰から飛び出した白蛇が、剣に巻きついたのだ。研がれた刃の上を生白い腹が滑り、鱗が一筋、きらりと削げた。


 白蛇はすり寄るようにナギの手元まで下りてきて、剣を握っている指先を真っ赤な舌で舐めた。


 「この……」


 ナギが半歩後ずさった。剣から振りほどこうとするが蛇は離れない。剣に残ったままの白蛇の体の下からぎしりぎしりと音が立ち、葵があっと思った瞬間、剣は真っ二つに折れた。少し古い銅の剣だったが、鉄の刃とも打ち合えるくらいの上等なものだったのに。


 「下がって! 」


 ナギは折れた剣を投げ捨てて娘たちを一喝したが、蛇はナギの腕を目にも止まらぬ速さで這い上がり、払いのけようとする手を擦り抜けて、葵に飛びかかった。このときを待っていたとばかりにぎらぎらする目を、葵は見た。葵さま、とナギが叫んだ。

 ――白蛇の牙は、葵には触れなかった。葵は肩の領巾で蛇を叩き払った。領巾には、邪悪を祓う霊力がある。剣の刃をものともしなかった祟り蛇が、蛇とは思えない声を上げてぐしゃりと葉叢に落ちた。不吉な声だった。


 「山中やまなかに 鎮まりたまえ 弥栄いやさかの――」


 葵の首飾りが澄んだ音を立てた。蛇はのたうちまわって辺りのドクダミをめちゃくちゃにした。すぐにそれと分かる青く甘やかな香が、熱に混ざって立ち上る。采女のひとりが、あてられて崩れ落ちた。


 蛇は榊の枝に逃げ去り、葵を睨めつけながら姿を消した。


 ナギが膝から崩れた。片膝だけで済んだだけでもさすがと言うべきだ。人の身で鼻先まで祟りに近づかれ、それでも意地で立ち続けていたのだから。


 「ナギ」


 葵がかたわらへ行くと、やっと笑おうとしてそれも失敗したような顔をこちらに振り向けた。真っ青な顔をして、額に脂汗が浮いている。ご無事で、とつぶやく声には力がない。


 「申し訳ありません、少し……」

 「無理しないで」


 ナギが貸してくれた手拭いを渡そうとしたけれど、とうにぬるい。沢で冷やして、額へあてがった。


 「そっちは? 」


 倒れた采女を、相方が抱き起した。得意の軽口も出ない。脈を確かめ、ふうと息をついた。


 「大丈夫でしょう。まったく、巫女が薬草のにおいで倒れるだなんて……」


 千曲も目を覚ました。ぼんやりとした仕草で辺りを見回したが、まなざしは相変わらず深く冴えていた。


 死んだ若者たちの首が何かの拍子にごとりと傾ぎ、命の失くなった虚ろな目が葵を凝視した。ついさっきまで生きていたのに。彼らの温かい血が、土に流れては吸われていく。


 葵は死んだもののために弔いをするが、死んだ体を間近に見るのは初めてだった。


 怖いとは思わなかった。ただ、命のあっけない幕切れが寂しいと思った。


 ナギは葵の見ているものに気がついて、葵をさりげなく自分の影に入れた。


 先に逃げおおせた若者たちが、麓から応援を呼んできた。死者はドクダミ畑から運び出され、それぞれの家で葵が弔った。


 「巫女さまをお守りして死んだのなら、この子も本望でしょう」


 親たちがそう言って泣くのを、葵は沈んだ気持ちで聞いていた。今朝まで、彼らの息子たちは生きていたのだ。大武棘と自分とにどれほど違いがあるだろうかと葵は思った。


 山で倒れた采女は宮へ帰る道すがらナギの背で熱を出し、聞き取りにくい声でうわごとを繰り返しているようだった。


 「葵さま! 」


 宮へ帰りつくやいなや、初音が真っ青になってきざはしを降りてきた。山へ行くのを渋った采女が、首をくくって死んだという。


 「うそ」


 相方を案じながらようやく戻ってきた采女は、その場にへたり込んだ。床の敷布に寝かされた、いじらしい白い足が見える。


 「初音さま」


 ナギが痛ましげな声で言い、背負っていた采女を宮の階にゆっくりと降ろした。うわごとのために少し開いた唇には、もうわずかの息も通っていなかった。

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