第9話

 葵は近頃、自分ひとりを玉座につけようとする声があるのを知っていた。これまでも、男王と女王、ふたりの長がいるのはおかしいという人がなかったわけではない。伊織の元となるムラが起こったとき、初めてこの地を踏んだ一組の妹背が、互いの悪目を補うために作った政の形だと言われている。


 それが本当か、どのくらいの昔にあったことなのか、誰にも分からないことではあったけれど。ナギを夫に迎えるときも、最初の巫女は妹背の片割れだったからと、葵とナギのことを祝う声と、最初の巫女の夫は王だったではないかという声が、半々あった。


 はじまりの妹背から繋がっていると言われる大武棘は、自分の遠い母とは重なるべくもない巫女たちが妹背の片割れ役をしていることに、我慢がならないのかもしれない、と葵はときおり思う。里を平和に治めるために妻と夫がそれぞれ長となったときの幸せは、時を経て火種に変わってしまった。


 葵は大武棘に、王者としての器を見てはいなかった。男王の玉座にしがみつき、誰にも渡すまいとする太った男がひとりいるだけだ。肉を得た恐れの塊だ。他の誰が死んで、腐るまで野辺に放ってあっても平気なくせに、自分が入る予定の墓のために、今から山を削らせている。


 「お疲れではありませんか」


 ナギがそっと声をかけてきた。葵は首を横に振った。


 「これが巫女の役目だもの」

 「頬が青白い」


 ナギの手が少しだけ持ち上がるのが見えた。しかし、それきり葵の方へ伸ばされることはなかった。


 「今、少し気が重いから。そのせい」


 大武棘のことを考えていてそう言ったのだが、ナギには別の当て言に聞こえたのかもしれない。眉の辺りが淡く翳った。


 「明日、東の山へ行きたいんだけれど」


 言いながら、葵はナギの瞳が一瞬丸く開いたように思えた。おやめなさい、と一喝されるような気がした。


 ナギは柔らかに瞬きした。


 「……お疲れではありませんね。本当ですね」

 「来てくれる? 」


 自分でも、縋るような声だったと思う。葵に仕えるのが役目のナギに向かってなぜそんなふうに聞いたのか、葵は自分を疑った。


 「どこなりと」


 ナギは澱みなく答えた。



 東の山へは、前とは別な采女がふたりついてきていた。鎮めの助けをするためである。前に葵とナギについてきた采女は、東と聞くと真っ青になった。故郷に対してする顔ではなかった。


 「わたくしはあの千曲というひとが恐ろしゅうございます」


 采女は何度もお許しくださいと頭を下げたあと、ようやくそうわけを話した。


 「あれから、何夜もあのひとを夢に見るのです。裏切りもの、裏切りものと責められました。覚えのないことですわ」

 「あなた、媛さまに申し上げられないことでもなさったの? 」


 代わってついてくることになった采女がからかって笑わせようとしたが、あまり成果はなかった。千曲に怯える采女は、言い返す気力もなく泣き出してしまった。


 「冗談にしても、少し考えてあげないといけないよ」


 道々葵が言うと、からかった采女は


「はあい」


と拗ねた返事をして道連れのもうひとりにつねられた。


 「だって、少し大袈裟ではありませんか? わたしたちと変わらないくらいの、娘さんでしょう? そんなに恐ろしいひとですの? 」


 興味津々で尋ねられて、葵は会えば分かるよとだけ答えた。葵自身は、千曲を恐ろしいなどとは思わない。体そのものが魂になったような、仄明るい印象の不思議な娘というのが正直なところだが、それだけだ。感じ方はそれぞれだが、はっきりしたわけもないのに人を嫌うのはよくないと、葵は采女を諭そうとした。


 だがナギの顔を見たせいで、そうは言えなかったのだ。ナギは千曲の名を聞いた途端、前を向いたまま、己を魅入ろうとするものから顔を背けまいとするように目を見開いていた。


 東の山の民人は、喜び半分、不安半分の顔つきで葵たちを出迎えた。巫女王と男王の仲が思わしくないので、祓いを頼んだことが後ろめたいのである。葵に何か害があるのではという危惧もあってか、みなの顔にはどうしても影がつきまとった。


 「ドクダミが摘めれば、あなたたちの怪我も楽に治るんだから」


 葵が励ますと、ようやく元気が戻ってきた。日に日に暑くなるせいもあるのだろう。甕の水をがぶりと威勢よくかぶった若者が何人か、もわもわと湯気を立てながらついていきます、手を挙げた。


 「お待ちしておりました、葵さま」


 千曲がどこからともなく現れた。夏の盛りだというのに汗ひとつかかず、白いままの肌はいっそ女神のようである。手は白絹を張ったようだ。どちらが山に住む娘か分かったものではない、と葵は思った。


 「ドクダミの畑へは、わたくししか道を知りませんでしょう。山崩れにも塞がらず、今でも通れる道が、一本だけございます。ただその道には……」


 千曲は右手をぬるりと動かした。


 「蛇が多うございますが……」

 「この辺の山に詳しいの」


 葵が聞くと、千曲はええ、と口元にほほえみを含んだ。


 「祖母は宮を出てからも巫女をしておりましたから。葵さまも薬をよくご存知のようですから、お分かりになるでしょう? 」

 「それじゃあ、ドクダミが取れなくなって大変だったね」


 千曲の目がきらりと光ったような気がした。葵を窺う目だった。ナギが身じろぐ気配がした。


 千曲はにっこり笑った。


 「それも今日でおしまいですわ」

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